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愛憎のラプンツェル  作者: 銀ねも
第十一話「罪過」
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憎らしい弟2

 

 ノヂシャは白痴という頑強な殻にこもって、身を守っている。しかし、何重に防御を固めたとしても、その身を脅かす原始的な恐怖の手触りから、逃れきることは難しい筈だ。色あせた世界で、恐怖と苦痛は、ノヂシャが感じられる数少ない、確かなものなのだから。


 ノヂシャは将来を嘱望されるこどもだった。その溢れる才気が、どうしようもなくニーダーの感に障った。

 だからまず、捕えたノヂシャを漂白することから始めた。幼いノヂシャが、生まれてからそれまでに培ってきたものをすべて壊し、色を落とすことで、ノヂシャは生まれたてのようにまっさらになった。


 その白紙に描き込んだのは、ただひたすら従順であることだった。さらに、畏怖と諦念。そして無力感。


 弱いこどものうちに、枷を嵌めてしまうことが肝心だった。どんなに足掻いても、枷からは逃れられない。鞭をふるう主人には敵わない。そのことを、骨の髄まで叩き込む。そうすればいつまでも、無力感がノヂシャに付きまとう。強く逞しく成長しても、ノヂシャには、己の価値がわからない。だから、為すすべがない。


 ニーダー自身がそうだった。こどもの頃は、限界の線を自ら引き、それを踏み越える勇気がなかった。

 ニーダーは卑屈で臆病なこどもだった。己がつまらない、ちっぽけな存在であるという自己評価は成長した今でも変わらないが、こどもの頃に悲観していた程、ニーダー自身は捨てたものではなかった。少なくとも、ニーダーには装い偽ることが出来る。実のないはりぼてであっても、支配者として君臨することが出来るのだ。


 ニーダーは、かつて彼自身を雁字搦めにしていた呪縛で、ノヂシャを魂の奴隷に仕立てた。


 ノヂシャには絶対服従を誓わせている。ノヂシャの心はニーダーに降った。しかし、体の反射は時に、持ち主を裏切る。


 ノヂシャの右腕が彼の制御をはなれ、ひとりでに跳ねあがった。ニーダーを振りほどき、身を守ろうとしたのだろう。

 しかし、ふりあげられた右腕の動きは、錆びたばね仕掛けのようにぎこちなかった。それこそ、これまでの躾の賜物だったのだろう。ニーダーはノヂシャの反撃を、いとも容易くいなすことが出来た。ニーダーが捕えたのは、手首より先の手指を失った右腕。切り株のような断面には、血に染まった包帯が巻かれている。

 不器用な手つきで巻かれており、ところどころ、創部が露出していた。血と肉の赤黒い色が白濁した塩の結晶を透かしている。


 目に浮かぶようだった。ルナトリアが、優しい細面に慈愛の微笑を浮かべて、ノヂシャの介抱をする献身的な姿が。正気をなくした二人が、事の重大さを正しく理解せず、労りと感謝に微笑みを交わす、寒々しい光景が。

 心優しいルナトリアは、心を壊してもなお、優しい。彼女は小さな頃と変わらず、弱い者に寄り添っている。かつてニーダーがいた場所に、今はノヂシャが居座っている。


 遺憾に堪えないが、仕方がないことなのかもしれないとも思う。あそこは弱者の避難所だ。強者となった今のニーダーは、あそこにはもう戻れないのだ。愛する妻と子の為に、戻るつもりは毛頭ない。


 そうであっても、あそこにおさまったのがノヂシャでなければ、ルナトリアが無残にも壊れてしまうことはなかったのではないだろうか。もしも、そうかもしれない。なんて仮定に意味がないことは、身にしみているけれど、あまりにやるせなくて、考えずにはいられなかった。


 怒りにかられたニーダーは、患部を保護する被膜に爪を立てた。ラプンツェルの背を誤って傷つけた時とは違う。己の意思で固く鋭く変質した爪を、抉り込んだ。


 伸縮性に富む、丈夫な包帯の布地を裂き、傷口を覆う瘡蓋のような塩の結晶を掻き毟り、露わになった肉に爪を穿つ。痛覚をつま弾くように、抉りこむ。紫色の血管から、間欠泉のように血が噴き出し、飛沫がニーダーの頬を汚した。ニーダーはひとつ舌を打ち、ノヂシャの手首を握っていた手をはなし、親指で汚れを拭いとった。


 ノヂシャに拘束は必要ない。ラプンツェルのように、捕えていなければ逃げ出してしまう、なんてことはない。その証拠に、手を離しても、ノヂシャは苦痛から逃れる為の抵抗の一切を放棄している。

 痛みがないわけではないのだ。呵責する指の動きに合わせて、ノヂシャの体はびくびくと痙攣している。首を殆ど断ち切られ、己の血の海に溺れながら死を待つ、屠殺された家畜の有様だ。苦痛に慄く体の震えが、指先を通して伝わってくる。手の内に、おぞましい這い虫を握り込んだかのような手触りに、ニーダーの肌はあわ立った。


 ヨハンの手まわしで、身じろぎも出来ない、暗く狭いところに閉じ込められた、忌まわしい経験を思い出す。不潔極まりない状態で、何日もの間、放置された。虫が湧き、体中を這いまわる。ぶよぶよとした身を捩り耳孔に侵入しようとするものや、唇を割ろうとすりよってくるものもあった。飢えで正気を失った挙句、汚物に発生した虫を口に含み、正気にかえって吐きもどした。


 背筋を駆け上がる冷たいなにかは、嫌悪感だ。恐れではなく。ノヂシャの芽は既に摘み取ってしまった。ニーダーの脅威にならぬように、執拗に蹂躙し続けてきた。


 ノヂシャには、もう、ニーダーを侮蔑することは出来ないのだ。彼の養い親のヨハンのように、汚物にまみれたニーダーを嘲弄し


『王家の誇りはおろか、人としての尊厳を失い、堕ちるところまで堕ちてもまだ、生に縋りつくとは。やはり化け物は違う』


 と侮辱の言葉を投げかけることは出来ない。変わり果てたニーダーの姿を見て、嫌悪感を剥きだしにし「汚い」と言って踵を返すことだって、もう出来ないのだ。そう、汚いのは、惨めなのは、ニーダーではない。


「けがらわしい」


 吐き捨てるように口にした侮蔑の言葉が、しっくりきた。そうだ、本来なら、これは投げかけられる言葉ではない。投げかける言葉だったのだ。 


 ノヂシャの耳に届いたのだろう。きつく寄せられた眉の下で目を見開き、ノヂシャはニーダーを凝視した。

 そこに宿るのが、恐怖と苦痛、哀願と懺悔の類であれば、少しは溜飲が下がっただろう。ところが、ノヂシャの目は怪しい輝きを帯びていた。見ようによっては、恍惚としているようにも見える。痛めつけられ、罵られ、ノヂシャは喜んでいる。


 時々、こんなことがある。狂ったノヂシャの感覚は、常人の理解の範疇を超えている。


 いまやノヂシャは、哀れな狂人となり果てた。ニーダーは僅かばかりの優越感と安心感を得たのだが、一方でノヂシャは、歪んだ感受性を身に着けていた。


 ノヂシャが被虐を通じて、何かしらの愉悦をこの行為を通して感じているとしたら、頭の痛い問題だ。仕置きが意味をなさなくなる。


 こんなノヂシャを見ていると、ニーダーは自分自身が、まんざら捨てたものではないと、考え直すことが出来る。ニーダーはどんな苦難に直面しても、苦痛を苦痛と感じ、屈辱に憤ることが出来た。それをバネに、再起を果たした。ノヂシャには出来ないことが、ニーダーには出来た。


 ノヂシャは最早、理性も品性も、情緒も持ち合わせない。心が通わない。危険な猛獣も同然だ。それを意のままにするには、鞭と鎖が必要不可欠である。それらをなくせば、獣はたちまち牙を剥くだろう。獣の原理は、ひとの物差しでははかりしれない。


 支配には、恐怖と暴力が必要だ。


 皮肉なものだと、ニーダーは自嘲する。愛される為にも、虐げる為にも、支配が必要だ。支配する為には、強く恐ろしくあり続けなければならない。


 ニーダーは興醒めして、ノヂシャの頬を張り飛ばした。粘着質な視線を無理やり剥がし、ついでに、ノヂシャの手首を捕えていた指をほどく。触れた場所から伝わる体温と脈動が厭わしい。はなれてもまだ、熱の残滓を感じる。しつこくこびりついて消えないのだ。血のように。


 手を清拭しようにも、夜着にハンカチをしのばせてはいない。ニーダーは苛立ちノヂシャの肩を蹴りつけた。ノヂシャは苦しげに呻く。蹴られた肩を地になすりつけながら、のっそりと頭をもたげる。悲鳴をこらえる為に噛みしめたのだろう、穴があき、血に濡れた唇が小さく動いた。


「……ニーダーは俺を殺さない」


 ノヂシャの漏らした呟きを拾い上げ、ニーダーは唇の端を歪める。

 ノヂシャの言葉は、独白のようで、祈りのようだ。その事実だけがノヂシャを生かす、細く頼りない命綱なのである。そんなものに縋らなければならないほど、ノヂシャは堕ちたのだ。堕ちるところまで。


 良い気味だと、ニーダーは嗤った。ニーダーとノヂシャは今、あの頃とは、正反対の立ち位置にいる。


「そうだ。どんなに憎んでも憎みきれないが、殺しはしない。安心したか?」


 ニーダーは鷹揚に頷いて、ノヂシャを見下ろした。ノヂシャの引き攣った青白い顔に、出来そこないの微笑みが浮かぶのを見届けてから、後頭部を踏みつける。見苦しい顔を地面に押し付けながら、ニーダーは嘲笑した。


「愚かな! だから、お前は呆れた奴だと言うのだ。死こそ最も忌避すべき惨劇であるとは、絶望を知らぬ愚者の愚考。死が救いに思える地獄もある」


 ノヂシャの頭を踏みにじりながら、ニーダーは裸足でいることを大いに後悔した。どうせなら、固い靴裏で踏みにじり、もっと痛めつけてやりたかったのに。


 そうだ。こんなのでは、足りない。まだ、全然、足りない。まだ手ぬるい。


 ヨハンはもっと酷かった。ヨハンの暴力は、もっとずっと、深いところまで抉った。体ではなく、心を。


 足を引き、片膝を前に出してしゃがみこむ。ノヂシャの柔らかい頭髪をわしづかみ引き上げると、血だらけの顔があらわれる。擦りむいた額と頬、そして鼻孔から血を流したノヂシャの瞳は、激しく揺さぶられたように揺らいでいる。隠しようもなく、怯えている。


 ニーダーは高揚するままに、凶暴な笑みを滲ませてノヂシャを脅かした。


「お前にも、教えてやろう」


 なんであれ、喜びを感じるうちは、救いがある。それが一片もない地獄の底を、ノヂシャはまだ知らない。


 今になって思えば、ノヂシャは愛されるこどもであったが、彼自身の愛情は希薄だった。育ての親を惨いやり方で喪ったが、薄情なノヂシャを地獄に突き落とす決定打にはなり得なかったのかもしれない。


 ノヂシャを呵責する為の考えを巡らすニーダーに足蹴にされながら、ノヂシャがくぐもった声で言った。


「あんたのことなら、何でも知りたい……けど」


 ニーダーがノヂシャに目をやると、ノヂシャは地面に顔の右半分を擦りつけた苦しい状態で、ニーダーを見上げていた。純粋無垢なこどものような瞳で、ノヂシャは言葉を紡ぐ。


「俺は死なない。体も、心も。ニーダー……あんたが生きているうちは」



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