強く、恐ろしく
ニーダーは逃げていた。寝静まった王城を、息を切らせて走っていた。
暗闇に閉ざされた伽藍堂の王城は、後悔と苦痛によって造られた迷宮である。ニーダーは生まれてからずっと、冷たい爪先に血を滲ませて、孤独に震えて、彷徨い続けていた。
ひたすら走って来た。行く当てはない。どこまで逃げても逃げ切れない。救済なんて、きっと何処にもないのに、ほんの僅かな希望の灯が心を締め付けて、ニーダーを駆り立てる。
母が生まれ育った、暗い森の高い塔。その窓辺に佇む小さなラプンツェルは、まるで籠の鳥。きらきらと輝く瞳に大きな空を、自由に飛び回る鳥たちの姿をうつしていた。
高い塔の虜囚は、塔を出ては生きられないと思い込んでいる。母はその不自由に耐えかねて逃げ出し、ゴーテルはその狂気に耐えかねて壊れた。
天を衝く地獄の底から、空を見上げるラプンツェルが、幸せでいられることは奇跡だ。彼女は地獄を天国にかえられる。彼女自身が奇跡の天使なのだと、ニーダーは思った。
ニーダーは地獄へ堕ちた、さらにその底へと深みに嵌ってゆく。最愛の母を最も悲しいかたちで喪い、あまりに辛くて、いっそ、死んでしまいたかった。高い塔の囚われの姫君ラプンツェルは、そんなニーダーの、絶望の向こうへ追いやった生きる希望になった。
遠くを見つめる、謎めいたあの瞳に、自分だけをうつしたい。母が父王だけを見つめたように、ラプンツェルに愛されたかった。
ニーダーは母に愛されたかった。愛されなかった。ひたむきに愛したけれど、母は最期まで、ニーダーをみとめてくれなかった。母が欲しかったのは、父王の愛だった。
父王に惨い折檻を受けているとき、俄かに信じがたいことだけれど、母はとても幸せだったのだ。傍にいられるだけで、幸せだったのだろう。打たれても、足蹴にされても、触れられることが嬉しかったのだろう。罵られても嘲られても良いから、言葉をかけて欲しかったのだろう。
白い薔薇を手折ったように、父王が幾度となく踏みにじっても、母の愛は変わらなかった。
母を救えたのは、父王だけだった。ニーダーが何をしても無駄だった。あの頃のニーダーにはそれが理解出来ず、母の為を謳いながら、母を不幸のどん底に突き落とした。
闇雲に走ったニーダーが辿りついたのは、東屋だった。暗い夜の中に、仄白く浮かび上がっている。ニーダーは崩れ落ちるように、据え置きの椅子に腰かけた。
夜はひんやりと冷たく、静謐が不安をあおり、心をざわつかせる。ひとりきりでいると、特にそう感じる。
花の季節が訪れれば東屋をいっぱいに埋め尽くす、母が愛した白薔薇は、木枯らしに吹かれ零落した。冬の東屋は、横たわる死体のようだ。咲き誇る花は美しいが、枯れてしまえば、目を覆いたくなるほどに無残である。幼い日の、無知故の希望のように。
(お願いします、僕を愛して)
ニーダーは背もたれに深くもたれかかり、強く瞼を閉じた。
父王が亡くなった後、母は青白くよわよわしいニーダーには見向きもせず、父王の面影を色濃く宿す、ノヂシャを愛していた。母の愛する息子は、母の愛を渇望するニーダーではなく、父王と同じ冷淡なまなざしで母を嫌ったノヂシャだった。
『おれ、あのひと、嫌なんだよな。気味が悪い』
柔らかい眉間と鼻先に皺を寄せて、あどけない顔を顰めた幼いノヂシャは、言った。目付役に就いたゴーテルの、砕けた口調をそっくり真似ていたけれど、母を思いやる気持ちは、ほんの少しも受け継いでいなかった。
『あんなのなら、いない方がマシだ。ニーダーにやるよ。あんたには何もないから、あんな「母上」でも、要るだろ?』
騎士団長ヨハンと、その妹の歌姫マリア、そして後見人である宰相、ゴーテルに愛育されたノヂシャは、こどもらしく無邪気に残酷だった。
込み入った事情があるとは言え、ノヂシャはニーダーにとって、血を分けたたった一人の弟である。ゴーテルが宰相の位について以降、蔑まれ虐げられていたニーダーは、大人たちの目を忍び、こっそりと訊ねてくる年の離れた弟の、天真爛漫な明るさに慰められてもいた。
ルナトリアを愛していたように、ノヂシャのことも愛していた。しかし、それは愚かな建前だったのだろう。取り繕うことの出来ない心の奥深くで、ニーダーはノヂシャを妬んでいた。すべての人に愛され、その奇跡の恩恵を、当然のように享受しているノヂシャを、憎んでいたのだ。
幼いノヂシャに罪がないことはわかっていても、鬱屈とした暗い衝動の発露を抑えることは出来なかった。
ニーダーの歪んだ復讐心は、ノヂシャとヨハンを蹂躙する為に、罪のないマリアをまき込んだ。マリアの非業の死によって、ヨハンはニーダーを呪いながら獄中で悶死し、ノヂシャは発狂した。
ニーダーはゆるりと瞼を持ち上げる。かざした掌は、人のかたちを取り戻しているものの、真っ赤な血は消えて無くならない。罪を消せないように。
もうとめられない。地獄の火車のように、すべてを巻き込み焼きつくし、望む先の最果てまでもう、ニーダーは止まれない。立ち止まってしまったら、罪深さに耐えきれなくなる。
売春婦の顎を噛み砕いたあの嵐の夜から、ニーダーは内なる怪物とともに生きて来た。ニーダーの理性が焼き切れたとき、怪物は目覚め、ニーダーの運命を劇的に変えてしまう。
ラプンツェルの背傷は浅かった。鋭利な爪の先は、肌を滑っただけだ。ラプンツェルの体ならば、たちどころに傷が癒えるだろう。
そうであっても、意図せず、ラプンツェルを傷つけてしまった過失は、ニーダーの心を酷く打ちのめした。身重の妻を大切に慈しみ、守りたいと願いながら、自らの手で傷つけてしまうなんて。
(……このままでは、駄目だ。完璧に己を律することが出来なければ、同じ過ちを繰り返すことになる。いつかこの手が、彼女の心臓を握りつぶしてしまうかもしれない)
可能性を想定するだけで、血が凍った。ラプンツェルを失うなんて、耐えられない。死ぬより辛い。
(私は、変わらなければならない。ラプンツェルと、お腹の子と、幸せになりたい)
ニーダーは翳した右手で拳を握った。爪が掌に食い込み、皮膚を突き破るほどに強く握りしめる。
(愛し愛される為に、未来がある。愛されなかった過去など、忘れてしまえ。母上も陛下も、もういない)
ニーダーの血が、ラプンツェル血に塗れた掌を伝い落ちる。流れる血は、乾いた血と交わり合うことはない。
ニーダーは上体を起こした。テーブルに肘をつき、両手を握り合わせる。
(私は強い。強く、恐ろしい化け物だ。屍を積み重ね、その上に君臨する王だ。私はすべてを支配できる。この国も、人々も、愛する女性も……私自身も)
両手を強くすり合わせれば、燃えるように熱い。すべてを焼き払う炎のようだ。
母の最期が思い出される。銀色に燃える炎にとりまかれる母の姿は、黒々とした影のように浮かび上がった。
炎は母のすべてをのみこんだ。父王への愛も、ノヂシャへの執着も、高い塔の家族への懺悔も、忘れたくないことも、思い出したくないことも、なにもかも。
母の死は悲しかった。しかし、燃える母を眺めているあの時、ニーダーは思ったのだ。あの炎になりたいと。
そうして実際に、そうなった。
「出来る。私は強い。私は……大丈夫だ」
ニーダーは、小さく自分に言い聞かせた。呪文のように繰り返す。大丈夫。大丈夫。
己に暗示をかけることに集中するあまり、ニーダーは近づいてくる気配に気づくのが遅れた。
「ニーダー」
真夜中の森を吹き抜ける風のように、不意に声をかけられて、不覚にも大げさに肩を揺らしてしまう。振り返るとすぐ後ろに、ノヂシャがぬっと立っていた。