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心優しき壁

神の打つ新たな刀が仕上がるまで、私にできることは何もなかった。榊には「大人しくしていろ」と釘を刺されたが、じっと屋敷に籠もっているのも性に合わない。私は所在なく、江戸の町をぶらぶらと歩き回っていた。


どんよりとした重い雲が空を覆い、今にも泣き出しそうな天気だ。私は念のためにと、一本の蛇の目傘を手に提げていた。


すると


「……ひっ、ひっ……うぅ……」


人気のない路地裏から、低く押し殺したような泣き声が聞こえてきた。足を止め、影の深い方へ視線を向ける。そこには、行き止まりの突き当たりに、一際大きな石壁が鎮座していた。


「……? 壁から声?」


私がふと声を漏らすと、泣き声が止まり、壁から目がギョロっと現れる。


「もしかして、ぬりかべ?」

『……知っているんですか?』


壁が喋った。妖怪ぬりかべ、で間違いない。子供のころ絵巻物で読んだ記憶がある。本来なら夜道で旅人の行く手を阻む存在のはずだが……


ぬりかべの体(と呼んでいいのか?)には、ならず者たちが書いたであろう卑猥な言葉や、無邪気な子供たちの落書きが、石肌が見えないほど所狭しと重なり合っている。


「……あの、大丈夫ですか?」


私がぬりかべにもう一度声をかけると、石の表面がびくんと震えた。


「話してくれて大丈夫ですよ。私は妖屋の……知り合いの者です。……そんなに汚されて、辛かったでしょう?」


私が語りかけながら、落書きの跡を指先でなぞる。すると、ぬりかべの二つの大きな瞳がおずおずと私を見下ろした。


『……こわ、い……』


震えるような、地響きに似た低い声が漏れる。


『人間、こわい……。見つかったら、ひどいこと、される。だから、じっとしてた。壁のふり、してた……。そしたら、みんな、ぼくの上に、変な絵、いっぱい書いて……。痛いよ、苦しいよ……』

「……そんなに怖がりなのに、ずっとここで耐えていたんですね」


怖くて追い払うこともできず、ただ壁としてじっと耐え続けてきたのだ。その不器用な怯え方に、胸の奥が締め付けられるような愛おしさを感じた。


「待っていてくださいね。今、綺麗にしてあげますから」


ちょうどその時、朝の予感通り雨が降り出してきた。私は傘を差す余裕も惜しみ、降り注ぐ雨を天然の洗い水代わりにして、夢中で壁を擦り始める。雨水に濡れた布巾で、こびりついた墨や泥を丁寧に落としていく。


「……よし。ここも、あともう少し……!」


ずぶ濡れになり、髪が顔に張り付くのも構わなかった。小一時間も経った頃、ぬりかべの体からは無粋な落書きが消え、しっとりと濡れた美しい石肌が蘇った。


『……ありが、とう……。お嬢さん……優しい、ね……』


壁が微かに揺れ、感謝の言葉が耳に届いた。ぬりかべは満足げに一度だけ大きく身震いすると、そのまま壁の中に溶けるようにして気配を消した。私はびしょ濡れのまま、少しだけ軽くなった心で微笑んだ。



「……何やってんだ、お前は」


ふいに頭上から降ってきた呆れたような声。顔を上げると、そこには自分の着物が濡れるのも構わず、大きな傘を私に差し掛けている榊の姿があった。


「榊さん。……奇遇ですね」

「お前、傘を持ってるくせになんでわざわざ濡れネズミになってんだ。……ネジが錆びて思考まで止まったか?」

「色々あったんです。……榊さんは、お仕事ですか?」

「飯を食いに行こうと思ってな。……そんな格好じゃ風邪を引くぞ。蕎麦を食いに行くが……来るか?」

「はい、お供します。ちょうどお腹が空いていました」


私が立ち上がり、畳んだ傘を拾い上げた時だった。


「泥棒っ! 誰か、そいつを捕まえてくれ!」


大通りから、悲鳴に近い叫び声が上がった。


見れば、一人のひったくりが、老婆から奪ったであろう巾着を握りしめ、私たちのいる路地へと猛スピードで逃げ込んでくるではないか。


「チッ、飯の前に野暮なこった。……おい、カマイタチ壱号。力を貸せ、あのアホの足を転ばせ——」


榊がキセルに手を伸ばし、カマイタチに合図を送ろうとした、その時。


「——その必要はありません、榊さん」


私は一歩、前へ出た。濡れた右手を、手に持っていた蛇の目傘の柄の部分にかける。


シャリンッ!


澄んだ金属音が雨音を切り裂く。私が傘の柄を引き抜くと、そこから現れたのは、磨き抜かれた白銀の刀身。


「えっ……!?」


絶句するひったくりの懐に滑り込み、私は鞘——すなわち傘の本体部分で男の足を払い、引き抜いた短刀の峰でその手首を叩いた。


「がぁっ!?」


男は面白いように地面に転がり、巾着を放り出して動かなくなった。私は流れるような動作で短刀を傘の柄へと収め、何事もなかったかのように榊を振り返る。


「お待たせしました。行きましょうか」

「……おい。お前、傘にも仕込んでたのか」


榊は開いた口が塞がらないといった様子で、私の手にある蛇の目傘と、倒れた男を交互に見ていた。


「当然です。武家の娘が、丸腰で江戸の町を歩くわけがないでしょう? これは嗜みというものです」

「お前、全身凶器かよ」


榊は大きな溜息をつくと、空を仰いで毒づいた。


「……あのクソ親父に特製の刀なんて頼む意味、あったのかねぇ……」

「それはそれ、これはこれです! 早く行きましょう、榊さん。お蕎麦が伸びてしまいます!」



私は、呆れ顔の榊の背中を強引に押し、雨の江戸へと再び歩き出した。

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