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墨染の富士

巨大浴場、極楽湯。


視界を埋め尽くすのは、立ち込める湿った熱気と、あちこちから聞こえる「極楽極楽」というだらけ切った男たちの声。そして——。


「ひ、ひゃああああっ!? 男女、男女が同じお湯に……!?」

「さっきから騒ぐな。江戸の銭湯は混浴が粋なんだよ。ほら、そんなところで固まってると邪魔だぞ、泥人形」


榊は至極当然のように、浴衣を脱ぎ捨て(といっても彼は着流しの下は最低限の装備だが)、堂々と浴場内へ足を踏み入れる。


私はといえば、泥まみれの姿のまま、顔を両手で覆って絶叫していた。いや、指の間からはバッチリ見えているのだが、それが余計に乙女の精神を削っていく。


「榊さんの破廉恥! 無神経! どこを歩いてるんですか! 今すぐ目を閉じなさい!」

「おいおい、そんな泥だらけで突っ立ってるとよっぽど目立つぞ。ほら、そこでお湯でも浴びて少しは身綺麗にしろ。囮がドブネズミのままじゃ、犯人も食いつかねえ」


榊は、湯船に浸かる町人たちからの「お、兄ちゃん、連れのお嬢ちゃん随分と……個性的だな」

というニヤニヤした視線を柳に風と受け流す。


私は泣く泣く、物陰に隠れて桶を構えた。


(……もう、最悪! こんなところで、よりによって榊さんの前で、泥を落とす羽目になるなんて!)


私がようやく人間に見える程度まで泥を流し終えた頃、駄犬は浴場の壁際で、ある一点を執拗に掘るような仕草をしていた。


そこには、先ほど榊さんが指摘していた浴場全体を圧倒するような巨大な富士山の壁画が鎮座していた。


「……見ろ、雛。これが答えだ」


榊がキセルで指し示したその富士は、他の部分とは明らかに「質感」が違っていた。


ただの墨ではない。湯気を受けてなお、鈍い光を放ち、まるで絵の中から本物の霊峰が迫り出してくるような、禍々しいまでの生命力を宿している。


「この絵……動いてる? 雲が、流れてるように見えます……」

「雪舟斎の骨を混ぜた墨だな。描いたものを実体化させる力がある。呪符じゃなく、絵に使うとはそのまますぎて思いもしなかった」


榊はそう言うと、絵の富士に駄犬が登山するのを楽し気に眺めていた。



湯気に包まれた極楽湯の混浴騒動から、ようやく解放されたのは半時後のことだった。


なんとか泥を洗い流し、番台で予備の着物を借りた私は、火照った顔を夜風に晒して深く溜息をついた。


「……もう、本当に散々です。榊さん、あんな破廉恥な場所でよくも平然と推理なんてできましたね」

「江戸の銭湯なんてあんなもんだろ。それより、番頭から聞き出したぞ。あの壁画を描いた絵師は、町の裏手の湿った路地にある長屋に住んでいるらしい」


榊は涼しい顔で、銀のキセルを軽く振り、夜の闇が濃く沈殿する方向を指し示した。


私たちは、駄犬が看板の裏へ張り付いて案内するのを追い、入り組んだ路地へと足を踏み入れた。


そこは、先ほどまでの銭湯の賑わいが嘘のように静まり返り、腐った木材と停滞した水の匂いが鼻を突く場所だった。


「……ここですか? 伝説の絵師の遺志を継ぐ人が、こんな不気味な場所に?」

「絵に魂を売るような奴は、往々にして日の当たる場所を嫌う。……着いたぞ」


榊が立ち止まったのは、長屋の一番奥にある、一際古びた一室だった。扉の隙間からは、不自然なほど濃い墨の香りと、何かが「ピチャッ、ピチャッ」と跳ねるような嫌な音が漏れてきている。



「……ごめんください」


私が声をかけるより早く、榊が扉を蹴り破った。中に広がっていたのは、まさに「地獄」を墨で描き出したかのような光景だった。


壁、床、天井。あらゆる場所に、雪舟斎の筆致を歪ませたような禍々しい富士の絵が、執拗なまでに描き連ねられている。


その中心で、これだけの物音を気にせず、一人の痩せこけた男が、狂ったように筆を動かしていた。


「あ、ああ……足りない。これではまだ、富士が呼吸をしない……。もっとだ、もっと魂を……!」


男の瞳は白濁し、手にした筆からはドロリとした異様な光沢を持つ墨が滴り落ちている。


「おい、先生。その墨、黒鵺に貰った遺骨入りの特製品か?」


榊の問いかけに、絵師はピクリと動きを止め、こちらを振り返った。その顔の半分は、自ら塗ったのか、それとも絵から這い出してきたのか、真っ黒な墨に浸食されていた。


「黒鵺……? ああ、あの連中は素晴らしい……。私の絵に命を与えてくれた……。見ろ、私の富士が、今、目覚める!」


男が叫び、最後の一筆を壁の絵に叩きつけた瞬間。


壁に描かれた富士の嶺から、ズブズブと本物の土のような墨の塊が噴き出してきた。


「ひっ……! 榊さん、絵が、絵が溢れ出してきます!」

「……馬鹿め。雪舟斎の骨を混ぜた墨が、描いた者の生命力を喰らってやがる。……お前は絵を描かされているんだよ」


榊が警告した時には、もう遅かった。溢れ出した墨の奔流が、まるで巨大な蛇のように絵師の体に巻き付いたのだ。


「あ……が……素晴らしい……。私は、私の最高傑作と、一つに……っ!」


男は恐怖ではなく、狂信的な恍惚の表情を浮かべたまま、自らが描いた墨の富士の中へと、音もなく飲み込まれていった。


その蛇のしっぽの一部が私と榊の方へ飛んできた。


「はぁ!」


仕込み杖で一刀両断する。床に黒い物体が蠢いた。榊が一言二言呪文を唱えると、足元の物体も、絵師を包んでいた墨も消える。


後に残されたのは、不気味にうねる真っ黒な富士の壁画と、男が着ていたボロボロの着物だけだった。



男が消えた瞬間、長屋を支配していた禍々しい気配が霧散した。


壁の絵はただの動かない墨絵へと戻り、部屋には静寂だけが取り残される。


「……結局、何も救えなかった。黒鵺の本元も、この人も……」


私は、仕込み杖を握りしめたまま、その場に立ち尽くすしかなかった。


「……あいつらがこんな場所に証拠を残すはずがねえ。あの絵師も、単に利用しやすい駒として使い潰されただけだ」


榊は、絵師が残した荷物の中から、一枚の小さな紙片を見つけ出し、無造作に拾い上げた。


「収穫はあったぞ。これを見ろ。黒鵺の指令書だ」


そこには、雪舟斎の骨を墨に変えて江戸中の壁に妖を定着させる計画が記されていた。


「奴ら、江戸そのものを一つの巨大な呪いの檻に変えるつもりだぜ」

「江戸全体を……!? そんなこと、絶対にさせません!」


私は、まだ恐怖で震える足に力を込め、気合を入れ直した。


隣の榊は、不敵に笑いながら、銀のキセルから一際大きな紫煙を吐き出す。


「いい返事だ、雛。……妖の情報は滝姫が詳しいが、次は江戸の表の情報すべての鍵を握る、あの場所へ向かうか」

「あの場所? どこですか?」

「江戸で一番華やかで、一番汚ねえ場所——吉原だよ」

「……よ、よしわら!? またそういう場所ですか! 榊さんのスケベ! 破廉恥!」


私の声が不気味な長屋の静寂を切り裂いて響き渡った。

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