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雪夜の産声

 扉が閉まった瞬間、カチリと鍵の回る音がした。それは、ここから先は「男たちの踏み込めぬ聖域」であることを告げる非情な宣告だった。

 フェリクスは、手の中の手帳を握りつぶさんばかりの力で固めていた。

「……姉さま、吐いてしまいました」

 震える声で言うと、隣に立つエルヴィスが、まるで魂が抜けたような顔で頷いた。

「ああ。……あんなに苦しそうなアマーリエは、見たことがない。……」

 エルヴィスは、かつて数多の修羅場を潜り抜けてきたはずのその手で、何度も自身の前髪をかき上げた。

 ――いや、それだけではない。

 エルヴィスの脳裏を今、最悪の記憶が支配しつつあった。

 耳の奥で、かつてこの邸の別の寝室で響いた、前妻、エリーの弱々しい呻き声が蘇る。あの時も、今夜のように雪が激しく降っていた。

 お産を終えたエリーの指先は、驚くほど冷たかった。

 救えなかった。あの時も自分は、この冷たい扉の外で、ただ己の無力さを呪いながら立ち尽くすことしかできなかった。

(また、あの悪夢が繰り返されたら……?)

 血の気が引き、指先が凍りついたように動かなくなる

 その時、扉の向こうから、絞り出すようなアマーリエの悲鳴が聞こえた。

「――っ!」

 二人の肩が、同時に跳ねる。

 エルヴィスは反射的にドアノブに手をかけたが、冷たい真鍮のドアは開かない。中からはメイドたちの「力んで!」という鋭い声と、重い布が擦れる音、そして湯気が立ち上っているであろう湿り気を帯びた熱気が、隙間から漏れ出してくる。

「旦那さま、落ちいてください」

 アンゼルムのその声もわずかに震えていた。クラウスが、きょとんとしながらもただならぬ気配に怯えるようにアンゼルムの裾を掴んだ。

「フェリクス、時間は。……今は、何時だ」

「えっ、あ、はい。……夜の、九時を回りました」

「そうか……まだ、それだけしか経っていないのか」

 エルヴィスは壁に背を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。

「おいで」

 エルヴィスの言葉に、クラウスが弾かれたようにエルヴィスにしがみついた。エルヴィスはそのやわらかな金の髪を、震える手で何度も撫でた。

 フェリクスもまた、姉の安否を祈るように、隣に腰を下ろす。

 窓の外では、雪が音もなく降り積もっている。

 世界はこんなにも静かなのに、この扉一枚を隔てた先では、一人の女性が命を削り、新しい命をこの世に繋ぎ留めようと戦っている。

 遠くで鳴る柱時計の秒針の音が、心臓の鼓動を追い越していく。雪が窓枠に積もるわずかな重みすら、今の彼らには耐え難い沈黙だった。

「オレンジ……」

 フェリクスが、沈黙に耐えかねて口を開いた。

「え?」

「姉さま……終わったら、オレンジ食べるでしょうか……僕が持ってきたやつ……」

「ああ……きっと、喜ぶ……」

「……あんなに吐いてしまったら、もうお腹に何も残っていない。終わったら、もっと美味しいものを、僕が……」

 その言葉が終わらぬうちに、中からひときわ大きな、地を這うようなアマーリエの声が響いた。

二人は弾かれたように立ち上がる。クラウスはびくりと肩を揺らし、アンゼルムが僅かに動揺した素振りを見せた。

「アマーリエ!」

 エルヴィスが扉を叩こうとしたその時――。

 中の叫び声が、ふっと途絶えた。

 恐ろしいほどの静寂が廊下を支配する。ドクン、と、二人の心臓の音が跳ねた。

 次の瞬間。

「ぎゃあ、ぎゃあ……っ!」

 雪夜の静寂を切り裂くような、高く、力強い産声が廊下まで突き抜けてきた。

 二人の動きが、止まる。

 それきり、部屋の向こうの絶叫はぴたりと止んだ。

 聞こえてくるのは、生まれたばかりの命の、途切れない産声。そして、産婆たちがせわしなく湯を替える音、産婦の体を整える布の擦れる音……。

 エルヴィスとフェリクスは、互いの顔を見合わせた。驚きと、戸惑いと、まだ信じきれない祈りが混ざり合った目で、じりじりとその沈黙の数分間を耐え忍ぶ。生きた心地のしない時間が、永遠のようにも思えた。

 やがて、部屋の中から、低くおだやかな、しかし確かな安堵を含んだ女たちの話し声が聞こえ始める。

 扉が、内側から静かに開く。

 そこには、額に汗を浮かべながらも、誇らしげに微笑むアンネの姿があった。

「おめでとうございます、旦那様。クラウスさま、フェリクス様。……元気な、女の子でございます」

 その言葉を聞いた瞬間、エルヴィスは膝から崩れ落ち、フェリクスはその場にへなへなと座り込んで、ようやく止まっていた呼吸を大きく吸い込んだのだった。




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