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銀色の秩序に体温が混じるまで

 ローゼンブルグ公爵邸の執務室。深い深夜。

 エルヴィスは、執務机に置かれた一通の報告書を眺めていた。ライヘンベルク伯爵家の資産差し押さえ、および当主の追放。アマーリエに無礼を働いた者たちへの「処刑」の記録だ。

 机の引き出しを空けた。そこに収まっているのは、かつての妻、エリーの小さな肖像画だった。

 由緒正しい伯爵家の令嬢であった彼女は、完璧だった。

 背筋を伸ばし、一片の乱れもないドレスを纏った彼女は、ローゼンブルグ公爵夫人の正解そのものだった。彼女との会話には、沈黙さえも計算された美しさがあった。

『エルヴィスさま、明日の晩餐会の献立です。公爵家の格に合わせ、伝統的な品を選びました。ご異存ありませんね?』

 彼女の凛とした声が記憶の中で響く。

 その時、自分は何と答えただろう。「ああ、任せる」――ただそれだけだ。

 鏡の前に立つ二人のように、私たちは互いに自分自身の正しさを映し出し、満足していた。そこには、何の痛みも、何の渇きもなかった。

「……それが、幸せだと思っていたのだけどな」

 エルヴィスは自嘲気味に呟き、肖像画を裏返し引き出しをしまうと、椅子から立ち上がった。

 寝室へと向かう足取りは、かつてないほど急いている。

 寝室の扉を開けると、そこには正解とは程遠い光景が広がっていた。

 アマーリエが、ベッドの上で資料を広げたまま、無防備に眠りこけている。

 彼女の指先にはインクの汚れが残り、寝間着の襟元は少し乱れ、その頬には、夕食の後に彼が無理やり食べさせた菓子の、甘い香りが微かに残っているようだった。

 エリーなら、決してこんな姿は見せなかっただろう。

 夜着の一枚に至るまで、彼女は完璧な「夫人」であり続けた。

だが――。

 エルヴィスは膝をつき、アマーリエの汚れた指先にそっと唇を寄せた。

 苦いインクの味がする。彼女が今日、必死に領民のために筆を走らせた証だ。

「……ああ、ダメだな。私は」

 アマーリエを侮辱した家門を、自分は情け容赦なく潰した。例え、遠からぬうちに追いやるべき家門であったとしても。

 エリーが侮辱されたとしても、きっと自分は法と社交界のルールに従って、淡々と「対処」しただろう。だがアマーリエのためには、ルールそのものを踏みにじる。

 かつてあれほど愛した「完璧な秩序」を、アマーリエのために、喜んで放り出すのだ。

 エリーは彼を「完璧な公爵」にしてくれた。

 だが、アマーリエは彼を「一人の、ただの男」として愛してくれると感じる。

 アマーリエが微かに身じろぎし、眠ったまま彼の手に頬を寄せた。

 伝わってくる、熱いほどの体温。

 エリーの肌は、いつも陶器のように冷たかった。それが心地良いとさえ思っていた。

 この吸い付くような熱を知ってしまった今、あの静かな銀色の世界にどうやって戻ればいいというのか。

「エリーすまない」

 エルヴィスはそう独りごちる。

 そして、アマーリエを壊さぬよう、だが逃がさぬよう強く抱き寄せた。

「私をこんな風にしたのは君だ、アマーリエ。……責任を取ってもらう」

 暗闇の中、その瞳には、いつもの理性的な光はどこにも残っていなかった。

そこにあるのは、ただ一人の女性に恋着し、その体温に溺れる、愛を求めるひとりの男だけだった。


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