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ペルシアンラヴ   作者: 藤原去鬼(ふじわらさき)
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ペルシアンラヴ 2

それから自室に戻る途中だった。


村中が廊下を横切るのを見た。

辺りをうかがっている風があったので、陽一は思わず身を引いた。幸い、廊下の照明が暗かったので見つからなかったようだ。そして、なぜか思わず後をつけたくなってしまった。酔いも原因だったが、「秘密の場所」へ行くような気分を村中に感じたからだ。しきりに村中が周囲を気にするので、距離を置いて注意深く後をつけた。…すると、ある部屋の前へ来ると、コンコンと軽くノックした。中からは「だーれ?」という甲高い声がした。宮本みゆだ。

 「『オレ』に決まってるだろう。でけえ声出すなよ…」低く村中は言うと、ドアのノブをゆっくりと回した。そして、また周りを見てから入っていった。

 ? 

カップルかと思っていたら、お互い別の部屋になっていて、それで夜這い? よく分からないなあ。最初から一緒の部屋にしておけばいいのに。別に、誰もそれでとやかく言わないだろうし。だいたい、昼間はほとんどふたりで一緒にいるじゃないか。

 陽一は不思議でならなかった。

しかし…いずれにせよ「生臭いモノオト」を聞く気はなかったので、そそくさと自分の部屋へと戻っていった。


荒木のお陰で、しばらくぶりに何も考えずに寝られた。悪いものがなくなったような気分が続いた。悪夢にうなされることもなかった。五時間ほどで、短いが深い眠りだった。


…まだ、すっかり空が明るくなる前、どこか遠くから、うなるような声が聞こえてきて目覚めた。スピーカーから流されているようで、複数の拠点から聞こえてきて反響も重なるために、何を言っているのかがよく分からないが、どうやらこれがイスラームの祈りの時間の始まりを告げるという「アザーン」だと、ガイドブックで読んだことを思い出した。

 あちこちで発せられて、空間を埋め、漂い、はるか遠くにまで響く声。日本のお寺での読経にも似ているようだが、妙に音楽的でもある。どこか心の一部を魅了し、麻痺させるような作用もあるようだ。

 そんなことを考えていると、まだ暗い中庭で誰かが朗々とアザーンのような声を上げ始めた。誰だろうと部屋の窓から覗いてみたら荒木だった。中庭のほぼ真ん中に仁王立ちとなり、両手を下げてへその前で組んでいる。

 

独特の抑揚がついていて、摩訶不思議な雰囲気を醸し出す。荒木の声はバスとテノールの中間くらいの低さだが、朗々としてよく響いていた。

 …気がつくと、荒木はホテルの窓から身を乗り出した何人かとホテルの早起きのスタッフから拍手を受けていた。

 荒木は誰の方も見ずに深く礼をした。


 陽一はトレーナー姿のまま、中庭へ降りて荒木の下へ歩み寄った。

 荒木は笑顔で迎えてくれた。

 「おはよう。どうだ、なかなかいい声だろう。ワシは歌を歌うのが昔から好きだが、アザーンは格別だ。これは歌ではなく、もっと大事なものだから、より心を込めてやらなければいかん」

 「本当に素晴らしいですね。なにか未知の魅力がいっぱい詰まっているような」

 「その通りだ。アザーンのなかに実はイスラームのすべては含まれている」

 「アラーフアクバル アシュハドハン ライラーハイッラーラー アシュハドハン ムハンマダンラスールッラー ハイヤーサラート ハイヤーアラルファラー(アッラーは偉大なり アッラーは唯一の神なりと証言する ムハンマドはアッラーの使途なりと証言する 礼拝に来たれ 成功のため祈れ)」

 「こうした語句を二度、あるいはそれ以上繰り返すのがアザーンだ」

「ところでシャワーは浴びたか? 近くに来ると汗臭いぞ」

「すいません、昨日部屋に帰ってすぐ寝てしまったので」

 「ほい、じゃあシャワーを浴びてこい。後でまた会おう」

 弾むような気持ちで部屋に戻って、シャワーを浴びた。いいことが起きそうで、笑顔になっていた。


  今日、まずしなくてはならないのはシラーズへの電話だ。

 電話のかけ方は、前日に佐々木の案内で分かっているから、後はダイヤルするだけ。シラーズから貴重な情報をもたらしてくれた、容子アジジさんの番号を部屋からダイヤルした。

 すぐに電話はつながった。

 「もしもし?」

 「バレ? ああ陽一さんでしょ? はじめまして」

 四〇代のはずだが意外と若々しい声が応えた。

 「はじめまして」

 「イランへようこそ。昨日の夜に連絡が来るかと思っていました、どうですか、イランは?」

 「すいません、昨日はばたばたしていまして…イランは想像とは全然違っていました。よい国ですね」

 「そうでしょ。日本では、かなり悪く言われているみたいだけど」

 「今回はいろいろありがとうございます。本当に助かりました」

 「ああ、麻子さんのことをお教えしないとね。昨日も会いました。なんでも一週間後にはパレスチナへ行くらしいですが、それまではシラーズにいるみたいです」

 「パレスチナへ? なんのためにですか?」

 「なにか平和活動のためみたいですよ」

 「…そうですか」

 「また電話ください。明日も会う約束していますから」

 「はい、ご連絡させていただきます。ありがとうございました」

 「それではまた」

 …実際に会話したのは初めてだが親切そうな人でよかった。…しかし、パレスチナへ行くのか…その前に捉まえられそうでよかった。パレスチナに行かれては、どうやって行くのかも分からなくなってしまう…。「あの男」とパレスチナには関係があるのだろうか? イスラーム国ISへ行く海外の若い女性の話を思い出してぎくりとした。まさか…

しばし考え込んでいたが、朝食に行くことにした。朝の八時過ぎだった。

 夕食と同じレストランに行くと、年配のご夫婦たちはもう朝食を終えて部屋に帰る頃だった。「おはようございます」と挨拶だけした。これで、ひとりでゆっくり朝食が取れると、少しうれしかった。薄いインド料理のナンのようなパンとバター、卵料理などを皿に盛った。チャイをカップに入れてもらって、ゆっくりとひと口呑むと、穏やかな温かさが胃から広がった。

 そこへ突然、村中が山盛りの皿を持ってやって来て、同じテーブルに腰を下ろした。


 「お前、夕べオレをつけてたろ」

 手に持っていたカップから、少しチャイがこぼれてしまった。いきなりの「お前」呼ばわりには驚いたが、つけていたのは事実だからしょうがない。しかし、なんで分かったのだろう。

 「まあいい。ほかの人にはしゃべるなよ」

 「…はい。もちろんです」

 「みゆは、オレの行きつけの店のソープ嬢だ。かれこれ四か月くらい通っている。ペルシャに行きたい行きたいと言うから連れてきてやったんだ」

 なんでそんなことまでオレに話すのだろうと陽一は不思議に思った。

 「金だけのつきあいだ。夕べもちゃんと金は払ってやった」

 ちょっと反応をうかがうような動きが村中の小さな目の中にあった。

「まさか…旅費全部出してやって、その上、毎晩金払って…するんですか?」

 「だってオレ、金は十分にあるし。金を払っていりゃ、面倒な関係にならないだろ? 恋愛だとか愛とかになると、面倒クサイだけじゃん」

 当然だろ、と言わんばかりに村中は答えた。

 「だいたい、オレみたいなもっさりしたおやじ臭いオタクが、あんなかわいい娘と、なんか気持ち的にカンケー持つなんてありえない。それぐらいはオレだって分かってるさ。妄想なんかしねえよ。妄想ばっかりで、美少女のフィギュア抱えてせんずりばっかりこいてるオタクじゃねえよ、オレは」

 努めて冷静に話しているつもりのようだが、語尾が少しもつれていた。

 「まあ、僕が口出す問題じゃないと思うけれど…しかし、」

 「もういいだろ? ほっといてくれよ。…このパンは食いにくいなあ」

 薄いパンにべったりとバターをつけて、村中はほおばった。

 「でも、彼女のことは好きなんでしょ?」

 「好き? まあ、女の子としては好みだよ。タイミングが合って、金払いさえすればいつでもやらしてくれるしさあ」

 「何度も会っているうちに、いつも一緒にいたいとか思いませんか? 」

 いきなり村中が席から立ち上がった。

「うぜえよ! お前。なにチョーシこいて言ってんだよ」

「昨日言ったろ? オレ、格闘技ずっとやってんだぜ。喧嘩もできないオタクじゃねえんだ、オレは。いい加減ぶっ飛ばすぞ!」

「分かった分かった。オレが悪かったよ、村中さん」

 突然の村中の激高に驚いた陽一は、慌てて謝った。

 村中は充血した目を伏せ、握りこぶしを少しずつほぐしていった。


 …言うだけ言うと、山盛りの料理を黙々と平らげて、村中は去って行った。

 なんだかよく分からないような、よく分かるような…

でも、オレだって女性ひとりのことでこのザマだしな…


 朝食の帰りに両替しようとレセプションへ行くことにした。シラーズでは現地通貨が必要かもしれない。

大きな声がする、と思ったら、添乗員の佐々木が夫婦のお客に怒られていた。あのごま塩頭の田中だった。

 「いいかね? 今日観光から戻るまでに部屋を変えてくれ。変わっていなかったら承知せんぞ!」

 田中が目を光らせながら申し渡していた。なんか品のない寿司屋の大将って感じだな、寿司屋の親父って話すといい人が多いんだけどなと…陽一は田中の顔を最初に見て感じたことを思い出した。傍では厚化粧の妻がそっぽを見ながら、首にかけたアクセサリーを手でいじっている。

 なんとか笑顔で佐々木は答えていたが、夫婦が離れていくと苦渋の表情になった。

 「どうしたんですか?」

 陽一は早足で佐々木のところに赴いて聞いた。荒木と仲のよい佐々木にも、親しみを感じるようになっていたからだ。

 「あ…いろいろな方がいらっしゃるから…」

 「部屋を変えたいとか言っていたみたいですけど」

 「昨日ね、カーテンの色が気に入らない、と言われて一度部屋を変えたんです。そうしたら、その部屋の上のお客が最近は珍しいのだけれど、風呂のお湯をあふれさせてしまって、下のあの夫婦の部屋まで水漏れしてしまったの。すぐ別の部屋に変えようと思ったのだけれど、あいにく満室で。最初の部屋はどうしてもイヤだって言うし…それで、スイートでもなんでもいいから、今日観光から帰るまでに部屋を変えとけって言われて。それから上の客から賠償金取れって…」

 「そういうケースで賠償金まではありえないし…出発のとき、成田空港で話した時も『ぼくは海外百回以上行っているけど、どこでもVIP扱いでね。今回は訪問国が訪問国だから、ツアーに入ったんだけど、団体ツアーは初めてさ。本当は有象無象と一緒はイヤなんだが』だって。

…あら、ごめんなさい。あなたもお客様なのに、こんな愚痴を言うなんて、自分でも驚くわ」

 「気にしないでください。佐々木さんはいい人だと思うし、昨日のバスの中での話なんか聞いていても魅力的ですよ。笑顔も可愛いし」

 陽一はつい、普段言わないようなお愛想まで言ってしまった。

 「あら、あなたあたしをナンパする気? 年下は嫌いじゃないけど、残念ながら彼氏がいるよ」

 妙にうちとけてしまった。もしかしたら佐々木さんもソウルメイト?

 その場は、両替をしてそのまま別れた。佐々木のアドバイスで三十ドルほど両替したら、イランのお金をずっしりとした札束で渡されて驚いた。特に個人で使うお金がない限り、ほとんど使わないし、飲み物代などドルが使えることも多い。再両替はだいぶ損をするから、さしあたっては三十ドル分もあれば十分とのことだった。カードはカーペットの店など、高額な買い物以外、まず使えないとも言われた。

さあ、部屋に戻って観光へ行く支度をしないといけない。荒木の言う通り、イスファハンでは充実した時間を過ごせるだろう。初めてふれるイスラーム文化にも興味津々になっていた。このホテルの雰囲気だけでも、さらに期待感は高まっている。

 

 午前九時少し前。既に多くの人はホテル前のバスに乗り込んでいた。急いでバスの中へと入ると、運転手の助手のハミッドが、にこにこしながら挨拶してくれた。

 「サラーム」

 「サラーム」と返してみる。

 「『サラーム』っていうのは、イスラームの国共通の挨拶のひとつで、『平穏を』みたいな意味よ」

 と前にいた佐々木が教えてくれた。

 …相変わらず、最後になったのはあのカップル。村中が後ろから追い立てるようにみゆをバスに乗せた。右側の前の座席に座った陽一は、今日初めて会ったかのように「おはようございます」と村中に声をかけた。「おはよう」と村中は陽一のほうを見ないで、それでも挨拶を一応返した。

 「おはようございます。さあ、皆さんお揃いですね。ペルシャ語の『おはようございます』は『ソブ・ベヘール』。ちょっと難しいですが、簡単な挨拶は『サラーム』です。イスラーム系の国では、どこでも使えますよ。

では、これからまず、イスファハンの中心となっているイマーム広場にご案内します。バスをご用意していますが、ホテルからは本当にすぐの位置にあります」

佐々木が案内した。

 実際にバスは、十分も走らずに止まった。これなら歩いても…と陽一は思ったが、グループの大多数を占める高齢者を考えると仕方ないのだろうな、と思った。

 少し歩いて、イマーム広場に出た瞬間、陽一は目を瞠った。中央は広々とした緑地になっていて、長方形の外郭線に沿い、いくつかのモスクと歴史建造物が建ち並んでいる。素晴らしい空間で、歩いているだけでも気持ちが高揚してくる。

 「これがイスラーム世界、いや世界でも最も美しい広場のひとつとして知られているイマーム広場です。イスラーム革命の前はシャーの広場、すなわち王の広場と呼ばれていました。アッバース一世がつくらせた広場だからです。

サファビー朝のアッバース一世は、一五九七年にイスファハンを首都に定め、翌年の一五九八年から、この広場の建設に着手しました、すべての建物が完成するまでには、およそ四十年かかっています。その頃には建設を命じたアッバース一世は既に亡くなっていました。『イスファハン・ネスフェジャハン(イスファハンは世界の半分)』という有名な言い回しがありますが、それもこのイマーム広場あってこそでしょう。

広場の中央部分は、今は人々が憩えるようになっていますが、かつては緑地だけで、王侯貴族がポロという競技をしていました。ホッケーのスティックのようなものを持って馬上にまたがって、球をゴールまで運ぶスポーツで、紀元前六世紀のペルシャで始まりました。その後、英国の伝統競技になっています。日本でも平安時代に一部の貴族の間で行われていました」

 荒木が説明した。

「ではまず、世界で最も美しいふたつのモスクにご案内しましょう」

 広場を横切って、長方形の長い辺の真ん中辺りに位置するモスクへと向かった。

 「イランの宗教関係の建物では、昨日のように女性はチャドル着用の場合がありますが、今のところイスファハンではスカーフさえしていただければ大丈夫です。チャドルが必要でなくとも、昨日申し上げました通り、上履きに履き替えということがあります。そのときによって変わることもありますが、なるたけ事前にご案内します。今日は上履きに履き替えるだけです」。佐々木が案内した。

 そして、少し歩いてから荒木が続けた。

 「こちらがマスジェデ・シェイフ・ロトフォッラーです。ペルシャ語で『マスジェデ』とはジャーメと同じく、イスラームの寺院モスクを指しています。ここはアッバース一世が、レバノンから高名な説教師を招くためにつくらせたものです。アッバース一世は、その説教師の娘と結婚しています」

 「ご覧ください。この素晴らしいタイル装飾を」

 前面のタイル装飾だけで陽一は圧倒された。前面のタイルは青が主体。そして、昨日のゴムのバズラテ・マーアスーメ廟と比べても、一段と複雑で大きな上部のムカルナス。つくりは幾何的だが、全体からは有機的なエネルギーが放射されているようだ。内部へと入ると全体には黄色の部分が多いようだが、それが青と混ざって見せる色彩の美、そして個々に、グループで、また全体に散りばめられた幾何学文様。あらゆる方向にその美は向かっている。 

日本や近隣の国の建築美とはまったく異なる。一切の具象的な装飾が許されない中で、極限まで突き詰められた幾何の美、なんだか軽い酔いさえ感じさせるようだ。内部の床には、厚手のペルシャじゅうたんが何枚も敷かれ、そこだけは妙に現実感があった。地下には白く塗られた清楚な雰囲気の礼拝堂があったが、ここは王族専門。特に王族の女性が人に見られることなく、地下を通って礼拝に来るためであったという。

 このモスクだけでも、いいものを見たという気にさせてくれたが、次のマスジェデ・イマームはさらにすごかった。前面のムカルナス装飾だけでも、しばし立ち止まって見ていたいと思わせた。蜂の巣のようにも見える立体的な装飾のひとつひとつからして、入念にデザインされている。また青を基調として唐草のような文様が描かれたドームは、空の青と美しく調和していた。内部に入っても、青をベースにした色彩の氾濫は続き、夢みるような気分を持続させた。なにかしらの「永遠」がここにはある。

 「マスジェデ・イマームは、かつてはマスジェデ・シャー、つまり王のモスクと呼ばれていました。これもアッバース一世によって建築が命じられたからです。完成まで二六年を要しています。前面のムカルナス装飾だけで五年を費やしました。このモスクは、イランのイスラーム建築を代表するものと言って過言ではないと思います。ぜひ、じっくりと細部までご覧ください。

なお、タイルの装飾などで、デザイン化されて描かれているのはペルシャ語です。さまざまな書体があって装飾化されています。これはイランだけではなく、ほかのアラブの国やトルコも同じで、さまざまな文字の書体があります。ちょっと日本の書道とも通ずるところがあります。文字の描き方でさらに強くメッセージを伝えるわけです」

 みゆでさえ一生懸命に装飾に見入っていた。あちこちから嘆息が聞こえてきた。

 しばらくして荒木は、グループの人たちにドームの下に集まるように呼びかけた。陽一は荒木に腕をつかまれて引き寄せられた。

…ちょうどドームの真下辺りだった。両手を耳に当てて、荒木がなにやら唱え始めた。すると、どうしたことだろう。荒木の声が頭上で旋回するようにぐるぐると回りだした。まるで、声がいのちを帯びて、勝手に動き出したかのようである。なんとも言えない恍惚感に満たされ、陽一は思わずドームの中心を見つめた。グループの誰もが驚きの表情をしていた。

「気持ちいいでしょう。キリスト教会でも同じようになるところはあります。イタリアのピサの洗礼堂もそうです。ドームというのは声を反響させるようになっています。だから音楽の演奏もかなり特殊な効果を上げることがあります。イスラームの場合、現在はまずモスクで音楽を演奏することはありえませんがね。

今、唱えたのはクルアーンの一節です。クルアーンの章句は、すべて歌のように唱えることができます。イスラームでは宗教に関連した音楽は厳しく制限されていますが、クルアーンの朗誦やアザーンなどは、そのために逆に音楽的になったようなところがあります。いや元々それらが音楽的だったので、音楽は不要と思われたのかもしれません」

ここまで説明すると、荒木は陽一に囁いた。

 「ワシはなあ、音楽が好きで好きで、どんな音楽でも好きなんだ。西洋クラシックもイスラーム音楽も、ロックも演歌も世界のどんな民族音楽もワシには同じ。どんな音楽でも好きなものは好きだ。音楽は自由だからな。なにものにも縛られないからな」

 ふたつのモスクの後、次に向かったのはアリガプ宮殿だった。ヨーロッパの宮殿とはかなり趣が異なり、木造建築の宮殿だ。中に入って、まず驚いたのがフレスコ画のような人物像があちこちに描かれていることだった。イスラームでは、こうした具象画はいけないはずでは…しかも、美しい女性の姿さえ見られる。よくもまあ、今まで傷つけられずに残ったものだ。。

 「イスラームでは具象画、彫像などは本来、偶像崇拝に繋がるとして厳禁ですが、例外はあります。歴史的なものでは細密画ミニチュアールというものがたくさん残されています」

 荒木が説明した。

 最上階は面白かった。「音楽の間」と呼ばれているようだが、天井などに楽器の形でくり抜かれた装飾がたくさんある。これは見た目の面白さだけでなく、反響を複雑に、豊かにするためもあるとのことだった。荒木は、先ほどのようにクルアーンの一節を朗誦することはなかったが、あちこちで手を叩いて、反響が複雑に響くのを実際に聴かせてくれた。ここで音楽を聴いたら、どんな風に聴こえるのだろう。

 今日は昨日よりも、さらにイスラーム文化の水準の高さを感じさせられた。英国の伝統ある競技ポロも、元はペルシャから伝わったものだと聞いたし。ポロはクリケットの元では? クリケットは野球の原型…テレビで見た気がする、クリケットがアメリカで「ベースボール」となり、日本へ来て「野球」に? ペルシャから日本まで、つながっている? 陽一は野球が好きだったので、そんなことも考えた。


そういえば…圧倒的に人数では不利なギリシャ系民族が、「強大な」ペルシャの大軍勢と戦うのがテーマとなった近年の映画があった。ギリシャ系の民族は少数ながら誇り高く、王族を中心に団結して高潔そうな人間ばかり。しかしペルシャ側は、専制的で堕落した快楽追求者ばかりのように描かれていた。「絶望的な戦い」に憧れるところのある陽一は、当然ギリシャ系民族に肩入れしながら観てしまった。

今、見ている文化遺産は一七世紀のサファビー朝のもので、映画のテーマになったのは古代のペルシャだと思う。まったく時代背景は違うのだが、今になって思えば「悪者」にされていた古代ペルシャは、そんなに堕落した国だったのだろうか。本当はどうなのだろう。

今夜、荒木さんに聞いてみよう。

 ここで午前中の観光が終わって、市内のレストランへと移動することになった。

 昼食のために入ったレストランは地下にあって、内装は新しく、日本のレストランとあまり変わらないくらいだった。

 「本日のメニューはナスのカレーです。カレーというと意外かもしれませんが、イランはパキスタンと国境を接していますし、インドとも近いのでカレーを食べる食習慣もあります。なかなか美味しいカレーが多いですよ」

佐々木がレストランに入ってから話した。

 レストランには長くて大きいテーブルがあって、十二人くらいが、かけられるようになっていた。ほかに四人がけのテーブルもあったが、年配の夫婦二組で埋まってしまったため、陽一は大きなテーブルのほうに向かった。結局、また吉田夫妻の隣になった。左が吉田夫妻、右があの雰囲気の悪いごま塩頭の田中の奥さんだ。そちらからは必要以上につけられたと思しき、香水の匂いがぷんぷんしてくる。食事どきにはあまりうれしいものではない。

 「はい、カレーが来ました。平たいパンと一緒に召し上がってください。付けあわせで小さな唐辛子がついていますがすごく辛いので、あまりおすすめできません。本当に辛いものが好きな方、また、ちょっと試してみたいという方は、ほんの少しだけかじってみてください」

 「そんな辛いものなら、初めから出さなきゃいいだろうが」

 田中がまたイヤな言い方をした。皆、一瞬押し黙ってしまった。陽一は辛いものが好きだったし、雰囲気が悪くなったら佐々木が気の毒だと思って、小さな唐辛子を口のなかに押し込んだ。「いくら辛いと言ったって、鉛筆くらいの太さで三センチほどだ。大したことないだろ」

 しかし、一回噛むと口の中がひりつくように感じた。さらに噛み砕くと口中が熱くなった。慌ててコップの水ごと飲み込んだが、カーッと辛さが口内に広がっていった。さらに額から汗がどっと噴出した。食道や胃までが熱くなった気がする。

 「うわっ、なんだこの辛さ! すいません、もっと水をください~水をもっと~」

 そんな様子の陽一を見て喜んだのが田中だった。

 「若いもんは言っても聞かないからな。ほらほら汗をいっぱいかいてたいへんだ」

 陽一の苦悶ぶりにすっかり笑顔になっていた。

 吉田さんが運ばれてきた水のコップを渡してくれた。いっきに飲んで、口のなかのひりつきが収まり、ほっとした頃には、ほかのメンバーはカレーを食べながら談笑していた。陽一もようやくカレーを食べ始めたが、ナスとひき肉とをよく煮込んであって、東京のインドカレーの専門店とはまた違った味わいだと思ったが(香りの強いスパイスをあまり使っていないようで、意外とあっさりとした香りと風味だった)、けっこう美味しかった。

 皆がカレーを食べている途中で、ゆで卵が運ばれてきた。佐々木の説明では、イランでカレーを食べるときに必ずゆで卵がつく、ということはないが、この店では恒例のようである。

 ゆで卵が来ると、田中がひとつ手にとって、

 「ゆで卵って、栄養もあるし腹にたまるよねえ」

 と大きな声で言って、とくとくと話し出した。周囲の人たちは田中の話に耳を向けた。

 「僕はね、いつも朝食のときにゆで卵や包装されたチーズをひとつかふたつ多くとって、ポケットに入れておくんだ。ほら、今日もポケットにも一個(上着のポケットからティッシュにくるんだゆで卵を出して見せた)。なぜかと言うと海外では、いつ、なにがあるか分からないからね。実は、昔ドバイでハイジャックにあったことがあって、そのときは機内で十時間くらい軟禁状態にされた。乗客には女性や子どもも多く、子どもはみんな空腹を訴えていた」


「…でも僕はゆで卵があったので、それを食べたからそんなにひもじい思いはしなかった」

 どうだと言わんばかりの表情で田中は笑顔を見せた。周囲はいささか唖然とした。話の展開から、ゆで卵は子どものひとりにでも上げたのだろうと皆予想していたのに…。

「…自分だけがよければいい人なんだな」

 おそらく非難しても、田中はなぜ自分が非難されるのかと驚くだろう。お偉い方のようだが、こんなのが上にいたら、下の人間はたまらないだろう。どうやらなんらかの公的機関に勤めているようだが、陽一は職業について詳細に聞く気も起きなかった。

 

午後、今度はイマーム広場から近いチェヘル・ソトゥーン宮殿へまず向かった。日本語に訳すと「四〇の柱」の宮殿となるらしい。

 「その理由は皆さんが宮殿の前に立つと分かります」

 荒木が言った。

 バスから降りて宮殿の敷地内へと入って行くと、木々の緑が目立った。緑が多いということ、それから水のたっぷりある池があるだけで、日本人には実感しにくいが乾燥した土地では贅沢の極みなのだそうだ。宮殿の建物自体は決して大きなものではなく、こちらもアリガプ宮殿と同様に、ヨーロッパの宮殿を想像すると全然雰囲気が違う。日本の木造りの邸宅のほうが印象に近いかもしれない。建物としても大きいということはなく、むしろ宮殿前の長方形の人工的な池のほうが大きく感じた。まず、荒木はグループを池の反対側まで誘導した。

 「どうですか皆さま、宮殿の前方に二〇本の柱がありますが、この池越しに見ると、池に柱が映って、倍の四〇本に見えるでしょう。それでは内部へ入ってみましょう」

 

 宮殿の内部は博物館のようになっていて、絵画や文物などの展示があった。まず、目だったのは六枚の絵画だった。宴会もしくは戦争の様子を描いたもので、宴会では明らかに酒を飲んでいる様子が察せられ、イスラーム世界にそぐわない酒宴の雰囲気にあふれていた。荒木の解説によると宴会の三枚の絵は、それぞれインド、ウズベク、オスマン朝の王がサファビー朝に支援を要請しにきたところを描いたもの。

ほかにも細密画ミニチュアールや、昔の結婚契約書などが展示されていたが、興味深かったのがガラス製の涙壺。戦に行った夫を想って泣いた妻が涙を溜めたものだというけれど、泣かなくとも塩水を入れておけばいいわけだし、とても本当とは思えなかった。

 宮殿内部の観光を終えると、敷地の外へ出た。


 そのとき「異変」が起きた。

 突然、森村親子が泣き崩れた。ふたりとも、池のほとりでしゃがみ込んでいる。見ると、次々に涙がふたりの頬をつたって流れていた。

 「どうしたんですか?」

 佐々木がすぐに駆け寄ったが、ふたりともただ泣きじゃくるだけで立つこともなかなか叶わない。

 「すいません…なぜだか急に胸が苦しくて、悲しくなってしょうがないんです」

 ようやく息子の優が途切れ途切れに話した。

 「…ご迷惑なので…外へ行きます」

 そう言うと、優は母親を抱えるようにして、宮殿内から外へと連れて行った。

 いったい何が起きたのだろう? 昨日の夕食のときの明るい息子の言動を思い出し、また、今日の今までのふたりを見ていても、原因がさっぱり分からない。

 陽一だけではなく、いささか全員が唖然としていたが、荒木がとりなすように言った。

 「ここで少し自由行動にします。一五分、写真を撮るなど、どうぞ」

 陽一は荒木の傍へ行き、どうしたらよいかと聞いたが、

 「ふたりだけにしてあげよう」

 と言われた。


 そして短い自由行動が終わると、けろっとした表情の優と、疲れきった顔をした母親が戻って来た。

「すいませんでした。実は…親子で片方の感情がなにかの拍子で激すると、こんな風になることが昔からたまにあって…親子の仲が良過ぎるんですね。ご心配かけましてすいません。宮殿の佇まいに感動してしまったみたいです」

 そんな風に優は照れながら笑顔で説明してみせた。マザコン? そんな言葉が脳裏に浮かんだのは、陽一だけではなかっただろう。今どき、そんなに親子で「ある意味」仲がよいなんて珍しい。それとも、なにか歪んだ精神関係があるのだろうか。でも、明るい優を見ている限りは、とてもそんな想像はできない。

 ほかの人たちもなんだか納得したような、納得できないような表情をしていたが、ひとり深刻な表情をしていたのは荒木で、じっと親子のほうを見ていた。


 チェヘル・ソトゥーン宮殿からはバスに乗って、「ジョルファー地区」いわゆるアルメニア人の居住区へ向かった。

 荒木がバスのなかでアルメニア人について話し出した。

 「皆さん、国がなくて商才に長けた民族というと、すぐに思い出すのはユダヤ人でしょう。でも、実はアルメニア人もすごいのです。また、ユダヤ人は歴史的に優れた人物を多数輩出していることでも知られていますが、アルメニア人も同じです。どちらも長い間、祖国というものがなかったため、自分の財力と才能だけを頼りにするほかなかったので、そうなったのでしょう。ユダヤ系、アルメニア系の人物は、欧米ではすぐに誰がそうか分かります。日本では、ユダヤ系の人物についてはある程度分かりますが、アルメニア系については、なぜかほとんど知られることがありません」

「…ところが、アルメニア系で有名な人物はたくさんいます。例えば、二〇世紀を代表する指揮者のひとりカラヤンはアルメニア系です。自分では先祖はギリシャ系としていますが、名前からしてもアルメニア系です。また、日本の国際的な自動車会社の社長に、だいぶ前に就任したあの人もアルメニア人です。日本ではそのことについて報道されることはありませんでしたが…」

 「サファビー朝では、一七世紀の初めにアッバース一世がアルメニア人をイスファハンに呼び寄せました。商業の振興のためです。以後、最大で六万人のアルメニア人がイスファハンに住んでいました」

 「アルメニア人の居住区では、今もアルコールが呑めます。またキリスト教会もあります。『最後の審判』のフレスコ画が描かれたヴァーンク教会などにご案内しましょう」


 別にアルメニア人の居住区に入ったからといって、がらっと家並みが変わるわけでもなく、また教会も地味な灰色のドームから成っていて、一見モスクのようにも見える。しかし、よくよく見るとドームの天辺には小さな十字架が載せられていて、ようやく教会だと分かる。居住区内とは言えど、やはり周囲にはばかってこんな小さな十字架にしたのだろうか。

 ヴァーンク教会の前へ行くと、教会の前面に描かれたモザイク画の見事さにまず目を奪われた。青が基調となっていて構図もちゃんとしている。そして内部に入ると、極彩色のフレスコ画が壁一面に描かれている。金色の装飾も多用されていて、豪華な雰囲気も感じられる。

 フレスコ画について、陽一はよく分からないのでなんとも言えないなと思ったが、そんなに芸術的な感じはなく、むしろマンガみたいだなと思った。みゆは「昔のマンガだ~」とはしゃいでいた。

 併設されたアルメニア博物館もなかなか興味深かった。特に「世界最小の本」、「聖書の言葉を書き込んだ髪の毛」には、ずっと人だかりが出来ていた。天井が高く、広々としていて明るい博物館だ。

 荒木はひと通りガイドして「三〇分自由行動にします」と伝えると、ひとりある展示のほうに近づいていった。なんとなく陽一もついて行くと、真面目な表情で展示に見入っていた。傍らに陽一が来たのが分かったらしく、陽一のほうを見ずに展示を見ながら話し始めた。展示はトルコで起きたアルメニア人の虐殺についてだった。


 「ジェノサイド、マサクル…どちらも意味は同じで『虐殺』だ。悲しいことだ。人間は、はるかな昔から何度も何度も同じ罪を重ねて、まだ同じ罪を起こしている。近年にもルワンダの大虐殺があった。ISも虐殺を行っている。…ISについてはまた後で話そう」

「アルメニア人は国がなかなか持てなかった、ということではユダヤ人と同じく流浪の悲劇の民でもあった。トルコがオスマン帝国だった頃に、帝国内には既にたくさんのアルメニア人も住んでいた」

「イベリア半島でレコンキスタ(「国土回復」とスペイン側からは言うが)という、キリスト教徒によるイスラーム勢力の追放が進んだ時、ユダヤ人も差別から巻き込まれて半島を追われた。そのとき、初期のオスマン帝国はユダヤ人を大量に受け入れた。まあ、これはルネッサンスの下地をつくるほど文化的に優秀なイベリア半島のユダヤ人を受け入れた。

ヨーロッパで疎んじられていたユダヤ人は、イベリア半島のイスラームの後ウマイヤ王朝では、ひとりひとりに課せられる人頭税を払う必要はあったが、のびのびと暮らすことができて、古代ギリシャの研究を続けることでルネッサンスの先ぶれとなる学問を結実させていた。ヨーロッパのルネッサンスは明らかにその影響を受けている。人頭税は前時代的とも言われるが、公平であり、甚だしい重税だったわけではない。なにより、ヨーロッパほどひどい差別をされることがなかった。もっと時代を下っても、ヨーロッパではユダヤ人を殺してもお構いなし、といった法律のある国があったくらいだ」

「打算があっても、ヨーロッパではずっと忌み嫌われていたユダヤ人を受け入れたのは悪いことではない。第一次大戦後のトルコ独立戦争、トルコ革命もトルコ国内のユダヤ人は熱心に支持した。もちろん政治的な思惑もあったろうけどな。また、反ユダヤ主義がまったくトルコ国内になかったということではないが。

近年はトルコでイスラーム主義が台頭しているせいもあって、トルコとイスラエルの関係は微妙になってきた。ユダヤ教会シナゴーグを狙ったテロも起きている。でも、今もイスタンブールを中心に二万五千人ほどのユダヤ人がトルコにはいる」

「ところがアルメニア人については、国内でトルコ人との折り合いが悪くなり、一九世紀末から二〇世紀初頭には二度に渡って虐殺が行われた。この原因のひとつは、ユダヤ人はトルコ人に脅威を感じさせるほどには多くなかったが、アルメニア人は数が多く、それがトルコ人にとっては怖れにつながったのかもしれない。国を乗っ取られるのではないかとね」

「しかし、どんな理由があったとしてもトルコでのアルメニア人虐殺は酷いものだった。虐殺者数については、最大百五十万人から二百万まで諸説あるが『強制移住』の名目ですさまじく残酷な虐殺がなされた。トルコ青年党が関わっていたという説もあり、組織的な虐殺ということでナチのユダヤ人虐殺と同様とも言われている。近代初の虐殺とも呼ばれているな。アルメニアはトルコに今も謝罪を求めているが、トルコ政府は公式には謝罪していない。

その後に第一次大戦が終わると、今度はギリシャが弱体化したトルコに攻め入って虐殺を繰り返した…これもギリシャを積年支配していた恨みからだというが、悲し過ぎる」

「虐殺…と言えば、日本軍の南京大虐殺も、今でも日中の火種のひとつになっているな。実はワシは日本にいた頃に南京大虐殺について、かなり調べたことがある。当時の関係者何人かにも会った」

「結論としては『虐殺』はあった。ただし、三〇万人の犠牲はありえない。当時、中国の兵士の多くが軍服を脱ぎ捨て、民間人のふりをした。当時の国際法では、軍服を脱ぎ捨て、民間人にまぎれたらスパイとみなされて死刑もありうる。そういう人間が多く殺されているのは事実だ。もちろん、それもいいこととは言えないが」

「また、あの頃の戦争は…いや今も戦争では同じだが、軍隊は敵軍がいなくなった市民だけの地を占領したら、必ず乱暴狼藉を働く。程度問題にしかならないが、当時の日本軍は、ほかの国の軍隊に比べたらまだマシなほうかも知れない。しかし、軍隊の侵入とともに強姦や殺人が一件でもあれば、いや南京では相当数の強姦や殺人もあったと思うが、それは『虐殺』だ。弁解無用だ。数の問題ではない。そして日中戦争も末期になると、中国のあちこちで日本軍による、さらなる非道が行われたのも、残念ながら事実のようだ。自分の命を守るために必死になり、精神も錯乱するからな」

「日中関係については、中国側の『ロビイスト』と呼ばれる連中が事態をさらに悪化させている。相手をいたずらに貶めて、政治的に国や政府を有利にさせようとする。ワシはこのロビイストという輩が大嫌いだ。ヤツらは二度と虐殺を起こさないために活動しているのではない。平和のために尽くしているのではない。言いふらすことで自国や関係している機関が優位に立ったり、利益を得られるようにしているだけだ。それで自分らは宣伝活動の報酬を得られるからな。

もちろん真実の追求なんて気持ちはまったくない。こういう輩のせいで、真に救済されるべき人たちが救済されない。あちこちでさらなる揉め事が起きる。南京大虐殺についても、ほとんどウソだらけの小説を書いたり、映画をつくって儲けたりするとんでもないヤツも何人もいる。ワシは、ロビイストの『虚偽発言』『捏造』についても、国際法で厳しく取り締まるべきだと思っている。

『虐殺』ということで言えば、また違った話だが、ヨーロッパでは『アウシュヴィッツ』については調べることさえも許されなくなっている。多くの国で、法律でそう定められている。これは言論の封殺だ。これもおかしいと思う」

 「日本社会全体も今、おかしくなっているだろう? 中国や韓国に対して、無暗に憎悪を煽る連中がたくさんいると聞いた。ある程度年齢を重ねた世代でも中国、韓国をむやみに誹謗したり、こきおろしたりする人物がふえているとも聞いている。彼らは深刻で大きな間違いを犯している。それは人種差別だ。『レイシズム』だ。

中国人、韓国人には立派な人、いや日本の一般人と同じような普通の人がいないと言うのか? 当たり前のことだが、中国、韓国でもほとんどはみんな日本の一般人と変わらない人たちだ。それに日中、日韓関係では原点を忘れてはいけない。中国に軍隊を出して侵略したこと、韓国の主権を奪ったのは歴史的な事実だ。同じことをされたら、日本人だって怒るだろう。

こういう歴史認識問題は、どう解決するかは難しい。いつまでも責め続けたり、謝り続けたりするのもおかしいと思う。政府同士でちゃんと賠償等の取り決めがなされ、合意しているのならば、古傷をつつきあうのではなく、共に幸せになるために歩むべきだ。ところが馬鹿なマスコミを含めて煽る連中がいる。その結果、誰が得をするか? まず軍事関係だ。最終的には互いに武装を強化するからな。武器や軍事関係のものがたんと売れる。それでほくえそんでいる最低のヤツがたくさんいる」

 「また、こういう見方もできる。日本で近年、酷い内容の反韓デモが行われることがあるという。それに対抗して『カウンター』という勢力も出動する。このどちらにも低所得者が多いようだ。…世界で今、富裕者と貧困者の格差がものすごい勢いで進んでいる。

貧困階級がふえて、その怒りを政府がほかに転嫁したいと考えた場合どうするか。対外的な危機感を煽る、あるいは国内の少数民族に怒りの矛先が向くようにする。これは、『支配者たち』のはるか昔からの常套手段だ。そういった意味では、反韓デモをやっている連中も、カウンターとして出動する連中も、『真の敵』からは目を逸らされているということになる。気の毒なことだ」

 「しかし、日本がしてしまったこと、現在の不幸な日中韓の関係を別としても、中国政府が今でも占領したチベット、支配下に組み込んだウイグル自治区、内モンゴルでやっていることは明らかによくない。ウイグルについては現地から残酷な尋問なども頻繁に行われていると聞いている。また、ベトナム戦争で韓国軍のしたことも低劣きわまる。ほかに今でも韓国では黒人に対して、人種差別が酷いらしい。どの国も、そういう問題がある。国同士でいがみあっている場合ではない。国内のそういう事実に向き合い、まずそれを解決して欲しいものだ。

 そして『虐殺』が二度と起きないように、世界一丸となって取り組んで欲しい。これは特定の国の問題ではなく、人間の悪しき性だと思う」

 「おっともう集合の時間だな。また、後で…そうそう、森村さん親子の様子を見といてくれ」

 「なにかおかしいことでも?」

 「それも後で話す」


 「さあ、ここの観光は終わります。バスのほうへどうぞ」

 博物館の出入り口で佐々木が手を上げて皆をうながした。


 陽一も博物館を出て、バスのほうへ向かった。虐殺についての荒木の話は重かったが「人類共通の罪」として辛そうに話す荒木の表情を見て、自分も深く考えなければいけないという気持ちになった。しかし、そういったことの周辺にも、それを「ネタ」として自分のために利益を漁る連中がいるのか…


しかし…森村親子にはいったいなにがあると言うのだろうか。バスに向かう親子を見たが、もうふたりとも笑顔になっていて、なにか問題があるようには見えなかった。声をかけるほかのメンバーに母親までもが明るく笑顔で答えていた。


 「次はザーヤンデ川へ向かいます。ふたつの橋を訪れます。スィ・オ・セ橋とハージュ橋です。どちらも数百年前からある、古い石橋です」佐々木が案内した。

 今度も移動の距離は大したことはなかった。街なかを抜けると、すぐ視界が広がった。「川」と聞いていたせいだろうか、バスのなかにも水の匂いが漂ってきたように思った。

 ザーヤンデ川に出ると、思ったよりも水量が多い川の流れが見えた。砂漠だらけの国と思っていたので、「川」という存在自体がとても新鮮に感じた。日本では感じられない感覚だろう。でも、説明では夏を中心とした時季には、しばしば水は枯れてしまうそうだ。

 最初に訪れたのはスィ・オ・セ橋。「スィ・オ・セ」とは「三三」という意味で、三三のアーチがあるからだそうだ。イマーム広場からすぐなのに自動車は通行禁止。人が盛んに行き来している。石づくりでアーチが連続する外観は、日本ではまず見られないだろう。バスを降りると、橋へ向かうように佐々木が促した。

 橋の一部となるたもとにはチャイハネ(カフェ)があった。ここで佐々木は全員にチャイ(紅茶)をふるまった。

 「皆さま、橋のたもとに喫茶店があるなんて、日本では普通はないので、ちょっと不思議な感じがするかもしれませんが、欧米でも橋にお店があるというのは、けっこう例があります。いちばん有名なのは、イタリアのフィレンツェのベッキオ橋でしょう。橋の両側に貴金属のお店が並んでいます」

 荒木が継いだ。

「さあティータイムです。イランでは、砂糖はお茶に入れません。舌の上にのせて口に含みます。そして、お茶を飲むときに少しずつ溶かします」

 「わたひろまれほしれふららい(わたしのまねをしてください)」

 荒木が舌の上に角砂糖をのせて、そのまましゃべった。荒木の表情がいかにも珍妙で、声も顔もヘンだったため、何人かの奥様が笑い声を立てた。森村親子も笑顔になっていた。

何人かが、荒木のまねをしてお茶を呑んだが、皆すぐに角砂糖が全部溶けてしまってうまくいかない。「あ、甘い!」という声がいくつか聞こえた。

 お茶は欧米のようにカップではなく、ガラスのコップに入っている。

 「日本の鼈甲飴のような砂糖もありますから、これならまだ簡単ですよ」

 「そして、もしよろしければ水タバコも試してください」

 佐々木が呼びかけた。

 いくつかの吸い口を手に持って、試したいという人に渡している。普段タバコを吸わない陽一も試してみた。水のなかで白い煙がぶくぶくいって、吸い口から出てくる煙はとても軽く感じた。フルーツ系のものなど香料がいろいろあるらしいが、これはシンプルにミントの香りのものだった。

 次に訪れたのはハージュ橋。スィ・オ・セ橋と同じく、こちらも築かれてから四百年以上経っている。やはり橋のたもとにチャイハネがあって、また二層構造の上部にはテラスまであった。昔は王族の宴会も行われたという。

 ここでは自由時間が二〇分ほどとられ、各自思い思いに過ごした。陽一はツアーの一行とは離れて、橋のたもとに腰かけて水の流れを見つめた。しばらくすると…どうしても麻子の面影が浮かんでくる。思わず頭をふって、周囲を見た。

 視界の先に森村親子がいた。

 ふたり並んで座っていた。くっついて座っていて、よく見ると優が母親の腰に手をまわしている。えっ親子なのに…しかし、ふたりの屈託のない笑顔は幸せそうで、陰など微塵もなかった。しかし、やがてふと見つめあって…まずいよ、それは…と陽一は頭の中で必死に止めたが…

キスはしなかった。なんだかすごくどきどきしてきたが、親子は立ちあがって橋の中へ消えていった。

 まさか…

 しばし、今のは本当のことだったのかと反芻した。…いや間違いなく本当に起きたことだ。いくら仲のよい親子だといっても…

 「それではみなさま、時間ですのでバスのほうへお願いします」

 佐々木が声を出した。

 年配の人が多いためか、集合はいつもスムーズだ。しかし、今回は森村親子が遅れていた。

 「団体行動は時間を守ってもらわないと困るねえ」

 田中がバスのなかで声を張り上げた。森村親子はバスに乗り込んできた。変わらず明るい笑顔で、母親さえはつらつとして見えた。

 「ほらほら、時間に遅れたら謝るのが常識だろう」

 田中が憎々しげな声で言い放った。

 「すいませんでした。なにか楽しくて…つい」

 優が頭を下げて詫びたが、田中はそっぽを向いていた。

 「いいんですよ、五分くらいだからね」

 吉田がとりなすように言った。


 バスが出発してホテルへ戻ると、五時半くらいだった。ホテルに着くと、バスから降りる年配者の間で「風呂に入ってゆっくりと」という声が何人かから出ていた。

日本を出発してから、かなり強行軍のツアーであったため、若い陽一でも、からだが重くなっていた。

 でも、部屋へ戻ると浴槽に湯ははらずにシャワーだけで済ませた。からだを拭いてベッドで横になると、しばらくはせいせいした気分になれたが、ひとりになってしまうと、どうしても麻子のことを考えてしまう。

 夕食は七時半からで、まだ一時間半くらいあったため、仕方なく部屋を出て中庭へ向かった。荒木がいるかも、とも期待していたが荒木の姿はなかった、中庭に面してチャイハネがあったので、そこへ向かった。すると、テーブルの後ろにいたために見えなかったが、村中とみゆがいた。一瞬引き返そうと思ったが、みゆが笑顔で手を振ってきた。

 「美味しいの食べられるよ~」

 見つけられてしまったのなら仕方ない。諦めてふたりの近くに座った。

 「あのねー、あせれって言うのタダで食べさせてくれるのー」

 「違うだろ。『アッシュレシテ』だろ」

 「男は細かいこと言うんじゃないのー」

 みゆは村中の頬をペンペンと二度叩いた。村中は無表情だったが、明らかにうれしそうだった。

 やだなあ、こっちはSM関係なのかな…

 森村親子の怪しい様子を見た後だけに、陽一はすぐにヘンな連想をしてしまった。

 

せっかくなので、無料のアッシュレシテというのを食べてみようと、大きな鍋から配膳しているコーナーへ行ってみた。アッシュレシテは具だくさんのスープという感じで、ホウレンソウや牛肉の細切れ、豆やニラ、玉ねぎ、細かいパスタらしきものなどが入っている。ひと口食べて見るとなかなか美味しい。

「美味しいですね、これ」

 「でしょ、でしょー」

 みゆがうれしそうに言った。相変わらず化粧は濃いが、瞳はすごく無邪気そうに見えた。「悪い子じゃないな」とは思った。


 「実はなあ…」

 村中が低い声で話し始めた。

 「オレもみゆもいじめられっ子だったんだ」

 「オレはなあ、この通り昔から感情表現ってヤツか苦手だ。動きが人より鈍いこともあって、小学校三年くらいのときからずっと苛められていたんだ。

ずいぶん酷いことをされたよ。教室で裸にされたり、ぞうきんで顔を拭かれたり。中学に入ると、もっとエスカレートして、弁当に犬のクソを入れられたり、ズボンをトイレの便器の中に投げ込まれたり…悔しかったけど、運動神経もなかったので反抗できなかった。ただ、無表情をさらに保つことだけしかできなかった。そのせいなのか、今も喜怒哀楽を顔に出せない」

「いじめでいちばん辛かったのは、普段は親しく話していた少ない友だちが、みんな見て見ぬふりをしていたことだな。いじめに『慣れて』しまって、苛めてくるヤツの顔が本当に醜いなあと、妙に余裕をもって眺めていることもあったけれど、離れて知らん顔をしている友だちには酷く憎悪を感じた。そんなことを考える度に『ずっとひとりでいよう』と思ったけれど、孤独には耐え切れなかった」

 なぜ、こんなことを村中は自分に話すのだろうと驚きつつ、陽一はしっかりと聞き続けた。

「ご両親はどうしていたんですか?」

 「親父は知らんふりだった。仕事のことしか頭にない人間だったからな。『苛められるのはお前にも原因がある』くらいしか言ってくれなかったよ。逆に母親はあれこれ聞いてきて、すぐに学校に抗議に行っていたが、なんせオレと同じく小太りで、また化粧もケバかったから、オレの母親の姿を見たいじめっ子たちには、いいネタになってしまった」

 「…小学校と中学校は公立だったので、小学校からのいじめっ子が中学にはまだいたが、高校はまったく地元から離れた私立に入った。六年以上のいじめられっ子生活で、かなりストレスも溜まっていた」

「中学三年の終わりから格闘技のジムに通った。運動神経がないので、最初はなにもかにもが辛かったが、苛められているときよりはマシだった。自分の意思でやっているんだしな。また、しばらく続けていると、オレはからだもそこそこ大きいが、潜在的にすごいパワーがあることが分かった。大人とスパーリングして、体当たり一発でKOしてしまったこともあった」

 「それからは自信がついてきて、高校では最初にからんできた同じクラスのヤンキーを、パンチだけで教室の壁まで吹っ飛ばしてやった。以後、オレにからんでくる奴はいなくなった」

 なんだ、結局自慢かとも思ったが、村中には自慢げなところはなく、言葉には哀しさを感じた。

 「あれ? なんでオレ、お前にこんなこと話すんだろう。ま、いいや、聞き流してといてくれ」

 「次あたしー、あたしが話すう」

 村中が話している間は大人しくしていたみゆが、またハイトーンな声を上げた。

 「このヒト、ちゃんと話聞いてくれるー、いい人だよ」

 みゆにほめられ、ちょっとむず痒く感じたけれど、確かに昔から「聞き上手」と言われたことは何度かある。相手の感情を素直に受け取れる性分だ。人が話すことは、とりあえずとにかく受け取る。早く理解して、何か言おうとは思わない。

 「あたしはね、お父さんが最初からいなくて、お母さんしかいなかったんだけど、お母さんみずしょーばいでうちにほとんどいなかったの。だからずっとカギっ子。寂しかったけど、団地に住んでるほかの女の子たちが遊んでくれないの。お母さん、気が強くていつもまわりの人とケンカばっかりしてたからー。ゴミのこととかで、ほかのうちのお母さん殴ったこともあるしー。だからみんな『あそこのうちの子と遊んじゃいけません』て言われてたらしい」

「あ、おかあさんはあたしには暴力振るわなかったよ。とても可愛がってくれた。でも、あたしが小学校六年のときに、突然いなくなっちゃったー」

「…いなくなる何日か前に、抱きしめながら話してくれた。『ごめんね。あたしも一生懸命やってるんだけど、高校中退だと、今はロクなシゴトないのよ。お前のお父さんも、元ヤンキーで高卒だったから、どんなにがんばってもダメで、家出て行っちゃったんだ。今の世の中は、はみ出しちゃった人は底に落とされて、どんなにがんばっても上がれないの。今はフーゾクのお仕事出来ても、いつまでも出来ないしね。ちゃんとしたいけど、誰もチャンスくれないんだ。

仲間には子どもがいても、苛めているのがいるけど、それだけはねー…お前だけは可愛がってきたんだけど…」

「そう言って、また、あたしをぎゅっと抱きしめたけど、それから少ししていなくなっちゃったー」

「それであたし、じいちゃんばあちゃんのところに預けられた。じいちゃんばあちゃんはきびしい人で、あたしのこと『イソウロウ』って言って、ほとんど世話もしてくれなかったー」

 「それであたし、すごーく暗い子になっちゃってー、中学校ではいつもクラスでひとりぼっちだったのー。ひとりぼっちだけならまだいいんだけど、そのうち『インバイ(淫売)の子』とか言われるようになって、同級生の女の子たちから苛められるようになった」

 「その頃はー、まだマジメだったからー、ヤンキーな子たちにもすごくいじめられたー。トイレの便器の水飲まされたりー、学生服破られたりー、髪の毛切られたり―」

 「すーんごく辛かったけど、ある日気づいたのー。『仲間』になればいじめられないだろなーって。でも、すっかりヤンキーになったあたしを見て、おじいちゃんおばあちゃんは『出てけー』って」

 「それで高校からは自分でアパート借りてー、バイトして夜間学校行ってたんだけど、お金がいつも足りなくてー。へへっ、あたしも『みずしょーばい』になっちゃった」

 深刻に話せば、かなり辛い半生だなと思ったけれど、この子は全然暗くない。むしろ明るいくらいだ。どうしてこんなに明るくしていられるんだろう。

 「あたし、今は暗くないよー。お金いっぱい貯めて、パンやさんはじめるんだもーん。目標持って生きてるんだもーん」

 まるで陽一の心の中を見透かしたようにみゆが言うんで、ちょっとびっくりした。

 「お前話すとバカ丸出しだから、あんまりしゃべるなって」

 「うるさーい」

 みゆが村中の頭をぽこぽこと叩いた。

 また村中の頬と目じりが微妙にゆるんだ。

「まあ、そんなわけで元はいじめられっ子同士が仲良くしてんのさ」

  村中が頭をなでながら言った。

 「あたし、たっちゃんがお店来たとき、すぐにわかったもん。このヒトいじめられてた人だーって」

 「もう余計なこと言うなって」

 「じゃな」

 村中はみゆの手をとって、椅子から立ち上がった。


 なんだ。なんだかんだ言って、いいカップルじゃないか。今のオレからしたら、ちょっとうらやましいよ…

 ソープ嬢と客って雰囲気じゃないよ。どう見てもフツーにカップルだ。ちゃんとつきあえばいいのに。なんで部屋をわざわざ別々にするのかなあ。まあ、ふたりだけだと、いろいろあってまた違うのかもしれないけれど。

 腕時計を見ると、まだ六時半。夕食までにはまだ一時間ある。どうしたものかと考えていると、田中夫妻がやって来てしまった。

 「スイートと言ったのに、あんな部屋か。また文句を言ってやらなければいかんな。どうも女の添乗員というのは頭が悪くてダメだな」

 陽一がいるのに気づいたが、ちらと横目で見ただけで挨拶もしない。陽一は一応、軽く会釈したのだったが…

 「なんだこれは? フリー? 無料ならもらってやろう。どうせろくな代物じゃないだろう」

 チャイハネのスタッフが差し出したカップをもぎ取るように手にとった田中は、口をつけて、いきなり吐き出した。

 「マズイな。こんなもの無料で当たり前だ」

 田中は残ったカップの中身を、近くにあったバケツのような容器の中へぶちまけた。

 言葉は分からないだろうが、田中のすることを見ていたイラン人のチャイハネのスタッフ三人は、表情を歪めた。侮辱されたという雰囲気がぴったりだった。さきほどまでお客に見せていた笑顔は完全に消えた。田中はそのまま立ち去っていった。

いささか唖然としていると、またメンバーの人が来た。ツアーのメンバーのなかでも目立たない小柄な夫婦のご主人のほうだった。人のよい微笑を浮かべながら会釈され、「小堀です」と名乗られた。このツアーでは自己紹介がない。添乗員の佐々木から説明がされていたが、近年になってからの妙な「個人情報の規制」によって、自己紹介は旅行社側が勧めてはいけないのだという。情報は「お客さま同士」で交換してくださいと「旅のしおり」にも記されていた。

 「いやあ、ペルシャの旅は念願で、今回やっと来られて感無量です」

 大黒様を痩せさせたような笑顔を見せながら小堀は言った。

 「僕は来ることになるとは思っていなかったので…」

 陽一は村中と森村親子の前で話したのと同じ、イランに来たウソの事情を話した。

 「そうですか。でも面白い国ですよ。きっと来ただけの甲斐はあると思います」

「ええ、確かに。見ること聞くこと初めてのことばかりです。…ところでイラン人と言えば肌が浅黒くて、髭もじゃなのかと思っていたのですが…。色が白い人をよく見かけるし、髭のまったくない人もたまにいますね」

「違いますね。肌の浅黒いのはアラブ人。もっともイランにはトルコ系の人もいて、彼らも色の白い人たちがいます。イランのペルシャ人は人種が異なります。

アラブ人は、いわゆるセム系という人種で、先祖になっているのは聖書に出てくるアブラハムです。イスラームではイブラヒームと言いますけどね。それに対して、ペルシャ人は元を辿ればアーリア系です。広い意味ではドイツ人やインド人などと同じです。だから第二次世界大戦の頃に、当時の国王は、ヒトラーと友好的でした。ガイドさんの言った通りにね」

 「ところで、アブラハムはユダヤ人にとっても共通の先祖だからややこしくなります。さらにユダヤ人のことだけを考えても、もっとややこしいことになってきます。ユダヤ人は、元々はアラブ人と同じ人種だったのに、古代にローマ帝国に国を潰され、離散ディアスポラして周辺に散らばりました。そして各地で交わったために、今のイスラエルは人種の博覧会みたいになっています。イスラエルのテルアビブ空港でよく周囲の会話を聞いてみるとすごいですよ。ドイツ語、イタリア語、フランス語、英語…ヨーロッパ中の言語が聞こえてくる」

少し自慢げに話すしながら、ペースが上がっていった。

 すると…


「いや、それは間違いです。ディアスポラで古代のユダヤ人が散らばったのは、周辺のアラブ民族の国々、せいぜい西はスペイン、東はトルコまでです。今イスラエルでスファラディとかミズラヒームと呼ばれている人たちが元々パレスチナに住んでいたユダヤ人です。イスラエルでのヒエラルキー(社会的地位)では、彼らは低いところにいるようですが。

威張っているヨーロッパ系ユダヤ人、いわゆるアシュケナージの人たちは、実際には元々、カスピ海の近くにあったハザール汗国が滅亡してから、ロシアやトルコ経由でヨーロッパへと移住していった人々です。ヨーロッパに散ったユダヤ人の末裔ではない。いてもね、ごく僅かでしょう。

ヨーロッパのユダヤ人の人口統計の推移を歴史的文書で見ると、東のロシアなどから西へと移動しているのがよく分かります。もしも、古代にディアスポラで、パレスチナからヨーロッパへ移動していったのならば、その後にロシアから西への移動はないでしょう。もっと近いところ、例えばギリシャ辺りから入っているはずです」

 …気がつくと、吉田のご主人が話に割って入ってきた。いつの間にか、後ろの席に座って話を聞いていたらしい。


「ハザール汗国ですか…眉唾な話ですね」

「いや、ハザール汗国の存在は歴史的な事実です。だから、今のイスラエル人にはパレスチナの土地の所有を主張する権利なんか歴史的にもないんです。だってイスラエルの歴史学者ですら、このことを認めている人が何人もいるのですよ」

「…実は、私の会社はイスラエルと取引があって、つきあいがもう何十年にもなりますが、誠実でいい連中です。なんで、世界でイスラエル人の評判が悪いのかが分かりません」

 「それはあなたが、彼らがパレスチナで何をしているかを知らないからです」

 …少し険悪な雰囲気になってきた。

 「私はなにも、イスラエル人全部が悪いとは言っていません。平和活動に積極的に従事しているイスラエル人が少なくないことも知っています。そういう知り合いもいます。でも、パレスチナで政府や軍がやっていることは言語道断です。知っていますか? 子どもや女性でも平気で殺すし、虐待なんかはしょっちゅうです。それもずっと何十年も続いています」

 「やっているのは軍ですよ。それもテロがあったり、騒乱状態になったりするので、やむを得ずやっているのです。セキュリティのためなんです」

 「それは誰のための『セキュリティ』ですか? 一方を守るためなら、他方に何をしてもいいのですか? 」

「セトラーというのを知っていますか? 入植者のことです。彼らは民間人ですが、パレスチナ人の土地を奪って、酷いことをしていますよ。テロは絶対によくないことですが、イスラエル人に土地を奪われたり、弾圧されたりするので、仕方なく抵抗するとテロになってしまうことも多いのです」

 吉田さんは、笑顔を終始保っていたけれど、言葉は決然としていた。

どうやら小堀さんのほうが、形勢が悪そうだ。

 「…」

 ついに返す言葉がなくなってしまったらしい。

 「私はあなたをやりこめようと思って話したのではないのです。もしも、不快に思われたとしたら謝ります。私は大学で教えた後、市井で続けて歴史を勉強している者ですが、パレスチナ問題については調べるほどにイスラエルが悪い。長い、長い間、ユダヤ人を差別し続けたヨーロッパの責任も重いですが…。どうしても、この問題については、正しいことを言わなければいけない、と思ってしまいます。

パレスチナとイスラエルの対立は、宗教が原因とか言われていますが、それは違います。ひと言で言うならば、イスラエルが国を挙げて地上げ屋をやって、少しでもパレスチナ人の土地を奪おうとしている。それが実態です。もちろんイスラエル人でも平和のために尽くそうとしている人はいます。でも、そうでないほうが実権を握ってしまっています。私はイスラエルとパレスチナの双方から平和を望む人たちが歩み寄って、平穏になるのを心から願っています」

 なんとなく、だが、小堀さんも頷いたようだ。

 「さあ、もう七時二〇分です。皆さん夕食に行きましょう」

 明るく吉田さんが声をかけた。


 そうか…荒木さんから聞くはずだったパレスチナのこと、少しは分かったような気がする。大雑把に…だが。これまでは「テロをするパレスチナ」が悪いのだろうと思っていたし、差別や大虐殺にあったユダヤ人たちが、国を持とうとするのは当然の権利では…そんなくらいには思っていたけれど、それだけでは済まないようだ。また、荒木さんにいろいろ聞いてみよう。

 今までパレスチナ問題にはまったく興味がなかったけれど、今では麻子との接点のひとつとなってしまったし、イスラーム、イコール怖いテロリストたちという印象は、イランに来てからだいぶ変わってきていた。少なくとも佐々木さんが言っていたように、住んでいるのは、基本的に「同じ人間」という気がする。日本にいるだけで、マスコミなどの言っていることを鵜呑みにすると、間違ったことをそのまま信じさせられていることが多いのかなとも思ってしまった。

 男三人でレストランに行くと、今夜はバイキング形式ではなく、グループはひとつの部屋に案内された。

 佐々木がメニューを読み上げた。

 「今日の料理はアブ・グシュトです。壺入りシチューとでも言ったらよいでしょうか。壺で煮込んだ野菜や肉を、金属製のこの器具で潰して、平たいパンにのせて食べます。素朴な味わいですが、イランの名物料理のひとつです」

 小さな壺が運ばれてきた。中には煮上がった具材が入っている。汁気はあまりない。全体に赤味を帯びているのは、トマトベースで味をつけているからだろう。壺の中を見ると牛肉や玉ネギ、ジャガイモや豆類があるのが分かった。先が少し幅広で平たくなっている金属の棒のようなものを渡されて、壺の中の具を突いて自分で潰すのだが、これがなかなか上手くいかない。力の加減が分からなくて、中の具が飛び出してしまう人さえいた。

 「なんでこんな面倒なものを食わせるんだ!」と田中は怒鳴り出した。また佐々木の表情が曇った。

 「あ~これはすいませんねえ。私が潰して差し上げましょう」

 荒木がおどけた様子で田中夫妻のほうへ行き、夫妻の壺を手に取ると、素早く具を潰してみせた。あまりに手際がよいので田中は黙ってしまった。

 「面倒なようでしたら、私が潰してしんぜます。どうぞ、ご遠慮なく」

 ほかのメンバーにも声をかけた。

 「いやいや、これも旅の思い出になりますから、ちょっと苦労しても自分でやります」

 吉田のご主人が好々爺然とした笑顔で答えた。

 

そんな中、またもや森村親子が奇妙な行動を始めた。ふたりはハンカチを敷いて床に座り込んで、床に料理の壺と皿とを並べ、手際よく壺の中の具材を潰すと、床に座ったまま食べ始めた。それがいかにもさまになっていて、シルエットだけを見ると昔からイランに住んでいる人間のようであった。今日見た、チェヘル・ソトゥーン宮殿にあった宴会を描いた絵の中の人物を思い出させた。一瞬、昔の人物が目の前に蘇ったかと思ったほどだった。

 陽一が不思議に思い、親子のところへ行って「どうしたんですか」と聞くと、

 「いや、なにかこのほうが楽に食べられるので…でも、お行儀が悪いですよね」

 と優が言うと、親子は立ち上がって、またテーブルのほうに料理を持ち寄り、席に戻った。かなり奇矯な行動だが、ふたりにはそんなに変わったことだという意識はないようだ。

 …ふと、荒木のほうを見ると、森村親子のほうを訝しげにじっと見ていた。


夕食が終わると、陽一はいったん自分の部屋に戻ってから荒木の部屋へと向かった。ノックすると「入りなさい」と返事が聞こえた。なんだか本当に学校の先生のようだ、でも、こんなにいろいろなことを教えてくれる先生はいない。しかも陽一が知らなかった世界のことばかり。

「さあ、まず呑め」

すぐに荒木はスコッチウイスキーの入ったグラスを差し出した。

「僕が呑んでしまっていいんですか?」

「なあに、後で君の持ってきたのをもらうし、ほかにも手に入れるルートはいくらでも知っているさ。アルメニア人地区とかな」

荒木はウィンクした。

「実は今日、ちょっとパレスチナの話を聞きました」

陽一は小堀と吉田のやりとりについて、荒木に話した。

 「…ふ~ん、そうか。イランまで来る人というのは、普通の人とは違って、さまざまなことに関心を持っている人も多い。中東の政治的なことに興味のある人もいるからな。だから、ワシは多少強引でも政治的なことも話すんだ。まあ、ただ単に楽しい旅行ということを考えている人が、イランに来ることはまずないだろう。君だってそうだろうが」

 「そうですね。彼女のことがなかったら、一生来ることはなかったと思います」

 「彼女のことがきっかけとなっているとしても、やはりなにか『縁』があるのだろう。人と人とが出会うのも、なにか物事が起きるのも、すべて『縁』とか『因果』があると思うよ。ただし、それをどうしていくかは、人それぞれだ」

 「そういう考え方は、イスラームと言うよりは仏教だという気がしますが…」

 「いや、実はな、面白いことに神秘主義的な考え方では、イスラームも仏教もキリスト教も共通したところが多い。輪廻みたいな考え方もな。世界宗教会議みたいなものが開催されることがあって、ワシも出席したことがあるのだが、神秘主義系の人間は意見が一致することが多々ある。特に神秘的な体験という部分では、ひとりが体験談を話すと、瞬く間に賛同者がふえる。逆にしてはいけないのが戒律についての話だ。これを始めると殴りあいの喧嘩すら起きかねない」

 「人と人とのつながりの不思議さについては、神秘主義系は大雑把に言ってどの宗教でも似ている。神の大いなる力が作用するから、人と人との出会いが起きると考えている場合が多い。愛せる人と出会うのも、嫌なヤツとの関わりができるのもすべて縁だ。だから出会い自体は吉とも凶とも言えない。吉だと思っていても、後でとんでもない不幸の元となることがあるし、凶と思っても、結果的には思いがけない幸運と巡りあうかもしれない。

同じようなことを昨日も言ったな。すべては自分がどう捉えるかだ。また、自分がどうするかだ。こういう考えについて、いちばん近いのは道教かも知れない。いや、道教と言うよりはタオイズムだな」

 「…すいません。道教もタオイズムもよく知りません」

 「あ、そうだろうな。簡単に説明してやろう。一般的に道教というのは、まあ分りやすく言えば仙人になる方法や現世利益が中心ということになるか。中国と中国系の国では昔からずっと盛んだったが、中国では共産主義政権となってからはかなり規制された。むしろ台湾のほうが生き残っている。

さまざまな神さまに現世利益のことをお願いする。横浜の中華街に『三国志』の関羽を祀った関帝廟というのがある。あれは典型的なものだが、そういった道教を民間道教と言う。

道教は孔子と同じ頃の老子という人物から始まったと言われている。今も老子の個人的なことはよく分からない。この老子そして荘子を併せた老荘思想というのは、民間道教とは異なり、とても深いものだ。欧米では『タオイズム』と呼ばれて、現代でも研究する者が多い」

 「タオイズムの教えの根幹は『無為の為』だ。あるいは『道はあって道はない』だ」

 「全然分りません…」

 「では例を挙げよう。例えばある人物と出会って、それによって君があることをしたとする。それは君が自分の意思で行ったように見えて、実は『大いなる意思』のなかでそう仕組まれていたのかも知れない。でも、そこに君の意思がゼロというわけでもない。それは『大いなる意思』の現われでもあり、君の意思でもあるわけだ。そのどちらともとれると考えるのがタオイズムのあり方のひとつだ。どちらも正しい。表裏一体、分かつことの出来ないものだ。ある種汎神論でもある。すべてに神は宿っているが、神はひとつだ…みたいな」

 「すいません…ますます分りません…」

 「う~ん、元々君は思想とか宗教には興味なさそうだしな。でも、もう少し説明しよう。『無為の為』と言うのは何も特に意識してはしないけれど、自ずと何かをしている、ということだ。本当に自然のままに生きることができれば、何も無理をせずとも、必然であることのみ自然体のままでするしかなくなる、ということにもなる。言い換えれば…ビートルズの『Let IT Be』だ。『なるようになる』だ」

 「『Let IT Be』と言われると、少しだけ分ったような気がします。高校のとき、英語の時間でテキストとして出てきましたから。なるがままに身を任せる、でも、ただ流されるのではない、みたいな…」

 「それくらいで十分だ。こんなこと簡単に分っていたら悩む人間なんて出ないさ…さて、タオイズムの話を始めると、それだけで何時間も費やしてしまいそうだ。パレスチナの話に移ろう」

 「まず、ユダヤ人の長い迫害の歴史にふれることが必要だろう。キリストを密告し、処刑した民であり、自分たちの国を持たない民族だった。これも細かくやると長い話となってしまうから、簡単に言うと、旧約聖書でモーゼの導きでエジプトから脱出し、ユダヤ民族が、神から「約束の地」として与えられたのがパレスチナだった。しかし、ローマ帝国にやがて支配され、それに対して反乱をたびたび起こしたことから、遂には追放された。

追放されたのは二世紀のことだ。それからユダヤは国を持たない民族となった。自分たちを守ってくれる国家がなかったから、彼らはその代わりに富を求めた。また、自分の才能を必死で伸ばし、それで日々を生き抜こうとした者も多い。キリスト教やイスラームでは、昔は(イスラームでは今も)原則として利息を取る金貸しは禁止されたが、ユダヤ教にはそういうタブーがなかったことも、彼らが富に関わることがふえた原因だ。

しかし、そのことからもユダヤ人は嫌悪の対象となった。『ベニスの商人』の話は知っているだろう。また、ユダヤ教自体の閉鎖性もよくなかったと思う。一種の選民宗教で、布教をするどころか新たな信者を積極的に迎え入れることも少ない。ユダヤ民族迫害の最大の原因は『少数』かつ異端だと思われたためだな。対象として差別しやすかったのだ」

 「人間は基本的に『差別をしたい』のだ。自分たちが人より優位に立ちたいのだ。それが努力や進歩、改善につながる場合はまだよい。しかし、恵まれない環境下にあると、人は差別した者をいじめたり、さらに抹殺にかかったりもする、自分が生き延びるために。パレスチナ人とイスラエル人の関係にも明らかにヒエラルキーの問題が二重、三重にあるからなあ」

 「それはどういうことですか」

 「パレスチナ人とイスラエル人の間にある問題は、ひとつには人種だ。白人主体のユダヤ人からは、アラブ人は劣等人種となる。しかし、ユダヤ人自体が世界で混血したために、彼らの人種自体、実態がよく分からなくなっているところがある。アングロ・サクソンなどの白人から見たら、ヒトラーの例が示すようにユダヤ人も劣等人種ということになる。しかし、始末の悪いことに、人種間の差別意識は違いの差が少なくなるほど熾烈になる。

イスラエル人のなかでも差別がある。イスラエル人のなかで、パレスチナ人に対し、兵士としてときに最も残虐になるのは、イスラエルでヒエラルキーの低いアラブ系のイスラエル人だ。あるいはアラブ社会から移住してきたユダヤ人だ。情けない話だ…もちろん、例外はある。アラブ社会から移民したイスラエル人で一生懸命に平和活動をしている人もいる」

 「そしてもうひとつ、これが長く続いているのがいちばんよくないのだが、『占領者と被占領者』という環境だ…少し前、ドイツで実際に行われた実験を元とした映画が制作された。『es』という映画だ。被実験者を『看守と囚人』に分けて接させているうちに、どういう心理的な現象が起きるかという実験をした…その結果、看守側は次第に本気で暴力を行使するようになり、最後には囚人側が本当に暴動を起こしたのだ。『仮』のヒエラルキーを与えただけなのに、そんな結果となった。『人間というものは』などとも思ってしまうよな」

「パレスチナ人とイスラエル人の関係についても、同じようなことが起きている。イスラエル兵士のなかには、相当に残虐なことを平気で行う者もいる。その多くが、先に話したようにヒエラルキーが低い者だ。それどころかわざとならず者ばかりを集めた部隊をつくったり、麻薬を与えて非道なことを行わせたりする場合もあるらしい。

しかし、兵役に就いて最初は、ほとんどの兵士が職務に忠実であろうとし、人道的な感情も見せることが多い、なんせ兵役に就くときは一八歳だからな。子どもだよ。検問をするチェックポイントで本当にチョコレートが口のまわりについている兵士を見たこともある。ところが…」

 「『自分たちが占領者である』すなわち優位にある、ということを自覚し出すと変わっていく。だんだん非情な行為を平気でするようになるだけではなく、自ら進んで非道を行う者さえも出てくる。これも少し前だが、イスラエル兵士の間で『パレスチナ人の妊婦を狙撃しよう』という絵柄の入ったTシャツが流行したと聞き、唖然としたことがあった。彼らは『ジョーク』だと言っていたが、そんなジョークがあるかい。

占領というシステムが最大の悪かもしれない。若いイスラエル兵士も次第にその毒に侵されていき、どんな残虐なことも平気になっていくのだ」

 「だから兵役終了後、我に返るとトラウマを背負っている兵士も多い。そういう兵士はバックパックを背負って世界への旅へ出たり、麻薬に溺れたりする。イスラエルでは、そんな『後遺症』に悩む兵士のための団体もできた。これはまず、自分が兵役に就いていたときになにをやったか、それを話してみよう、という趣旨で始まった。とにかくまず何があったのか自覚し、言葉にして話し、ほかの元兵士たちとも対話して少しでも楽になれば、という思いがあった。今の状態が続く限り、病んだイスラエルの若者がふえていくからな…そして、当然ながら団体の動きは平和運動へと移行していった。」

 「この団体の活動に対してイスラエル政府はとても神経質になっている。ある意味、自分たちにとっていちばんふれて欲しくない部分であるわけだから。だから、この問題を扱う外国のジャーナリストが急に入国を拒否される事態も起き、アメリカなどでこの団体が講演をしようとすると、ユダヤロビー団体が妨害をする」

 「イスラエル人もある意味気づいてはいるわけですね」

 「そうだ。人を憎んだり、傷つけたりすることは、諸刃の刃ということだ。もっとも繰り返し非道を為し、無神経になったままのやつもいる。そういった人間は一種精神異常の状態にある。もしまっとうに戻ったら、最悪、気が狂うか死ぬかだな。一般のイスラエル人は恐怖も感じているケースも多い。自分らがパレスチナ人になにをしているか、直接関わりがなくとも知っている。しかし、だからこそ恐怖も感じている。仕返しが怖いのだ」

 「なら、やらなければいいじゃありませんか」

 「でも、政府がテロの恐怖を煽るからな。アメリカでもブッシュは同じことをやった」

 「…おっと、近年の心理的な部分ばかり話し過ぎたな。歴史や現実の状況がなおざりになってしまった。吉田さんの話だけでは、概況が十分には分からなかっただろう。まだ話を聞けるか? お腹いっぱいという感じではないか」

 「いえ、まだ大丈夫です」

 「そうか。では、まだ続けよう。そもそもの始まりは先に話したようにディアスボラ(ヘブライ語で『撒き散らされる』という意味だ)だ。二世紀にパレスチナから、ユダヤ人がローマ帝国によって追放されたことに始まる。ここでのポイントは、追放されたユダヤ人が『どこへ行ったか』だ。諸説あるが、ワシはせいぜい周辺国だと思っている。ヨーロッパまで行った者は、いてもごく少数だろう。

追放を命じたローマ帝国を通過して、ヨーロッパへ行くのは難しい。では、ほとんどのヨーロッパのユダヤ人はどこから来たか。カスピ海あたりにあった、ユダヤ教を国教としたハザール汗国からではないか。この国は七世紀から一〇世紀に存在し、周辺国からの攻撃で滅びた。ここからの大量の難民流出がなければ、ロシア辺りに多数のユダヤ人がいて(今もいるが)、それが西へ移動していったという歴史的事実が説明できない。まあ、今のヨーロッパ系ユダヤ人のすべてが、このハザール系だというのにも遺伝子研究の成果として見ても無理があるので、ハザール系とパレスチナ系のミックスと考えるのが妥当かもしれない。なにしろハザール汗国というのが、謎が多過ぎる存在なのだ」

 「その辺りは、聞いた話と一緒です」

 「アラブ系や反イスラエルの立場の人間は、このハザール汗国ユダヤ人起源説を圧倒的に支持している。今のイスラエルという国の論拠的基盤が否定されるからな。もっとも、今のイスラエル建国に至ったシオニズムも、実は最初からパレスチナへの帰還を是としていたわけではない」

 「一九世紀末、それまでずっと続いていたユダヤ人迫害のなかから、近代の国民意識の確立という状況もあって、『ユダヤ人も国を持つべきだ』という声がふえ、オーストリアのユダヤ人ジャーナリストのテオドール・ヘルツルが『ユダヤ国家の建設』を提唱した。きっかけはフランスでユダヤ人差別のために起こった『ドレイフュス事件』だ。歴史の授業で習ったろう? 覚えてないか」

 「うーん、なんとなく…ですが」

「まあよい…ユダヤ人の苦難というのは、君でもおぼろげに知っているだろう。並大抵ではない。何千年も彼らは差別、虐待、虐殺に遭ってきた。前にも言ったが、近代に近くなっても「見つけたら殺してもいい」なんて法律のあるヨーロッパの国さえあった。まるで「虫けら同然」だ。ロシアでは近代になってもポグロムというユダヤ人虐殺が繰り返された。アウシュヴィッツにはワシも一度行ったが、一週間口がきけなくなった。同じ人間になんてことができるのかと。

…前にも言ったが、人間は「差別」が好きなのかもしれない。それが殺人、そして抹殺に繋がっても…そしてまた、それだけ酷い目に遭ってきたユダヤ人が、パレスチナでなにをしているか…」

荒木から暗くて深い流れが広がった…


「ユダヤ人の国…その候補地は必ずしもパレスチナではなかった。南米、アフリカなどいくつかがあった…それがなぜか、パレスチナでなければならないという風になってしまった。どうも、ユダヤ財閥が動いたらしい。中東に自分たちに関わりのある国を持つことが利益につながると考えたようだ」

 「そしてユダヤ人のパレスチナへの移住が始まるのだが、初期は平和裏に行われた。パレスチナの地はオスマントルコの支配する地となっていたが、すべてにおいて緩やかだった。元から住んでいたアラブ人たちも好意的にユダヤ人を迎えた。敵対意識はなかった。そんな状況が一変したのは、第一次大戦が始まったことによる」

 「『アラビアのロレンス』という映画は観たことがあるか?」

 「観ました。アラブ人の独立のために英国人士官がリーダーとなってトルコと戦うってヤツですよね」

 「そうだ。ロレンスは実在の人物で、ドイツの味方となったオスマントルコに対して、アラブ人が反乱を起こすよう促し、反乱軍を指揮した。オスマントルコを倒したら、国家建設をさせてやるとアラブ人に約束して。これはフセイン・マクマホン協定として、イギリスが公式に認めたものだ。しかし、ヨルダンの建国などは果たされたが、中東のほかの地域は英仏によって恣意的に国境が引かれ、分断され英仏の支配下に入った。本当はアラビア半島を中心として、大アラブ国が建国されるはずだった。しかし、一九二〇年代になってアラビア半島で石油が発見されると、ますますアラビア半島は英仏の管理下に置かれるようになる。石油のとれる地域は英仏の思惑でいくつもの部族単位の小さな国家となった」

 「これは英仏露で締結されたサイクス・ピコ秘密協定が元となっている。ロシア革命でこの協定の存在が暴露され、アラビア半島、そして周辺の国民は今もこれに対して怒っている。そして、さらに英国は二枚舌どころか三枚舌を使った。バルフォア宣言によって、パレスチナへのユダヤ人の移住、将来の建国を約束した」

 「酷いですね。中東の政情が不安定な原因の根本にはそれがあるんですか」

 「はっきり言っておこう。欧米の外交に『正義』なんてないということを。彼らの頭にあるのは自分たちの利益だけだ。いや、それどころではない」

 「大川周明という人物を知っているか? 思想家として、また情報機関を設立し、日本の右傾化に寄与したとされている。極東軍事裁判で東条英機のアタマを後ろから叩いたヤツだ。裁判では精神異常と判定され、極東軍事裁判では唯一無罪となった…まあ、極東軍事裁判というのも酷いものだが、そのことは、今は止めておこう」

 「さて、精神異常とされながら、裁判後はクルアーンの日本語訳もしていて、その点からも、ワシにも関わりのある人物だ。このおっさん、ただの異常者ではない。一九二二年に『復興亜細亜の諸問題』という本を著しているが、見事に欧米の植民地主義の悪辣さを告発している。中東だけではなくアジア、アフリカ、中南米でも、欧米は非道の限りを尽くしてきた。植民地政策ではその植民地が発展して力を持てないようにする。例えば、人々の日常のための食糧生産などは奨励しない。欧米への贅沢品、嗜好品を中心として生産させる。

また、国境を意図的にもめごとが起こるように引く。さらに国が出来てしまったら少数民族のほうに権力が集中するようにする。政情が安定しないように。

自分らの利益のための簒奪と搾取しかない。…これは日本の帝国主義を肯定するためにいうのではないが、日本は台湾や韓国でインフラ整備や植林など、まあ自分らの利益のためもあったろうが、結果的にその国の人民にためになることもしている。欧米はそんなことはまずしない」

 「おっと、もう十二時半だ。また君の顔もだいぶ赤くなってきたから、ここまでとしよう」

 「…質問があったのですが」

 「なんだ?」

 「いえ、もう聞くまでもない気がしてきましたが、古代のギリシャやローマと比べて、古代のペルシャはモラルが低かったのでしょうか。そんな映画を観たので」

 「ははは。そういう映画は多いからな。特にどちらがモラルの点で上とはワシは思わない。どこも長所も欠点もあったろう。ただ、こういうこともあった。紀元前六世紀にバビロニアにユダヤ王国が滅ぼされたとき、バビロニアの王は多数のユダヤ人を捕虜として連れ帰った。そのバビロニアを滅ぼしたペルシャの『大王』キュロス二世は、ユダヤ人をパレスチナへ帰還させてやった。一方で、古代ローマは自分たちの脅威になるからと、今のチュニジア辺りにあった、カルタゴという国に難癖をつけて徹底的に攻撃して滅ぼしている。古代ペルシャの拡張主義もいいとは言えないだろうが。キュロス二世は旧約聖書で救世主メシアと賛辞を受けている」

 「基本的に人種や国によって、上下を決めるのは間違いだ。どの人種や国も、いいときもあれば悪いときもある。同じ人間だから、ふつうの人間もたくさんどこにでもいるし、悪いヤツもいいヤツもいる」

 「…そういうことでよすね」

 「あ、そうだ、実は…」

  今日、橋で見たことを話したら、荒木が目を左右に動かした。

 「そうか…」

 「なにかあるんですか? 」

 「いや、まだ確証がないから言えない。

ではおやすみ。シャブ・ベヘール。ペルシャ語だ」


…荒木の話を聞いていると、自分は本当になにも知らないのだ、と何度も思ったが、劣等感は感じていなかった。むしろ新しい世界が広がってきたように思えてわくわくする。パレスチナについても、もっと知りたくなった。

しかし、進学校から最終の志望大学まで、自分は今までなんのために勉強していたのだろう。日本の学歴社会のなかで、自分と同様に、いやはるかにそれ以上に意味のない受験勉強しかしていなかった人間が、大企業や政府の中枢にいるのだとしたら…。


荒木の部屋を出て、今夜は村中の姿は見かけなかった。部屋に戻って、すぐにベッドに潜り込んだら夢を見た。実際のことは知らないので、今まで観た映画が元だろうが、古代ペルシャに自分がいて、ペルシャの兵士としてギリシャ軍と戦っていた。頭をすっかり隠した兜姿のギリシャ兵と剣で戦っていて、勝負はなかなかつかなかった。金属と金属のふれあう、重くて鈍い感触を感じながら、なかなかやるな、と思っていたら、相手の兵士が被っていた兜を脱いだ。

…麻子だった。驚いて飛び起きた。


時計を見ると六時だった。バスルームへ行ってシャワー浴びた。兜を脱いだ麻子の顔がずっと脳裏に焼き付いていた。麻子は少し悲しそうでもあった。こんな夢を見るなんて、前世で敵同士だったのか。でも、久しぶりに麻子の顔がはっきりと脳裏に浮かんで、少しはうれしくもあった。


 しばらくちゃんと起きる気にならず、ベッドで横になっていると、しらじらと夜が明けてきた。また、アザーンが聞こえてきた。こんな魅力的な音楽とも言葉ともつかないものを毎日聞いていたら、いつかムスリムになってしまうかも…

 

…そのまま少し寝てしまったようだ。起きたのは八時前だった。

 今日の出発は九時と聞いていたから、朝食をとりに急いだ。すでに食べ終わっていたのだろう。またグループの人たちは誰もいなかった。それを今朝は残念に思った。誰かになにかを話したい気分だった。

 さっさと朝食を終え、部屋に戻るとすぐ支度をして、ロビーに向かった。まだ出発の三十分前だが、グループの年配の人たちがうろうろしていた。グループの人たちと顔が合う毎に「おはようございます」と明るく言えた。陽一のそんな様子に少し驚く人もいた、やっぱり今までは「人を避けたい」という気持ちが表に出ていたのだろう。

 まだ時間があるなあと思って、エントランスの横を見ると、ちょっと離れてショップがあったので見に行くことにした。売っているものはさまざまだった。女性用のスカーフや肩掛けのようなもの、細密画ミニチュアールの本やカード、チャイのグラス、幾何学模様の飾り皿、装飾付の鉛筆、チャイの葉、チャイ用の飴色をした透き通った砂糖、イランのお菓子…。

 「どう? なにか買いたいものが見つかった?」

 声のほうを向くと、佐々木だった。

 「これなんか女性のお土産にはよさそうよ」

 そう言って、ショールのようなものを佐々木はたぐっていた。

 「イランは、けっこう衣類の取引が盛んで、よく選ぶといいのがあるわよ。彼女かお母さんにお土産は?」

 思わず、胸がきゅんと疼いた。視線をいったん下へ落としてしまった。

 「あら~片思いか失恋ほやほや?」

 言葉はぞんざいだが、それでもじっと陽一の目を見ながら佐々木は言った。

 イヤだなあ、なんか佐々木さんも人を見抜くのが上手なのかも。

 しかし、佐々木はすぐ破顔一笑した。

 「なに? いやだ、反応しないでよ」

 肩を優しく叩かれた、そのとき…

 「エクスキューズミー」

 売り場の奥から女性の声がした。

 思わず振り向いて陽一はフリーズした。

 にこにこしているのは、イラン人の若い女性。しかし…その容姿ときたら…

 水色のスカーフからはみ出ている、長めのおかっぱ頭のような髪は亜麻色でふんわりとしていて、瞳は青く輝き、顔の造作はパーツひとつひとつが完璧な上に、全体の調和も抜群。美人、可愛い、佳人、絶世、まぶい…。ボキャブラリーの乏しい陽一でも、即座にいくつかの女性の容姿への褒め言葉が浮かんできた。

 「ナイス トゥ ミート ユー。アイ ラーンド イングリッシュ ファイブイヤーズ。 ハウ ドゥ ユー シンク マイ スピーク?」

 陽一にも十分に分かる初歩的英語だ。どうやら習った英語を異邦人相手に話したい、ということのようだ。

 「ナイス トゥ ミート ユー トゥ。 ユー スピーク ベリイ ウェル!」

 にっこりとして、佐々木が答えた。

 「アンド ユー ワー ベリイ ビューティフル」

 女性の佐々木から見ても、やっぱり美しいのだろう。

 「サンキュー」

 なんの衒いもなく彼女は素直に答えた。

 たぶんまだハイティーンではないだろうか。地味な花柄のチャドルを着て、顔の化粧っ気はまるでない。もっともこれでは化粧の必要もないだろう。

 佐々木と彼女が話している間には、しばし「鑑賞」することも出来た。見惚れるばかりだった。横から見ようが、斜めから見ようが、もちろん正面から見ようが、その造作は完璧。カウンターがあるために下半身は見えなかったが、上半身のバランスも申し分ない。

完璧過ぎて、情欲なんか感じる隙もない。では「お人形さん」のようかと言えば、まったくそうではなく、はつらつとした生気が彼女からはあふれ出ている。

「奇跡」。

そんな言葉さえ浮かんできた。

 佐々木との会話を聞いていると、やはり英語をずっと学んでいるけれど、話す機会がなかなかないので、ここで働いて機会を多く持つようにしているとのことだった。

 陽一も話しかけてみた。歳はいくつ? 名前は?

 「一九歳」

「ナスリーン」

 名前はなんて意味?

 「ワイルドローズ(野ばら)」

 そんな。野ばらよりずっと美しいよ…これは口には出さなかった。

 「おっと、もう時間だ。ごめんねー」

 佐々木は陽一の腕をとった。

 「ちょ、ちょっと」

 「ワー ユー ブラザー? 」

 「イエース。バーイ」

 「勝手に兄弟にしないでくださいよ」

 「だって、あんた危ないから。どうすんのよ、惚れたって、どもなんないでしょ」

 「んなことないです。あんな美人、鑑賞はしますけど、惚れられないって」

 やっと佐々木が腕を離した。

 「よしよし。正気を取り戻したな」

 「最初から僕は冷静です」

 「何を言う。おぬしの瞳には続々とハート型が出てきておったぞ」

 今度は「おぬし」かい。

 「いやそりゃ、オトコなら誰だってそうなりますって。あんな美人滅多にいないもの。天使みたいでしたよ。でも…」

 「でも、なんだ」

 「僕には好きな女性がいるんです! 」

 「よし。分かった。無罪放免じゃ。でもイランは、美人は多いから要注意よ」

 やっと手を放してくれた。

 しかし…ったく。なんなんだ。まるで母親…いや、姉さんか。

 「無礼は許せ。支度はできているのかな~。出発だよ、もうちょっとしたら」

 「あーいけない、電話ひとつ掛けてから行きます」

  今朝も容子さんに電話しようと思っていて忘れていた。

 「彼女に?」

 「はいはい。そうですよ」

 「急いでねー」


夢の残滓からか、ちょっともやっとしたものがあって、それが電話のことを無意識に忘れさせたのかもしれない。今日電話したら「麻子と早く会いたい」とか言ってしまいそうな気がしていた。

 急いで部屋に戻ると、メモを見ながら電話した。

 「もしもし」

 「あーすいません。池谷です」

 「はーい。容子です。おはようございます」

「おはようございます」

「昨日も麻子さんと会いましたよ。昨日は、ちょっと顔色が悪かったけど」

 「え? どこか具合が悪いとか?」

 「いやね、なにか憂い顔って言うのかしらね、悩み事があるみたいな」

 「何か言っていましたか?」

 「いいえ。特には」

 「…でも、『慌てて出てきてしまったので』とか言っていたわね。あなた…もしかして彼女を追ってきたの? 彼女に嫌われて、愛想を尽かされたとか? 何か理由があるの? ぶしつけで申し訳ないけれど」

 「あ、いや。彼女のご両親にも頼まれていて…それは本当です」

 冷や汗が出てきた。

 「そう…まあ、こうして話している限り、あなたも悪い人ではなさそうだし…でも、危害を加えないとしても、会っても彼女に迷惑はかけないわね?」

 「はい。もちろんです」

 「ならいいわ。…ごめんなさいね。これくらいは聞いておかないと。会わせるだけだからいい、というわけにはいかないわ。私にも責任があるし。じゃあ、お会いするのを楽しみにしています」

 「はい、ありがとうございます。さよなら」

 「さようなら」

 正直なところ、多少、むっともしたけれど、落ち着いてみれば仕方がない。まだ日本にいてメールでやりとりしていた頃に、連絡先教えようかと言われて、いいです、と断ってしまっていたので、本人と直接話したがらないと思われても仕方ない。そうなると、わざわざイランまで女性を追ってくるのかと、なにかあるのかと思われても当然ではないか。胡散臭くも思うだろう。ちゃんとした人だったら、これくらいのことは聞いてくるのも当然にも思える。

 でも、断られたわけではないし…気を取り直して、観光に出かける用意をした。


 今日も、一応バスに乗ったが、すぐに目的地に着いた。

 「さあ、本日最初にご案内するのは、またモスクです、すいません。でも昨日のふたつのモスクとは、また違った魅力を感じていただけるでしょう。最も神聖な日の名前がついた『金曜日のモスク』マスジェデ・ジャーメです」荒木が話した。

 狭い路地から入って行くと、入り口の少し前には低く張られている鎖があった。横からは鎖と関係なく入れるから、立ち入り禁止ということではないようだ。

 「さあ、なぜここに鎖があるのでしょう。これもイスラームの教えです。このモスクは、すべての人のためのモスクで、入って行くのに身分は一切関係ありません。アッラーの前では皆平等だからです。だから高位の聖職者であろうが、王侯貴族であろうが将軍だろうが、皆、ここでは鎖をくぐる。アッラーの前で平伏して通るわけです。今もここをくぐる人はいますが、皆さまはもちろん、ムスリムでもないのですから、くぐらなくていいです。横から入ってください。あ、これはリンボーダンスにはいいかも、ちょっとやってみようかなー。ワタシがするとビンボーダンスですが」

 と荒木は、仰向けで膝を曲げて見せた。

 手を突かずにバランスを保っている。

 ご婦人方が笑った。

 みゆが出てきて荒木のお腹を押した。

 「こらー何をするかー」

 と荒木は笑顔で、手をつくと、足に力を入れて、見事なブリッジからすっくと立った。

 「オジサン、カッコいーい」

 みゆが喜んで飛び跳ねた。

 脇から村中がみゆを引き寄せた。

 「チョーシに乗んな」

 また、みゆが見事に膨れた。


 入って行くと、泉水のある開けた中庭に出た。建物は青いタイル中心の装飾で、さほど華美な感じはないが、抑制された美にまとめられている。

 「このモスクは、イスファハンで最も古いと言われています。元々の創建時期は八世紀頃。いったん火事で焼失しましたが、一二~一四世紀に再建され、その後何度も増改築が行われ、現在の姿となっています」

 建物の内部に入ると、地味な土気色の世界が広がった。しかし、メッカの方向を指し示す窪みミヒラーブや木製の説教壇ミンバルの繊細な装飾は素晴らしかった。


 ここの次に訪れたのはアーテシュガーフ。

 初めてイスファハンから少し離れた郊外まで向かった。バスで二〇分ほどだった。


 「さて、実はここは足場が危ないということで、今は基本立ち入り禁止なんです。でも、私の後に付いて上がってもらえれば大丈夫です。ゆっくり行きますからね。上からの眺望は素晴らしいので、なんとかお連れしたいのです。上るのはイヤという人はバスの中で待っていただいてもけっこうです」荒木が案内した。

 また田中がなにか言いたそうにしたが、よく写真は撮っているようなので「眺望がよい」と言われると行かない、という風にもできないようだ、ゆっくりと全員が登り始めた。確かに足場はよくないが、荒木の後を付いていくとさほど困難ではなかった。

小山の上には古い土のレンガの塔がある。荒木が説明を始めた。

「拝火教ゾロアスターの塔です。ササン朝のもので、二~六世紀くらいに築かれたものです。アーテシュガーフとはゾロアスター教の神殿のことです。ゾロアスター教については、あまり詳しく説明すると、時間がかかるので簡単にご案内します。既に紀元前一〇世紀には始められていたとされる宗教で、開祖はゾロアスター。『ツゥラトストラ』とも呼ばれています。そうです、ドイツの哲学者ニーチェの著作で『ツゥラトストラはかく語りき』というのがありますね。ニーチェは拝火教徒ではありませんが。リヒャルト・シュトラウスという作曲家がオーケストラの作品にしています。映画『二〇〇一年宇宙の旅』に使われたことで有名ですね」

「ゾロアスター教は多神教で、善悪二元論です。正義の神アフラ・マズダと悪の神アーリマンとの戦いが永劫の時間の中で続いていきます。だいたいゾロアスター教の神殿はこういう小高い場所に築かれていて、鳥葬または風葬が行われていました。遺体は鳥のエサにするか、風に任せます。死んだら、からだを自然に返すんです。今だったらエコってことですか。ははは。

さて、またシラーズ郊外のナグジェロスタムで、ゾロアスター教の説明の続きはいたしましょう。それよりここからの素晴らしい景観をゆったりとご覧ください」

 確かに絶景だった。岩だらけのザグロス山脈が彼方に屏風のように聳え立ち、その手前に周囲の荒れ地とは対照的に緑豊かなイスファハンの市街地が広がっている。ザグロス山脈の最高峰ザルド山は標高四千二百メートルを超すという。すごい圧迫感を感じさせる。

 「ザグロス山脈は裸の岩山だけみたいに見えますが、昔から遊牧民族が住んでいます。最近はその遊牧民の集落を訪れるツアーもあります」


 「おおっと。危ない!」

 荒木の説明をまったく聞かず写真撮影に夢中になっていた田中が足を滑らせた。荒木が田中のジャンバーの襟を掴まなければ、十メートルくらい滑落していたかもしれない。

 それにしても動くのが素早かったし、また荒木の力の強さがよく分かった。片手で襟を掴むと、いっきにぐいと引き寄せた。田中はズボンが土で汚れたが大事なかった。

 「こらっ早く離せ。上着がちぎれるだろう。この服は高いんだ」

 誰でも礼を言う場面だが、田中はむしろ当たり散らした。

 さすがの荒木も怒りを感じたか、無表情になった。

 すぐに田中はそういう様子に反応した。

 「なんだ。こんな危険なところへ連れてくるのがそもそも間違いだろう。誰か怪我したら訴訟もんだぞ。だいたい、このカメラだってな、君の一か月の給料じゃとても買えないぞ」

 荒木はにやっと笑って、

「いいカメラお持ちなんですねー。でも、大けがしたほうがたいへんですよ。それとも…鳥葬を体験されたかったのでしょうか」

「何を! 無礼なヤツだなあ」

 田中が声を荒げたが、荒木はくるっと、ほかのメンバーのほうへ振り向いた。

「さあ、皆さん。戻りましょう」

 田中はまだぶつぶつ言っていたが、荒木は馬耳東風。また鼻歌を歌っていて、いかにも上機嫌といった風だったので、それ以上は田中も何も言えなくなっていた。さすがに奥さんは荒木に少し会釈していた。いつもは近くに寄られたくないと陽一も思っていたが、今は奥さんが少し気の毒になった。

 陽一は自分なら、間違いなく怒ったろうな、と思った。スーフィズムで修業すると、あんな風になれるのかなと、荒木の強さに感嘆した。田中という人間が見せる低劣さよりも、むしろそちらのほうに気持ちが奪われた。


 またバスに乗り込むと、バスはイマーム広場の近くに着いた。

 「バザールにご案内します。これでイスファハンの観光は最後です。中は混雑していますので、離れないようにしてください」佐々木が言った。

 入口辺りは、そんなに人で混雑しているとは思わなかったが、内部にはけっこう人がいた。

 「お店は観光客向けのものから、地元の人たちのためのお店などいろいろあります。分かり易いルートで行きますから、午後の自由行動のときでも、またおいでください。お買い物はそのときに。またイマーム広場の周辺にはチャイハネもあるので、ティータイムなどもどうぞ」

 中を進むと、あちこちから日本語で声をかけられた。

 「こにちわ、ワタシは千葉にいました」

 「いらっさーい、おまけしますよー、どーぞ」

 「まいど。べんきょうしまっせー。べんきょーべんきょー」

 荒木が通りかかると、それとは別に誰もが笑顔であいさつをしていた。

入口の近くには観光客向けの店が多いようだ。かなり高額そうなペルシャじゅうたんやイスラーム風の意匠の飾り皿、そして金細工…陽一がイメージしていたアラビアンナイトの世界そのまま、という様相だ。みんな店の人はにこにこしていて愛想がいい。そして、しきりにチャイを勧めてくる。つい手にとってしまう人も何人かいた。

 「みなさん、後でゆっくりお越しくださいね。とりあえず今は雰囲気だけお楽しみください」

 佐々木が再び声をかけた。

 さらに進んで行くと、先ほどから感じていた香りが一段と強くなった。前方にスパイスの店が並んでいる。山盛りになった色とりどりのスパイスは、頭にまで染み付くような強い香りとともに、異国に来ているという気分を高めてくれた。

そのあと、さらに家庭用品を売っている地域まで少し入って、それから元の道を戻り始めた。

 「さあ、これから少し歩いて昼食です」

 バザールの入り口から、少し歩いて入ったレストランは、かなり内装が豪華だった。木づくりの細工やミニチュアールなど、素晴らしい雰囲気だ。佐々木の説明によると、かつてのイスファハンの大商人の邸宅の一部を改装したものらしい。床には絨毯が敷き詰められていて、男性はみんなあぐらをかいてテーブルについた。

 「今日のお食事は、ポロウと呼ばれるイラン風のピラフと言うか、日本人の方には炊き込みご飯のほうが、印象が近いでしょう。それとスープ、ケバブなどです」

 田中夫婦は避けられているのか、自分から選んだのか、端の席にふたりで座っていた。陽一は、みゆと村中、それからまだ名前をよく知らない老夫婦とのテーブルについた。

 「いや~オモロイことばっかりですねえ」

 「ほんまやわ」

 ヤギ髭のご主人が、野球帽のような帽子を脱ぐと、細い目を輝かせながら言った。若くも見える奥様が続けた。

 「池谷です」

 相手の目をみながら陽一は明るく言った。

 「時武です。家内です」

 「いや~ずっとお役所仕事していたのですが、ようやく解放されて海外を旅しています。世界ってこんなにオモロいのかと実感してますわ」

 「あんた、昔はたった二日やて、旅行するのもイヤと言っていたやん」

 「しょうがないやろ。仕事に責任があったんやから」

 「責任ったって。あなたはハンコつくだけだったやん」

 「そやかて、それでもオレが休めば人さまにも影響するやろ。さぼってらんなかったからな。だいたい今の日本があるのは、オレみたいなのがたくさんいたからやで」

 「なーに言ってんのよ。リーマンショックのときだって、おろおろしていただけやんか。あたしが、あれはアメリカのクソ金持ちどもの陰謀やてすぐに言ったのに」

 「また、陰謀論かい。お前に勧められて読んだ本はどれもろくでもねーシロモノだったわ。正直、『お、これは』というのもあったけど、人間が霊的に進化する? だかなんだかのアセンションとか、アホとしか思えないことばかり書いているのもたくさんおったろ。アメリカの政府要人が、爬虫類型人類レプティリアンとしての正体を見せたっていう写真とか、悪いけど笑ったわ」

 「だーから、いつも言っているやんか。ちゃんと自分のリテラシーを働かせないと、理解できへんって。本当のことばかり書いたら、その人殺されてしまうやない、そのためにテキトーにウソ混ぜるんやて。逆に本当のことを知られたくないから、でたらめを含ませて、全体の信用を落とすように策謀する連中もいるってことも言ったやん」

 「なんでや。本当のことやったら全部ちゃんと書いたっていいやないか」

 「実際に、大勢の人が暗殺されているやんか」

 「リンカーンやて、ケネディかて…」

 「暗殺はされているかもしれんが、それが、お前が黒幕だという国際金融資本の仕業だって証拠ないやろ。事実ならきちんと告発されて、刑事罰受けるやろうが」

 「政府とぐるになっている連中がいっぱいいるんやから摘発されるわけがないやん。そんなことも分からへんの? 日本かて最近、アメリカに刃向って消された政治家がいるやん」

 「あーもう、うるさい。皆さんはどう思いますか? こいつが言うには、世界はひと握りの国際金融資本が支配しているって言うんですわ」

 「だって歴史上、今ほど世界が格差社会になっていたことはないんやで。一パーセントの金持ちと九九パーセントの貧乏人の世界になっているんやから。日本じゃまだ、そんなに目立たないけど、日本でも、困窮している人がたくさんいるやん」

 「お前なあ、人のこと心配したって…俺のお蔭で老後も心配ないし、それだからってショーモナイ本を読み漁るからや」

 壮絶な夫婦喧嘩のようだが、ふたりの掛け合いにはどことなくユーモラスな趣があった。


 「グローバル金融資本が世界を支配しているのは、陰謀でもなんでもなく事実ですよ。少なくとも一八世紀から始まっていることです」

 村中が下を向きながら話した。

 「やったー、たっちゃんアタマいいんだからー。東大出てるんだぞー」

 「国立大学だけど東大じゃないって。何度言えば覚えるんだよ。黙ってろって」

 それでも、ちょっとうれしそうに村中は言った。へ~国大出ているんだ。


 「一八世紀のロスチャイルド家の当主マイヤー・アムシェルは、五人の息子をヨーロッパの各国に派遣して、当時誰もが構築しえないほどの国際情報網を持っていました。

『ワーテルローの戦い』の翌日のことです。まだ、勝敗の結果が伝わらないうちに、ロンドンの証券取引所に姿を現した英国担当の長男は、青い顔をして英国国債を売り始めました。『あの、すごい情報網を持つロスチャイルドが、英国国債を売り出すということは…』。てっきりナポレオンに連合軍が負けたと思った投資家たちは、先を争って英国国債を売りまくりました。結果、英国国債は大暴落。それをロスチャイルドの指示を受けた者たちが裏で買占めました。戦争の勝敗は今では皆さんご存知の通り。ロスチャイルドは一年間の国家予算ほどに儲けたと言います。めでたしめでたし」

 「ほらー、この方だって知ってるやないの」

 「『コノカタ』じゃないよ、村中達也だよ。ワタシは宮本みゆでーす」

 村中がまた微かに、にやっとした。

 「その話はねえ、最近は日本でも割と聞くけど、伝説の類だとも言われてる。確かな証拠がないんやから」

 「あんたかて、役所から帰ってきて、金融関係は悪どいし、冷たい世界だってよく言ってたやん」

 「そりゃあ、金融関係の役所に四十年ずっといりゃイヤにもなるで。ただ、俺の体験したのは現実のことばっかりや。機密保持のため、今も喋れへんことが多いけどな。でも大手銀行があって大資本家がいたほうが、世の中は治まるんやて」


 銀行の先輩と同じようなことを言うなあ。

「まあ確かに、ぼくらなんて、世界になんの影響も与えら

れないですしね。ぼくも一時は、陰謀論系の話に熱中しました。でも、いくら本当のことを自分が知ったとしても、世の中、ほとんどはバカですから」

村中が口をはさんだ。

 「そやね。あまり話し過ぎると『このヒト、ヘン』とか思われるしね」

。「たっちゃん家には、難しい本もいっぱいあるんだよー。マンガとアニメだけじゃないんだよー」

 「お前は黙ってろって」

 …と言うことは、みゆは村中の家に行ったことあるんだな。

 陽一は別のことをつい考えた。

 「あなた、今度もっと話しましょう」奥さんが言った。

 「いいですよ」

 村中が答えた。

 「そりゃあ、俺だっていろいろ知ってるわ、リーマンショックで儲けた連中のこともな。でも、この人も言ってはるように『知ってた』ところでどもならん」

 うすら笑いを浮かべながら時武氏は言った。

 「まあいいです。食べましょう」

 村中は、また呆れるほどの食欲で黙々と食べ始めた。先ほどまでの饒舌がウソのようだ。

 陽一はリーマンショックのことを考えていた。銀行に入ってから数年目のことだった。その対応に必死になって、なんでそうなったか考える余裕もなかったが、少ししてから会社の同僚が「大詐欺」だと言っていたのを思い出した。

 「…いいか、そもそも低価格住宅の販売をしたサブプライムローンなんてのがおかしい。ずっと住宅価格が右肩上がりを続けるなんて、ありえないことが前提になっている。そんなことがないのは常識じゃないか。お前もそれくらい分かるだろ。それを格付け会社やアメリカ政府の金融関係の要人は『絶対大丈夫』と保証したんだ。

格付け会社なんて民営だし、そういうものに国際的に信用がある、なんて考えること自体そもそもおかしい。そして、アメリカの金融大手の連中は、サブプライムローンの証券が破綻すると儲かる証券、さらにその証券が破綻すると儲かる証券まで用意していたんだ。破産した会社のCEOなどは、莫大な退職金を貰ってとんずら。一応、形だけの事情聴取はあったらしいけどね。救われないのは世界中の中小の金融資本とおびただしい一般投資家だ」

 そのときは酒の席でもあり、ただ聞いていたが…


 そのことを時武さんのご主人に言ってみたが、

 「うんうん」とうなづくだけだった。

 銀行員だと言っても生返事だった。

 「これも美味しい! あ、これも。ピラフあっさりしているけど美味しいよ」 

 黙って食べ続ける村中の横で、みゆは本当にうれしそうだった。

 まあ、自分が考えたところでどうにもならないのは本当だろうな。政府や大企業に刃向っても勝てるわけはない。


 昼食が終わって、ホテルに戻ると自由行動となった。

 「バザールに行きたい方はご案内しますから、二時にこのロビーにお集まりください。夕食は七時からで、昨日と同じ場所です」

 佐々木が言った。

 陽一もバザールへ行くのに参加しようと思った。部屋にいたら、また気分が鬱屈してくるかもしれない。ひとりになることが少し怖くなっていた。

 二時十分前には、ロビーに戻った。その前にショップにも行ってみたが、あの女性はいなかった。残念。夢を見たのかとも思ってしまった。

 もう八人ばかりのメンバーが来ていた。村中とみゆ、森村親子、田中夫妻と吉田夫妻はいなかった。田中夫妻が来ていないのには、ほっとした。荒木もいなかったのは残念に思ったが。

 少しすると時計をずっと見ていた佐々木が言った。

 「さあ、もう時間ですし、来られていない方には『自由にする』と先ほど言われていますから、これで全員と思います。では、まいりましょう」

 ゆっくりと外を歩いていくと、行き会うイラン人の中に、「ハロー」とか「サラーム」と言いながら、にこにこして挨拶してくる人たちも少なくない。

 「六か国協議が進展しているせいか、さらに人々が明るい感じがしますねえ。キューバの次に、イランの旅が大ブームになるかもしれません。見どころが多いですし、食事も美味しいでしょう」

 佐々木が人々に挨拶を返しながら言った。

 「そうだねえ、いいとこに連れてきてもらったと思うよ」

 時武夫妻の旦那が言った。


 バザールには、ちょっと歩いたかな、くらいで着いた。

 「え~お買い物ですが、交渉をよくしてくださいね。店にもよりますが、言い値の半額が目安です。ペルシャじゅうたんは、空輸できますが、本当によいものはかなり高額です。少なくとも日本円で数十万以上のものでないと、あまり買う意味がありません。金製品はあまり安くないです。高額な商品の場合にはカードが使えますが、ほかはまずダメです。ドルの現金を使ってください。日本円で受け取る店もあります。

イスラーム装飾の小物のほか、衣類や布も手軽なものがおすすめです。悪いことをするショップはほとんどありませんが、よく品質は確かめてからお求めください。スパイスは持ち帰るのがたいへんですから、予めパックされているものがいいです。サフランは料理をする方にはおすすめです。日本よりずっと安く買えるでしょう。それからピスタチオですね。イラン名産です。殻を剥いたのもありますよ。

先ほどお連れしたのでお分かりでしょうが、日本へ来たことがあって日本語を話す人もいます。では、まいりましょう。私はだいたい皆さまのそばにいるようにします。最終的には三時半に入口のところにおりますから、そこで解散としましょう。お買い物を続けたい方、自由にされたい方はそのままでどうぞ」

 再び、なにやら混沌とした雰囲気の中へ入って行く。特に土産を買う気もなく、ふらふらと奥へ奥へと入り込んでいた。気がついたら、周りにツアーのメンバーはいず、地元の一般人のバザールになっていた。

午後も遅くなったせいか、人が多い。商店はどこも商品をあふれんばかりに置いている。日本の標準からしたら安物っぽいものが多く、ディズニーのまがいもののような商品や、映画の海賊盤のDVD屋なども目立った。陽一は人の多いところは本来苦手だったが、なにか妙に楽しかった。日本の大都会の雑踏のように、いらいらしている人が少なかったからかも知れない。みんな活気に満ちていて明るい表情をしている。

日本の縁日に子供の頃行った雰囲気と、どこか似ていた。品物のディスプレイも、前面にいろいろな商品を吊り下げていて、縁日のお面屋を思い出させた。

 …気づくと、もう集合の時間が迫っていたので、急いで戻ったら佐々木しかいなかった。

 「あら、君か。ほかの方たちはまだ来ないけど、もうこの時間で誰も来ないと流れ解散ね。もうちょっと待ってからイマーム広場まで行こうか」

 十分たっても誰も来ないので、ふたりは歩き出した。

佐々木とのんびり歩いていると、すごくリラックスした気分になった。もちろん麻子と一緒のときとは違ったが。でも、ちょっとうきうきっとした気持ちも感じる。バザールを出て、なんとなくふたりでイマーム広場まで歩んでいると、佐々木が言った。

 「どう? ちょっとデートしようか。お茶しよ」

  もちろん異存なし。イマーム広場に面したチャイハネの、テラス席に二人して座った。


「本当に美しい広場よねえ。あたしは世界中のいろいろな広場を知っているけれど、このイマーム広場の美しさはまた格別…」

「以前、ここで午後に自由行動の時間をとったとき、行方不明になってしまった七十代の男性のお客様がいらっしゃった。夜の七時になってもホテルに帰って来られないので、いよいよ警察に捜索願いを出そうか、と思ったところ、ようやく七時過ぎにホテルに帰って来られた。

さんざん平謝りされた後におっしゃったのが『私はここで迷いたかったのかも知れない』というひと言。えっと最初は思ったけれど、なんだか分かるような気もしたわ。だって本当にイマーム広場を中心として、イスファハンは魅力的なところだもの」

広場の草地には、ピクニックでもしているような地元の人たちがいる。今日は水曜だが仕事はないのだろうか。広場の周囲には昨日見たモスクやら宮殿が聳え、そちらをただ見ているだけでも豊かな気持ちになってくる。

「誰もかも迷いたいのかもしれないわね。その迷いにはいろいろあるけれどね。うれしい迷い、楽しい迷い、辛い迷い、許されない迷い…。でも、これだ! って決まってしまったら、かえってコワイかも。『これしかないと、迷わずに生きる』のも幸せかもしれないけど、息苦しくなるときもあるでしょうね。迷うのが人生なのかも。あ、スゴイこと言っちゃった」

自分は進学・就職路線に入ってからは迷わなかったと思うけれど、今になってとても苦しい迷いのなかにいる。でも、確かにみんな迷いながら生きているのかも知れない。

「近年の日本ではニートとか、引きこもりとかがふえていて社会問題になっているけど、みんな鋳型に嵌められて生きるのが辛くて、迷いたくなってしまうのかもしれない。欧米型の個人主義が定着してしまったのか、アメリカ型のお金主義が浸透したのか、日本では人と人の間がどんどん離れているみたいな気がする。それを感じると、自分から人との関係を断ちたくなるのかもしれない。

今じゃ隣近所でもろくに挨拶しないことが多いものねえ。人と人との繋がりがこうも薄くなると、思春期の人は苦しいわね。同じ世代とばかり話していても解決しないでしょ。だってほかのみんなも迷ってる真っ最中なんだから。まあ思春期に自我をつくるのは、誰でも苦しいのだけれど、相談できる相手も少ないから、なかなか自我をつくるヒントも得られない。ヘタすると、自我がちゃんとしないまま、そのまま年齢だけ大人になってしまって、後でずっと苦しむことになる。そんな人が今は多いみたい…

自我がちゃんとしていないから、自分が出せない。悪い意味で子どものまま。自分の感情のコントロールが出来ず、だから人との距離感もつかめず、ごく限られた範囲でしか、友だちがつくれない…」

「自我ってなんでしょうか」

「自分って意識かな。思春期をすんなり抜けてしまう人もいるけど、大概の人が悩むはず。君だって経験があるでしょう」

「う~ん、あまり悩んだことが…」

「それはいいのか、悪いのか…ね。私なんかたいへんだったわよ。中学生で登校拒否、高校ではヤンキーやったり、バンドやったり…」

「え~佐々木さんヤンキーやってたんですか?」

「昔は『つっぱり』とか言ったけどね。さんざん迷って、いろんなワルもやっちゃった。重い犯罪になるようなことはしなかったけど、ひと通りやっちゃったら、まあ落ち着いたわね。友だちも元ヤンキーとか多いけど、多少ワルだったとしても、自分から普通に戻った連中って信用できるわよ。優等生でずっときたヤツはけっこう平気で人裏切るけどね。

君は、職業はなんなの?」

「銀行です」

「うわっ、あぶねー。思春期にあまり悩まないで銀行勤めかあ。そのうち大犯罪やったりして」

「そんなこと言わないでくださいよ」

「でも…君って、妙に素直で明るいところがあって、ちょっと不思議な感じもあるわね。えーと、誰かに雰囲気が似ているのよね、あの、あれだ…俳優の笠智衆さん」

「あ…あの古い映画に出てくる、台詞を棒読みする人」

「いやねえ、天下の大俳優じゃない。なにかどことなくほんわかしたとこがあって、人の話を聞きながら吸い取っちゃうみたいなところが似ているのよ。これ、褒めているのよ」

う~ん、そうなのかなあ。

 

「佐々木さんは、なぜ旅行業を仕事に選んだんですか」

 「そうね、すごく格好よいことを言うと、映画の『ブレードランナー』って知ってる? 逃げ出した『レプリカント』と呼ばれるアンドロイドを抹殺する任務を受けて、ハリソン・フォード演じる刑事が追跡する話。ひとりずつ始末していくんだけれど、最後のひとり、ルトガー・ハウアー演じるレプリカントがとても強くて、ハリソン・フォードは追い詰められてしまう。でも、ルトガー・ハウアー演じる最後のレプリカントはハリソン・フォードを殺せたのだけれど、殺さなかった。

もしかしたら、自分たちの四年という寿命に比べて、はるかに長い人間の命は尊いと思ったのかもしれない。そして、話し始めるの。『オレは宇宙のさまざまなものを見てきた』…そして、宇宙の彼方で見たものについて語り出す…そして『でも、今すべては終わる…』と言って停止してしまう。なんかね、その場面にすごくロマンを感じてしまった。旅して人のなかなか見られないものを見るのっていいなって。死ぬときに、普通の人が見られないような景観をいくつも見たことを思い出せたら、安らかに死ねるかなってね」

 「カッコつけるとそんなところ。でも、今までもホントにいろいろな場所に行けて、いろいろなものが見られた、いろいろな人と出会えた。それだけでとても幸せ。何が現実に残ったかと言われたら、写真とかちょっとした記念の品物くらい。添乗員としての報酬以外、お金になってはいないし、今までの経験がこれからどう役に立つかも分からない。でも、嫌なこともあったけれど、素敵な思い出がはるかに沢山あって、それがなによりもかけがえのないものね」

 「旅行記でも書いてはどうですか?」

 「…実はあたしもそれは考えていて、もう、少しずつ書き始めている」

 「出版されたら絶対に買いますよ」

 「ありがとう。君が最初のファンね」

 「…ところで、ソウルメイトとかツインソウルとか知っていますか?」

 「あ、またラッキーがアヤシイ話をしたんでしょ。『ラッキー』って言うのはあたしの荒木さんの呼び方。ア・ラ・キからだけど、あの人にガイドしてもらうと、いいことが起きることが多くて、問題が発生してもなぜか上手く解決してしまうのよ。だから『ラッキー』(笑)。…もう、初めて会ってから一五年くらいになるけれど、本当に魅力的な人だわ。結婚はもうしないって言っているけれど、結婚してもいいと言われたら、あたしがプロポーズしたいくらい」

 「え~佐々木さん、彼氏いるんでしょう」

 「彼には悪いけどね」

 「ソウルなんとかというのは、悪いけれど私は信じない。前世とか縁とかはあると思うけれど、それで動かされるのはイヤ。人と会って、その人が好きだと思ったら好きになればいい。友だちになりたいと思ったら友だちになればいい。理屈なんて必要ないでしょう。

あたしの彼氏は五つ年下のスウェーデン人。もう、十年くらいかなあ、つきあい出して。ちょっと偏屈な人で、結婚なんて人生の無駄だって言うのよ。必要なときだけ一緒にいればいいって。一回、彼は結婚に失敗しているからなあ。彼のいるストックホルムで二ヵ月くらい一緒に暮らすこともあるんだけど、まだ結婚はしない。

お互いがどんな状態のときでも、酷く落ち込んでも、一緒にいられると本当に実感できたら、すぐ結婚しようって言っている。聞いた話では、ドイツ人は、正式に結婚するまで試験的に同棲するって人が多いみたいね。ちゃんと契約交わして。そういうのが本当は結婚の仕方として正しいのかも…でも、逆に電撃的なひと目惚れで結婚して、うまくいっているカップルもいるからなあ…こればっかりは『縁』だから分からないわね。」

「…でもね、しばらく離れていると連絡をよこすのはいつも彼。あはははは。のろけちゃった」

 「僕の同世代の同僚とか同窓のヤツでも、一緒に暮らし出して早くに別れてしまった夫婦が何組もいます。ずっと一緒にいると息苦しくなっちゃうとか、ひとりから聞きました。同じスペースのなかでずっとふたりきりだと、距離をどうとるのかさえ分からなくなるって」

 「今は個人の意識が強くなり過ぎちゃっているよねえ。まず大事になるのは自分の居場所。人のことはなかなか考えられない。近いところにいつもずっと同じ人間でいると、だんだんお互いの「違い」ばかりを探し始めて、ヒドイときはそれにやがて敵意が加わる。まあ親友でも、ずっと一緒にいると仲が悪くなっちゃうことってあるでしょ。ましてや男女だとね。

だから、彼の言う『お互い最低の状態でも一緒にいられる』って言うのは、確かに結婚するには必須な条件かもしれない。でも、昔の夫婦はそんなことを考えなくとも、なんとかやってきた。今回のメンバーのご夫婦にも、そういう方がいると思うわ。今、かなりの年配になっているご夫婦に聞くと、皆さんそれぞれたいへんだったとおっしゃるけれど、昔のほうがいろいろな意味でよかったのかもしれない。見合いでぱっと結婚しても、ずっと夫婦円満な人も少なくない。今の夫婦は、世界的に見ても我慢も足りないし、お互いを知ろうという努力もなくなったのかも。自分のことで精いっぱいで。離婚経験者がすごく多いものね。

子どもも重要ね。『子はかすがい』というのも事実かも。人間も動物だから、子孫を残すために生きているところがある。あたしはもう、いい歳になっちゃったけど、子どもが必要かもと、最近は歳取る毎に強く考えてる。まあ、子どもがいなくとも続いている夫婦もいるし、子どもがいても離婚する人も多いけどね」

「あ、それと顔で結婚しちゃダメよ。こう見えてもあたしは若い頃はけっこうもてて、イケメンとつきあったことも何度もあって、同棲したこともあるけれど、顔だけだと本当に飽きちゃう。どんなイイ男でも、顔以外に取柄が少ないと本当につまらない。それと、イイ男って女にちやほやされるのに慣れているから、性格が悪いのが多い。

あたしの友だちで、すごいイケメンと結婚したけど、DVが酷くて、殴られて鼻を折られたことがあるっていう女性もいたわ。女性の美人の場合も同じだと思うから、君も美人には用心なさいよ。だから、ショップの子のときもいろいろ言ったのよ。友だちの男性で、毛皮着させて一緒に歩いていると、周りのオトコにザマ見ろって言えるような美人と結婚したけど、その後の夫婦生活が酷くて、結局別れちゃったのがいるからね。『ザマ見ろ』と思っていたのが、逆に『ザマ見ろ』と言われる立場になっちゃったって。笑えない話だね」

「結婚って、たいへんなんですね」

月並みなことをつい言ってしまった。

「ほらー、そういうとこが笠さんなのよ」

 佐々木に笑われた。


 …それからは、佐々木の添乗での失敗話など、他愛もない話が続いた。話そうかと思っていた麻子のことは話さなかった。別に隠したわけではないが、まだ今は、麻子のことは荒木だけと話していたかった。

 「ありゃ。もう五時半過ぎてるよ。帰ろう」

 「はい」

 陽一はチャイの代金を払おうとしたが、佐々木に制された。

 「こら、君はお客だけど、もう私の弟みたいなもんだから、お姉さんに払わせなさい」

 「弟みたいなもの」と言われて、なんだか妙にうれしかった。

 ふたりはゆっくりと帰途についた。


…そのとき、近くに誰かが寄って来た。

「エクスキューズミー、アイアム ステューデント オブ マドラセィエ」

 佐々木の言うには「マドラセィエ」は神学校。生徒だと自己紹介したその男は、上下真っ白の、ゆったりとした服を身にまとっていた。顎からもみ上げは髭で覆われている。

 陽一のほうを見ながら、

 「私たちの学校を見学に来ませんか」と英語で言う。

佐々木を見ながら「残念ながら女性は連れていけないけれど」と言った。佐々木は

 早口の英語で男と何度かやりとりした。

「この人、すぐ傍の神学校の人だわ。ちゃんとした人みたい。行ってきなさいよ。いい経験だわ。あそこの神学校はいい人が多いから」

と言ってくれたが、澄み過ぎているとさえ思う男の目を見ていると、なぜか気持ちが引けてしまった。

 「ありがとう。でも、次の機会に…」

 「そうか。残念だが、またイスファハンへ来てくれ。そして次は私たちの学校にも立ち寄ってくれ」

 男は親しみやすい笑顔で答えて、握手を求めた。柔らかい握手だった。なんで警戒してしまったのかと、ちょっと後悔した。


 男が立ち去ってから、陽一は佐々木に言った。

 「…いや、なんか彼が純粋過ぎていそうで怖かったんです。まさか原理主義のテロ集団に入れられることはないでしょうけれど、優柔不断なまま、イスラームに入信させられたらどうしよう、なんて思っちゃいました」

 「バッカねえ。でも、なんか分かる気もするわ、あたしもイスラーム系の国と関わって長いでしょう。今まで、やんわりと何度も入信を勧められているわ。キリスト教と違ってイスラームは、あまり勧誘はしないのだけれど、仲良くなると言い出すの。

『タカコ、このままだと君は死んでも天国には行けない。それじゃ気の毒だ』とかね。あたしは『天国に行きたいから入信するって不純でしょう? 』って答えている。そのためだけに入信するのはイヤなので、いろいろ考えさせてと付け加える。大概はそれ以上言ってこない」

「日本人て無神論者が多いと言われるけれど、私は実は神様のことをいちばんよく知っているのは日本人じゃないかと思うわ。キリスト教徒やムスリムには、理屈ばっかりが先に立っている人が多いけれど、日本人には無意識に神を感じている人がたくさんいる。唯一神と多神教の問題だとかはあるかもしれないけれど、複数の神による、いろいろな不思議な現われについても、ひとつの神が違った現われ方をしていると考えることもできる…あら、君には難し過ぎたかな?」

「はい、すいません。よく分かりません」

 夕べの荒木の話と似ているなあ、と思いつつ、正直にうなづいた陽一を見て佐々木は大笑いした。

 「君って、本当に素直ね~」

 いきなり陽一は佐々木に頭を腕で抱え込まれた。佐々木の胸が頬に当たる。

 「誘惑しないでくださ~い」

 陽一も明るく答えた。

 「…でもね、純粋過ぎる人って確かにコワイかも知れない」

 陽一から手を離して、佐々木は少し遠くを見た。

 「もうかなり昔に、パレスチナへ行ったときだけど、自爆テロを企図するような過激なグループへのテレビの取材に同行したことがあった。そのグループの人たちは、みんな『澄み過ぎている』ような瞳をしていて、頭髪や髭を誰もが末端まできれいにそろえていた。人間らしい体温とか、ちょっと垢じみたようなところが全然ないのよ。

完璧なパーツで取り揃えられた、ある種のロボットみたいに思った。彼らの笑顔は、まったくあたたかさがなくて冷たい風が吹いてくるようだった。ちっとも安心できなかった。ああ、彼らならば平気で人を殺すなって思った」

 「分かるような気はします。昔、中学生のとき、新興宗教の集まりへ友だちに無理矢理連れていかれたことがあって、そのグループと同じような人たちに会ったことがあります。確かに彼らが笑顔になっても、こちらはちっとも安心できないし、逆になにかぞっとしました。笑顔という名前のつくられたマスクをつけたようで、相手に対して好意を見せているのではなく、自分のポーズのためだけの笑顔と言うか…」

 「そうそう、そういう感じ。たぶん、彼らは『自分』をなくす努力をしているうちに、自分の神さまへのイデオロギー以外何もなくなったのね。『神って言う名のイデオロギー』に占領されてしまったんだ。困るのは、神さまってもっとたくさんのことが一緒になっていると思うけれど、そのごく一部だけのことでアタマがいっぱいなんだわ。

…でも、君もいろいろ経験しているじゃない」

 「君は今が悩みの真っ最中みたいだけど、しっかりしなさいよ。悩みが深ければ深いほど、それに真っ向から耐えられた分だけ、きっと報われるから」

 佐々木は陽一の手を強く握ってくれた。

 「ありがとうございます。がんばります」

 「なんちゃって~」

 佐々木がとびきりの笑顔を見せてくれた。麻子の次に好きだ、と自然に思った。

 ほどなくホテルに着いて佐々木とは別れた。

 佐々木と話せてよかった。荒木と出会えて、佐々木と出会えて、なにか自分が豊かになった気がする。

後は麻子だけだ…

それもうまくいくような気がしてきた。本当に久しぶりで自分を取り戻した気分になった。「旅に出るのも悪くない」。時武さんが言った通りだろう。テレビでいくらいろいろなものを見たって現実に体験するのとは違う。まだまだ未知の世界はいっぱいあって、魅力的な人との出会いもたくさんあるのだろう。


 夕食まではあっと言う間に過ぎた。

夕食では、ウィンナーシュニッツェルが出た。牛のカツで本来はオーストリアの名物料理だ。

 「イランは、パーレビ王朝時代には、西欧の生活習慣がかなり入ってきていました。だから、今でも西洋料理もメニューにあります。豚肉料理はありませんけどね。ウィンナーシュニッツェルは、本当は仔牛の肉を使いますが、今回はおとなの牛の肉です。それはご勘弁ください」

 佐々木が説明した。

 老夫婦ふた組と一緒のテーブルについて、今晩はあたりさわりのない話に終始した。普通に団体旅行のお客の気分でいられた。


 食事が終わって、部屋に戻ったら「荒木教室」に行く時間だ。

 荒木の部屋をノックすると、

 「おう、入んなさい」とすぐに返事があった。

 「あのう、疲れてないですか」

 「ははは、ありがとう。山でのことだろう。君も人を気遣う余裕が出てきたらしいな。それがなによりだ」

 「でも、あれはヒドイっすよねえ」

 「いや、可哀想な人だ。ああして人に憎まれるほどに、彼は安らぎを失っていく。今は力と金を持っているようなのでよいだろうが、そのふたつがなくなったら、彼はひとりぼっちになってしまう」

 「でも、今は羽振りがいいみたいですよ」

 「今はな。なんとかして差し上げたいが、とても無理だな、ワシの力はまだそこまでない…」

 「まあ、ちょいとムっとしたのも事実だ。わはははは」

 荒木は笑って見せた。

 「自分には素直にならんとな」

「…でも、ああいう人がいると、人々の善性を引き出すきっかけになることもある。また、ほかの人たちが団結する元となるケースもある…善悪二元論はキライだが、悪魔がいるから神がいる、とも考えられるからな」


 グラスのウイスキーを渡された陽一は、銀行で先輩から聞いた話と、今日の昼食のとき、時武氏や村中から聞いた話とを話した。

「それは確かにある。ごく一部の人間が世界を支配していること、多くの人たちが実は気づかずに搾取されていて、それどころか、もっとはっきりと地獄のような苦しみを与えられながら搾取され続けている人たちもたくさんいることは」

 「『ダーウィンの悪夢』という映画を観たことはないだろう」

 「『進化論』のダーウィンですか?」

 「ああ、そうだ。ワシが観た映画の中でも、最も辛い映画のひとつだ。ダーウィンの進化論を『弱肉強食』というような意味あいのものと解釈して皮肉ったタイトルだ」

 「君も日本でよく食べているたろう、白身魚のフライ」

 「ハンバーガー屋でもありますよね」

 「あれの多くはアフリカのビクトリア湖で獲れている。しかし、それに関わる漁民の暮らしは悲惨なものだ。生ごみが放置され、子どもたちは不潔極まるその場所で遊んでいる。そして、ナイルパーチと呼ばれるその大きな白身魚をいくら獲っても、加工する工場で一日十時間以上働いても、人々の暮らしはちっともよくならない。低賃金で働かされるのだが、ほかに職もない」

 「そして、白身魚を売って得た金はどうするか。政府がまとめて欧米から武器を買う。内戦が絶えないからな。しかし、その内戦は貧困から来ている。白身魚は安くないと売れないから、賃金はあまり上げられない。でも、いくら我慢して稼いでも最終的には武器になってしまう。貧困から少しだけ逃れるには兵士になるしかない、兵士は戦争をしないと商売にならない」

 「まったく地獄のようなサークルだ。しかし、これを仕組んでいる連中がいる。武器を売って儲ける欧米の連中だ。日本も武器輸出を始めたらしいが、それはこういう人たちをさらに苛め、虐げるということにもなるのだ」

 「そうなんですか…ちっとも知らなかった」

 「いや、ちょっと世界情勢を判断できる人間だったら、知っているはず、気づいているはずだよ。いろいろな輸入された安い食べ物、安い商品がどこから来ているのか。気づいてもそれを買うのを止められないのは大半の場合、そうしないと自分も暮らしていけないからだ。

それならまだいいが、不当に搾取された結果からの安い食べものや安い商品を扱って儲けるのはさらによくない。何兆円も資産を持っても飽き足らない人間への道のりだ。でも、安い理由を知って買うだけでも実は共犯者なんだよ」

 今までにない荒木の怒りが感じられた。

「しかしな、ワシもたまには美味いものが食いたくなる。少し多く金を出しても。そんなことじゃ清貧を尊ぶスーフィとは言えないな。搾取の結果のような、異様に安いものは食べないようにしてはいるが…でも、売れなければ売れないで、貧しい人々はさらに飢えるだろうとも思う」

 荒木の肩が少し落ちた。

 「…こう考えると、自分も農業など食糧に関わることをやるしかないかと思うが、農業には既に『ヤツら』の手が深く入り込んでいる。例えば、今では世界有数のグローバル資本傘下の会社が、ほとんどすべての野菜や果物の種の権利を押さえている。

アメリカは、世界最大の農業国だ。昔から純朴な農場主もたくさんいる。しかし、彼らも今はたいへんだ。さっき言った大企業が「一代限りの自殺種」という農産物を育て、風に飛ばされたその花粉を、個人の農場主の畑にあった在来種が受粉する。すると企業は告訴する。その結果、アメリカではほとんど大企業が勝訴する。信じがたいことだが。そんなことなどで、人のいい大農場主は経済的に追い詰められ、ヤツらの傘下に無理やり入れられたりする。

ヤツらは開発途上国でも、自分らの種をほとんど無料で押しつける。その種は、初めは豊かな収穫をもたらす。しかし、最初だけはよくとも、翌年からは奴隷だ。種を売ってもらわないと畑仕事ができない。農薬も必要だ。そして、売ってもらった種が育っても、次第に害虫が農薬に耐性を持ってまた食い始める。そのために新しい高い価格の種や、新しい高価な農薬を買わなければならない。そして、そのことを見抜いて在来種だけで農業を続ける人たちの畑へ行って、彼らは自分らの自殺種を近くに撒いて、無理やり交配させる…」

 「他人事だと思ってはいけない。今、日本の玉ねぎのほとんどすべては一代種だ。種を売ってもらえなくなったらどうするのか。また、日本はただでさえ食糧の自給率が低いのに、TPPに賛同しているらしい。TPPはアメリカなどの大企業によいだけだ。ISDN条項を知っているか、TPPに入ってしまうと大企業の訴訟を国家が受けやすくなる。企業の利潤活動を国が阻害すると敗訴する。既にその実例がたくさんある。

もっとも日本は戦争に負けてから、ずっとアメリカに(古い表現だが)『貢ぐ君』だからな。アメリカに国防を任せたから、日本は経済的に繁栄したという。でも、『思いやり予算』だかなんだか知らないが、在日アメリカ軍に日本が戦後ずっと支払ってきた金の総額が、日本国の負債とほぼ同額という説もある。そういう話で言えば、消費税導入以降のその税額の総計と、日本での大企業と富裕層の減税額もほぼ一致するようだ」

 今日の荒木の話し方は、今までにも増して激しかった。

 「はっはっは。こういったことは事実なようだ。でも、確かに誰もどうもできない。広く人々が奮起しないと無理だろう。いっそヒトラーのようになって、こちらから操縦しまくってやろうと、ワシでもときに思う」

 「映画の話から始めたから、もうひとつ映画の話をしよう。『ザ・コーポレーション』という作品だ。一時は世界的にも注目されていたマイケル・ムーアという映画監督の師匠筋が原作を書いて、それを映画化したものだ。『企業』というものに人格があるとして、それを判定するという内容になっている。

さて、企業の人格だが、資本主義のあるべき姿を考えたら、マトモなわけはない。『永久にさらなる利潤を追求しなくてはならない』のが資本主義のテーゼだからな。人間本来の向上心と重なって、それはどこまでも進んで行く。進化しなければいけない、もっと優れた存在にならなくてはいけない。そして効率、数の大きさをひたすら追求する。

…株式という、また恐るべきシステムもあるから、そのためにも利益確保が必要だ。株主には配当を出さなければいけない。そうなると企業は『いかれポンチ・サイコ』になるしかない。どんなことがあっても、成長し続け、法にふれない限り、あらゆる手段を行使して利益をふやさなければならなくなる。だから搾取や非道・無道をしなくてはならなくなるのだ。

まあ、でもこの映画の頃はまだよかった、大企業のCEOが映画の中で一般の人たちとも会話していた。そのCEOは思いのほか、善意を感じさせる人だった。リーマンショックの時のアメリカのCEOの連中を知っているだろう。サイテーのヤツらだ。自分らだけ巨万の富を得て、さっさと逃げた。告訴されても、政府もグルだから決定的には裁断されず、のらくらとやり過ごした。こういう連中によい世界が、ほかの大多数にとっていいわけはないだろう」

 「はい」

 荒木の怒りがあまりにも大きいので、陽一は小さく答えるのが精一杯だった。

 「分からんなあ。なんで彼らが一生使いきれないほどの富を得ても、まだ欲しがるのか。ワシなんぞは、一千万円もらえれば、いや、もっと少なくもていい。イランにいる限り、十分に食っていける」

 「社会主義が破綻するととともに、資本主義も破綻したのだ。しかし、誰も代わるものを見つけられない、見つけたくないのかもしれない。そして、社会主義から資本主義に移行した国々の人々もどっと資本主義の下に押し寄せて、はじめの頃はよかったが、やがて資本主義全体がにっちもさっちもいかなくなった。一部の大企業と富豪の下に資本が集まる傾向がますます顕著になったからだ。経済が順調に流れるためには、豊かな中産階級が必要だ。しかし、中産階級の多くが貧困階級に転落していっているのが現状だ。

 「ネットが機能し始めてから、金融市場も加速した。瞬時に、かつ容易に世界中を数字となった金が流通するからな。その結果、持つ者と持たざる者の格差はさらに加速した。大企業と一部の富裕層がネット上で持っている金は、もうずいぶん前から実際の通貨流通量より、はるかに大きい。これがいっきに動いたらすべては破綻する。銀行勤めだから分かるな」

 「はい。でも実際にはそうはならないと聞いています。何重にもさまざまなガードがなされているから」

 「しかし、リーマンショックのようなことを企まれたらいとも簡単に覆されるぞ。経済破綻、戦争…相場が下がれば、持てる者は買い漁るだけだ。そして新たな利益はまた、すべて金融市場に回してしまう。金は下へは流れず、ますます経済格差は酷くなる。本来、金融操作だけの不労所得は重税を課すべきだ。しかし、どの先進国も及び腰だ。金融資本と結託しているからな。しかし、一般庶民は否応なく増税され、それも年々じわじわと上がっている。

医療も同様だな。製薬業界もほぼ大企業で寡占化されている。でも、医療の現場では、低賃金で働かされるスタッフがふえている。…銀行も今はそうらしいな」

「はい。正社員の比率はどこも落ちているようです」

「契約社員やアルバイトなど、企業の都合のいいように働かせられるようになってしまったからな」

 「また、近年では大企業は一般人の生活インフラにも踏み込み始めた。ネット上の無際限に大きくなった金が危ないのはよく分かっているからな。郵政は元より、水道事業もそうだ。先進国でもすでに、水道がほぼ民営化された国がある。気づいた者が声を出しているのにもかかわらず。

民営化のいちばんの問題は、企業化されると、資本主義の原則として『利潤』を追求する、いや、しなくてはならないということだ。水道事業は『人々に安価で安全な水を提供する』のが第一であるはずなのに、そうはいかなくなる。手持ちの土地を転売したりすることに夢中になったりする。

水道関係ではもっと酷いこともある。中米のある国では、アメリカのある元閣僚と密接な結びつきのある企業が、『雨水』の利権を買い占めた。さすがにこれは国民の猛反対で撤退したがね。数年前には、日本の現役閣僚がアメリカの保守系の会議に出て、はっきりと『日本の水道事業は将来民営化します』と話している映像がリークされている。売国奴だな」

 

 「…こういうハナシをしだすと、またキリがないが…ついでながら、君は世界経済のウラ話はよく知らないようだから、それも少し話してやろう。FRBは知っているな」

 「はい。連邦準備制度ですね。アメリカの政府機関で日本銀行のようなものでしょう」

 「はっはっは。やっぱりな。大間違いだ。やっていることは日銀と同様だが」

 「?」

 「あれは政府の機関ではない。金融関係の有志による私的機関だ。もっともアメリカ人でも、そのことをよく知っている人は少ない。まあ実質は銀行家の寄合とでも言っておくか」

 「ロスチャイルド家の言葉でこういうのがある。『司法権などいらない。我に通貨の発行権と管理権を与えよ』というものだ。簡単に考えてみなさい。コインはともかく、紙幣の生産コストなどタカが知れている。それを発行・管理することだけでどれだけ優位に立てるか」

 「はあ」

 「まったく。銀行勤めをしているからには大学で経済学をやっているはずだろう」

 「ケインズだの、アダム・スミスだの、そういう理論は覚えたんですが。本質的な話は…」

 「まあ、そんなものだろう。世界中の人間でお金や銀行というものの本質を考えた人は驚くほど少ないからな。いや、考えさせないようにしているのだろう。明日はその話でもするか。

しかし、イスラーム神学の徒が銀行員に経済の話をするなんてヘンなことだな」

 「ああ、もうこんな時間だ」

 一時前になっていた。

 「おっと酒の残りが少なくなった。明日は君のボトルで呑もう。そうそうロスチャイルド家の話だが、元々ドイツのフランクフルトのユダヤ人居住区ゲットーにいた連中が、何世紀も超えた今も家系を保ち、アメリカの、すなわち世界の金融界に君臨しているのは事実だ。では、おやすみ」

 …考えたら、経済学を勉強し、銀行勤めのくせに、お金のことや銀行の本質なんてまともに今まで考えたことがなかった。誰も教えてくれなかった。


翌朝は、やはり眩しいほどの晴天だった。アザーンでも起きずに、ぐっすりと寝て七時に目覚めた。夢も見なかった。麻子失踪以来、こんなに晴れ晴れとした気分の朝は初めてだった。荒木と佐々木にどれだけ癒されたことか…ふたりと話したこと、聞いたことはあまりに多くて、いささか頭のなかがぐるぐるとまだ回っている感じはしたけれど…


 今朝はゆったりと湯船に浸かり、スーツケースを八時にドアの外へ出し、そのまま朝食をとりに行った。出発は八時半だから、急がないと。

 優がレストランから出てきた。

 「おはようございます。今日もいい天気ですね」

 「おはよう」

 「すいません、お先に」

 いいなあ、屈託のない笑顔で。近親…なんてやっぱりありえないよな。昨日は目立ったこともなかったし。


 イラン式の朝食にも慣れてきて、ナン二枚と白い、塩辛いチーズ、そしてチャイで簡単に済ませた。

 さあ、いよいよ麻子のいるシラーズだ。


 ロビーに行くと、十分前だったが、もう半数くらいの人がバスに乗り込んでいた。

 「おはよう」と佐々木に声をかけられた。

 「彼女に会っていかなくていいの?」とショップのほうに目くばせしたが、

 「いやーもういいです」と答えた。

 


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