夏休みの思い出
「どういうこと……?」
夏穂はもう一度、目の前の光景を確かめるように見た。
相変わらず、優志の部屋は生活感がなく、殺風景なままである。
優志が返事をすることはなかった。
夏穂は、優志に嫌われたのではないかと思った。
しかし、実際は、そんなことはなかった。
優志は、そう簡単に夏穂を嫌いになるような人間ではない。
むしろ、自分が夏穂に嫌われてるのではないか、と心配していたくらいだ。
お互いが、勘違いをし合っていたのだ。
「ゆうしっ。何か理由があってしたことなんだろうけど、それならそうと、理由を聞かせてもらわなきゃ。納得ができないわ」
母は言う。
夏穂も、その真意が知りたいと思っていた。
しかし、優志はその理由を語ろうとはしなかった。
「俺、今日の夕飯……少しでいいから」
話を逸らすように言う優志に、母は呆れた様子を見せた。
「何を言ってるの?」
母は部屋からそっと姿を消し、
「お父さんが帰ってくるまで、片付けておいてちょうだいね」
母の姿が見えなくなると、残された夏穂と優志の二人だけになった。
この閑散とした部屋に、二人の姿はよく目立った。
優志は夏穂を見ることもなく、何処か空虚な空間を見つめていた。
夏穂は優志の背を見つめながら、話しかける。
「優志さん……」
自分で発したその声が、どこか切なく胸に響いた。
優志はきっと返事をしてくれない。
そう、思ったからだ。
優志はやはり、返事をしなかった。
相変わらず、掴み所のない空間を見つめている。
「あの……私……ごめんなさい」
その声は、今にも消え入りそうなほど心細い声だった。
頭の中では元気で活発とした声も、実際に出してみると全然違うことに気づく。
やはり、何事も思い通りにならないものだ。
しばらくして、優志は首を横に振った。
「俺の方こそ」
そう、確かに夏穂は聞き取った。
「いただきます」
家族みんなが手を合わせる中、優志だけは寂しそうな表情でいる
更に、茶碗に盛られたご飯の量ときたら、驚くものだった。
食い盛りの高校生男子が食べる夕飯とは、到底思えない量の少なさだった。
「あんた、正気?」
瑞季が言う。
優志は答えず、その少ないご飯を食べ進める。
瑞季は、分かり易い溜息を漏らす。
「いつも、優志の考えてることは検討つくんだけどなー」
瑞季は、優志の顔を見つめる。
優志は目を合わそうともせず、ただ、箸を動かす。
「今回ばかりは、何考えてるか分かんないんだよねー」
母は笑った。
「ほんとね」
母は続けた。
「どういうことなの?優志」
「ごちそうさま」
優志は、母の言葉をすり抜けるように、華麗な無視をした。
そこには嫌味がないので、好んでしている訳でもなく、ただ、応え様がないように、夏穂には思えた。
優志は、茶碗を流し台まで持っていくと、そのまま二階へと姿を消した。
優志がいなくなった後の食卓、瑞季と母は顔を見合わせた。
「あの子、一体何のつもりかしら」
「さぁ?」
瑞季は、他人事のように言う。
「ごちそうさまでした」
夏穂も同じように、流し台まで食器を運ぶと、優志の後を追いかけるように、階段を登ろうとする。
「待った」
瑞季が呼び止める。
夏穂は、そっと階段から降りて来る。
「そっとしておきな」
瑞季が言う。
夏穂は考える様子を見せた後、静かに瑞季達がいるリビングへと戻った。
それから、リビングのソファーに座り、静かに本を読んだ。
夏穂は、昔から本を読むのが好きだった。
というのも、学校の昼休みはいつも一人なので、図書室で本を読むのが日課だったからだ。
本に集中すれば、嫌なことも全て忘れられる。
物語の中の世界は、いつも静かにそこにある。
幸せな物語も、不幸な物語も、現実世界のように、急な変化を遂げたりはしないのだ。
だから、恐れることはない。
不幸な物語なら、絶対にそれ以上は不幸になることがないと、約束されているのだから。
しおりが挟まれた続きを読もうとするも、夏穂は続きを読むことができなかった。
いくら目で追っても、頭の中に入ってこない。
やはり、優志のことが気掛かりだった。
「テレビでも見る?」
母が屈んで、優しい笑みを見せたが、夏穂は囁かな微笑みでかぶりを振った。
「大丈夫です」
「そう」
母は呟くように言い、それからカーテンを開けた。
夏穂は、その窓の向こうに視線を移す。
「わぁ」
思わず、感動の声が漏れた。
暗闇に生える明るい月は、とてもとても綺麗だった。
朝、目が覚めた。
夏穂の視界に飛び込んだのは、真っ白な月だった。
ゆっくりとソファーから起き上り、窓の近くへと歩み寄る。
そこには、白い月の形をした、付箋が貼られていたのだ。
「優志さんだ」
証拠がある訳でもないのに、夏穂は確信的に、そう思った。
そして、その付箋に書かれた小さな文字を見て、夏穂は再度確認した。
そこには、小さな文字で「ごめんね」と書かれてあった。
また、「夏穂ちゃんと、ちゃんと話がしたい」と。
夏穂は、小走りで二階へと駆け上がった。
そして、ある扉を、勢いよく開ける。
そう、そこは優志の部屋。
「うおわっ」
優志の背中がビクッと動いたのが分かった。
「ノックくらい……してください」
優志がヘラヘラと笑った。
よかった。いつもの優志さんだ。
「すみません」
夏穂は続ける。
「優志さん、これ……」
優志に付箋を見せつける。
優志は分かったように頷き、「うん」と返事する。
「話、聞かせてください」
夏穂の真剣な声に、
「座って」
優志は、座布団もない床を指した。
「はい」
夏穂は、ゆっくりと優志の元に近づき、床に座った。
「部屋の物は?」
夏穂が聞くと、
「車庫に」
優志は答えた。
「お父さん、不審に思っただろうなぁ」
優志は、クスッと笑う。
「まぁ、お父さんと顔合わすこともないしね」
「はい。私も、優志さんのお父さんのことを、まだ一度も見たことがないので……」
優志は言った。
「そのさ」
夏穂は小首を傾げ、優志の横顔を見た。
「“俺のお父さん”って言うの、無しね」
「え?」
「“俺の”じゃなくて、“夏穂ちゃんの”でもあるでしょ」
夏穂はハッとする。
そして、穏やかな笑みを見せた。
「家族、ですね」
「うん」
優志も微笑んだ。
「家族」
夏穂は、その言葉を噛み締めるように、優しく胸に抱いた。
「俺さ」
優志は、今までの行動の、真意を語ろうとしていた。
「夏穂ちゃんの気持ち、分かりたかったんだ」
「はい」
夏穂は、ゆっくりと返事をする。
「いや、分かろうとしたんだ。ほら、夏穂ちゃん、言ったじゃん」
優志は、夏穂に横顔を見られていることにも気づくことなく、何処か遠くを見つめている。
「………「弱い立場の人を見捨てるなんて、俺らしくない」って」
夏穂は、ハッとしたように優志を見る。
そして、寂しそうに頷く。
「俺らしさって何だろう?」
優志は、独り言のように呟いた。
夏穂は真っ直ぐに前を見据え、
「優志さんらしさは……」
それから、微笑んだ。
「優しい所です。たぶん、私が今まで出会った人の中で、一番かな」
「優しさ?」
「はい」
夏穂は頷き、
「後、一途な所。迷いがなくて、いつも太陽のように眩しくて……」
「いや、俺……全然、そんなんじゃないよ」
優志が微かに笑うのが聞こえた。
「本当ですよ。そんな優志さんに、みんなが付いて行きたくなる。私も……」
思わず、優志は夏穂を見た。
二人の視線が交差した。
優志は、すぐに視線を逸らした。
「でも、優しさが俺らしさであるなら、俺は、気持ちを分かってあげるべきだと思った。夏穂ちゃんのことも」
優志は、申し訳なさそうに言った。
「あのおじいさんのことも……」
「優志さん……」
夏穂は、口の中で呟くように言った。
「俺は、恵まれてたのかもしれないな」
優志は言った。
「今まで、俺は小さな限られた世界の中だけで自分を見てて、その中では、俺は決していい生活を送っている訳ではないと思ってた」
夏穂はただ、じっと黙って、優志の声に耳を傾けていた。
「でも、夏穂ちゃんに出会って、やっと気づいた」
優志は、顔を見上げた。
そして、しっかりと、夏穂の方を向いた。
夏穂も、優志と目を合わせた。
今度は、視線が交差することはなかった。
「夏穂ちゃんが気づかさせてくれたこと。俺は、幸せなんだってこと」
優志は笑った。
とびきりの笑顔で。
それは、見た人誰もが「幸せな人だ」と思うだろう。
「そう、俺は、自分自身が慎ましい生活を送ることによって、貧乏人の気持ちを分かろうとした。その結果、大切なことに気づくことができたんだ」
優志は、夏穂の手を取り、握った。
夏穂は驚き、思わず顔を赤らめた。
「夏穂ちゃん。ありがとう」
「えっ」
夏穂の顔はさらに赤くなり、優志を直視することができなくなっていた。
思わず、顔を逸らす。
「私、何も……」
「ううん」
優志はかぶりを振った。
「夏穂ちゃんの存在は、俺にとって大きいんだよ」
夏穂は驚いたように、目を丸くする。
「だから、これからも家族であってほしい。俺の、大切な……」
優志のストレートな言葉が、強く、夏穂の胸に響いた。
「はい!!」
夏穂は未だに赤い顔を上げ、優志を見た。
そして、向日葵のような笑顔を向けた。
あれ?何だか、前よりも自然に笑えてる!
いつの間にか、夏穂は笑顔も成長していたのだ。
それは、優志と一緒にいることによって。
「おはようございます」
「おはよう」
二人は、互いに顔を見合わせて微笑み、挨拶する。
母達は、その光景を不思議そうにまじまじと見つめていた。
「優志、今日のご飯は?」
母が聞くと、優志は笑顔で言った。
「大盛りで」
「えっ。大盛り?」
母は、驚いたように聞き返す。
「だって、家にはご飯が用意されてるんだから。食べれるだけ食べないと損でしょ」
優志は爽やかな笑みを見せた。
夏穂も微笑んだ。
「そうですね」
「何か、よく分かんないのー」
瑞季が言う。
母はクスッと笑って、
「まぁ、いいじゃない」
それから、カーテンを開けた。
夏の黄色い日差しが差し込んで、夏穂達を包んだ。
窓枠に吊るされた、風鈴が涼やかな音を奏でる。
「今日で、夏休みも終わりね」
母は、寂しそうに言う。
「はい」
夏穂は、窓外に目を向けつつ、寂しそうに言う。
「ごめんね。何か全然、思い出作りできなかったね」
優志が笑い、言う。
「いいんです。楽しかったですよ。優志さんとの夏休み」
優志は、一瞬顔を赤らめた後、穏やかに微笑んだ。
「それなら、今からしてきたら?」
母も、穏やかに微笑んだ。
その微笑み方は、優志にそっくりだった。
「夏休み最後の思い出作り」
「おう」
優志は明るい返事をする。
「行こう。夏穂ちゃん」
夏穂の手を取り、立ち上がった。
ピンポーン
インターホンの音に、皆、顔を見合わせる。
「あーあ」
瑞季が残念そうに言う。
夏穂は何のことを言っているのか分からず、不思議そうに首を傾げる。
「おにいちゃぁん!!」
この声は……。
聞き覚えのある声に、優志が咄嗟に駆けつける。
「るー!」
瑠流は、無邪気に笑った。
「えへっ」
優志は、瑠流を抱き締める。
「るー!会いたかったぞ~!!」
「おにいちゃん!くるしいよー」
瑠流は優志の腕の中で、ジタバタする。
「ロリコン馬鹿」
瑞季は溜息をついて、呟く。
「夏穂ちゃん、二人でお話でもしてようか」
瑞季の気遣いを察知した夏穂は、顔を赤くし、頷く。
「はい」
「夏穂ちゃん!!」
優志が戻って来る。
夏穂は振り返る。
「ごめんね。急にるーが来たもんだから」
「いえ」
夏穂は、至って冷静な素振りを見せる。
「夏穂ちゃんも、るーと三人で出かけない?」
「えっ」
夏穂は、少しの間考え込む。
「まぁ、散歩みたいなもんで、特別何処かに行くって訳でもないんだけどさ」
「いいんですか?私もご一緒して」
夏穂の問いに、優志は笑顔で答えた。
「もちろん」
三人は、手を繋いで道路を歩いた。
真ん中の瑠流は、ご機嫌に鼻歌何か歌っていたりする。
「るー、機嫌いいなー」
優志が独り言のように呟く。
先程から黙っている夏穂を気にかけるかのように、優志は声をかける。
「夏穂ちゃん、大丈夫?」
夏穂はぼーっとしていたのか、ハッとし、優志の方を向く。
「暑いからさ。気をつけてね」
夏穂は、降り注ぐ太陽を仰ぎ見る。
「るー、もう疲れたー。喉渇いたー」
「よし、休憩するか」
ちょうど、小商店前の自動販売機を前に、足を止める。
優志はポッケの中を手探りしながら、
「るー、何がいい?」
優志は、いくらかの銀貨を取り出す。
「うーん……」
瑠流は、ジッと自動販売機と睨めっこする。
「俺、コーラ!」
優志は迷うことなく、自動販売機のボタンを押す。
「夏穂ちゃんは?」
「えっ。うーん……」
夏穂はしばらく考えた後、
「優志さんと同じの」
「オッケー」
優志は、コーラのボタンを押した。
「るーも!!るーも同じの!!」
瑠流が、縋るように言う。
「はいはい」
優志は笑いながら言い、瑠流にもコーラの缶を手渡した。
「へへっ」
瑠流が何だか得意げに笑い、
「おいしいね」
「うん」
優志も笑う。
カシャッ
カメラのシャッター音に、優志と瑠流は顔を上げる。
「夏穂ちゃん、それ……どうしたの?」
「はい。お母さんが、思い出を撮って来いって。渡してくれました」
優志は、カメラをまじまじと見つめ、
「それ、大分昔のやつじゃん。俺が生まれた時からあったぞ」
「そうなんですか」
「うん。ちゃんと使えるんだな。長持ちしてんなー」
優志は、感心したように言う。
夏穂は得意げに笑って、
「最高の一枚が撮れました。今日の私は、二人のカメラマンです」
「るー、可愛く写ってる?」
「うん」
夏穂は、優しい笑みを向ける。
「とっても」
「ほんと?わーい」
優志は嬉しそうに笑った。
瑠流が、夏穂にも心を開けるようになっていると感じたからだ。
「つぎ、どこいくのー?」
瑠流の問いに、優志はしばらく考えた後、
「向日葵畑なんてどうかな」
瑠流は、満面の笑みを見せた。
「いくー!!」
それから、また三人は歩き出した。
夏穂は、幾度か立ち止まり、シャッターを切った。
ようやく、向日葵畑に辿り着いた。
「わぁ」
瑠流が、思わず声を上げる。
目の前は、畑一面の向日葵が咲き誇っていた。
風に吹かれる度、踊るようにゆらゆらと揺れていた。
「わーい。きれーい」
瑠流はすっかり嬉しくなって、向日葵畑一面を走った。
「おーい。向日葵踏んづけるなよー」
優志が声高らかに言う。
「大丈夫かな」
そして、心配そうに笑った。
「無邪気ですね」
夏穂は、微笑んだ。
「うん」
優志は、青空を仰いだ。
夏の入道雲が、そこにはあった。
しばらくして、瑠流が戻って来た。
「写真、撮ります」
夏穂はカメラを構える。
優志が引き止めるように言った。
「いや」
「今度は、俺が夏穂ちゃんを撮る番」
夏穂は恥ずかしそうに笑って、優志にカメラを手渡した。
「お願いします」
「るー、夏穂ちゃんの隣、立ちな」
瑠流は言われた通り、夏穂の隣に立った。
「て、つなごう」
瑠流の一言に夏穂は顔を緩め、
「うん」
瑠流の小さな手を握り返した。
カシャッ
優志はシャッターを切った。
向日葵畑を背景にして、二人の姿をカメラに収めた。
夏休みが終わりを告げた。
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
第七章もよろしくお願いします☆