3
大豊君を好きになった日。あの日はいつかのように雨だった。
帰り道で突然雨が降り出して、バス停までの近道に公園へさしかかった時、それに出会った。
行く手に眼前と立ちはだかる疣状の斑皮膚。未知との遭遇が、巨大生物に錯覚させた。戦慄した。
これは……イモリだっけ、ヤモリだっけ、タモリだっけ……。なぜこんな所に、と私は硬直した。
巨大なグリッとした瞳が、私の靴の倍はありそうな奇怪な生き物が今、目の前で、獲物を狙うかのように私を見つめている。
「……ひっ」
へんな悲鳴がかえってこのイモリを刺激した。ヤモリは私目がけて素早い動きで這い寄り、足にはい上がってきた。
「キャー! 助けてー! タモリがー! タモリがー!」
パニックに陥った私はその場で暴れるしかなかった。
「おい! おちつけ!」
両頬をぴしゃりと軽くはたかれてはっとした。気づけば心配そうに私を見下ろす大豊君がいた。
「誰もいない雨の公園で一人でタモリ言って何踊ってんだと思ったら……」
ああああ、これが彼が私に対する第一印象……。言葉にすれば一層奇怪な光景になる……。
私はヤモリの恐怖が去って安心したのか泣いてしまった。もふんとした大豊君の胸を借りて。ふっこりした感触が安心感を倍増させてくれる。
私が落ち着くのを確認して、大豊君はイモリを腕に抱いて、怯える私に笑った。
「何もしないよ、こいつは。多分誰かに飼われてるのが逃げ出したんだろ。この雨で寒くて暖かい所に近寄りたくなったんだよ」
「食われるかと思った……」
ぶはっと大豊君は笑った。その顔を見て、心臓が跳ね上がった。
その後、彼はヤモリをとりあえず警察署に届けると言って別れた。一人、バス停へ向かっていると後ろから「桜井」と呼ばれた。彼が差し出した手にはビニール傘があった。
「俺はすぐそこだし」
これでまた心臓が高鳴った。
その後バス停でバスを待っていたけど、いつもと違ってなかなか来ない。混み合って遅れてるのだろう。庇になるものが何もないバス停だから、傘があって本当によかった。
「まだ帰ってないのか」
大豊君が警察署から戻ってきた。私がうなずくと、「あいつ、警察に届けがちょうど出てたよ」と嬉しそうに笑った。……うわ、もうダメ。やられた。
「そういえば桜井、タモリがどうしたんだ」
そう聞かれ、イモリとタモリとヤモリの判断がとっさにつかないと話すと大笑いされた。大豊君が色々教えてくれ、あの生物もトッケイゲッコウだと教えてもらった。家に帰ってもっと調べてみよう。そのまま大豊君はバスが来るまで私の話し相手になってくれた。大豊君は知識が豊富だけど、専門バカな話の暴走もしないし、独りよがりの会話もない。いつまでも話していたかった。
「……桜井が好きだったのは……俺じゃなくて、俺の、贅肉……」
気のせいか日に焼けている顔の色が悪く見えてきた。……そういう風に言われると、なにか心外だ。
「まって、なんかちがうその言い方。変態みたいじゃない私」
「……じゃあ、デブ専」
……あれ? 否定出来ないや。細マッチョになんの反応もできないし。返答できないでいると大豊君は頭を抱えた。
さっきまでのさわやか大学生は見る影もない。
「……俺さ、桜井って見かけで人を選ばないのかと思ったら……。そうか、そういう意味じゃ見た目で選んでたんだな」
え? そうだった……っけ? 自分で自分が分からない。確かに大豊君のふこふこは魅惑的で蠱惑的だった。
「ち、がう。そうじゃなかった」
だって。あの雨の日好きになったのは、笑い顔と、話し方と……。
前から太った人が好きだったわけじゃなかった。あの日から、太った姿を見れば大豊君かなって目で追うようになった。
「じゃ、今の俺でもいいんだろ?」
ふいに顔を上げられ、私は心臓が踊った。以前の方が体積があるはずの大豊君はなぜか今の方が大きさに迫力がある。
ふこってないから、安心感を感じさせないのだ。しかも積極的って……もう、大豊君じゃない。
「なんだか自信にみなぎってて……。同じ人に思えない」
「俺は元々こういう人間だよ。それとも、拗ねて人嫌いだった俺じゃないと好きじゃない?」
……いくら変わっても大豊君は大豊君だ。でも、今の彼はどんな人ともつきあえるし、人気もある。私じゃなくてもいいじゃない。私にこだわる必要なんかないのに。
「私じゃつりあわ……」
……。そう言いかけて私は口をつぐんだ。大豊君はまっすぐに私の目を射抜いてきた。
「そういうのを否定したの、桜井自身だよね」
そうだ。あんなに大豊君を責めたのに。何も答えられないでいる私の手を大豊君が握った。固くごつごつしているけど、ぬくもりは記憶のままだ。
「もしかして昔の俺と同じ事考えただろ。なんで自分にって」
「だって私、大豊君が思ってるような人間じゃないよ。人気者でもないし、平々凡々だし……」
「俺だって桜井が思ってるような人間じゃないよ。だからつきあって知っていけばいい。今度こそちゃんと。それにさ、俺、将来また太るかもしれないし?」
……なんだか逃げ場が無くなってく気がする。
押され気味で、答えられないでいると、大豊君はあらためて私の両手を取って向き合った。
「好きです。つきあって下さい」
……どう、答えよう。
私たちはここからもう一度始まる。
〈 終 〉