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第7話 川の向こう

 森の奥から、無数の魔物が押し寄せていた。


 俺たちを狙っているわけではない。そのことが、かえって恐ろしかった。


 角の生えた獣も、6本脚の小動物も、樹上を移動する黒い影も、互いを襲おうともせず同じ方向へ走っている。


 昨夜まで俺たちを食おうとしていたものまで、何かから逃げていた。


「荷物を減らせ!」


 野上さんが叫んだ。


「水と食料、武器、治療に使う物だけ残せ! ほかは置いていく!」


 誰も反対しなかった。


 空になった担架から、使い道の分からない金属片や余分な枝を落とす。藤崎さんは乾かしていた肉を布ごと抱えた。久保田さんは負傷者の処置に使う布と水を選び、残りをほかの人間へ分ける。


 エマと林さんは紙を捨てなかった。


「それ、全部持っていくの?」


 宮前さんが尋ねる。


 エマは地図を胸へ押しつけたまま頷いた。林さんも、名前と記録を書いた紙束を服の内側へ入れる。


「なくしたら、どこへ進んだか分からなくなります」


「濡れたら?」


「濡らさないようにします」


 地面が揺れた。


 巡回路の中央を、太い根が下から押し上げる。敷かれていた平たい石が跳ね、泥の中へ転がった。


「離れろ!」


 パクが根元を指し、俺たちを道の端へ追いやる。


 次の瞬間、地面が裂けた。


 土の中から、壁のような根が現れる。昨日までは深く埋まっていたはずのものが、生き物の背中のように持ち上がっていた。


 パクとダニエルが地面を見比べる。言葉は通じない。それでも、2人とも同じ方向を指した。


 標識に刻まれていた、第三監視門の方角だった。


「道を進む!」


 野上さんが決めた。


「魔物も同じ方向へ走ってるぞ」


 新堂が言う。


「逆へ行けば、もっと多いところへ突っ込む」


 早川さんが折れた槍を握る。


「流れの端を使う。真ん中には入るな」


 走るしかなかった。


     ◇


 凛は担架へ乗せた。


 本人は最後まで歩くと言い張ったが、最初の揺れで足をついた瞬間、右膝が崩れた。


「離して。少し休めば走れる」


「次に止まれず木へぶつかったら終わりです」


 久保田さんが言った。


「でも、この速さじゃ追いつかれる」


「追いつかれないために、今は運ばれてください」


 野上さんとパクが担架を持つ。


 凛は不満そうに身体を起こし、進行方向を見た。


「前から来たら言う。見える範囲なら、私が一番早く気づける」


「それでいい」


 野上さんは走りながら答えた。


 相良と早川さんが前へ出る。俺は列の中央に入り、最後尾には三浦さんがついた。


「17!」


 三浦さんの声が聞こえる。


 少し進んだだけで、もう一度。


「17!」


 数える声が、揺れと獣の鳴き声に紛れる。


 巡回路の中央を走ることはできなかった。小さな獣の群れが、濁流のように駆け抜けていく。


 俺たちは道の端へ寄り、木の根と群れの隙間を縫って進んだ。


 危険察知は反応し続けていた。


 胃の奥を掴まれ、身体の中で何かを捻られているような不快感。方向も距離も分からない。危険が一つではないせいか、強弱すら判断できなかった。


「右から大きいの!」


 凛が叫ぶ。


 直後、木々の間から毛むくじゃらの獣が飛び出した。


 猪に似ているが、肩の高さだけで俺の胸を超えている。額から2本の牙が前へ伸び、片方は途中で折れていた。


 相良が剣を構える。


「斬るな!」


 野上さんが叫んだ。


「避けろ!」


 獣はこちらを見ていなかった。そのまま横切る。


 相良が一歩下がり、剣を振らずに通した。獣の身体が列の前をかすめ、泥と枯れ葉を跳ね上げる。


 少し遅れて、別の小さな獣が俺の脚へ衝突した。身体が横へ流れる。


 宮前さんに腕を掴まれ、根へ頭を打つ直前で止まった。


「大丈夫?」


「助かりました」


「運81の近くにいると得でしょ」


「宮前さんが押したんじゃないですよね」


「疑われると急に自信なくなるな」


 笑う余裕はなかった。


 宮前さんは俺を起こすと、すぐ後ろへ声をかけた。


「間を空けないで! 前が止まったら、横へ逃げられるくらいだけ残して!」


 叫びながら、動ける人間の位置を変えていく。


 藤崎さんをルシアの近くへ。新堂を早川さんの後ろへ。足を傷めたダニエルには、イサベルが肩を貸した。


 宮前さん自身は前後を行き来し、空いた場所を埋めている。


 本人は運だけで生きていると思っているのかもしれない。少なくとも今は、それだけではなかった。


     ◇


 森の奥で青白い光が弾けた。


 新堂ではない。別の場所で魔法を使った誰かがいる。


 光の直後、鳥に似た黒い群れがその方向へ向きを変えた。


 悲鳴は聞こえなかった。距離が遠いからなのか、もう声を上げる者がいなかったのかは分からない。


「見るな!」


 早川さんが新堂へ言う。


「俺じゃない」


「分かってる。だから見るな」


 新堂の左手が僅かに上がっていた。指先には光がない。それでも、何かが来れば撃つつもりだったのだろう。


 前方の茂みが大きく揺れた。


 鹿に似た獣が3頭、巡回路へ飛び出してくる。1頭は脇腹を大きく裂かれ、走るたびに血を撒いていた。


 血の匂いへ反応し、葉に似た虫が樹上から降り始める。


「止まるな!」


 野上さんが叫ぶ。


 だが、負傷した獣が巡回路の中央で倒れた。後ろから来た2頭がその身体へ乗り上げ、転倒する。


 道が塞がった。


「左へ回る!」


 相良が斜面へ入る。


 地面が急で、担架を水平に保てない。野上さんとパクの足が滑る。


「下ろせ!」


 久保田さんが担架へ手をかける。


 イサベルもダニエルから離れ、凛の身体を支えた。言葉は通じなくても、するべきことは分かっていた。


 全員で担架を持ち上げる。


 倒れた獣の向こうから、葉の虫が地面を覆い始めた。


 新堂が左手を向ける。


「弱く撃つ」


「待て」


 早川さんが周囲を見る。


 樹上。担架。俺たちの位置。逃げる方向。


「地面だけ。人へ向けるな」


「分かってる」


 新堂の指先から、細い光が走った。


 最初の夜のような爆発ではない。青白い線が虫の群れの手前へ落ち、泥の表面を弾けさせる。


 葉の虫が一斉に散った。


 新堂は倒れなかった。ただ、左肩を押さえて顔をしかめる。


「走れます」


 久保田さんに聞かれる前に答えた。


 早川さんが一瞬だけ新堂を見る。


「次は勝手に撃つな」


「今のは聞いただろ」


「なら次も聞け」


 斜面を上がる。


 凛の担架を巡回路へ戻した時には、倒れた獣の身体が葉の虫に覆われていた。数分前まで生きていたものが、緑と赤黒い塊へ変わっている。


 誰も立ち止まらなかった。


     ◇


 根の動きは止まらない。


 遠くで木が倒れるたび、地面から鈍い衝撃が伝わってくる。土の中で何か巨大なものが寝返りを打っているようだった。


 エマが走りながら地図を見る。何度か周囲を確認し、右側を指した。


 昨日見た巡回路は、斜面を下りながら同じ方向へ続いている。


「この先に水があります」


 湊が言った。


 まだ姿は見えない。だが、魔物の足音の下から、流れる水の音が聞こえるらしい。


 道が急に下り始めた。空気に湿り気が増す。


 木々の間から、濁った水面が見えた。


 川だった。


 幅は、昨日水を汲んだ場所とは比べものにならない。両岸の間は20メートル以上ある。


 水は茶色く濁り、折れた木や岩を巻き込みながら流れていた。


「渡れない」


 凛が担架の上から呟いた。


「橋を探す」


 相良が川下を見る。


 魔物の多くも川へ行く手を阻まれ、岸沿いに走っている。水へ飛び込んだ獣は、抵抗する間もなく流されていった。


「上流は根が動いてる」


 野上さんが言う。


「下るぞ」


 巡回路は川沿いへ折れていた。


 現地の巡回員も、この川をどこかで渡っている。その可能性だけを頼りに進む。


 途中、川岸が一部崩れていた。


 パクが先頭を止める。土へ枝を刺すと、表面だけを残して深く沈んだ。


 全員を山側へ寄せ、一人ずつ通す。


 最後の三浦さんが通過した直後、川岸の土が水へ落ちた。


「17」


 三浦さんが全員を見回す。


「いる」


 もう、誰も数える声を鬱陶しいとは言わなかった。


     ◇


 橋を見つけたのは、川沿いをしばらく下った後だった。


 木と太い縄で作られた吊り橋。両岸の大木へ縄を回し、橋板を支えている。


 古い。それでも、使われなくなったものには見えなかった。


 縄の一部には新しく巻き直された箇所があり、対岸には巡回路が続いている。


「第三監視門は向こうだ」


 エマが地図を指す。


 俺も川の先にある標識を見つけた。矢印は、橋の向こうへ向いている。


 森の奥から、さらに大きな鳴き声が響いた。


 魔物の流れが近づいている。


「渡るしかない」


 相良が言った。


 パクが橋へ近づく。


 すぐには乗らなかった。縄の固定部分を引き、橋板を一枚ずつ踏む。


 次に大木の根元へ回り、土が崩れていないかを確かめた。ダニエルも反対側から橋の下を覗き込む。


 2人は何度か指を差し合った。


 パクが人差し指を立てる。


「一人ずつ?」


 野上さんが尋ねる。


 パクは頷いた。


 次に、荷物を示してから地面を指す。


「重い物は分けろってことか」


 野上さんが担架を見る。


 凛を乗せたまま渡ることはできない。


「私、歩く」


 凛が身体を起こす。


「橋の上だけなら、走らなくていい」


 久保田さんが膝を確認する。


「一人では駄目です」


「誰かに掴まる」


 橋の向こうから、何かが来る可能性もある。先に戦える人間を渡す必要があった。


「俺が行く」


 相良が剣を握る。


 パクが橋の縄を押さえ、相良を通した。


 橋板が大きく揺れる。それでも、縄と固定部は動かなかった。


 相良が対岸へ着き、周囲を確認する。


「来い!」


 次はエマ。


 地図を服の内側へ入れ、両手で縄を掴んで渡る。


 林さん。藤崎さん。順番に向こう岸へ着いた。


 イサベルがルシアの肩を抱く。


 娘を指し、次に橋の向こうの藤崎さんを示した。自分は凛の担架を支えるため、こちらへ残るつもりらしい。


 ルシアは母親の服を離さない。


 イサベルが娘の両手を握り、何度も何かを言った。意味は分からない。


 行け。向こうで待っていろ。すぐに行く。


 声と表情だけで、それくらいは伝わった。


 ルシアが泣きながら橋へ足を乗せる。


 藤崎さんが対岸から両手を広げる。


 一歩ずつ進む。橋の中央で振り返りかけたが、イサベルが前を指した。


 ルシアは顔を歪めながら進み、最後は相良に抱き上げられた。


 イサベルが大きく息を吐く。すぐに凛の方へ戻った。


 次に三浦さん。宮前さん。


 2人とも無事に渡った。


「瀬川、先に行け」


 野上さんが言う。


「でも、凛が」


「向こうで道を読めるのはお前だけだ」


「俺が残っても担架は持てません」


 久保田さんも言った。


「先へ行ってください。凛さんは私たちで渡します」


 俺は凛を見る。


「すぐ向こうで待ってる」


「分かってる」


 担架から下りた凛が、野上さんとイサベルに支えられて立っている。


「先に行って。今度はちゃんと止まるから」


 橋へ足を乗せた。


     ◇


 中央まで進んだところで、地面が鳴った。


 橋全体が左右へ振られる。


 両手で縄へしがみつく。


「止まるな!」


 相良が対岸から叫ぶ。


 足元の板が一枚外れ、濁流へ落ちた。


 危険察知が限界まで強くなる。


 橋。川。森。


 何に反応しているのか分からない。


 もう一歩進む。


 対岸まで、あと数メートル。


 後ろでパクが声を上げた。


 振り返る。


 橋を固定していた大木の根元。さっき確認した時には硬かった地面が、内側から膨らんでいる。


 土の下を、太い根が新しく通ろうとしていた。


 固定縄を巻いた大木が傾く。


 パクが残っていた者たちへ向き直った。


「戻れ!」


 この2日で覚えた、数少ない日本語だった。


 橋へ近づいていた野上さんたちが、一斉に下がる。


 固定部の土が裂けた。


 大木の根が持ち上がり、橋を支えていた縄が外れる。


 俺の足元が消えた。


「直人!」


 相良が手を伸ばす。


 身体が川側へ傾く。俺も腕を伸ばした。


 指先が触れ、手首を掴まれる。


 相良が地面へ倒れ込みながら、俺を引いた。胸から対岸の土へ落ちる。


 直後、橋の半分が川へ叩きつけられた。


 木の板が砕け、縄が濁流の中で暴れる。


 近くにいたパクが、傾いた大木と一緒に川岸へ引きずられた。


「パク!」


 野上さんが腕を伸ばす。


 パクも地面を掴もうとした。指が泥を削る。


 一瞬だけ身体が止まった。


 次の地鳴りで岸が崩れた。


 パクの姿が土と一緒に消える。


 濁流の中で、腕が一度だけ見えた。


 すぐに折れた木の陰へ隠れ、そのまま浮かんでこなかった。


「ロープ!」


 相良が切れた縄を掴む。


「投げろ!」


 投げられる長さが残っていない。川の流れは速く、岸へ近づくこともできなかった。


 俺は泥の中へ這い寄る。


「パク!」


 呼んでも返事はない。


 濁流が、橋板と大木を下流へ運んでいく。


     ◇


「離れろ!」


 三浦さんが叫んだ。


「こっちの岸も崩れる!」


 足元に亀裂が走っている。


 相良が俺の肩を掴み、川から引き離した。


 対岸では、野上さんたちも橋の跡から離れていた。


 森の奥から、魔物の群れが迫ってくる。早川さんが槍を構え、新堂が左手を上げる。


「川沿いに行け!」


 相良が対岸へ叫んだ。


「下流で渡れる場所を探す!」


 野上さんが何か返す。


 地鳴りと川の音で聞こえない。


 凛が、支えられながら前へ出た。


「直人!」


 川を挟んで、俺の名前を呼ぶ。


「絶対、先に行って!」


「待ってろ! 橋を探す!」


「こっちも探す! 戻るな!」


 ルシアが藤崎さんの腕を振りほどいた。


 川岸へ走り、母親を呼ぶ。


 言葉は違っても、その声が誰を求めているのかは分かった。


 対岸でイサベルが振り返る。ルシアへ向かって両腕を伸ばす。


 だが、間には濁流がある。


 イサベルはすぐに娘へ背を向けた。


 見捨てたのではない。


 近づいてくる魔物から、こちらにいる娘を少しでも遠ざけるためだった。


 凛を支えた野上さんと久保田さんが、川沿いへ動き始める。ダニエルは脚を引きずり、湊がその腕を肩へ回す。


 早川さんが最後尾へつく。新堂も、撃たずに後退した。


 イサベルが何度もこちらを振り返る。


 それでも、8人は森の中へ入っていった。


 地面がさらに揺れる。


 川岸の木が何本も倒れ、対岸を隠した。


「移動するぞ」


 相良が言った。


「ここにいれば、俺たちも落ちる」


 動けなかった。


 三浦さんの声が聞こえる。


「8人」


 一人ずつ指している。


 相良。宮前さん。エマ。林さん。藤崎さん。三浦さん。ルシア。俺。


 8人。


 川の向こうにも8人いた。


 凛。野上さん。新堂。早川さん。ダニエル。イサベル。湊。久保田さん。


 そして、パク・ジュノは川へ落ちた。


 昨日まで17人だった。


 森が動き出した朝、俺たちは8人ずつに分けられた。


 ルシアが、母親の消えた対岸を見て泣いている。藤崎さんがその肩を抱いた。


 俺は何も言えなかった。


 川の向こうへ行くと約束することも、すぐに会えると言うこともできなかった。


 分かったのは一つだけだった。


 17人で目指していた第三監視門へ、もう全員では行けない。

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