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『サイコパスな幼なじみギャルが俺を好きすぎて、GPSを持たせようとしてくる。義妹も先輩も倫理観がバグっているので、俺の青春が毎日修羅場です』  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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20/20

第20話 美緒、家の下見に来る


 美緒さんから、次のメッセージが来たのは、その日の夜だった。


> 今週末の土曜日、母と一緒に黒瀬さんのお宅へ伺うことになりました。

> 目的は、今後の生活を想定した確認です。

> 失礼にならない範囲で、台所や洗面所の動線を見せていただければと思っています。

> 黒瀬さんの部屋には入りませんので、ご安心ください。


 最後の一文で、俺は少しだけ変な顔になった。


 ご安心ください。


 たしかに、そこは安心した。


 いや、俺の部屋に入られる予定だったらかなり困る。今は一応片づけてあるが、机の引き出しにはリカの謝罪文兼改善計画書が入っている。


 美緒さんに見られたら、何をどう説明していいか分からない。


 というか、誰に見られても困る。


 俺は短く返した。


> 分かりました。

> 父にも確認しておきます。

> 部屋のことも、ありがとうございます。


 送信してから、少し悩んだ。


 リカに言うべきか。


 言うべきだ。


 隠したら、かなりまずい。


 というか、今のリカなら隠したこと自体よりも、「話してくれなかった」ことに深く傷つく気がする。


 俺はリカとのメッセージ画面を開いた。


『リカ』


 すぐ既読。


『なに?』


『土曜日、美緒さんと紗枝さんがうちに来ることになった』


 既読。


 沈黙。


 最近、この沈黙にも少し慣れてきた。


 リカが暴走している沈黙ではない。必死に止まっている沈黙だ。


 しばらくして、返信が来た。


『家に来るんだ』


『うん』


『目的は?』


『今後の生活を想定した確認らしい』


 また沈黙。


 俺は追加で送るか迷ったが、待った。


 リカは最近、ちゃんと聞けるようになってきている。


 だから、こちらが先回りしすぎるのも違う。


 やがて、返信が来た。


『聞いていい?』


『いい』


『どこを見るの?』


『台所と洗面所の動線を見たいらしい』


 既読。


 長い沈黙。


 これは長い。


 俺は少し不安になった。


 ようやく届いたメッセージは、一文だけだった。


『洗面所』


 強い単語を見つけた時のリカだ。


 俺は頭を抱えた。


『生活圏最深部って言いそうだな』


 送ると、すぐ返ってきた。


『もう言った』


『誰に』


『自分に』


 やっぱり。


 続けて来る。


『洗面所は強い』


『美緒さんは、紗枝さんが無理しない配置か見たいんだと思う』


『分かってる』


『分かってるけど嫌?』


『嫌』


 正直だった。


 さらに続く。


『でも必要なのも分かる』


 俺は少しだけ息を吐いた。


 この一文が出るなら、たぶん大丈夫だ。


 かなり揺れるだろうけれど、少なくとも勝手に家の周りをうろつく方向には行かないはずだ。


『土曜日、来るなよ』


 俺はあえて送った。


 既読。


 少し間。


『行かない』


『本当に?』


『行きたいけど行かない』


『偉い』


『洗面所を見るって聞いて、今かなり行きたい』


『だから来るな』


『行かない。言ったから止まる』


 リカはいつものように、自分の危うさを言葉にして止めようとしていた。


 かなり変だ。


 でも、最近はその変さが少し頼もしい。


『終わったら話す』


 俺は送った。


『洗面所のことも?』


『話せる範囲で』


『分かった』


 少し間が空いて。


『土曜日まで、洗面所って言葉を聞くたびに心が揺れるかもしれない』


『揺らすな』


『無理』


『じゃあ揺れても行動するな』


『うん。行動しないリカで行く』


 俺は少し笑った。


 行動しないリカ。


 それはそれでリカらしくないが、今はかなり大事だった。


     *


 土曜日。


 黒瀬家は、朝から父さんの緊張で満たされていた。


「悠真、洗面所の鏡は拭いたか」


「拭いた」


「台所のシンクは?」


「父さんがさっき三回磨いてた」


「三回だったか?」


「四回目いく気か?」


「いや、さすがに……」


 父さんは台所の前で立ち止まり、真面目な顔でシンクを見つめた。


「もう一回だけ」


「やめろ。シンクが父さんの顔より輝いてる」


「それは言いすぎだ」


「父さんの顔が疲れてるだけかもしれない」


「余計にひどい」


 父さんは苦笑しながらも、布巾を置いた。


 緊張している。


 かなり。


 前回の顔合わせよりも、今日のほうが緊張しているように見えた。


 前は外の店だった。


 今日は家だ。


 自分の生活の内側を見られる。


 その重さは、俺にも少し分かるようになっていた。


 玄関には例の水色のスリッパが置かれている。


 リビングには来客用のコップ。


 テーブルの上には、お茶菓子。


 父さんは、やけにきちんとした和菓子を買ってきていた。


「それ、普段絶対買わないやつだろ」


「こういう時くらいはな」


「気合い入ってるな」


「悪いか」


「いや」


 俺は少しだけ笑った。


「父さん、本当に紗枝さんのこと大事なんだな」


 父さんは手を止めた。


 そして、少し照れたように目を逸らした。


「そう見えるか」


「見える」


「そうか」


 父さんは短く答えた。


 それ以上は言わなかった。


 でも、それで十分だった。


 午後二時少し前。


 インターホンが鳴った。


 父さんの肩がびくっと動いた。


「俺が出る?」


「いや、俺が出る」


 父さんは玄関へ向かった。


 俺も少し遅れてついていく。


 ドアが開くと、紗枝さんと美緒さんが立っていた。


 紗枝さんは落ち着いた服装で、前回と同じように柔らかく微笑んでいた。だが、今日は少しだけ緊張しているように見える。


 美緒さんは、白いブラウスに薄いグレーのカーディガン。前回よりも少しだけ動きやすそうな服装だった。


 目が合うと、丁寧に頭を下げる。


「本日はお邪魔します」


「いらっしゃい」


 父さんがぎこちなく答える。


 美緒さんは俺を見る。


「黒瀬さん、こんにちは」


「こんにちは」


 黒瀬さん。


 今日も兄さんではない。


 俺は、心の中でリカに報告する項目が一つ増えたと思った。


 紗枝さんと美緒さんが靴を脱ぎ、スリッパを履く。


 美緒さんは、前回と同じ水色のスリッパに足を入れた。


 その瞬間、なぜかリカの声が脳内で響いた。


 水色のスリッパ、強い。


 俺は笑いそうになるのをこらえた。


 美緒さんがこちらを見る。


「何か?」


「いえ。何でもないです」


「そうですか」


 危ない。


 この人は本当によく見ている。


     *


 リビングに入ると、紗枝さんが静かに息をついた。


「落ち着いたお家ですね」


「普段より片づけています」


 父さんが正直に言った。


 紗枝さんは少し笑った。


「うちも、人が来る時だけ片づきます」


「それは少し安心します」


 父さんが言う。


 空気が少し緩んだ。


 美緒さんはリビングを見回していた。


 じろじろではない。


 でも、やはり見ている。


 棚の位置。

 テーブルの高さ。

 台所との距離。

 洗面所へ続く廊下。


 おそらく、全部確認している。


「黒瀬さん」


 美緒さんが俺を呼んだ。


「はい」


「先に台所を見せていただいてもいいですか」


「台所?」


「はい。お母さんが、もしこちらで料理をすることがあるなら、動線を知っておいたほうがいいと思いまして」


 紗枝さんが少し困ったように笑った。


「美緒、そんなに急がなくても」


「お母さんは、遠慮すると見たいものを見ないまま帰るので」


「……それは否定できないけれど」


 紗枝さんは少し恥ずかしそうにした。


 父さんがすぐに立ち上がる。


「もちろんです。狭いですが」


 台所へ案内する。


 うちの台所は、普通の広さだ。二人暮らしには十分だが、広々としているわけではない。


 美緒さんは入り口に立ち、まず全体を見た。


「シンク、コンロ、冷蔵庫、食器棚の距離は近いですね」


「ええ、まあ」


 父さんが答える。


「調理中に振り返る回数が少なくて済みそうです」


「そういう見方なんですね」


 俺が言うと、美緒さんは頷いた。


「お母さんは、料理中に無駄に動く癖があります。頼まれていないことまでやろうとするので、動線が悪いと疲れます」


「美緒」


 紗枝さんが少し困った声を出す。


「本当のことです」


「でも、こういう場で言わなくても」


「ここで言わないと、あとでお母さんが無理をします」


 美緒さんの声は静かだった。


 でも、曲げるつもりはなさそうだった。


 父さんが真面目な顔で言う。


「無理はしてほしくありません。俺も料理はしますし、全部紗枝さんに任せるつもりはありません」


 美緒さんは父さんを見た。


 じっと。


 数秒。


 そして小さく頷いた。


「その言葉、覚えておきます」


「はい」


 父さんが少し緊張した顔で頷いた。


 俺は思った。


 観察期間は継続中らしい。


 美緒さんは冷蔵庫の位置を確認し、食器棚の高さを見た。


「お母さん、この棚の上段は届きにくいと思う」


「美緒、そこまで」


「大事」


「踏み台を置きましょうか」


 父さんが言った。


 美緒さんが父さんを見る。


「置くなら、安定したものがいいです。折りたたみ式で足が細いものは危ないので」


「分かりました」


「あと、床に物を置くと、お母さんは避けようとして変な体勢になります」


「分かりました」


 父さんが完全に面接を受けている顔になっている。


 俺は少し笑いそうになった。


 しかし、笑っていい雰囲気ではない。


 美緒さんは本気だ。


 母親がこの家で無理をしないか、本当に確認している。


 その姿を見ていると、リカのことを思い出す。


 リカも俺の体調や生活を見て、勝手に心配を膨らませる。


 違いは、リカの心配は感情が前に出る。美緒さんの心配は、静かに条件を確認する。


 どちらも、かなり強い。


 父さんの言葉を借りれば、大事な人のために動いている。


     *


 次は洗面所だった。


 正直、俺は少し緊張した。


 リカが何度も「洗面所は強い」と言っていたせいだ。


 洗面所に案内するだけなのに、妙に重大イベントのように感じてしまう。


 洗面所の扉を開ける。


 鏡は父さんが何度も磨いたおかげで、かなりきれいだった。洗面台の横には、俺と父さんの歯ブラシ。タオルは新しいものに替えてある。


 美緒さんは、一歩だけ中に入った。


「ここが洗面所ですか」


「はい」


 父さんが答える。


 美緒さんはまず床を見た。


「段差はないですね」


「ないです」


「洗濯機はここ」


「はい」


「タオルの収納は?」


 父さんが棚を指した。


「そこです」


 美緒さんは棚の高さを見た。


「お母さんでも届きます」


 紗枝さんが少し笑った。


「美緒、私はそこまで小さくないわ」


「でも背伸びすると危ない」


「大丈夫よ」


「お母さんの大丈夫は、あまり信用していません」


 その言葉に、父さんと俺が同時に反応した。


 大丈夫。


 リカがよく俺に確認する言葉だ。


 俺の「大丈夫」も、たぶん信用されていない。


 美緒さんは母親を見る時、リカに少し似た目をしていた。


 大事な人が無理をしていないかを見る目。


 ただ、美緒さんは感情を表に出さない。


 その分、静かで鋭い。


「黒瀬さん」


 美緒さんが俺を見た。


「はい」


「洗面所は、朝混みますか」


「今は父さんと二人なので、そこまでではないです」


「もし人数が増えた場合、時間をずらす必要がありますね」


「そうですね」


「黒瀬さんは朝、何時頃に使いますか」


「だいたい七時前くらいです」


「分かりました」


 美緒さんは頷いた。


「私も、もしこちらに来ることがあれば、その時間は避けます」


「いや、まだそこまで決まってるわけじゃ」


「分かっています。想定です」


「想定」


「はい。想定しておけば、実際にそうなった時に慌てずに済みます」


 ああ。


 これは、リカと違う方向で厄介だ。


 俺はそう思った。


 リカは不安から想像して、暴走しかける。


 美緒さんは問題回避のために想定して、先に整理しようとする。


 どちらも未来を見すぎる。


 現在にいる俺としては、少し息が詰まる。


 だが、美緒さんの言葉は理屈としては間違っていない。


 それがまた、難しい。


 父さんが少し慎重に言った。


「美緒さん」


「はい」


「気にしてくれるのはありがたいです。ただ、まだ一緒に暮らすと決まったわけではないので、今の時点で全部決めなくても大丈夫です」


 美緒さんは父さんを見た。


 静かな目だった。


「全部は決めません。ですが、お母さんが無理をしそうな場所は見ておきたいです」


「それはもちろん」


「それと、黒瀬さんが無理をする場所も」


 急に俺に来た。


「俺ですか?」


「はい」


 美緒さんは普通に頷いた。


「昨日、黒瀬さんは戸惑っていると言いました。でも、今日も家の中で案内役をして、こちらに気を使っています」


「それは普通じゃ」


「普通かどうかではなく、負担があるかどうかです」


 俺は言葉に詰まった。


 父さんも少し驚いた顔をしている。


 紗枝さんが、美緒さんを見た。


「美緒」


「お母さんだけではなく、黒瀬さんも生活が変わる側です。そこを無視すると、あとで歪むと思います」


 静かな声。


 だが、その言葉はちゃんとしていた。


 俺は少し困った。


 美緒さんは、俺のことも見ている。


 リカとは違う形で。


 それが少し怖い。


 でも、不快ではなかった。


「ありがとうございます」


 俺はそう言った。


 美緒さんは、一瞬だけ目を丸くした。


「いえ」


「正直、戸惑ってます。でも、こうやって先に見てもらうのも必要なんだろうなとは思います」


「そうですか」


「ただ、全部きれいに進められる自信はないです」


 美緒さんは、少しだけ表情を緩めた。


「私もありません」


「美緒さんも?」


「はい。私は準備をしているだけで、平気なわけではありません」


 その言葉で、洗面所の空気が少しだけ変わった。


 美緒さんも不安なのだ。


 当たり前だ。


 急に家族になるかもしれない相手の家に来て、台所や洗面所を見る。


 平気なわけがない。


 でも、それを静かに確認作業へ変えている。


 リカが聞いたら、どう思うだろう。


 強い、と言うだろうか。


 それとも、少し分かる、と言うだろうか。


     *


 その後、リビングに戻ってお茶を飲んだ。


 父さんは少し疲れていた。


 紗枝さんは何度も「すみません、美緒が細かくて」と謝ったが、父さんはそのたびに「大事なことですから」と答えた。


 美緒さんは、お茶を飲みながら静かに言った。


「黒瀬さんのお父様は、言われたことをその場で否定しないんですね」


 父さんが目を丸くした。


「そうでしょうか」


「はい。多くの大人は、確認されると『大丈夫です』とすぐ言います。でも、黒瀬さんのお父様は一度受け取ってから返します」


「それは……緊張していただけかもしれません」


「緊張していても、そうできるのはいいことだと思います」


 紗枝さんが少し嬉しそうに父さんを見た。


 父さんは照れたように咳払いをした。


 俺はその様子を見て、少しだけ安心した。


 まだ家族ではない。


 でも、少しずつ何かを確認している。


 全員が不器用に。


 帰り際、美緒さんは玄関で俺に言った。


「黒瀬さん」


「はい」


「今日はありがとうございました」


「こちらこそ」


「洗面所まで見せていただいて、すみません」


「いえ。必要なことだったんですよね」


「はい」


 美緒さんは少しだけ目を伏せた。


「ただ、黒瀬さんの生活圏に入りすぎたかもしれません」


 生活圏。


 またリカの脳内用語が近いところに来た。


「生活圏最深部ではありましたね」


 俺がつい言うと、美緒さんが初めて分かりやすく目を丸くした。


「生活圏最深部?」


「いや、今のは忘れてください」


「独特な表現ですね」


「俺の表現じゃないです」


「どなたの?」


 しまった。


 美緒さんの目が少しだけ鋭くなる。


「幼なじみの」


「天宮さんですか」


 俺は固まった。


「……知ってるんですか?」


「お母さんから少し聞きました。黒瀬さんには、とても親しい幼なじみがいると」


「そうですか」


「その方が、生活圏最深部と?」


「たぶん、そういうことを言いそうだなと」


 美緒さんは少しだけ考えた。


 そして、小さく笑った。


「面白い方ですね」


「まあ、かなり」


「不安にさせているでしょうか」


 また鋭い。


 俺は少しだけ言葉を選んだ。


「かなり不安がっています。でも、ちゃんと待とうとはしています」


「そうですか」


 美緒さんは静かに頷いた。


「その方は、黒瀬さんにとって大事な方なんですね」


 俺は返事に詰まった。


 美緒さんは、俺の顔を見て、それ以上は聞かなかった。


「失礼しました。では、また」


「また」


 玄関のドアが閉まる。


 家の中が、急に静かになった。


 父さんが深く息を吐いた。


「緊張した」


「前も言ってた」


「今回は前よりした」


「俺も」


「そうか」


 父さんは少し笑った。


「でも、悪くなかったな」


「うん。悪くなかった」


 美緒さんは細かい。


 かなり見る。


 静かに鋭い。


 だが、悪くない。


 少なくとも、紗枝さんを大事にしていることは分かった。


 そして、俺の負担も見ようとしていた。


 それは少し怖くて、少しありがたかった。


     *


 夜。


 俺は部屋に戻り、スマホを手に取った。


 リカからのメッセージは来ていなかった。


 待っている。


 約束通り、待っている。


 俺はメッセージを送った。


『終わった』


 既読は一瞬。


 しかし、返信はすぐ来なかった。


 深呼吸しているのだろう。


 しばらくして、届いた。


『お疲れさま』


『ありがとう』


『聞いていい?』


『いい』


 次の返信は、間髪入れずに来た。


『洗面所見たの?』


 やはりそこだった。


『見た』


 既読。


 沈黙。


 次に来たのは、予想通りだった。


『生活圏最深部……』


 俺は少し笑った。


『実際に美緒さんも生活圏に入りすぎたかもって言ってた』


 既読。


『美緒さんが?』


『うん』


『生活圏最深部って言った?』


『それは俺が言った』


『悠真が?』


『リカが言いそうだと思って、つい』


 しばらく返信が止まった。


 やばいかと思った。


 だが、次に来たのは。


『あたしの言葉、悠真の中にいる』


 俺はスマホを見て、少し顔が熱くなった。


『変な言い方するな』


『嬉しい』


『そこは喜ぶところなのか』


『かなり』


 少し間。


『洗面所は強かった?』


『強かった』


『やっぱり』


『でも、美緒さんは紗枝さんが無理しないか見てた。台所も、棚の高さとか動線とか』


『お母さんのため?』


『うん』


『そっか』


 リカの返信は、少し落ち着いていた。


 続けて。


『美緒さんも不安だった?』


『本人が、平気なわけではないって言ってた』


 既読。


 長い沈黙。


『そっか』


 短い。


 でも、重さが少し違う。


『美緒さんも、平気じゃないんだ』


『たぶん』


『それなら、あたしだけじゃないんだね』


『そうだな』


『嫌だけど、ちょっと分かる』


 俺は少し安心した。


 リカはちゃんと受け止めようとしている。


『あと』


 俺は送った。


『美緒さん、天宮さんのことを少し聞いてた』


 既読。


 今度は反応が早かった。


『あたし?』


『紗枝さんから、俺に親しい幼なじみがいるって聞いてたらしい』


『美緒さん、何て言った?』


『面白い方ですね、って』


 既読。


『面白い方』


『生活圏最深部の流れで』


『あたし、初対面前から変な人認定されてない?』


『たぶん少し』


『つらい』


『でも悪い意味じゃなさそうだった』


『ほんと?』


『たぶん』


 リカの返信が少し遅れる。


『美緒さん、あたしが不安になってるって分かった?』


『不安にさせているでしょうか、って聞かれた』


『強い』


『またか』


『だって強い。そこまで見るんだ』


『俺は、かなり不安がってるけどちゃんと待とうとしてるって言った』


 送った瞬間、少し恥ずかしくなった。


 リカからの返信は、しばらく来なかった。


 やがて。


『悠真、そう言ってくれたの?』


『言った』


『ちゃんと待とうとしてるって?』


『うん』


『ずるい』


『何が』


『あたしのこと、そういうふうに言ってくれるのずるい』


『事実だろ』


『今日は本当に泣きそう』


『泣いてもいいって前に言っただろ』


『今のもずるい』


 俺は少し笑った。


 続けて、リカから来た。


『洗面所見たのは嫌』


『うん』


『台所見たのも嫌』


『うん』


『水色のスリッパ履いた?』


『履いた』


『強い』


『うん』


『来客用コップは?』


『使った』


『強い』


『うん』


『でも、美緒さんがお母さんのために見てたのは分かる』


『うん』


『平気じゃないのも分かる』


『うん』


『だから、怒らない』


 その一文を見て、俺はしばらく黙った。


 怒らない。


 リカにとって、それはかなり大きい。


 嫌なのに。

 不安なのに。

 生活圏最深部に入られたのに。


 それでも怒らない。


『今日のリカは九十八点』


 俺は送った。


 既読。


 沈黙。


 そして着信。


 予想通りだった。


「もしもし」


『九十八点って言った?』


「言った」


『過去最高?』


「たぶん」


『洗面所見たのに?』


「洗面所を見られて嫌だったのに、ちゃんと事情を聞いた。美緒さんの不安も考えた。怒らないって言った」


『でも、生活圏最深部って言った』


「それはリカの語彙がうつった」


『嬉しい』


「喜ぶのか」


『喜ぶ。悠真の中にあたし語彙がある』


「言い方」


 リカは電話の向こうで少し笑った。


 その笑い声は震えていたが、明るかった。


『悠真』


「うん」


『あたし、今日、家の前に行かなかった』


「ああ」


『駅にも行かなかった』


「ああ」


『洗面所見たって聞いても、怒らなかった』


「ああ」


『でも、すごく嫌だった』


「うん」


『それでも九十八点?』


「九十八点」


『じゃあ、今日は泣いてもいい?』


「いいんじゃないか」


『じゃあ、ちょっとだけ泣く』


 電話の向こうで、リカが本当に少しだけ鼻をすすった。


 俺は何も言わなかった。


 たぶん、ここで茶化すところではない。


 しばらくして、リカが小さく言った。


『悠真』


「うん」


『美緒さん、嫌いじゃないかも』


「そうか」


『嫌だけど、嫌いじゃないかも』


「それ、前も言ってたな」


『今日は前より少し本当』


「なら、よかった」


『でも、悠真の隣はまだ譲らない』


「譲る譲らないの話か?」


『話』


「そうか」


『条件つきで隣にいていい?』


「条件つきでな」


『聞く。止まる。悠真のためって言う前に悠真に聞く。怖くなりそうなら一回止まる。家の前で偶然を装わない。質問代行禁止。スクショ要求禁止。スマホ覗き見禁止。通知音で死なない。洗面所で怒らない』


「最後が追加されたな」


『追加条件』


「よし」


 リカは少し笑った。


『明日もいつもの場所?』


「ああ」


『洗面所のこと、もう一個だけ聞いていい?』


「何だよ」


『美緒さんの歯ブラシは、まだ置かれてないよね?』


「置かれてない」


『よかった』


「そこまで想像してたのか」


『してた。言ったから止まった』


「偉い」


『今日は九十八点だから』


「調子に乗るなよ」


『ちょっとだけ乗る』


「少しなら許す」


 電話の向こうで、リカが笑った。


 少し泣いたあとの、いつものリカの笑い方だった。


     *


 電話を切ったあと、俺はリビングへ下りた。


 洗面所の前を通る。


 鏡はまだきれいだった。


 洗面台の横には、俺と父さんの歯ブラシだけがある。


 そこに、いつか別の歯ブラシが増えるのだろうか。


 紗枝さんのもの。

 美緒さんのもの。


 まだ分からない。


 でも、今日の下見で、その未来は少しだけ現実味を持った。


 父さんはリビングで、お茶を飲んでいた。


「天宮さんに話したのか」


「話した」


「どうだった?」


「九十八点だった」


「何の点数だ」


「リカの頑張り点」


 父さんは少し首を傾げた。


「よく分からないが、高いならよかった」


「高い」


「そうか」


 父さんは少し笑った。


 俺も、洗面所のほうをもう一度見た。


 生活圏最深部。


 リカの変な言葉が、俺の中に残っている。


 家族候補がそこを見た。


 幼なじみはそれを聞いて泣きそうになった。


 そして、それでも怒らなかった。


 普通の青春では、たぶんそんなことで点数はつかない。


 けれど、俺たちには必要な一日だった。




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