第二話:冷たい手袋の裏側に
冷たい朝の空気に、乾いた血の匂いは残っていなかった。
昨夜の一件――代理領主・ダリオの「事故死」により、村の空気は一変していた。
「なぁ、税が半分になったって、本当か?」
「本当だよ。しかも領地の帳簿が“正しく”記されてるらしい」
「まさか……あのダリオが? 誰が手を回したんだ?」
誰もが囁き合う。けれど、“誰が”それをやったのかは、誰一人知らなかった。
その中心にいた女――アメリア・シェリルは、今日も一人で村の橋を見つめていた。
腐りかけの板、剥がれた縄、通るたびに悲鳴を上げる足場。
「このまま放置されれば、次に死ぬのは馬車か商人。いずれにしても、損失」
彼女は淡々と手袋を外し、膝を折って橋の土台を確認する。
その手は白く、貴族のようで――だが、鋭く“壊し方”を見抜く目をしていた。
「お嬢さん……あんた、ここの橋、修理しようってのかい?」
声をかけてきたのは、村の木工職人・ヴァルト。
髭面の男は、まさか令嬢の格好をした娘が橋の構造を眺めているとは思っていなかったのだろう。
「ええ。材料費は最低限、作業は三日。
けれど、その前に――この橋が“壊されている”理由を潰す必要があるわ」
「……え?」
アメリアは微笑む。
「この橋、定期的に“事故”が起きてる。壊して直して、を繰り返すたびに、誰かが儲かるの。――つまり、必要なのは板じゃなくて“刃”」
夜、アメリアは再び黒衣に身を包む。
標的は、この村を管轄する交易ギルド分所の長官・セール。
橋の修理を請け負いながら、実は“事故”を装って修繕費を巻き上げていた張本人だ。
「まったく、あの村人どもときたら。壊しても文句一つ言いやしねぇ。次は村ごと沈めても良さそうだな」
セールが嘲笑う中、影が音もなく背後に忍び寄る。
「貧民を搾ることしかできない知能で、よくもまあ偉そうにできるわね」
「なッ――!?」
刹那。
暗殺者の刃が、まるで“空気”のように喉元へ迫る。
「あなたみたいな人間、殺す価値もない。……けど、死体になれば少しは役立つでしょうね」
セールは喉を押さえながら倒れ込む。
そこに毒の気配はなく、ただ正確な“急所”への一突き。
「安心して。あなたの死因は、“持病による突然死”。検視もされないわ。
まったく、ずいぶん都合のいい体で助かるわね」
翌朝。
セールの死は静かに報じられ、橋の修理契約は村の職人へと正式に移管された。
ヴァルトがアメリアの元へ駆け寄る。
「嬢ちゃん、本当にすごいな……。こんなこと、領主様ですらしてくれなかった」
「私はただ、無駄な損失が嫌いなだけです」
アメリアは相変わらず冷静だったが、ヴァルトはふと、彼女の手袋の裏側に泥と血が少しだけ滲んでいるのを見つけた。
「あんた、いったい――」
「さあ、何の話かしら? 私はただの“追放された令嬢”ですわ。
……この村を、少しだけ静かにしてあげたいだけ」
微笑む彼女の背に、朝陽が差し込んでいた。
だがその微笑みの奥にある“影”は、まだ誰も気づいていなかった。