14.解いてわかる優しさ
講習が終わった午後、俺と三好は、昨日と同じように駅までの道を歩いていた。
「……今日、ありがとうございました。学生証のこと」
「もう何回目だよ、そのお礼」
俺が軽く笑うと、三好はうつむいて、小さく首をすくめた。
「す、すみません……なんか、気になってて……」
「別に責めてないって。むしろ、返せてスッキリしたわ」
そう言うと、三好は少しだけ顔を上げた。
アイロンのかけられた制服、清潔感のある髪。顔も決して悪くはない。地味というより、真面目すぎるだけに見えた。
「ところで、参考書とか見る?」
「えっ?」
「この駅の中の本屋、けっこう揃ってるんだ。俺、ちょっとだけ寄ってくつもりだったし」
三好は一瞬目を丸くして、それから慌ててうなずいた。
「あ、あの……はい! もしよければ……」
◆
本屋の中は涼しくて、蝉の声が嘘みたいに遠く感じた。
英語、数学ⅡB、化学基礎……試験対策コーナーをざっと見てから、俺は棚の前で立ち止まる。
三好は俺の後ろから、そっと声をかけてきた。
「あの……風間さんって、英語、得意ですか?」
「いや、長文がマジでダメ」
「……あ。あの、このシリーズ、先生もいいって言ってたので……よかったら」
三好が差し出したのは、薄めの問題集だった。“The rulers”と書いてある。
手書き風の表紙デザインが、なんかちょっと優しげで、三好らしい。
「ありがとう。読んでみるわ」
「い、いえ……その、すみません、余計なこと言って……」
「いや、助かるって」
またしても三好は、顔を赤くして視線を逸らした。
どうにも、こっちが何を言っても恐縮される。でも、それがなんとなく可愛いとも思ってしまう自分がいて――。
「……それより、あそこ」
三好が突然、少し距離のある棚を指さして囁いた。
「わ、私、あのあたり……よく見ますけど、今日はやめときます……」
「少女漫画コーナーか?」
「っ!」
三好は驚いたように肩を震わせ、顔を真っ赤にしてうつむいた。
「み、見ないでください……なんか……恥ずかしいです……」
「別におかしくないだろ。俺もラブコメとか読むし」
「……えっ、風間さん、そういうの読むんですか?」
「わりと読む。兄妹モノとかも」
「ええっ……そ、そうなんですか……」
三好が口元を押さえて笑いを堪えている。さっきよりも、ずっと自然な笑顔だった。
◆
駅前の改札まで戻ってきた。
「じゃあ、また明日な」
「……はい。あの……今日、楽しかったです」
三好は、きゅっと鞄のストラップを握りしめて、小さく会釈した。
その仕草が、なんだか妙に記憶に残る。
俺は電車に乗りながら、何度も思い返していた。
知らなかっただけで、三好って、けっこう面白い子かもしれない。
――なんて、そんなことを考えてる自分に驚きながら。
夕食を終え、自分の部屋に戻る。
ベッドの上に鞄を放り、講習プリントと一緒に問題集を取り出した。
三好が勧めてくれた、あの優しげな表紙の英語参考書だ。
「さて……どんなもんか」
ソファに腰を下ろし、ページをめくる。
冒頭からいきなり長文問題……かと思いきや、まずは単語のチェック。解説も丁寧で、見やすい構成だ。
「……へえ、わかりやすいな、これ」
講習で配られたプリントより、ずっと噛み砕かれた言い回し。例文もどこか日常的で、妙に読みやすい。
「……さすが、先生のおすすめってだけあるか」
最初の章を解き終えて、ふと彼女の顔が思い浮かんだ。
あのとき、少し照れながらこの本を差し出してくれた三好の手元。
清潔な爪。制服の袖口から覗く手首。――そして、「よかったら」と言った時の小さな声。
――なんで、そんな細かいとこ覚えてんだ、俺。
苦笑しながらページをめくる。長文の最後には音読用の本文が印刷されており、SVOCが振られている。自分みたいな文型で読解するタイプにはちょうどいい。
「……まじめすぎだろ、三好」
呟いてみると、なんだか少しだけ笑えてきた。
真面目で、おとなしくて、でも、話すとちょっとユニークで面白い。
それが、今のところの三好奈々に対する印象だ。
問題集を閉じ、軽く背伸びをする。
時計はもうすぐ十一時を指していた。
明日も講習はある。会えば、また少しだけ話すのかもしれない。
べつに、特別なことを期待してるわけじゃないけど――。
いや、少しくらい、期待してるのかもしれない。
明日も、彼女と同じ帰り道を歩けることを。