本編
七度目の断罪の日、私の袖には、署名欄だけ空いた亡命申請書がある。
改竄前後の証拠は三か所に保全済み。国境には外交馬車が待ち、隣国の正規代理人も断罪会場にいる。
あとは王太子が、公衆の面前で婚約破棄を宣言するのを待つだけだ。
――その七度目へ戻る直前。私は六度目のお嬢様を、国境まであと二十歩の場所で失った。
白い標石は、すぐ目の前だった。
私の腕の中で、クラウディアお嬢様の身体から力が抜けた。
背に刺さった矢の羽根が、馬車の車輪音に合わせて揺れている。淡い金髪の先から落ちた血が、国境街道の乾いた土へ小さな染みを作った。
「お嬢様。もう少しです。あちらへ行けば、アルメリアの方が――」
「アニエス」
お嬢様の青い瞳は、もう私を映していなかった。
駆け寄ってきた青年が外套を地面へ敷き、傷口を確かめた。アルメリア王国の副領事、ユリウス・アルヴェン。六度目の人生で、私が初めて助けを求めた外国人だった。
「追手を止めます。亡命申請書は」
「ありません」
「ご本人の署名は」
「まだです。ですが、お嬢様は戻れば殺されます」
「それを示す証拠は」
私の手には、何もなかった。
公爵家の騎士が迫っている。お嬢様を馬車へ乗せること、追手より先に進むこと、それだけで精いっぱいだった。
ユリウス様は唇を結んだ。感情ではなく、足りないものを数える顔だった。
「本人の意思。迫害の証拠。外交官による受理。この三つがあれば、仮保護を宣言できます」
彼は私の腕に触れる前に、問いかけた。
「彼女を地面へ寝かせても?」
私はうなずいた。
二人でお嬢様の身体を外套へ移した。指先はもう冷え始めていた。
「次があるなら」
ユリウス様は、私の胸元にある銀の護誓印を見た。七枚あった薔薇の花弁は、一枚しか残っていない。
「逃げ始めてから助けを求めないでください。逃げる前に、我々を使ってください」
護誓印が熱を持った。
お嬢様の母君が遺した銀の印。お嬢様が死ぬたび、私だけを婚約破棄の三か月前へ戻したもの。
最後の花弁が、赤く光った。
次の瞬間、私の指は金色の髪を梳いていた。
春の朝。鏡台。白薔薇の香油。鏡の中には、十八歳のお嬢様が生きている。
私は櫛を止めず、胸元の護誓印へ指を滑らせた。
印面は、何も刻まれていない銀板になっていた。
七周目。
これが最後だ。
私はもう、断罪から逃げない。
逃げる前に、逃げ切れる場所を用意する。
◇
「今日は随分、静かね」
お嬢様が鏡越しに私を見た。
「いつも静かでございます」
「いつもより、櫛の動きが慎重だわ。私の髪は今朝だけ絹にでもなったの?」
生きている髪は、指の間で温かかった。
巻き戻った直後に、死に戻りのすべてを話したことが一度だけある。お嬢様は驚き、事情を尋ね、私の話を父君へ報告した。善意からだった。公爵は私を療養という名目で屋敷の外へ出し、その周回のお嬢様は離宮で毒を飲まされた。
だから私は、髪を結った。
左右の高さを揃え、真珠の髪留めを挿す。いつもと同じ朝を、壊さないように。
鏡台には、王太子殿下から届いた舞踏会の招待状が置かれていた。隅には、男爵令嬢マリアンヌが好む青い小花が描かれている。王太子の私信に、婚約者ではない令嬢の意匠が使われていた。
「本日の午後、王太子妃教育がございます」
「ええ。殿下は欠席なさるそうよ」
お嬢様は招待状を伏せた。
「マリアンヌ様と春の庭園を視察なさるとか」
「視察という言葉は便利ね。逢瀬も公務に見えるもの」
青い瞳は笑っていなかった。それでも背筋は真っ直ぐだった。
「婚約をおやめになりたいとは、思われませんか」
櫛を布で拭きながら尋ねた。声が揺れないよう、銀の歯を一本ずつ確かめた。
「私がやめれば、次の候補が同じ教育を一から受けることになるわ。北部の軍需費も、停戦交渉の付属文書も、今すぐ読める者がいなくなる」
「お嬢様がお一人で背負うことではございません」
「公爵令嬢として生まれた以上、背負うものよ」
お嬢様は立ち上がり、招待状を机の端へ揃えた。
「殿下が誰を愛しているかと、私が王太子妃の務めを果たせるかは別の話だわ」
六度とも、そう言った。
孤児院で帳簿の余白へ文字を書いていた私を見つけたのは、十二歳のお嬢様だった。孤児に教育は要らないという家令を退け、侍女見習いの席と、読み書きの教師と、働いた分の給金を用意してくださった。
私を最初に、使い道のない孤児ではなく、学べる一人の人間として扱った方だった。
だから私は、役に立ち続けることだけが恩を返す方法だと思っていた。
断罪された後でさえ、国の混乱を案じた。父君に自白書を差し出されたときも、家を守れるならと一度はペンを取った。けれど、書かれていたのは、行ってもいない嫌がらせと、王家の不正を捏造したという告白だった。
署名を拒んだお嬢様は、三日後に死んだ。
私が答えを知っているからといって、今のお嬢様の人生を代わりに決めてよいわけではない。
けれど、選択肢のないところで「選んでください」と言うのも、ただ見捨てるのと同じだった。
「お嬢様。国境商会との支払い確認のため、明日から五日間、お暇をいただけますか」
「帳簿に不備があった?」
「確かめたい記録がございます」
嘘ではなかった。確かめたい記録は、山ほどある。
お嬢様は私の顔を見た。六度失っても慣れなかった、物事の奥を量る目だった。
「六日目の朝までに戻りなさい。あなたは近頃、働きすぎよ」
「承知いたしました」
私は一礼し、空になった香油瓶を仕事籠へ入れた。
最初に揃えるのは、荷物ではない。
私たちの言葉を、国境の向こうで証言してくれる人だった。
◇
アルメリア領事館は、国境都市の西門近くにあった。
停戦条約の後に設けられた、灰色の石造りの建物だ。門前には両国の紋章が並び、その間を一本の鉄鎖が区切っている。
私は銀貨を使って乗合早馬を雇い、翌日の昼過ぎに門を叩いた。
「副領事のユリウス・アルヴェン様にお会いしたく存じます」
受付の書記官は、私の質素な外套と仕事籠を見た。
「お約束は」
「ございません。ですが、明後日の夜、北税関を通る荷馬車についてお伝えしたいことがございます」
書記官のペンが止まった。
「積荷目録には染料とありますが、藍樽の底板が二重になっています。中身は、停戦条約で移送を禁じられた軍用の点火石です。御者は左手の小指を欠いており、荷車の右後輪だけ新しい」
第四周で国境へ向かった夜、私たちはその荷馬車の検査に巻き込まれた。御者の顔も、樽を割ったときの焦げた臭いも覚えている。
「それを、どこで知りました」
「ユリウス様へ直接申し上げます」
一時間後、私は狭い応接室に通された。
窓際に立っていたユリウス様は、六周目で会ったときより髪が短かった。まだ私を知らない灰色の瞳が、机の上の仕事籠と、私の靴についた土を順に見た。
「未来から来た、とでも?」
私が話し終えると、彼は笑わずに尋ねた。
「信じていただけますか」
「いいえ」
返事は早かった。
「ただし、情報は確認できます。税関へ、あなたの名前を伏せて照会を出します」
彼は呼び鈴を鳴らし、書記官へ命じた。明後日ではなく今夜から、北税関の荷を監視するようにと。
「結果が出るまで、この国境都市を離れないでください」
「四日後には公爵邸へ戻らなくてはなりません」
「では、三日後の正午に来てください。正しかった場合だけ、続きを聞きます」
取引も、見返りも求めなかった。信じるとも言わなかった。
それでよかった。
三日後、応接室の机には黒く焦げた点火石が置かれていた。
「荷車の右後輪だけ新しかった。御者の左手の小指もない。樽の底から、これが十九個出ました」
ユリウス様は椅子を勧めた。
「あなたを予言者として扱うつもりはありません。確認できる事実を、正確に提供した人として話を聞きます」
「十分でございます」
私は座らず、仕事籠から一枚の紙を出した。お嬢様の婚約期間、王家による移動制限、断罪後に公爵邸へ戻された場合の危険。六周で知ったことを、見た事実と推測に分けて書いてある。
「婚約破棄の直後、クラウディア様をアルメリアへお連れしたいのです」
「婚約中は無理です」
「存じております。婚約破棄が、公衆の面前で宣言された後なら」
灰色の瞳が細くなった。
「王家の婚姻保護対象から外れる。公爵家が身柄を確保する前なら、成人女性として本人の意思を確認できる」
彼は紙の余白へ三つの丸を書いた。
「必要なのは、ご本人の意思。迫害を受ける蓋然性を示す証拠。外交官または正規代理人による受理です。どれか一つ欠けても、我が国は隣国の公爵令嬢を連れ去ったことになる」
「三つとも揃えます」
「ご本人は、亡命を望んでいますか」
答えられなかった。
ユリウス様のペン先が、二つ目の丸で止まった。
「彼女を生かしたいという、あなたの意思は分かりました。しかし、彼女の意思は代筆できません」
「承知しております」
「あなた自身も、彼女に同行すれば公爵家から追及される。必要なら、あなたの保護申請も準備します」
「私は侍女です」
「職務は、保護を断る理由になりません」
私は膝の上で指を組んだ。爪の跡が掌へ残った。
「お嬢様が助かれば、それで結構です」
「それは希望ではなく、仕事の完了条件でしょう」
彼は三つの丸がついた紙を、私の前へ戻した。
「三か月あります。クラウディア様の選択肢と一緒に、あなたの選択肢も用意してください」
その欄だけ、私は空白のまま紙を畳んだ。
◇
三か月は、紙の重さで過ぎていった。
最初に確保したのは、マリアンヌ様の被害申告書だった。
王宮文書院へ提出された原本には、「春の庭園でクラウディア様に扇を取り上げられた」とある。二週間後、王太子側近が学園へ回した写しでは、「東回廊で扇を折られ、階段から突き落とされた」に変わっていた。
日付は同じなのに、場所と被害だけが増えている。
私は王太子妃候補付き侍女として、お嬢様へ不利益な申告の閲覧を正式に求めた。原本を盗まず、文書院書記の目の前で写しを取り、原本番号と閲覧時刻を書いてもらった。
次は金だった。
王太子宮の臨時支出簿には、証人になった三人の下級官吏へ「冬季制服費」が支払われていた。真夏に、三人だけへ。
支出簿を管理する老書記は、第二周で証言を撤回した人だった。あのとき私は彼を卑怯だと思った。七周目で机の下に置かれた、息子の借金証文を見つけた。
「写しを取らせてください」と私は頼んだ。
「家族がいる」
「お名前は出しません。帳簿の頁と印章だけを、公証人に確認していただきます」
老書記は長く黙り、支出簿を閉じなかった。
三つ目は、公爵邸の執事室にあった。
断罪後の日付が空欄になった自白書。お嬢様がマリアンヌ様を害し、王家の軍需費について虚偽の告発を企てたと認める文面だった。まだ断罪も起きていないのに、署名欄だけが白く空いている。
私は持ち出さず、薄紙を重ねて文面と透かしを写した。翌朝、いつもの位置へ戻した鍵が、受け皿の上で小さく鳴った。
四つ目は、薬種商の控えだった。
公爵家の厩番名義で、眠り薬と、量を誤れば心臓を止める月眠草が注文されている。第三周で、お嬢様の茶からした甘い臭いと同じだった。
五つ目は、お嬢様自身が整えた軍需調達の照合表だった。王太子が承認した金額と、実際に北部へ届いた物資の数が合っていない。お嬢様は不正を告発するためではなく、単に誤りを正すために作った。だからこそ、王家にとって都合が悪かった。
写しは一か所に置かなかった。
一部は領事館へ。一部はアルメリア商務使節の封印箱へ。もう一部は、両国の公証人が保管した。私が捕まっても、燃やされても、三つ全部は消えない。
ユリウス様は、受け取るたびに原本の所在と取得方法を確認した。
「未来で見たから、では証拠になりません」
「分かっております」
「この購入控えは使えます。店主の署名があり、発注日は今月です」
認められた紙だけが、薄い青の封筒へ移された。六周分の恐怖は、証拠として一枚も数えられなかった。
そのことに、私は少し安堵した。
過去を信じてもらわなくても、今ここにある事実でお嬢様を守れる。
夜遅くまで照合が続いた日、ユリウス様は私の前へ温かい茶を置いた。
「立派な献身だと褒めるつもりはありません。昨夜は眠りましたか」
私は答えられず、冷めていく茶の表面を見た。
「では、それも現在確認できる危険として扱います。今日はここまでです」
彼は私の働き方を美談にせず、領事館の馬車で宿まで帰した。その厳しさの前では、少しだけ呼吸が楽になった。
資金は、亡き奥様の裁縫箱から見つかった。
護誓印を預けられた日に、お嬢様から一緒に渡された箱だ。底板の裏に、アルメリアの銀行証書と短い手紙が隠されていた。
第四周で旅支度を急いだとき、緩んだ底板が外れて初めて見つけたものだった。
『クラウディアへ。家の金ではなく、あなたが選ぶ日のためのお金です』
お嬢様の母君は、死に戻りの力より先に、娘が自分で扉を開けるための金を残していた。
私は証書を元へ戻した。使うかどうかを決めるのは、お嬢様だった。
断罪まで、あと七日。
朝支度を終えたあと、私は櫛を鏡台へ置いた。
「お嬢様。お願いがございます」
「改まって何かしら」
「卒業祝賀会で、王太子殿下から婚約に関する宣言があった場合、その後の一時間だけ、私にお預けいただけませんか」
お嬢様は振り返らなかった。鏡の中で、青い瞳だけが私を見た。
「何をするつもり?」
「お嬢様が選べる場所へ、お連れします」
「選択の中身を伏せたまま、信じろと言うのね」
「はい」
無礼な願いだった。侍女が主人へ求めてよい信頼の量を越えている。
私は言葉を足さなかった。
お嬢様は鏡台に置かれた櫛を手に取り、銀の歯に残った金髪を一本、指で外した。
「あなたが私的な願いを口にしたのは、初めてね」
「申し訳ございません」
「謝罪を求めているのではないわ」
櫛が、鏡台へ戻された。
「一時間だけ、あなたに預けます。ただし条件がある」
「何なりと」
「私の意思を聞かず、国外へ運ばないこと。たとえ、あなたがそれを私のためだと思っていても」
私は深く頭を下げた。
「お約束いたします」
その約束だけは、何度死んでも破ってはならないと思った。
◇
卒業祝賀会の大広間には、春の花が飾られていた。
白い百合。青い小花。王太子殿下の招待状と同じ色だった。
お嬢様は銀糸の入った濃紺のドレスで、王族席の前に立っている。私は三歩後ろに控え、袖の中の封筒を確かめた。
薄い青が一通。白が三通。
会場の西側には、アルメリア商務使節のセレム書記官がいた。通商更新の立会人として招かれた正規代理人だ。彼の胸元には、ユリウス様から預かった銀の認証章が光っている。
全員が揃ったところで、エドアルト王太子殿下が立ち上がった。
「クラウディア・フォン・ローゼンベルク。そなたとの婚約を、本日この場で破棄する」
広間の空気が、待っていたように動いた。
驚く声は小さい。多くの者が、何が始まるか知っていたのだろう。
王太子の傍らで、マリアンヌ様が青い扇を胸へ抱いていた。
「そなたは長きにわたり、マリアンヌへ身分を笠に着た嫌がらせを行った。扇を壊し、階段から突き落とし、私への書簡を奪った」
「証拠を拝見しても?」
お嬢様の声は、朝の執務報告と変わらなかった。
「被害者がここにいる。それ以上の証拠が必要か」
「必要です。最初の申告では、場所は春の庭園、被害は扇を取り上げられたことのみでした。後に東回廊と階段が加えられています。同じ時刻、私は王妃陛下の執務室におりました」
王妃付きの女官が、壁際で目を伏せた。
「今さら記録の瑕疵をあげつらい、被害を受けた令嬢をさらに傷つけるのか」
王太子殿下は、原本の番号を尋ねなかった。王妃付き女官にも確認しなかった。
「そなたの冷酷さは、そういうところだ」
マリアンヌ様の扇が震えた。泣いているように見せるためか、本当に怖くなったのか、私には分からない。
お嬢様は一度だけ、父君を見た。
ローゼンベルク公爵は、娘ではなく王太子へ頭を下げていた。
「殿下のご決断を、我が家は重く受け止めます。娘は直ちに屋敷へ連れ帰り、事実を確認いたしましょう」
事実を確認するための自白書は、もう執事室に用意されている。
王太子殿下が右手を上げた。
「婚約破棄は、ここに成立した。クラウディアを下がらせよ」
その瞬間、セレム書記官のペンが紙を走った。
時刻。場所。宣言者。婚約の終了。
断罪は終点ではない。
今、扉が開く。
公爵家の侍従が、お嬢様の腕を取ろうとした。私は三歩の距離を詰め、その間へ入った。
「退きなさい、アニエス」
公爵の声が飛んだ。
私は主人ではなく、お嬢様を見た。
「お嬢様、亡命なさってください。必要なものは、すべて用意してございます」
広間が静まり返った。
お嬢様の青い瞳が、初めて大きく揺れた。
「亡命?」
「王太子殿下との婚約は、たった今、公衆の面前で破棄されました。お嬢様は王家の婚姻保護対象ではございません。今なら、ご自身の意思でアルメリア王国へ仮保護を申請できます」
「馬鹿なことを!」
公爵が一歩進んだ。
「娘は混乱している。その侍女を取り押さえろ」
セレム書記官も同時に進み、私たちの脇へ立った。
「私はアルメリア王国副領事の正規代理人です。申請意思がある場合、この場で予備受理を行います」
公爵家の侍従が止まった。
お嬢様は私だけを見ていた。
「屋敷へ戻れば、私はどうなるの」
私は息を吸った。
この答えだけは、柔らかく包んではならない。
「虚偽の自白書へ署名を求められます。拒めば監禁されます。その後、命を奪われます」
「なぜ、あなたに分かるの」
「六度、見ました」
お嬢様の唇が、わずかに開いた。
「一度目は、お嬢様ご自身が。二度目は馬車の事故で。三度目は毒で。それでも救えず、方法だけが変わりました」
袖の中で、白い封筒の角が掌へ食い込んだ。
「今が七度目です。もう次はございません」
「クラウディア!」
公爵の声が、広間を打った。
「家へ戻れ。侍女の妄言に惑わされるな」
お嬢様は父君を見た。次に、王太子殿下を見た。
「殿下。私が王家の軍需費について知っていることを、口外しないと誓えばよろしいのですか」
「今は、そのような話をしているのではない」
「お父様。執事室に、私の自白書があるのですか」
「家で話す」
二人とも、否定しなかった。
お嬢様は目を閉じた。ほんの二呼吸だった。
目を開けたとき、肩を飾っていた公爵家の薔薇章を、自分の手で外した。
「アニエス。一時間だったわね」
「はい」
「選択肢を見せなさい」
差し出された手を、私は両手で取った。
引いたのは私ではない。
最初の一歩を踏み出したのは、お嬢様だった。
◇
商務使節の馬車が祝賀会場を出たのは、婚約破棄の宣言から二十二分後だった。
青地に銀鳥の紋章を掲げた外交用馬車だ。扉には封蝋を押した予備受理証が掛けられている。
正式な亡命は、まだ成立していない。
セレム書記官が受け取ったのは、お嬢様が審査を望むという意思だけだ。国境手前の領事館分室で説明を受け、書類へ署名し、ユリウス様が証拠を確認して初めて仮保護となる。
お嬢様は向かいの座席で、青い封筒を読んでいた。
亡命した場合に失うもの。家名。相続権。王太子妃候補としての地位。ローディス国内に残る財産の大半。
私に都合のよいことだけは、書かなかった。
馬車が西街道へ入ったところで、後方から蹄の音が聞こえた。
セレム書記官が窓の覆いを細く開けた。
「公爵家の早馬です。予想より早い」
「北の石橋を渡れば、追いつかれません」
私はすぐに答えた。第五周で使った道だ。石橋の手前で馬を替えれば、明け方までに分室へ着く。
御者台から、短い鐘が二度鳴った。
馬車が速度を落とす。
「前方封鎖」
御者が小窓越しに告げた。
「石橋に王家の守備隊が出ています。橋脚の点検を名目に、全車両を止めています」
六度のどの周回にもなかった。
私が早く動いたから、公爵家も早く動いた。私の知っている未来は、私自身がもう壊している。
「南へ回れば、小麦街道があります。ですが――」
「昨夜の雨で低地が沈んでいるわ」
お嬢様が封筒から顔を上げた。
「三日前、王太子妃教育で河川報告を読みました。荷馬車ならともかく、この車輪幅では泥に取られる」
私は膝に広げた地図を見た。過去に通った道へ付けた印は、どれも使えない。
指が地図の上で止まった。
「アニエス」
お嬢様が、私の手元へ自分の指を置いた。
「今の道を見ましょう。過去の道ではなく」
セレム書記官が地図の西端を指した。
「葡萄農園の間に、古い塩運びの道があります。狭くて外交馬車は通れませんが、二頭立ての荷馬車を契約して待たせています」
領事館が用意した、二つ目の移動手段だった。
「乗り換え地点まで、四十分です」と彼は続けた。「決めるのはクラウディア様です。橋で王家の守備隊へ事情を説明することもできます」
お嬢様は窓の外を見た。後ろの蹄音が近づいている。
「塩運びの道へ。外交官に娘を奪われたという形にはしたくありません。私が選んだと、御者にも記録させてください」
「承知しました」
セレム書記官が時刻と発言を書き留めた。
馬車は次の分かれ道で進路を変えた。
葡萄農園の納屋で、私たちは飾りのない荷馬車へ乗り換えた。商人が樽を運ぶための車だ。外交紋章はない。その代わり、御者と農園主が立会記録へ署名した。
車輪が土の窪みを拾うたび、座面が跳ねた。
お嬢様は手すりをつかみ、しばらく黙っていた。
「六度、私は死んだのね」
「はい」
「一度目は、自分で?」
私は荷台の板目を見た。
「自白書への署名を拒んだ三日後、寝室で亡くなりました。二度目は護送馬車の車軸が折れました。三度目は離宮のお茶に毒が。四度目は断罪前に国境を目指し、私が誘拐犯として捕らえられました。五度目は手続きがなく、追手に連れ戻されました」
「そして六度目が、矢」
「国境まで、二十歩でした」
荷馬車の外で、乾いた枝が幌を擦った。
「私は、あなたの話を信じなかったこともあるのでしょうね」
「記憶のないお嬢様に、責任はございません」
「では、記憶のあるあなたには?」
「私、でございますか」
「あなたは六度、私を失った。六度、死ぬところを見た。それを全部抱えたまま、今朝も私の髪を結っていたのね」
お嬢様は私の手を取ろうとして、途中で止めた。
「触れてもいい?」
私は返事をしようとした。
けれど、喉が閉じた。代わりにうなずくと、お嬢様の両手が私の冷えた指を包んだ。
「あなたも、助けられる側よ。アニエス」
役に立つための手が、何も持てなくなった。
私は手を引かなかった。
過去に印を付けていない道を、荷馬車は国境へ向かって進んだ。
◇
国境分室の時計は、翌朝六時を指していた。
灰色の建物の前に、ユリウス様が立っていた。私たちの荷馬車を見ると、駆け寄りはしたが、扉を勝手に開けなかった。
「クラウディア・フォン・ローゼンベルク様。アルメリア王国副領事、ユリウス・アルヴェンです。亡命制度の説明を受ける意思はございますか」
荷台から、お嬢様が答えた。
「あります」
その一言を確認してから、扉が開かれた。
分室の中には、小さな机が三つ並んでいた。
一つ目には亡命申請書。二つ目には家名と相続権の返上書。三つ目には、私が自分の命令で同行したと示す宣誓書。
どれにも、まだ署名はない。
ユリウス様は椅子を引き、お嬢様と同じ高さへ座った。
「選択肢を先に申し上げます。申請せず、ローディス王国へ戻ることができます。その場合も、この分室を出るまでは誰にも身柄を渡しません」
「申請した場合は」
「審査中の仮保護を与えます。アルメリア国内へ移り、事情聴取を受けていただきます。ローディスの家名と相続権を保持したままでも申請はできますが、公爵家が帰還要求の根拠として使う可能性があります」
「返上すれば、二度と戻らないと示せるのですね」
「はい。ただし、返上は亡命の条件ではありません。決めるのはあなたです」
お嬢様はアルメリア語で書かれた申請書を、自分で読み始めた。
王太子妃になるために学んだ言葉で、王太子妃ではない人生を選ぶ書類を読む。
途中で二か所、文言の意味をユリウス様へ尋ねた。ユリウス様は答えを急かさず、審査官と公証人にも同じ説明をさせた。
「一つ加えてください」
お嬢様が三枚目の宣誓書を指した。
「アニエスは私を誘拐していない。私が説明を求め、同行を選び、ここまで来た。今後、私が拘束下でこれを撤回しても、その撤回には効力を持たせないこと」
「公証済み意思確認として付記できます」
書記官が新しい紙を用意した。
お嬢様は内容を読み返したあと、亡命申請書へ署名した。
羽根ペンの先が、クラウディアという名を形にする。
次に、家名と相続権の返上書。
フォン・ローゼンベルクと書かれた箇所で、ペンが一度止まった。
私は何も言わなかった。
お嬢様は自分でインクを足し、最後まで署名した。
最後に、亡き奥様の銀行証書と手紙を読んだ。領事館が立て替えた馬車代と、当面の生活費だけを引き出すよう、お嬢様自身が指示書へ金額を書いた。公爵家の金には、一枚も触れなかった。
三枚目には、私の名が書かれた。
「アニエスは、私が選んだ同行者です」
ユリウス様が証拠の青い封筒を開いた。
改竄前後の申告書。金の流れ。断罪前に作られた自白書。毒物の購入記録。軍需調達の照合表。
商務使節の婚約破棄記録と、公証人の証明も重ねられた。
三つの条件が、机の上に揃った。
ユリウス様は銀の印章を持ち上げた。
「アルメリア王国の名において、クラウディア様へ仮保護を認めます」
朱肉の印が、保護証へ押された。
乾くまでの短い時間、誰も紙に触れなかった。
ユリウス様が二枚目の申請書を私の前へ置いた。
「アニエスさん。あなたも申請できます」
「お嬢様のお側に」
「それは、どの国でも選べます。あなた自身は、何を望みますか」
空欄の希望欄が、白く残っていた。
「まだ、分かりません」
初めて、仕事の言葉で埋めなかった。
「では、分からないと書いてもいい。決める時間を守るのも、保護の役目です」
私は自分の名前だけを署名した。
希望欄は空白のまま、受理された。
ユリウス様が申請書を封筒へ収める指を、私は少し長く目で追っていた。
副領事として何をしてくれるかではない。仕事を終えたあと、どんな茶を飲み、何を話す人なのか。そんなことを知りたいと思ったのは、初めてだった。
◇
蹄の音が分室を囲んだのは、朱肉が乾いた直後だった。
窓の外に、公爵家の黒い騎士服が並んでいる。二十人。先頭の騎士団長は、抜剣こそしていなかったが、右手を柄へ置いていた。
「ローゼンベルク公爵の命令である。令嬢を誘拐した侍女アニエスを引き渡し、クラウディア様を保護する」
扉越しの声に、私は立ち上がった。
ユリウス様が先に首を振る。
「ここからは、私の仕事です」
彼は保護証を持ち、分室の玄関へ出た。お嬢様も続く。
私は三歩後ろへ下がろうとした。
お嬢様の手が、それを止めた。
「隣にいなさい」
玄関灯の下で、ユリウス様が保護証を開いた。
「クラウディア様は成人であり、本人の自由意思により亡命を申請しました。申請は正規代理人が予備受理し、迫害の証拠と身元を当職が確認しています。現在、アルメリア王国の仮保護下にあります」
「公爵には、娘を家へ戻す権利がある」
「成人した令嬢の意思を越えて行使できる家長権はありません。まして、家名と相続権は本人が返上しています」
騎士団長の目が私へ向いた。
「その署名は、侍女に脅されて書かされたものだ」
ユリウス様は、署名の経緯を記した紙を示した。
「説明時には審査官、公証人、ローディス人の農園主、アルメリア商務使節の書記官が立ち会いました。クラウディア様には帰還を含む選択肢を提示しています」
「外国人が何を記録しようと、我が国の公爵令嬢であることは変わらない。クラウディア様、馬車へお戻りください。公爵閣下も、あなたの名誉を回復するために必要な手続きだと仰せです」
騎士団長が一歩踏み出した。
お嬢様が、私の前へ出た。
今まで、私が立っていた場所だった。
「私はもう、ローゼンベルク公爵令嬢ではありません」
青い瞳が、二十人の騎士を正面から見た。
「家名も、相続権も、王太子妃候補の地位も、自分の意思で返上しました。アニエスは私を連れ去っていません。私が説明を求め、私が亡命を選び、同行を命じました」
「しかし、閣下は――」
「父の都合を、私の意思と呼ばないで」
声は高くなかった。
それでも、騎士団長の足が止まった。
「屋敷には、私の署名だけを空けた自白書があります。我が家の厩番名義で注文された毒物もある。戻れば保護されるというのなら、なぜ断罪前からその二つが用意されていたのです」
騎士団長の喉が動いた。
ユリウス様が青い封筒を掲げる。
「証拠の写しはすでに三か所で保全されています。この分室を制圧しても消えません。ここで彼女を拘束すれば、外国の仮保護下にある成人女性の拉致、外交官への職務妨害、停戦条約違反として記録します」
「脅すつもりか」
「結果を説明しています。選ぶのはあなたです」
分室の書記官たちが、玄関脇の机でペンを構えている。騎士の数、時刻、発言。すべてが紙へ落ちていく。
騎士団長は懐から命令書を出した。
公爵の赤い封蝋が、玄関灯に照らされた。
「命令は、令嬢と侍女を必ず連れ戻せというものだ。抵抗した場合は、必要な拘束を認めるとある」
ユリウス様は命令書へ触れず、封蝋と文面を見た。
「公爵本人の印章ですね。提示いただいた越権命令も、迫害の追加証拠として記録します」
騎士団長が、自分の手にある紙を見た。
命令に従うための紙が、そのまま命令者を追及する証拠になっていた。
長い沈黙のあと、彼の手が剣の柄から離れた。
「……撤収する」
「団長!」
「これ以上は、騎士団の任ではない」
二十頭の馬が向きを変えた。黒い騎士服の背中が、一つずつ朝靄へ消えていく。
最後の蹄音が聞こえなくなるまで、お嬢様は私の前に立っていた。
国境門が開かれた。
白い標石の向こうへ、アルメリアの外交馬車が待っている。
私は歩数を数えなかった。
一歩。もう一歩。
六周目に血が落ちた場所を、自分の靴で越えた。
胸元の護誓印を握った。
冷たい。
花弁はない。光もない。もし今ここでお嬢様を失えば、もう春の朝には戻れない。
けれど、お嬢様は隣に立っていた。
息をしている。
明日も生きる人の手が、私の肩へ触れた。
「アニエス」
返事をしようとした途端、視界が滲んだ。
私は六度、お嬢様が息を止めるまで泣かなかった。次の朝に確かめるものを覚えるためだった。茶の甘い臭い。折れた車軸。矢が飛んできた方角。護誓印が熱を持てば、また春の朝へ戻された。
今は、次に戻る朝がない。
お嬢様が私の身体を支えた。
「もう、立っていられないときは言いなさい」
「侍女が、主人にもたれかかるわけには」
「今だけは、主人ではなく、あなたに六度救われたクラウディアとして支えさせなさい」
少しだけ、昔の軽口の響きが戻っていた。
「それに、今日は私があなたを支える番よ」
私は護誓印を握ったまま、お嬢様の肩へ額を預けた。
銀板は、最後まで光らなかった。
それでよかった。
◇
六か月後、朝の光が二階の小さな部屋へ差し込んでいた。
私はクラウディア様の髪を梳いていた。
公爵家の鏡台ではない。私たちが借りた家の、少し脚の短い鏡台だ。引き出しは湿気で固く、右の取っ手を上へ持ち上げないと開かない。
家賃の前払いには、亡き奥様が残した緊急資金を使った。証書の名義を確かめ、引き出し額を決め、受領書へ署名したのは、すべてクラウディア様自身だった。
「今日は青いリボンにして」
「外務記録院のお仕事に、リボンの色は影響いたしません」
「影響しないから、好きな色を選べるのよ」
クラウディア様は先月、アルメリア王国の官吏登用試験に合格した。
今は外務記録院で、ローディス語の外交文書を翻訳している。午後には、亡命を申請する女性の聞き取りも担当する。家名ではなく、読み書きと法の知識で得た仕事だった。
私は領事館の記録係になった。仮保護申請の番号を振り、証拠の写しを分け、原本が一か所へ集まらないよう管理する。毎月、自分の名が書かれた給与明細を受け取っている。
朝の髪結いだけは続けていた。
雇用契約にはない。クラウディア様も、私の給金を払っていない。同じ家で暮らす家族として、私が選んでしている。
「ローディスから、また書簡が来ています」
鏡台の端に、赤い封蝋の手紙と、灰色の冊子があった。
亡命時に保全した証拠は、停戦条約委員会とローディス議会へ渡った。改竄された被害申告、断罪前の自白書、毒物購入、国境での越権命令。調査が始まると、王太子宮の支出簿からも同じ名がいくつも出た。
灰色の冊子は、両国合同審理の記録だった。
私は、栞の挟まった頁を開いた。
『最初の申告では、被害場所は春の庭園です。なぜ二週間後の写しでは、東回廊の階段へ変わったのですか』
委員の問いに、マリアンヌ様は三度、答えを変えていた。最後には、王太子側近から「階段から落とされたと加えれば、殿下が信じてくださる」と言われたことを認めた。
『では、クラウディア様に突き落とされた事実は』
『……ありません』
次の頁では、エドアルト殿下が問われていた。
『虚偽の可能性を知った後も、原本を確認せず断罪を続けた理由は』
『私は、被害を訴える令嬢を守ろうとしただけだ』
『証人三名への冬季制服費は、真夏に殿下の承認印で支払われています』
『それは側近が勝手に――』
『支出簿には、殿下の再確認署名もあります』
その後の発言欄には、長い沈黙とだけ記されていた。
ローゼンベルク公爵は、娘を守るために自白書と拘束命令を用意したのだと主張した。委員から、なぜ守る相手の署名欄を空けた自白書と、致死量になり得る薬草を断罪前に用意したのか問われると、回答を拒否した。
エドアルト殿下は王位継承権を停止された。
マリアンヌ様との婚約話は白紙になり、彼女は虚偽申告を認めて実家へ戻った。
ローゼンベルク公爵は要職を解かれた。娘を取り戻すためではなく、調査で不利になる証言を国外から引き戻すためだったと、越境命令書が示してしまった。
私たちは誰にも罰を求めなかった。
それでも三人は、自分で残した署名と、自分の口で答えられなかった事実によって、他人の人生を決める地位を失った。
今朝届いた手紙には、名誉を回復するので帰国するようにと書かれている。
クラウディア様は最後まで読み、裏返した。
「返事をお願いします」
「どのように」
「帰りません。今日も仕事があります、と」
「それだけでよろしいのですか」
「十分よ」
私は便箋を一枚出した。長い弁明も、復讐の言葉も要らなかった。
玄関の呼び鈴が鳴った。
階下へ降りると、ユリウス様が細長い包みを持って立っていた。
「記録係のアニエスさんへ、書類を届けに来ました」
「副領事自ら、でございますか」
「私用もあります」
包みの中には、領事館で使う新しい記録簿が二冊入っていた。その間に、小さな茶店のカードが挟まっている。
ユリウス様は玄関の外で、私が読むのを待った。
「半年間、あなたが仕事を決め、暮らす場所を決めるのを見てきました」
「はい」
「今度は職務ではなく、一人の女性としてお尋ねします。明日の勤務後、私とお茶を飲んでいただけませんか。まずは二人で話すところから始めたい」
保護の対価ではない。
公爵令嬢の侍女だからでもない。
返事を急かさず、断る場所も残された誘いだった。
私は二階を見上げかけた。
長く身についた動きが、首を半分だけそちらへ向けた。
けれど、許可をもらう必要はない。
「明日の勤務は、五時までです」
「では、五時半に」
「はい。私の意思で、お受けいたします」
ユリウス様は笑った。大きく喜ぶのではなく、受理した書類を大切に扱うときのように、静かにうなずいた。
階段の上から、クラウディア様の声がした。
「アニエス。私に報告はないの?」
「許可を求めるところでございました」
「そう」
「ですが、やめました。明日の勤務後、ユリウス様とお茶を飲んでまいります」
青いリボンを結んだクラウディア様が、手すり越しに笑った。
「それなら、帰りは少し遅くなるわね。夕食は私が用意する」
「料理はおやめください」
「失礼ね。卵くらい焼けるわ」
「先週、殻ごとフライパンへ落とした方のお言葉とは思えません」
「では、帰りにパンを買うわ。それなら燃えないでしょう」
公爵家にいた頃、お嬢様の一日は分刻みで決められていた。私も、その予定を守るために生きていた。
今は、クラウディア様には自分で選んだ仕事がある。
私には、勤務を終えた後の約束がある。
鏡台の引き出しには、花弁の消えた護誓印がしまってある。もう未来を示さない、ただの銀板だ。
明日、何が起きるかは分からない。
それでも私たちは、自分で選んだ朝の支度を終え、それぞれの扉を開けた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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