第2章
車両が不規則に揺れている。
俺は吊り革を掴みながら、隣に立つ、同じ校服の半袖を着た二人の女子高生を見ていた。彼女たちは楽しそうに話し合っている。青春そのものの姿と、微かな洗濯洗剤の香りが漂ってくる。江之影のチョコレートのような甘い香りとは、全く違う匂いだった。
「今朝、ニュース見た?」
一人の女子が急に声を潜めて、神秘的に言った。
「え?見てないよ?」
「今日未明、XX中学の近くで人が死んだんだって!超怖いよね、下半身だけの遺体で、血が一面に広がってたって。」
「えっ、マジ?怖っ。」
「そうそう、それでさ、うちの母さん、朝から父さんを起こして車で送らせようとしたんだよね。まあ、それは置いといて――そういえば、昨日あんたに送ったあのダンス動画、見てくれた?」
「うん!本当に超豪華だったよね!」
話を切り替えるスピードが速すぎる、と俺は思った。
他人が失った一生は、ただの一言で片付けられる。感嘆のため息で終わる、意味のない世間話に過ぎないのだ。
それでも俺はスマホを開き、ニュースをチェックした。画面の一番上に表示されたのは、先ほど彼女たちが話していた「半身死体事件」。その場所は――確かに、俺と江之影が昨日行ったあの中学の近くだった。校庭の裏にあの駐車場がある、あの中学だ。
心臓のあたりに、不意に冷たい手のひらが触れたような予感が走った。腹の底をぎゅっと押される感覚だ。
まだ昨日の今日だというのに。俺たちが都市伝説を探検し、汗だくになって何も見つけられなかった――その数時間後に、こんな残酷な事件が起きたのだ。
記事を一行ずつ読み進めるが、内容は場所と発生時間だけが簡単に書かれているだけで、それ以上の詳細は一切なかった。警察がまだ有効な手がかりを掴んでいないのか。それとも――社会的不安を避けるために意図的に情報を伏せているのか。
江之影。ふと、あの日の閃光が蘇る。彼女の興奮した表情、柔らかな手のひら、そしてチョコレートのような甘い香り。
電車が止まった。空気の排出音と共にドアが開き、まだ収まらぬ熱気が全身を包み込んだ。
今日、江之影は学校に来ていなかった。
前方の、ぽっかりと空いた空席を見つめながら、胸のざわつきは強まるばかりだった。昨日の今頃なら、彼女は必死に何かを書き綴っていたというのに。
俺の知る限り、江之影は高校生活のたった二日目でサボるような奴ではない。ましてや、こんなに遅刻するなんてありえない。昼休み、弁当の香りが教室中に混ざり合う中、彼女の姿はなかった。
放課前の最後の国語の授業が終わるまで、彼女は現れなかった。
ひどく不安な気持ちを抱えたまま、秒針と短針が交錯する時計を何度も見返し、一時間おきに彼女にメッセージを送り続けていた。だが、そのどれもが海に投げた石のように、音沙汰はなかった。まるでこの世に存在しないかのように。
そんな気の遠くなるような一日を耐え抜き、放課後、俺は担任のオフィスのドアをノックした。
冷気が俺を室内へと引き込む。事務室特有のインクの匂いと、紙のほのかな木の香りが漂っていた。
担任の先生は、大学を卒業したばかりに見える若い女性だった。物腰は柔らかく、どこかいい匂いがする――もしかして、女性というのは生まれつき、みんなこういう匂いがするものなのか?
俺の気配に気づくと、顔を上げ、眼鏡のフレームを中指で押し上げた。
「何か用かな、斉くん?」
彼女はまだ二日目だというのに、もう俺の名字を覚えていた。それだけで少し、この先生への好感が湧いてきた。
「江之影さんが今日、一度も学校に来ていないんです。先生は何かご存知ですか?」
本来なら、休む場合は必ず担任に連絡を入れるはずだ。もし連絡がなくとも、担任が保護者に確認を取るのが普通だ。
しかし担任は首を振った。
「分からないんだ。江之影さん本人からも、ご両親からも、何の連絡もないの。もし明日もまだ来なければ、私が直接、家まで様子を見に行こうと思っているわ」
その口調にも、不安の色が滲んでいた。
俺は少しだけ焦って、心臓が肋骨の内側で何度も強く脈打った。
「先生、彼女の住所を教えていただけませんか。どうしても、直接確認したいんです」
新しいクラスを受け持った担任なら、長い夏休みの間に各家庭を一軒一軒、家庭訪問するのが通例だ。ならば当然、江之影の住所も把握しているはずだ。
担任は一瞬、驚いたように俺のことをじっと見つめ直した。ただ、その視線は以前のような不快感を与えるものではなかった。
「もしかして、彼氏さんだったりする?」
「えっ――」
俺は慌てて首を振った。いや、心の中ではこの勘違いに少し――いや、かなり嬉しさを感じていたのだが――否定しなければならないだろう。
「い、いや、違います!俺たちは同じ中学から来ただけで、ただの友達です」
彼女は頷いたが、どうやら俺の言い分はあまり信用していないようだった。
それでも彼女は、付箋を一枚抜き取り、ボールペンで流れるような文字をサラサラと書きつけ、俺に手渡した。
「これが住所。もし会えたなら、必ず私に電話を入れてほしい。なぜ学校に来られないのか、それを教えてあげて」
俺は礼を言い、受け取ったメモを握り締めて、すぐに学校を飛び出した。風を切るように走り、電車に飛び乗る。
荒い息を整えながら、スマホで彼女の住所を検索し、吊り革に掴まって揺れる車内で必死にバランスを取る。どうやら十一駅ほど先の、この街に十六年も住みながら一度も訪れたことのない、かなり辺鄙な場所のようだった。
電車が川底を潜るトンネルに吸い込まれる。窓の外の風景が一瞬で闇に奪われた。トンネルを抜けると、ずっと続いていた繁華街の景色は途切れ、農村地帯の黄金色の麦畑が広がっていた。立ち並ぶ緑が所々にアクセントを添えている。もし今のこの焦りがなければ、窓の外をじっくりと楽しむ余裕もあっただろう。
視界を窓の外からスマホへと、何度も往復させる。江之影からの返信が、今にも画面をポップアップするんじゃないかと期待しながら。
どうしてここまで心配しているんだろう、と自分でも思う。昨日だって、彼女はあんなに元気だったじゃないか。大丈夫に決まってる。あいつは細やかで、それでいて大胆な奴なんだから。
ゴトンゴトンと、カーブを曲がるたびに車輪がレールを擦る。
駅に停車するたび、短いブレーキの時間が逆に、会えない焦りと募る想いを加速させていく。もしかすると、これが小説の中で言うところの「相愛」の気持ちなのかもしれない。
幸い、彼女の家は最寄り駅から二キロほどだった。
ねっとりとした熱気の中をひたすら走る。肌にまとわりつく汗の感触。喉元に込み上げる鉄錆びの味。地面を一歩一歩蹴る摩擦が、彼女との距離を縮めていくのを感じる。
手には、さっき駅のそばのスーパーで買った甘味の箱を提げていた。道すがら買った、餡子と抹茶の団子だ。江之影は昔から、こういう胸焼けしそうなほど甘ったるいものを好んで食べる。そして毎回、俺の口にも一切れ押し込んで、こう言うのだ。
「美味しいんだから、ね?」
あの、とても愛らしい彼女の姿が目に浮かぶ。
喉がカラカラに乾く頃、とある十字路の角に、二階建ての薄い黄色の家を見つけた。壁は風雨に晒されて元の白っぽさが露出し、周囲には同じような古びた家々が不格好な輪を作っている。
家の前には小さな庭があった。大した植物はないけれど、雑然とはしていない。家主の几帳面さが伺える。
外側の木戸を押し開け、短い石畳を進み、玄関の前に立った。
グレーのドアは閉ざされている。すぐ横の、綺麗に磨かれた窓からはリビングの一角が覗けた。
布張りのソファが壁際に置かれ、小さな木の机には花柄のテーブルクロスがかかり、周囲に二脚の小さなスツールがある。見えるのはそれだけだ。質素だが、とても清潔だった。おそらく、江之影の母親が掃除をしているのだろう。
インターホンを押そうと手を上げたが、急に怖気付いた。これが俺にとって、初めての「女の子の家に押しかける」という行為だったからだ。しかも、よりによって江之影の家だ。両親に会うのだろうか?なんて呼べばいいんだ?
チャイムの音が、一枚の壁を隔てた室内にこだまし、すぐに消えた。
足音は聞こえない。迷った末、スマホを取り出して江之影に電話をかける。耳に馴染んだエレキギターの着信音がただ虚しく流れ、やがて留守番電話の音声が流れた。
「……江之影です。メッセージをお願いします」
留守電が切れるのを待って、もう一度インターホンを押した。落ち着かず、ドアの前を行ったり来たりしながら、江之影が今すぐ飛び出してきて、この閉ざされたドアを開けてくれることを願った。
しかし家の中はしんと静まり返り、甲高いチャイムの音だけが、独りぼっちで彷徨っているようだった。
「兄ちゃん、待ちなよ。あの家の奥さん、今朝、警察に連れて行かれたんだよ。お嬢ちゃんを探してるのかい?多分、まだ学校から帰ってないんだろうね」
振り返ると、泥だらけの新鮮な野菜を腕いっぱいに抱えた中年の女性が、庭の外に立っていた。
俺は早足で彼女の前に駆け寄った。
「どうして――?何があったんですか?その家の娘さん、今日は学校にも来てないんです」
彼女は首を振り、辺りを見回してから、声を潜めて耳打ちするように言った。
「今朝、警察が来て、この家の奥さんを連れて行ったんだよ。なんでも、旦那さんが……亡くなったらしい」
袋を掴んでいた手から力が抜け、菓子折りが地面に落ちた。風が吹き抜けるたび、擦れるような音が、まるで遠くの世界から聞こえてくるように感じた。全ての意識が散り散りになっていく。
「娘さんもここしばらく帰ってきてないらしくてね。奥さんもパトカーに乗せられたきり、戻ってないって話だよ」
「そんな……」
心臓が冬の湖の底に押し込められたような気がした。冷気が胸の中心から手足の先へと浸透し、血液が刺すように冷たい。
「可哀想にねぇ。あそこの旦那さん、なかなかのギャンブル狂だったみたいで。あっちに停まってた車も、今朝から無くなってるんだよ。多分、また賭けに使って、借金が返せなくて……その……」
殺されたのだ。彼女が言わずとも、分かった。
江之影が中学の頃に見せた、家庭の話をした時の表情を思い出す。もし俺が同じような父親を持っていたとしても、きっと口を閉ざしただろう。話せないというより、言葉にした瞬間に、自分の支えまでもが崩れてしまうからだ。
だが、殺されるだなんて、こんな白昼の下で――深く考え込むことができなかった。
しばらく、その場から動けずに立ち尽くしていた。どうやら頭が、先ほどの情報を受け入れることを拒否しているようだった。意味のある、完全な文章として認識できないでいる。
そんなはずはない。江之影……
昨日、始業式で会ったばかりじゃないか。一緒に火鍋を食べて、一緒に電車に乗った。灼熱の太陽の下で、汗だくになりながら都市伝説を探し回った。あんなに活発だった彼女が、あんなに愛らしかった彼女が、こんな風に、ただ消えてしまうなんて。
「大丈夫かい、兄ちゃん?あんた、彼氏さんだろう?もし見つかったら、ちゃんと慰めてあげなきゃダメだよ」
彼女は地面に落ちた菓子折りを拾い上げて、俺に返してくれた。パッケージには少し泥がついたが、中身はまだ壊れていなかった。
俺は否定しなかった。
そんなはずはない。江之影!
俺は上の空で道を歩いていた。流れ落ちる汗がアスファルトに染み込んでは、まだら模様の斑点を作っていく。
日差しは相変わらず痛いほどに眩しいのに、視界のすべてが灰色に霞んでいた。
気がつくと、俺はあの中学の道路を挟んだ向かいに立っていた。校舎には相変わらず蔦が絡まり、昨日と全く同じ風景だった。
傍らには、この地域で唯一の交番があった。平屋建ての白い建物で、壁のタイルですら、夕暮れに照らされて鈍く光っている。
その時だった。
中から、胸が張り裂けそうな慟哭が聞こえた。
声帯が引きちぎられるような泣き声が、焼けつくような空気を突き破って、俺の鼓膜へと飛び込んでくる。
大きく息を吸い込んだ。空気は乾ききっていて、息苦しいほどだ。
江之影の母親に会いたい。ただ、今この泣き声を聞いて、俺は少しひるんでしまった。
いや――俺はもう決めたんだ。江之影を取り戻すと。そのためには、どんな手段を使ってでも彼女の全てを探り出す。彼女を見つけ出した時、改めて、謝ればいい。
俺は足を踏み出し、交番のドアを開けた。
江之影の母親はそこにいた。車椅子に座り、長い黒髪を乱れさせ、まだ着替える間もなかったのだろう、ブルーのネグリジェ姿のままだ。はだけた襟元から、細くて頼りない鎖骨が覗き、その肩は激しく上下に震えている。
傍らには、まだ三十歳にも満たないであろう二人の警官が立っており、ティッシュを差し出しながら、何やら必死に慰めの言葉をかけていた。
俺はゆっくりと彼女の正面に歩み寄った。警官たちが一瞬、俺に視線を向ける。
何も言わずに、ただ静かにしゃがみ込むと、彼女が膝の上に置いた手のひらを、そっと包み込んだ。
冷たい。触れた瞬間、そう感じた。とても痩せ細っていて、滑らかで、骨の節が痛いほどにくっきりと感じられる。
彼女ははっとして顔を上げた。
灰色の瞳が、震えている。交番の青白い蛍光灯の下、まるで雨上がりの川石のように、熱く澄んだ涙で溢れていた。
両目とも、焦点が合っていない。
それでも、震える瞳は、私の存在を必死に探そうとしていた。
これで全てを理解した。江之影の、あの灰色の見えない左目は、母親からの遺伝だったのだ。
彼女の母親は、こんな状態でもなお――乱れきった姿でもなお――美しく、知的な女性だと分かった。江之影と七割方似ている、その唇と目元が。
やがて彼女は口を開いた。声は聞き取るのも困難なほど嗄れていて、一言一言が、声帯から無理やり絞り出されているようだった。
「あ、あなたは……?」
「齊于覓です。突然押しかけてすみません。でも……どうしてもお会いしたくて」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。彼女は無理に作ったような、痛々しい苦笑いを浮かべた。口角は必死に持ち上げられているが、それでも、笑おうとしていた。
まだ溢れ出る涙を手の甲で滅茶苦茶に拭いながら、何度も瞬きをして、俺の居場所を探そうとしている。
「齊于覓くん……家の阿影が、いつも話してたのよ。とっても面白い人だって」
俺はその言葉に、少しだけ固まってしまった。
面白い、か。
彼女の目には、俺はそんな風に映っていたのだろうか。
阿影……
今、君はどこにいるんだ。
「おばさん、どうしても聞きたいことがあるんです」
俺は簡単に状況を説明した。最後に江之影を見た時のこと、今日一日抱え続けた不安、そしてここに来た経緯。彼女はただ、静かに聞いてくれていた。
俺の話が終わると、彼女は心を落ち着けるように少し黙り込んだ。
それから、江之影の家庭に起こった、誰もが運命の不条理を嘆くであろう壮絶な悲劇を、語り始めてくれた。
まず水を一口飲み、喉を潤すと、彼女は静かに口を開いた。それはまるで、春の小川が石の上を優しく流れていくような、あたたかさのある声だった。
「もうお分かりでしょうが、私、生まれつきの障害で、両目とも見えないんです。多分、それが阿影に遺伝してしまったんでしょうね」
とても淡々とした口調だった。
「私は幼い頃に親に捨てられて、ある親切な家で育ちました。その家の男の子が、ずっと私の面倒を見てくれていたんです。それが――私の夫です」
夫のことを口にする時、不思議とその顔には、恨みよりも深い、あたたかな笑みが浮かんだ。
「十年以上、一緒に過ごしました。私たち、とても小さかった。それから結婚して、阿影が生まれたんです。私よりずっと良かった。阿影は、この世界の美しさを、ちゃんと見ることができた。……あの子が生まれた時、夫は私を抱きしめて、ずっと泣いていました」
彼女の声は、ぬるま湯に浸かったドライフラワーが、ゆっくりと美しい花びらを広げていくように響く。
「夫は、とても私を愛してくれていました」
「阿影が十四の時に、あの人が一度だけギャンブルに手を出しました。でも、たった数百元だけ。だから私も、その時は黙って見逃していたんです。すぐに、もう手を出さなくなりましたから」
「でも去年、私が大病を患って。臓器不全で、毎週のように高額な検査費がかかるようになったんです」
「最初は夫の給料と貯金でどうにか賄えていましたが、時間が経つにつれて貯金通帳のページはどんどん破られ、生活は苦しくなるばかり。一切れの魚を三人で分け合うような生活でした。でも、夫と阿影はいつも、自分の分を私に残してくれたんです」
警官は既に一度彼女から事情を聞いているようだった。それでも彼女は、自らの傷口を、再び掘り返している。
すまない、おばさん。
「そうしてついに、夫はまたギャンブルに手を出しました。多分……早く大金を手に入れて、どうにかしようと思ったんでしょうね」
彼女は言葉を詰まらせ、再び涙が込み上げてきた。俺はただ、持っていたティッシュで彼女の目尻を拭うことしかできず、紙はすぐに半分ほども濡れそぼってしまった。
彼女が俺の手を握り返す。その震えと不安が、ついさっきの俺と全く同じで、痛いほど伝わってくる。
「でも、そんなに上手くはいかなくて。すぐに給料も全部注ぎ込んで、借金まで作って、住んでる家まで抵当に入れそうになったんです」
「私のためだってことは、分かってた。でも、私と同じくらい、夫も弱って疲れきっているのが感じられた。阿影が物分かりがよくて、本当に助かりました。いつも、懸命に勉強してくれて……」
「いつからか、夫は私が触れるのを避けるようになりました。帰ってくるたびに、どんどん酷くなる異様な臭いを感じていて。そうしてある日、私が玄関で待ち構えていると……彼の袖はぶらぶらと空っぽで、湿っていて、血の匂いがしたんです。私は思わず叫んでしまいました。彼は……左腕を丸ごと失っていました」
「でも、彼は家族が二ヶ月は暮らせるほどの大金を持って帰ってきたんです」
彼女は泣き崩れた。
声にならない静かな嗚咽が、かえって彼女の絶望と無力さを、嫌というほど俺に突きつけた。
濡れたネグリジェに、ぽつり、ぽつりと落ちる涙が、一本の長い線を作っていく。
警官たちが互いに目配せをし合い、遠くへと下がった。俺は江之影の母親の車椅子を押して、ソファの近くで、できるだけ二人きりの静かな空間を作った。
「大丈夫です。おばさん、辛い過去をわざわざ俺に話さなくてもいいんです」
俺はそれでも、人を慰めるのが下手だった。江之影が怒ったり悲しんだりした時だって、ただオロオロと見ていることしかできなかった。そんな自分が嫌になる。
彼女は、心からの微笑みを浮かべた。その表情は、江之影に瓜二つの優しさだった。
「……本当に、優しいんだね。斉くん」
「斉くん」。そうやって呼んでくれたのは、江之影だけだった。不意に記憶が蘇り、危うく彼女の名前を叫びそうになる。
江之影の母親はそれからも、ぽつりぽつりと、自らの悲痛な記憶を俺の前に捧げるように語り続けた。その一つ一つが、心にズシリと重くのしかかる。
「それ以来、夫は決して私に触らせてはくれませんでした。でも、その気配は私よりもずっと弱々しくて。それでも彼は、私を慰め続けていたんです。阿影も多分、何かを知っていたんでしょう。ただ、あの子は本当に利発すぎて、何も私には言わなかったんです」
「おそらく……昨晩でしょうね。一ヶ月以上も家を空けていた夫が、私が眠っている隙に帰ってきて、阿影を連れて行ったんだと思います。どうしてそんなことをしたのか、私には分からない。阿影も、はっきりと抵抗した素振りは見せなかった。あの子の性格なら、嫌なら必ず抵抗したはずだから」
突然、彼女は顔を上げた。まるで俺のことを真っ直ぐに見据えているかのようで、俺の手をギュッと握りしめてきた。
「阿影は、まだどこかにいるはずです」
「斉くん」
「……はい」
震えている彼女の手を、強く握り返した。
「斉くんは、阿影の彼氏さんなんでしょう?なら、私なんかより、あの子の色んな面を知っているはずだわ。お願い、必ず、あの子を連れ戻してほしい。たった一人で、この家で待ち続けるのは、怖いんです」
俺は強く頷いた。彼女には見えなくとも。
彼女の言葉が途切れ、涙もそこで涸れ果てたかのようだった。
心臓が力任せに握り潰されるような苦しさで、激しい吐き気が喉を突く。必死で押さえ込んだ。
江之影の母親の、涙に揺れる瞳を見つめながら、かつて感じたことのない強い決意が胸の奥で固まっていく。
――お前は誰かのために命を懸けたことがあるか?
どこかで聞いた、そんな言葉が頭をよぎった。
立ち上がり、母親を連れていく警官たちの背中を見送る。そして、深々と一礼した。
江之影のおばさんのために。江之影のために。
そして、俺のこの胸の内の、我欲のために。
この街を隅から隅まで掘り返してでも、必ず彼女を見つけ出す。




