書店の店主 ドナの話②
「ああ……おはようございます、ビアンカさん」
朝日が登り始めたオレンジと菫色が混じり合う空を眺め、白い息を吐きながら店の入り口の前で壁にもたれて立っていたドナは、約束の時間ぴったりに現れたビアンカに目を細めて言った。
「ドナさん……おはようございます」
冬の終わりと言っても、まだまだ朝の寒さは厳しい。
マフラーに口元を埋め、鼻先を少し赤くしてふにゃりと笑ったビアンカを見て、ドナは素直に「可愛いな」と思い自然と口端を上げた。
「どうぞ」
静かにそう言って、ビアンカを中へと招き入れる。
温かい部屋の中に入ると、ほうと息を吐いてビアンカの体の強張りが解れるのを、ドナは何食わぬ顔をしながら観察した。
(……おや?)
普段ならすぐに話を始めるビアンカが、今日はやけに大人しい。
ドナは違和感を覚えながらも、それを顔には出さず、まずは彼女を自分のテリトリーの奥へ誘うことを優先した。
「すぐに用意しますから、席で待っていて下さい」
「あ……はい、わかりました」
促された通りに、ビアンカがドナの横をすり抜け、奥へ向かう。
朝摘みのミントのような爽やかな香りが鼻を掠め、ドナはさらりと揺れる彼女の髪に触れそうになる衝動をグッと抑えた。
冬に入ってからは、流石に庭での朝食会は寒すぎるので、庭と面しているキッチンの大きなガラス戸の前に椅子と小さなテーブルを並べ、外を眺めながら暖かな部屋の中で過ごしている。
カフェオレを淹れるためのミルクを鍋で温めながら、顔を向けることなく平静を装い、ドナはビアンカの気配を追った。
(そろそろ……彼女の中に、私が染み込んだだろうか)
立ち上る甘い香りの湯気を眺めながら、ドナは小さく息を吐いた。
初めて庭へビアンカを招待した日、恋心を自覚したドナは、彼女の心をゆっくり自分に向けさせることに決めた。
ビアンカは感情が顔に出やすく、良くも悪くも非常に素直だった。
ビアンカがドナに惹かれていることは、すぐに気付いていた。
交流を持ち始め、彼女が何度か自分に気持ちを打ち明けようとしていたのも知っている。
だが、ドナはそれでは満足できなかった。
(ビアンカさんは、きっとまだ私への気持ちはそれ程大きくはない。今、彼女をすぐに受け入れたとしても、ままごとのような恋で終わるはずだ)
ビアンカを自分だけの領域である庭に踏み入れさせた時、ドナは今まで得た事のないドロリとした愉悦を感じた。
さっぱりとした関係しか経験してきていないドナは、自分の執着ともとれる恋に驚いたが、ビアンカを確実に手に入れるため、湧き上がる欲望を綺麗に隠し、彼女を甘やかし、期待させ、時には突き放して心を揺さぶる事にした。
(私のことで頭をいっぱいにして、もっともっと、私を好きになればいい)
ドナの一挙一動で顔を赤くし動揺するビアンカがあまりに可愛く、彼女の反応はまるで麻薬のようにドナに甘い痺れを与えた。
(まだだ……もっと私でいっぱいになってほしい)
じっくりと時間を掛け、じわじわとビアンカを絡めとる悦びに浸り過ぎ、ドナは気付いていなかった。
素直すぎるビアンカには、彼の駆け引きは負担が大きすぎたという事に。
朝食会の間中、ビアンカは静かだった。
(普段の緊張とも違う……どうしたのだろう。流石に様子がおかしい)
完全に陽が上り、ビアンカが帰る時間も迫ってきている。
思いつめたような顔でぼーっと庭を眺めているビアンカの横顔をちらと確認し、逡巡した後、ドナは声を掛けた。
「ビアンカさん……元気がないようですけど、どうしました?」
彼女が怯えないように、話しやすいように、できるだけ穏やかに言ったつもりだった。
だが、ビクリと肩を震わせたビアンカを見て、ドナは目を見開き息を止めた。
「あ……あの、わた……し……」
小さな声を詰まらせ、途方に暮れたように眉を下げているビアンカは、顔を赤くして庭を見つめたまま、膝の上に抱えたままの本を握りしめている。
その瞳からは、ぼろ、と涙が零れ落ちた。
ドナは咄嗟にガタと音を立てて椅子から立ち上がると、焦りを滲ませ、座ったままのビアンカの正面に膝をつき、彼女の顔を見上げそっと手に触れた。
「大丈夫ですか?」
そう言って彼女の瞳を覗き込んだドナは、全てを悟った。
(──しまった。私のせいだ。私がやり過ぎたんだ)
ドナを映すビアンカの瞳は、甘い熱と強い不安が混ざり揺れていた。
どこからどう見ても、どうしようもない程の恋の熱で苦しんでいる瞳だった。
動揺するドナに、ビアンカはさらに涙を零しながらも、早く苦しみから逃れたいとばかりに震える声を振り絞った。
「あの……ご、ごめんなさい、泣くつもりじゃなくて……ドナさん、私、苦しくて……もう無理。私、ドナさんの事が──」
「待って!」
ドナは思わず大きな声で続く言葉を止めていた。
驚くビアンカが口を噤んだのを見て、ドナは俯いて大きくため息を吐くと、改めてビアンカを真っ直ぐに見つめた。
「ごめん……その続きは、私から言わせて下さい」
「え……?」
困惑するビアンカにドナは胸を締め付けられながらも、泣き顔ですら「可愛いな」と思う自分に苦笑し、困ったように眉を下げた。
「本当にごめん。あんまりにも可愛いから……意地悪し過ぎました。もっと私の事を好きになって欲しくて……でも決して、あなたを追い詰めたかった訳じゃないんです。本当です」
ドナはビアンカの頬に手を添え、伝う涙をそっと親指で拭った。
「ビアンカさん。明日も、明後日も、その次の日も、その次の日も……あなたに会いたいです。ずっと、ここにいて欲しい」
ビアンカの手は震えていた。
その手を、頬に添えていない方のドナの手が優しく撫でる。
「ずっと……ですか?」
「はい」
「もう……苦しいの……終わり、ですか?」
「そうです」
ドナはビアンカの前に跪いたまま、縋るように甘い声で言った。
「ビアンカさん、あなたが好きです。どうか、私の恋人になって下さい」
真剣に請われ、ビアンカは無理やり笑顔を作ると、そのまま嗚咽を飲み込みながらコクコクと頷いた。
春になって、ビアンカはドナの書店を兼ねた家に引っ越してきた。
ビアンカが朝食用のブリオッシュを籠に並べていると、するりと寄ってきたドナが彼女を後ろから抱きしめ、耳元で囁いた。
「あなたは私を『優しくて大人』と言っていましたけど、それは誤解です。散々我慢してきたので、これからは……覚悟しておいて下さいね?」
その言葉に一瞬で首まで赤く染めたビアンカを見て、ドナは甘やかな瞳を細め、ふっと笑った。
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