第10章
源頼朝と北条政子の長女・大姫の生涯を描いた作品です
大姫さまのこの言葉を聞くや否や、頼朝さまのお顔がうんざりした表情に変わりましたけど、感情をグッと圧し殺した低い声でこうおっしゃいました。
「義高は死んだ。十年前に」
「父上が殺したのです」
「そうかもしれんが、とにかく死んだ者は戻って来ない」
「わたしの義高さまを返してください。そうすれば、わたしは幸せになれます」
「だから死んだ者は戻って来ないと言うておろうが!」
頼朝さまは思わず大声を出されました。
「まったくおまえという奴は、いつまでも義高、義高とうるさい事ばかり言いよって」
「父上がわたしから義高さまを奪ったからです」
「おまえはわしに復讐しているつもりなのか? そうなのか? そうなのだな? それならそれで良い。わしを憎みたいのなら大いに憎めば良い。しかし、今のままの状態で、おまえはどうなる? おまえの人生はどうなる? つまらない意地を張って、死ぬまでひとり寂しい人生を送るつもりなのか? 何も無い空虚な人生を送るつもりなのか?」
「父上がわたしから義高さまを奪ったからです」
「なぜそんなに生き方が不器用なのだ、おまえは。もっと器用に生きられんのか。いつまでも死んだ人間にこだわっていても何も起きないのじゃぞ。義高の事は心の中で秘かに思っておけばよかろうが。それだけで義高は喜ぶはずじゃ。義高への思いや、わしへの復讐心はいったん横へ置いて、まずは自分の人生を楽しむことだ。一度きりのかけがえの無い人生をな。そうじゃないと、本当に損することになるのじゃぞ、おまえは」
「義高さまのいない人生なんて、わたしには無意味なのです」
「おまえは自分の考えが正しいと信じている。信じきっている。だが、おまえの考えは間違いなのじゃ。おまえはものすごく愚かな事を考えておるのじゃぞ。ただ自分ではそれに気づかないだけなのじゃ。なぜ分からんのか、おまえには、自分の愚かさが」
「わたしは自分が利口だと言ったつもりはありません」
「もう自分でものごとを考えるのはやめろ。あれこれ判断するのはやめろ。全部わしや政子の言う通りにしろ。素直に言う事を聞け。それがおまえのためだ。そうすれば、おまえは幸せになれるし、人生を無駄にしないで済む。そうすれば、後々わしらに感謝することになる。ああ、あの時、父上と母上の言葉に従っておいて良かった、とな。自分の愚かさを認める利口さ、せめてそれだけは持つようにしろ」
「利口なのは自分たちだけだと自惚れていれば良いんだわ」
「とにかく、おまえは黙って高能と結婚するのじゃ。これは父の命令だ。分かったか?」
「分かりました」
意外にも大姫さまがあっさり承諾したものですから、頼朝さまは一瞬拍子抜けしたお顔をなさいましたが、すぐに目を輝かせて、
「おお、おいち、分かってくれたか」
と喜ばれました。
「はい。父上の命令に従います」
「うん、うん、おいちは良い子じゃ」
「でも、高能さまは溺死体を嫁にもらって喜ぶかしら?」
「ん? それはどういう意味じゃ?」
「海に身を投げて死ぬと言ってんだよ、バーカ」
「はぁ?」
あっけにとられた表情で見つめる頼朝さまに向かって、大姫さまはさも愉快そうに
「わたしの死体を、どうぞ高能さまにでも誰にでも、お好きなように嫁にやってください」
そう言うと狂ったように笑いだされました。
「これを単なる脅しだとお考えにならない方が良いわよ。わたしは今この瞬間にだって死ねるのですからね」
笑いすぎたせいで目にいっぱい涙を溜めている大姫さまを、頼朝さまはムッとした表情で睨みつけていらっしゃいました。
「父上、人間にはどうしても許せない事があるのよ。我慢ならない事が。たとえ損をしてもね。そのせいで自分が破滅してもね。確かに父上の言う通り、わたしは愚か者かもしれないわ。わたしは器用に生きられない。自分の気持ちを偽って生きることが出来ない。でも、器用に生きる事がそんなに得なの? 得をすると言っても、どうせ現世でみみっちい利益を得るというだけのことでしょう? わたしはそんなものには興味がないの。そんなものでは、わたしは納得できないの。わたしは納得したいのよ、心から、すっきりと、一点の曇りも無く。父上にわたしを納得させることが出来るかしら? 無理よね。義高さまを連れて来てもらわなければ、わたしは納得できないのだから。これ以外の条件はいっさい認められないのだから。分かった? 分かったら、さっさと高能さまを都へ帰しなさいよ。どんなに長く鎌倉にいても、わたしが高能さまと結婚することなど、金輪際ありえないのだから」
頼朝さまはむっつりと黙ったまま部屋を出ていかれましたけど、去っていくその背中に向かって最後に大姫さまが、こう叫ばれました。
「それから、父上、もう一つ憶えておいてね。子供は親の操り人形じゃないのよ。都合の良い道具じゃないのよ。一個の人格を持った人間なのよ。だから、何でも思い通りに動かせると思ったら大間違いなのよ。また、時間が経てば昔の事は忘れて許してもらえるという安易な考えも捨ててね。この世には絶対に忘れられない事だってあるのですから。父上にとってはどうでも良い昔の出来事であっても、子供にとってはそれが人生のすべてだという事があるのですから」




