☆彼女の香り【トキ&トレメニア】
トキがフラワーガーデンに水を撒き始めて数週間、花の妖精たちが彼の前に姿を現すことはなかった。
トキの方もセリアに頼まれた業務を淡々とこなしているだけで、特に花や妖精に興味があるわけではない。魔力で湖の水を撒き、すぐにその場を去る。
ただ時折、セリアがつけていた香水と同じ香りが漂ってくることがあった。
そんな時、トキは彼女を思い出し、温かい気持ちになったが同時に切なくもなった。
トキは現在セリアに会うことが叶わない。
「どうしてそんなに辛そうな顔をしているのですか?」
不意に声を掛けられ、トキが見上げた先に妖精の姿があった。
「これは驚きましたね。私には無縁の存在だと思っていましたが。しかもよりによって……」
トキは艶やかに光る水色の髪を持つ妖精を凝視する。
妖精は小さいので目を凝らさないと見えにくい。
そして彼は、ガーデンの中央にある大きな水色の花々に視線を移した。
「セリア姫が使っている香水は貴方の香りでしたか」
「セリアちゃんを知っているのですか?」
「勿論。彼女に頼まれて水撒きをしているのですから」
「わあ、そうだったんですね」
妖精は嬉しそうに笑った。
「あの、お名前は?」
「……トキ」
「あ、カナンの……王子様?」
途端にトキの表情が不快なものに変わる。
「そのセリフ、聞き飽きましたよ。私はもう単なるセリア姫の臣下です。呼び捨てにしてもらって構いません。それに、貴方のほうが私より大分年上でしょう?」
妖精は小さく頷く。
「あたしはトレメニアです。確かにあなたよりはずっと年上ですけど、呼び捨てっていうのは……。これからはトキくんって呼びますね?」
「妖精というのは変わっていますね。まあ、どうぞご自由に」
トキは呆れた表情で答えた。
「トキくんが辛そうなのは、王子様じゃなくなったからですか?」
「身分は自分から捨てたのですよ」
「それなら、水撒きの仕事のせいですか? もしかして花が嫌いなんですか?」
「いいえ。ただ貴方の香りが……」
トキは途中で言葉を止め、考えるように目を伏せた。
「ごめんなさい。あたしの香りが好きじゃない人だっていますよね。でも、香りを変えることも抑えることもできません」
トレメニアの大きな瞳に、みるみる涙が溜まっていく。
「別に嫌いだとは言っていませんよ」
トキは若干目を細め、笑った。
「え?」
「ただ貴方の香りが気になるだけで」
「……意地悪です」
トレメニアは呟いた。
それからトレメニアの妖精は、トキが水撒きに来るたび必ず姿を現すようになった。
「あたし、本当はどこへだってセリアちゃんについていきたかったです」
トレメニアはそう言った。
「彼女がどこへ行ったのか分かっているのですか?」
「はい。すごく遠い、こことは全く違う別の世界です」
トキは腕を組み、呆れたようにため息をつく。
「では解りますよね。望んだところで、花の妖精が異世界に行けるはずがありません。生まれた土地から離れられず、他国へ行くのだって難しいというのに。最も何処へでも行ける私は、あっさり拒絶されましたが」
トキは自嘲気味に笑う。
「もしかしてトキくんもセリアちゃんについていきたかったんですか?」
トキは返事をしなかった。
トレメニアはトキを見つめる。
「トキくんが辛いのは、セリアちゃんがいないせいですか?」
トキは黙ったまま返事をしない。
トレメニアはまた、トキをじっと見つめた。
「ああ、トキくんはセリアちゃんのことが大好きなんですね」
「……そうですね」
トキは無表情で答える。
「あたしと一緒ですね」
トレメニアは笑った。
「そっか。あたしの香り、セリアちゃんの香りと同じだから気になったんですね」
「……悪くない香りだと思います」
トキの言葉に、トレメニアは頷く。
「セリアちゃんが大好きって言ってくれた香りですから。セリアちゃんの代わりにはなれないけれど、セリアちゃんが戻るまで、あたしがトキくんの側にいてもいいですか?」
トレメニアは小さな両手でトキの腕に触れた。
「何故? 同情なら結構です」
トキは冷たい口調で返した。
「同情……。そういう感情は……分かりません。でも、同情っていう感情はダメですか? 悪い感情ですか? それだって、きっと愛です。愛はセリアちゃんからいっぱいいっぱい貰いました。あたしが今ここにいられるのはセリアちゃんのおかげです」
トレメニアは懸命に、言葉を紡ぐ。
「だから、そんな優しいセリアちゃんに惹かれるトキくんも、優しい人なんだって思います」
「……まさか私が優しいなどと言われる日が来ようとは」
「あたし、トキくんの側にいてもいいですか?」
トレメニアは先程と同じセリフを繰り返す。
「どうぞお好きに」
トキは薄く笑い、トレメニアへ手を伸ばした。




