絡まった糸の答え
叫び、無心の叫び。
しかしその叫びは誰にも届かない。なぜならば、
「なんで誰もいないの! これはちょっと予想外だよ!」
当直員が全員無断欠勤したからである。
賄賂……じゃない、必要経費を用意していた俺の努力が全くもって無駄になってしまったじゃないか。
まぁいい。誰もいないのならそれは好都合だ。粛々と業務に励もうじゃないか。
こうやって一人で事務をこなすのはいつぶりだろうか。
現代日本であれば稀によくあるどころか日常茶飯事だが、こちらに来てからは黎明期を除けばほぼ皆無。
その黎明期でさえ、いつもソフィアさんがいた気がする。
過労状態だと俺を批判するソフィアさんだが、労働時間を真面目に計算したらたぶん彼女の方が長くなっているだろう。
最近は労務管理する暇があるから徐々に減らせてはいるけど。
そんなソフィアさんには、感謝している。
間違いなく、最も辛い時期を支えてくれたのはソフィアさんだ。
だから彼女には、迷惑はかけられない。
……目の前には「セリホス攻勢作戦における補給計画書」がある。
概案は既にできている。
予定動員数が少ないから、割とすぐに完成した。
後はこれに俺の直筆サインを入れて、作戦責任者のオリベイラに物資と共に渡せば全てが終わる。
サインすれば、セリホスの町は落ちる。俺が来てから初めて魔王軍が前線を上げる。
だが同時にそれは、セリホスにいる数多の人間を見捨てる――いや、殺すことになる。
間接的にせよ、俺の手は血に染まるわけだ。今更でもあるが。
悩んでしまっても仕方ない。
無心にサインして、他の書類と共に適当に送り出せば何も問題ない。罪悪感も何もなく、普通の業務として片付けられる。
そう、何も問題はないのだ。
自分の心にそう言い聞かせてペンを取る。
そして俺はサインを――入れられなかった。
兵站局の外から、バタバタと誰かが走っている。
廊下は走らないと言う言葉を知らなさそうな勢いで走り、
「アキラ様!」
そして彼女が、某開発局の某マッドのような勢いで、兵站局の扉が蝶番の悲鳴を挙げながら一気に開かれたからだ。
「……ソフィアさん? な、なんで?」
なんで? 今日当直じゃない……ま、まさか俺の完璧なサビ残がばれた?
そうに違いない。ソフィアさんが、顔を真っ赤にしながら近づいてくるのだから。
「お、怒ってます?」
ついそう聞いてしまったが、怒っているに決まってる。
顔を赤くし、ずかずかと駆け寄る彼女の姿を見てそう思わない奴はいない。と思う。
「怒ってますよ!」
予想通りの答えが返ってきた。
でも彼女が近づいてくるにつれて、その細かい表情が明らかになった。
ソフィアさんが、とても悲しそうに泣いていたのだ。
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私は、泣いていました。
走りながら泣いていました。
なぜ泣いているのか、わかりません。
感情の昂りがそうさせたのかもしれません。
ただ、言いたいことがある。伝えたいことがある。
先ほどまで絡まっていた複雑な感情の糸が、彼女たちの手によって解かれたから。
兵站局の戸を開け、彼の名を呼びました。
案の定アキラ様は居残り。
叫びつつ、私はアキラ様に近づきます。
すると彼は混乱し、困惑の声を挙げました。なぜだろうと思っていたら、答えはすぐにわかりました。
「泣いてるんですか?」
あぁ、そういうことですか。
確かに私は、泣いています。
「な、泣いていません!」
でも私は、否定しました。
物理的観測事実としては、確かに私は泣いていました。
でもそれは悲しいからとか、そう言う感情によって生まれたものじゃないからです。
怒っていたから? いいえ、違います。
寂しかったから? もっと違います。
でも涙は、溢れそうでした。
必死に堪えようとしましたが、今にも決壊しそうでした。
呆れたアキラ様が立ちあがり、ポケットからハンカチを出し、私に渡します。
情けないと思いつつも、私はそれを奪い取って、見当違いの生理現象を必死に拭います。
そして、また叫びました。
「私は! 私は、アキラ様にお伝えしたいことがあるのです!」
「伝えたいこと? それは、その、勝手に残業したことに関してですか……?」
「ちがっ……いや、違くもないですが、それよりも!」
その事は後で蹴りを入れて懲罰するつもりですが、今はそれよりも重要な事があるのです。
それは、私の中に渦巻く感情。
とき解れた無数の糸の中のひとつの感情。
「それよりも……それよりも……アキラ様に、言いたいことがあるんです。伝えたいことがあるんです。私の……アキラ様にお伝えしたいことがあるんです!」
喉が詰まり、肺から空気が漏れて思うように言葉が出せません。
「アキラ様」
それでも私は、伝えます。
アキラ様が無事に帰ってきたら言おうと思って準備していた言葉ではない、私にとって、私たちにとって重要な言葉を。
「アキラ様。どうか――どうか、優しくしないでください……!」
「……えっ?」
彼から、素っ頓狂な声が出ました。
何を言っているのかわからない、そんな声が出ました。
でも私はわかりやすく説明することができません。
今は唯、言葉を連ねるだけしか出来ません。
「優しくしないでください。何もかも、悩みも後悔も抱え込まないで、一人で解決しようとしないでください」
優しくしないでください。
優しくしないでください。
優しくしないでください。
その優しさに、甘えてしまうから。
「アキラ様が悩んでいる事は知っています。何を悩んでいるかはわからないけど、苦悩していることくらい知っています。でもアキラ様は優しいから、優しく接して、みんなに迷惑だとか考えてしまって――!」
だから私は、その優しさに、甘えているのかもしれない。
気付きました。
この感情、なぜ泣いているかに気付きました。
私は、悔しいのです。
悔しくて悔しくて、泣いているのです。
アキラ様の無理で、アキラ様が苦悩を何もかも抱えていることによって自分が楽をしていると気づいたのが、悔しくてたまらないのです。
私は何度も、彼に言いました。
勝手な残業はしないでくださいと。
それは勿論、アキラ様の体調を心配してのことです。
でもその裏にある事情は、アキラ様が倒れてしまえば自分たちの仕事が増えると言うこと。
迷惑かけないと言いつつ、アキラ様は私たちに迷惑をかけている……そんな打算的な理性だったでしょう。
けど、アキラ様が兵站局に戻ってきたときは違いました。
あの時私は初めて、アキラ様の苦悩を見ました。
何があったのかなんて、想像もできません。
でも落ち込む彼の顔を見たら、全てがわからなくなりました。
「アキラ様は優しくて――迷惑かけまいと黙って苦悩して……私は何もしなかった。私は、何もしてこなかった。その言葉に甘えてしまったから……」
そして気付けば私は、アキラ様の胸の中で泣いていました。
彼の服を濡らして、惨めに泣いていました。
まるで子供のように、寝ている陛下の布団にもぐりこんだ時のように、泣いていました。
「私は――私は、アキラ様の支えになりたいんです。事務だけじゃなくて、心の部分でも。アキラ様が抱えている全てを支えたいのです」
アキラ様は唐突に無茶を言う人です。
でも、構いません。だって、彼の事を支えたいから。
私が――私たちが、兵站局員みんなが、アキラ様を支えます。
「迷惑だとか、そういうのはやめて――私を、私たちを頼ってください。我が儘を言って、無茶を言ってください」
――優しくしないでください。
そう言い切ったとき、ふと、柔らかい感触がありました。
アキラ様が私の頭を抱いて、撫でているのだと気づきました。
「……ソフィアさんはよくやってくれていますよ。私の無茶にいつも付き合ってくれた。人間嫌いなのに、失礼な態度を取った私に文句言わず付き合って、仕事を手伝ってくれる。それだけで十分ですよ」
「でも……でも、私は……」
そして、私は思い出しました。
陛下の執務机の下に潜り込んで、しゃがんでいた時のこと。
前線へ向かうアキラ様を見て、嫌な予感がして「帰ってきたら言いたい事がある」と伝えた時のことを。
「アキラ様……」
「なんです?」
二番目に伝えたかったことを、私はやっと口に出来ました。
「好きです。私は、アキラ様のことが好きです」
瞬間、アキラ様の手が止まりました。
アキラ様はそういう経験がなさそうだと言うことは、見ていてわかります。
私も経験がありませんからよくわかります。
でも、いやだからこそ、私は思い切って全てを伝えます。
彼の優しさに甘えたことに対する悔しさ。
苦悩する彼の顔を見て覚えた悔しさ。
そしてアキラ様に対して感じる、この鼓動が高まる気持ち。
絡まった感情が、何を意味するかを。
「――愛している人の役に立ちたい。お慕いする人の事を支えたい。そう感じることは、ダメなことですか?」
それが絡まった糸の答えでした。
見上げて、私はアキラ様の顔を見ました。
するとアキラ様が、手で私の涙を拭ってくれました。
でもそんなことをする彼の顔は真っ赤で、どういうことだと困惑しています。そんな彼の顔が愛おしくて、そしてちょっとおかしくて。
つい、笑ってしまいました。
「笑わないでくださいよ……」
「申し訳ありません。でもこれは、私の本音です」
「……そう、ですか」
言って、恥ずかしそうに頭をかいたあと、アキラ様は意を決したような顔をして、言いました。
「ソフィアさん」
「……はい」
数秒経ってから、彼は答えました。
待ち望んでいた言葉を、アキラ様が口にしてくれました。
「その……迷惑かもしれないんですが…………相談があるんです」