俺は救世主ですか?
今日はおかしい。
何か悪い予感がする。そう思ったのはいつだっただろうか。
別に何か悪いことが立て続けに起きたと言うわけではない。
目の前に黒猫が横切るようなことはなかったし、鳩の空爆に遭うこともなかった。アイスをもった人間にぶつかることもなく、バナナの皮を踏みつけて転んだということもなかった。
むしろその逆で、幸運な事ばかりあった。
ひょんなことから可愛い女の子と知り合ってLINE交換できたし、商店街の宝くじで一等の熱海温泉旅行が当たったし、上司からは褒められるし、定時で帰れたし、ガチャでレアなアイテムは手に入るし。
人生まさしく幸運と言ったところで……だからこそ怖かった。
なんか、人生の運を全て使い切るための在庫処分セールみたいじゃないか?
いや考え過ぎか。
幸運にありつけたことを素直に喜ぼう。そうだ、記念になんかいいもの食おうかな。
そう思ったのが、まさしく運の尽きだった。
道路の向かい側にある、地元じゃ有名な洋菓子店に行こうと横断歩道を渡ろうとした瞬間、俺は頭の中で「飛んで」と「回って」を延々と繰り返す曲を流しながら宙を舞ったのである。
あぁ、フラグ回収が早いよ、トラックの運転手よ……。
痛みは感じなかった。しかし視界は徐々に真っ白に染まり――
そして気づいたら、ファンタジーの遺跡みたいなところでフードをかぶった謎の人物に囲まれていたのである。
……うん。
「きゃんゆーすぴーくいんぐりっしゅ?」
混乱しすぎて変な事を言う俺を許してほしい。
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「あー、おい。そこの青年」
暫くして、俺はフードをかぶっている謎の人間から声を掛けられた。
透き通るような、しかし声に威厳のある女性の声である。身長は俺より少し高いくらいだ。
「あ、はい。なんでしょう」
「いや、その、君は救世主……だよな?」
「は?」
「え?」
救世主?
なにそれヤハウェ?
なんだろう、雰囲気的に、この場にいる人間すべてが状況を把握していないらしい。
女性以外の人間はざわついている。「失敗か」「まさかそんな」「あいつは誰だ」と。いやそれはそっくりそのまま返すよ。
誰だお前ら。
「あー、青年。君の名を聞きたいのだが……」
「……いや、人に名を尋ねるときはまず自分から名乗りましょう?」
まさかこんなマンガみたいな台詞を自分がいう日が来るとは思わなんだ。
「あぁ、そうだな。そうだった。私としたことが、礼を逸してしまった。謝罪しよう」
そう言って、その謎の女性は着ていたフード付きの外套を脱ぎ去る。
中から現れたのは、天井からの陽光を反射して輝く真紅の髪と、艶やかな体躯と艶めかしい美貌をもつ、誰をも魅了する容姿を持った女性。
俗的な言い方をするとそのまま埋もれたい体格の女性。
そして何より気になるのは、背中から生えている漆黒の翼と頭から生えている禍々しい角である。
「私の名はヘル・アーチェ。人界北大陸を統べる、魔王ヘル・アーチェである」
……魔王? 魔王と言ったのか今。
現実にはありえない真紅の髪、漆黒の翼、禍々しい角を持ち、そして魔王を自称する女性。
なんてこった、この美人はコスプレと中二病にどっぷり浸かっている!
だったら、まだよかったなぁ……。
いや、ヘル・アーチェ魔王陛下の翼はどう見ても生々しく血が通っているナマモノだし、彼女の周囲にいる奴らも顔を見せてるけど見るからに普通の人間ではない。
角が生えていたり猫耳が生えていたり緑色の肌だったりと、多種多様なファンタジー種族がいるのである。
仮装パーティー……なわけないよね。
そもそも、トラックに撥ねられたところからここに至るまでの俺の記憶が空白となっていることを考えると……。
ネット小説で何度か読んだことのあるアレ、つまり召喚か転生である。
見た所身体はなんともないから召喚だろうな。
「はぁ……」
思わずため息をついてしまった。
「どうした青年?」
「いや、なんでもないです……」
「そうか。では、改めて聞こう。君の名は?」
もう1回見たい大ヒットアニメ映画の名前……ではなく俺の名前のことなのは間違いない。
「秋津アキラです」
「アキツ・アキラか。では君のことはアキラと呼ぼう」
「いきなり下の名前ですか」
まぁ、もうそんなのどうでもいいけれど。早く家に帰りたいが、これが本当に召喚とかなら帰れる保障はないだろうな。異世界に召喚される小説ってだいたいそうじゃないか。
希望は捨てて現実に生きよう。うん。
「ではアキラ。君の力を見せてくれないか?」
「……力?」
力って何。能力とかいてチカラと読む少年マンガによくあるアレか?
「そうだ。君は我々に救いをもたらす救世主として召喚された存在。であれば、救済の力を何かしら持っているに違いないだろう。だから見せてくれ、その力を思う存分!」
「……」
何を言っているんだろうこの人は。
いやどう見ても私は普通の人間ですよ?
どちらかと言うと陛下の方が強そうですよ?
あぁ、でもなんか陛下の期待の眼差しが怖い! 凄い怖い! いや本当に目を爛々とさせているから、持ってないんですって正直に言えない現実が怖い!
「さぁ、何かあるだろう。魔術か錬金術か、精霊術か妖術。いや、召喚術というのもあるか……」
「あのー……」
「うん? 魔術が使えないのか? ふむ……とすると近接戦闘術の達人か。よし皆、剣か槍を持ってきてくれないか?」
「いやその待っ」
「ハッ。では私の魔剣を――」
おい誰か話を聞け。
「どうしたアキラ?」
「あの、俺……じゃなくて、私は特に何も力なんてありませんが……」
ごく普通の日本人が剣とか魔術とか使えるわけない。というかいたら紹介してください。お返しに良い病院紹介するから。
「は? しかし君は救世主なのだろう?」
「違います」
どうにでもなれとやけになっていると言っても良い。というかそっちの方が適確。
「そんな……嘘だ……」
従者らしき人……人? がそう呟いた。
嘘じゃないです、ごめんなさい
嘘を吐いたところで剣術の達人になるわけでも、魔術とやらが使える訳でもないから正直に言いましたけど、嘘じゃないです。
「……えーっと」
まおうはこんらんしている。
じゅうしゃもこんらんしている。
だがおれもこんらんしている。
「じゃあ、何ができるのかね?」
ヘル・アーチェ陛下は、真紅の髪を揺らしながら恐る恐る聞いてきた。
なんというか、すがっているようにも見える。どうしよう、何もできないのだけど。でも何もできないと正直に言ったら本当にまずいんじゃないかしらこれ。
たぶん、生死に関わるような……。
「どうなんだ?」
「えっ……と、その……」
出来ること、ネオサイタマに住む平凡なサラリマンだった俺でも出来ること……。
「事務仕事ならできる……と……思い、ます、けど」
その瞬間、その場にいた全員の口があんぐりと開いたのをよく覚えている。