十八話
バスは静かに、波留町の停留所を離れた。
窓の外では、タケルが自転車を漕ぎながらいつまでも手を振り続け、女将さんはエプロンで目元を拭いながら、小さくなるまで見送ってくれていた。都会へ戻る道中、リュックの中にある50年前の日記帳の重みが、今の結城にとっては不思議と自分を地上に繋ぎ止めてくれる「重石」のように感じられた。
バスが海岸沿いの最後の上り坂に差し掛かったときだ。
結城は、何かに導かれるように視線を遠くの岬へと向けた。
夏の強い陽光が海面に反射し、世界が白く弾けている。その眩しさの境界線、あの松の木のそばに、ぽつんと白い影が立っているのが見えた。
「あ……」
それは、風に黒髪をなびかせた、あの夏のセーラー服姿の少女だった。
蜃気楼のように揺らめき、今にも光の中に溶けてしまいそうなほど淡い姿。けれど彼女は、まっすぐにこちらを見つめ、ゆっくりと、大きく手を振っていた。
30年間、誰もいない家で、届くはずのない足音を待ち続けていた彼女。
かつて誰も気づかなかった彼女の孤独を、今、結城だけが確かに受け取っていた。
そのとき、閉め切ったバスの車内に、ありえないはずの潮風が吹き抜けた。
「――ありがとう。またね」
耳元で、囁くような、けれど凛とした彼女の声が響いた。
それは別れの言葉ではなく、いつかまたどこかで巡り合うための、静かな約束のように聞こえた。
「……ああ。またね、栞さん」
結城は窓ガラスに手を当て、声に出して答えた。
次の瞬間、バスがカーブを曲がり、岬の姿は鮮やかな緑の陰へと消えていった。
視界から彼女が消えても、結城の瞳からはもう涙はこぼれなかった。
彼の胸の奥には、あの煌びやかなパーティーの明かりが、消えることのない灯火として宿っていたからだ。
バスは山道を抜け、青い空へと続く一本道を加速していく。
結城はもう一度前を向き、深く息を吸い込んだ。
その横顔は、この町へ来たときとは見違えるほど、力強く、そして穏やかな光に満ちていた。




