①
スマートフォンの画面に表示されていたのは、アメリカからの着信を示す数字だった。それまでの携帯電話からスマートフォンへ替えて二年が経とうとしている。大分、扱いには慣れた。それとは別にもう一台、今でも偶に使っている携帯電話があって、それはちょっと訳ありなやつだ。かかってきたスマートフォンの方、思い当たる節は無いけど出てみた。
「はい」
「もしもーし」
日本語だった。
「ええ、こちら、大阪府警捜査二課の モ・リ・イ・と言います」
「はぁ」
「榊原楽太郎さんの携帯電話で間違いないですか?」
榊原楽太郎てお前、と笑いがこみ上げてきたのをグッと我慢した。
「現住所は渋谷区富ヶ谷一丁目xx番地xxですよね?先日摘発した詐欺グループの所持品から、あなた名義の偽造クレジットカードが見つかりまして、それで連絡をさせてもらいました」
捜査二課のモリイと名乗る男が言った榊原楽太郎という名前は、今から三十年以上前に売れない役者をやっていた時の芸名で、久しぶりに聞いたその名前に顔がにやけてしまう。現住所として伝えられたところは、当時在籍していた貧乏劇団の稽古場兼事務所の住所なのだけど、未だにあの劇団が存在するのかどうか知る由もない。アメリカからの国際電話に出ると大阪府警だと言う。舐められたものだ。でも暇なので少し付き合う事にした。
「捜査に協力して頂けますか?」
「もちろん協力しますよ」
「出来ればこちらへ出向いてもらえると助かるのですが」
こう言っておきながら相手は、来ないことを想定済みだ。
「大阪っすよね?渋谷からなんで無理っすよ」
「では、ちょっと手続きを行うので少々お時間をください」
「どれくらいですか?今、仕事中なんすけど」
「一時間程ですが」
こうやって電話で誘導して、最終的に振り込みやプリペイドカード等の購入へ持っていくのだ。
今年で六五になる。同世代と比べると落ち着きがないというか、歳に見合わないというか、自分でも爺さん感は無いものの高齢者である。無職であって時間は無限にある。いや、そうでもない。もう人生の終わりの方が近い。渋谷を離れたのは随分と前の事で、今は九州の片田舎で釣りなんかやりながら毎日暇を持て余している。
「で、モリイよ。お前、時給幾ら?それとも日給?ああ歩合制か」
「ふざけないでください」
「ふざけているのはお前やろ、モリイよ。それも偽名やろし。そんな事やっていると榊原楽太郎君は怒っちゃうよ」
そう言うと電話は切れてしまった。
「歩合制だったんだな。大阪府警捜査二課のモリイは」
そこでまた榊原楽太郎を思い出して笑けてきた。それにしても榊原楽太郎の名前がまだ何処かに転がっている事やもん劇団の住所、そんなものとこのスマートフォンの番号が繋がっている事には驚いた。久しぶりにキイチへ電話をかけたのは、そんな事があったからだ。
「そう言えばゼンさんあの頃、榊原楽太郎って事になっとったけど、あれって?」
「素人に毛が生えたみたいな劇団に入ることになって、そん時の芸名たい。楽太郎っちゅう落語家が嫌いで郁恵ちゃんが好きやったから適当に」
「俺、ゼンさんが役者やっとったなんて知らんかった」
「知り合いにノセられて、そんでちょっと勘違いばして、舞台を二本とCMのエキストラを一回やっただけで、役者っつってもそんなもんやし」
「で、なんかするとでしょ?」
「久しぶりに釣りにでも行かんね?」
「良かばってん俺も、もうそがん若こうはないし、あんまり無理は出来んけど?」
「穴釣りやし、誰でも簡単に釣れるけん」
「いや、釣りやなくて、なんかやるとでしょ?」
「穴から魚ば引きずり出そうてな」
キイチは自分よりひと回りくらい年下で、ひと回りと言っても五十代半ばになる。県は違うけど同じ九州で暮らしている。渋谷時代の相方で色々と頼りになる男だ。独身の自分とは違い、家庭を持っていて奥さんとの間に二人の子どもが居て、その二人も今は独立して各々別々に生活している。去年末に長男夫婦に第一子が誕生して、「遂に爺さんっすわ」と電話越に嬉しそうだった。あの生意気だった愛智がもう親になったか。
オレオレ詐欺なんて言葉を聞いて久しいのだけど、最初は何とも思わなかった。それどころか、上手いこと考え付いたものだと感心さえした。金は、いっぱいあるところから引っ張ればいいと。ところが近年のそれは、どんどんと巧妙化していて手口も汚いし、暴力や殺人が絡むことも屡々で、その被害者は老人たちが多い。自分の年齢がそういう被害者に近くなっていくにつれ、苛つくようになってきた。そんな中掛かってきた大阪府警捜査二課のモリイからの電話で、渋谷時代の感覚が呼び覚まされた。
「こがんところ、テトラとテトラの隙間にこうやって落とすとよ。そんで底付近ばチョンチョンて」
キイチにレクチャーしながら竿を動かすとガツンとしたアタリがあって、でも、上がってきたのは小さめのカサゴだった。
「そがん簡単に、へぇ、じゃ俺も」
「なるべく深く入って行くとこが良かぞ。下に行けば行くほどデカいの居るけん」
隣でキイチが始める。ゆっくりと仕掛けがテトラの間を降りていく。大分入ってから直ぐに竿先にツンツンと軽めのアタリがあり、それが急にグゥーンと撓った。
「ほれ、頑張って釣りあげろ。リールば巻け」
「重い、なんやこれ?」
キイチがすったもんだしながら何とか釣り上げたのは、立派なキジハタだった。
「うわ、こら太か、良かアコウぞ」
そう言うとキイチは子どもみたいな笑顔で得意気なった。前に船から釣りをした時も、鯛釣りの漁具であるタイラバを見て、こんなもんで魚は釣れんでしょうが、と不満を漏らしていたくせに、それで真鯛を釣り上げると途端に機嫌が良くなりニカニカと笑っていた。渋谷最強とまで言われた男と、目の前で屈託のない笑顔を見せるキイチが同一人物なのか不思議に思えてくる。
暫くぶりにキイチと二人で飯を食う。自分が暮らしている古い日本家屋は、独りで住むには広すぎる。爺さんの代に建てられたと聞いているが、ハハハ、今はもう自分が爺さんだ。
「本当は二日くらい寝かせた方が旨みが出るんやけど」
「旨そ。ゼンさんってこんなに料理上手やった?」
「魚だけちょっとな。先にそれでやっとけ、塩焼きも直ぐに出来るけん」
じゃ遠慮なく、なんて言いながらキイチは刺身を一口頬張ると、それを冷酒で胃へ流し込む。「くぅぅ、」なんて声を背で聞きながら焼き場へ戻ると、皮がパリッパリになったキジハタが良い色になって焼きあがるところだった。
「改めて乾杯」
お猪口を合わせると、キイチは表情を少し硬くした。
三十を過ぎたあたりで俺は空廻っていた。何か少しでも気に障ると感情が抑えられなかった。
役者をやってみないかと誘われたのは、当時やっていたバンドのベーシストが、ライブへ連れて来た男からだった。その日のライブは荒れに荒れた。元々激しい音楽性で、怒りや不満をステージ上でぶちまけるスタイルのバンドなのだけど、前日にバイト先の建設現場でトラブった奴が、対バンの客として来ていて、なにかとヤジを飛ばしていた。俺は制御が効かなくなって、スカスカのフロアでそいつと殴り合いとなった。バンドは演奏を止めないし、俺たちの怒りは周りの数人にも飛び火して十人くらいの暴動となってライブハウスの中は滅茶苦茶になった。
打ち上げをやっていた居酒屋で、俺はメンバーからくどくどと叩かれていた。その最中に、まぁまぁまぁなんて言いながら、ベーシストの知り合いだという男が寄ってきて変なことを言った。
「君、雰囲気あるねぇ。うちで役者やってみない?」
こめかみがズキズキするし、口の中が切れていてビールを飲む度にしみる。見えないけど顔も相当なものだろう。
「役者?」
「小さな劇団をやっているんだけどね、丁度次の公演の本を書いていて」
さっきまで、お前の中にあるその瞬間湯沸かし器みたいな怒りの装置はなんなんだ?なんて言って怒っていたベーシストが、急に笑顔になってその人を俺に紹介し始めた。
「あ、この人ね、新木さん。劇団の座長をやられているのよ」
「座長?」
何の事を言っているのかさっぱりだったのに、一週間後には阿呆面下げてその劇団の稽古場に居た。
何にでも首を突っ込む悪い癖は、その事柄へ中途半端に関わって、そして尻すぼんで飽きてしまうの繰り返しだった。
この劇団でも、最初は興味本位で知らない世界へ首を突っ込んだみたものの、関わった舞台を一本終える頃にはすっかり興ざめしてしまっていた。榊原楽太郎なんて馬鹿げた芸名を付けた事も後悔していた。
そんな中、貧乏劇団にテレビの仕事が舞い込んできて劇団が浮足立った。だけど蓋を開けてみると、お菓子CMのエキストラで、ギャラなんて無いに等しく、一俳優として認識される事も無いそんな仕事だった。テレビの仕事なんて言ってもそんな感じなのに、役者を目指してこの劇団にしがみついている連中は目を輝かせていた。仕方なく通行人とも言えない存在でそのCM撮影に参加した俺は、撮影後にそのまま退団した。
仕事にも行ったり行かなかったり、バンドも、もう駄目だろう。昼間から酒を飲み、埒が明かない日々を過ごしていた。四畳半のぼろアパートだけど、住所は渋谷区富ヶ谷だから高級住宅街で間違いない。俺のアパートがある辺りには似たようなアパートが何棟か建っていて渋谷のイメージとは程遠い。この前まで籍があった劇団の事務所兼稽古場もわりと近い。キイチと初めて出くわしたのは、そんな頃だった。
銭湯の帰り道、アパートへ続く上り坂を缶ビール片手に良い感じで歩いていると、電柱の脇にあるゴミ集積場横に何かが居た。暗かったし最初は野良犬かと思ったけど、近付くにつれ具体的になってきた。それは蹲る人間だった。若い男に見える。
「おい、おい、どうした、大丈夫か?」
前髪の奥の目が見開いた。殴られた跡が生々しく、ジーンズも破れている箇所がある。目の前に獣のようにしているこいつを何とかしてやらないといけない。
「うちはどこや?」
東京へ出て十三年程経つけど、咄嗟に九州弁が口を突く事がある。
「おっさんも九州の人ね?」
「おっさんて、お前、俺はまだ三十一ぞ、いや二やったか?」
「久留米から来た」
「久留米て、お前、こっちに知り合いとか居るとか?」
「一昨日に東京着いて、渋谷は昨日から」
「それは喧嘩でか?歩けるとか?くっさ」
とりあえず歩けそうだし、臭いし、仕方なくさっき入ったばかりの銭湯へ行き二回目の入浴をした。
塚本キイチというその若い男は脱衣場で俺の背中を見て、「おっさん、まさかヤクザやないの?」と聞いてきたけど、聞こえないふりをして軽く身体を流してから湯ぶねに浸かった。そのあとキイチも入ってきたけど、二人共何を話していいのか探り合っているみたいに無言だった。
コンビニでキイチが選んだ食い物を買い、また坂道へとさしかかる。少し後ろをキイチがついてくる。
アパートの部屋には小さな流し台があるだけで、トイレや洗面化粧台、洗濯機、もちろん風呂など無く、廊下の途中に共同便所があるばかりで、このアパートの水まわりはそれで全てだ。アパートの入口は共同玄関になっていて、住人たちの履物で埋め尽くされている。部屋へ入ると直ぐにキイチが言った。
「便所てどこ?」
「なんやシッコか?廊下の左んとこにあるけん」
「部屋には無かと?」
そう言いながらキイチは急いで部屋を出て行った。俺がビールに口をつけたタイミングでキイチは戻ってきた。
「まぁ食え、何から話そうかね。お前、こっちに知り合いとか居るとか?」
キイチは余程腹が減ってたのか焼きそばパンを頬張りながら器用にポテトサラダの入った容器の蓋を外している。
「居らん。いや、居るっちゃ居るか」
「どっちや?」
「おっさんは九州のどこ?」
「おっさんて言うな。俺は熊本、熊本の天草っちゅうとこ。俺のことは良いけん、行くあてはあるとか?」
「まだおっさんの名前ば教えてもろうとらん」
「おっさんて言うなって、俺は村上ゼンイチ。ところでお前は幾つや?」
「二十歳になったとこ、です、ゼンイチさん」
「急に気色悪かぞ。普通に喋れ。そんで、誰にヤラレたとか?」
「ヤラレた?」
「そうやろが、そがん顔ばしてから」
それを聞いたキイチは下を向いて、それから肩を震わせだした。
「なんやどがんした?具合でも悪うなったか?」
「ゼンさん、俺ヤラレとらんよ」
「ばってんワレ、あがんとこで蹲ってから」
「女ば、友達んとこに送ってから」
「女?女てなんや?」
「俺の、その、彼女」
「待て待て待て、こっちに女が居ったんか?」
「いやいや違うばい。えっと、く、久留米から一緒に」
「おいおいおい、お前まさか駆け落ちとかか?」
「まぁまぁまぁまぁ、女ば友達んとこに送ってから渋谷に来て、何も分からんでセンター街ば歩いとったら、いきなり絡んでくる奴が居って、弱そうやしカネ持ってそうやしぶん殴ったら、仲間か何か知らんけどあと二人が出てきたけん、そいつらもやっつけた」
「お前、やりよるのう」
「あいつら全然カネ持っとらんくて、そんでここまで歩いて来てちょっと休んでるとこにゼンさんが」
「なんや、声掛けんきゃよかった」
「いやいや、俺土地勘無かし、行くとこも無かし、助かりました」
「ああそうですか」
「どうやらヤクザやないみたいやけど、その背中のは?」
俺の背中には錦鯉の刺青がある。
それまでは父親と行ってたけど、小学四年生にもなると一人でも釣りに行くようになった。川や用水路、ため池なんかで狙っていたのは鯉だった。でも釣れるのはオイカワやハヤばかりで鯉を釣った事はなかった。それでも執拗に鯉を追っていたものだから、鯉はいつしか自分の象徴になっていて、自分一人で生きていくと決めた時に彫ったものだ。と、そこでキイチが要らんことを言って現実に引き戻された。
「明日、どがんしよ?ゼンさんは仕事やろうし」
つづく




