幼馴染は春の匂い
カーテンの隙間から、春の光がこぼれていた。
鳥の声。湯を沸かす音。
目覚ましより少し早く、それが一日の始まりを告げる。
玄関の方で、小さな鍵の音がした。
――また、入ってきた。
「レン、起きてる?」
やわらかな声が、部屋の空気を震わせた。
水城ハルカ。隣の家の幼馴染で、神坂家公認の“朝の監督官”。
俺の親から合鍵を渡されているほどの信頼っぷりだ。
理由は簡単――俺と妹が、朝に弱すぎるから。
寝ぼけ眼のままドアを開けると、制服の上にエプロンを重ねた彼女が立っていた。
片手にフライパン、もう片手にフライ返し。
その姿、完全に主婦。
「おはよう。五分で顔洗ってきて。ミユちゃん、まだ夢の国に滞在中だから、迎えに行ってくるね」
「お前……もう完全にこの家の人じゃん」
「違うよ。ただの“出張母親代理”。給与はパンの耳で結構」
「代理って名乗る時点で自覚してるだろ。あともっとマシなもの持っていけよ」
ハルカは軽く肩をすくめ、微笑んだ。
その笑みに、“朝の空気と一緒に呼吸してきた時間”の深さが宿っていた。
俺が洗面所へ向かう間、ハルカは妹の部屋のドアをノックした。
エプロンをそっと整え、部屋の中へ。
「ミユ、朝だよー」
「……んぅ、あと五分だけぇ……」
「その五分が永遠になるんだよ」
「じゃあ永遠でもいいもん……」
「だめ。永遠は朝食が冷めるの」
ハルカが布団の端をつまんで軽く引いた。
ミユが「ゃあ……」とむくれて、さらに奥に潜る。
その声が、世界でいちばん平和だった。
布団をめくるハルカの手から、花のような柔らかな香りが広がる。
春風が窓の隙間を抜け、エプロンの布ずれと混じり合い、変わらぬ日常を奏でた。
やがて、ミユがぴょんとはねた寝癖にダボダボの寝間着のままリビングに現れる。
頬に光を受けながら、まだ夢の名残りを抱えた顔。
ハルカの手が、エプロンの紐を軽く緩めていた。その動きに、朝の甘さが少し滲んだ。
「おはよう、お兄ちゃん。パン、いい匂い~」
「焦げてないことを祈れ」
「焦げてたらハルカお姉ちゃんのをもらうもん」
「ずるい子ね。……でも半分なら、あげる」
三人で囲む朝食のテーブル。
焼きたてのトースト、目玉焼き、具だくさんスープ。
光が牛乳を透かして、白い輝きを放つ。
フォークが皿を叩く音が、静かにリズムを刻む。
「しかし毎朝すまないな。ハルカがいなかったらこの家、餓死してる」
「いいのよ。人のために早起きできるのって、ちょっと誇らしいし」
「偉いな」
「“お母さんみたい”って言った方が私嬉しいのに~」
ミユが無邪気に笑う。
「……言おうと思ったけど、なんか負けた気がして。あと、せめてお姉ちゃんにしようね? ミユちゃん?」
「ふえ!? なんかハルカお姉ちゃんこわい……」
ハルカは笑いながらコーヒーをひと口。
香りが部屋に静かに満ちる。
そのとき、ふと彼女の視線が俺の目にかすかに触れた。
――昔の夏の記憶。蝉の声、氷の溶ける音、隣で笑う横顔。
その瞬間、舌の奥に、あの夏のスイカの甘さが蘇った。
ミユがパンをかじりながら、無邪気に口を開いた。
カリッという、よく焦げた音がする。
「ねぇ、ハルカお姉ちゃんがいなくなったら、誰が私達を起こすんだろう?」
無邪気な一言が、空気に小さな棘を残す。
ハルカは一瞬だけ目を伏せ、すぐに笑顔を作った。
「春の匂いが変わる頃には、私達もすこし変わっているかもね――」
テーブルに、フォークの音だけが響いた。
スープの湯気がゆらめき、三人とも、それを見つめていた。
「? 春の匂いって、どんなの?」
ミユが夢見心地に言う。
「ハルカお姉ちゃんのエプロンみたいなの?」
ハルカは少し驚いた顔をして、微笑んだ。
「……そうかもね。ちょっと甘くて、すぐに消える匂い」
「じゃあ、永遠にエプロン着ててよ」
その無邪気な願いに、ハルカの瞳がわずかに揺れた。
彼女の視線がミユの寝癖頭に落ち、それが俺の心へ静かな波を返してくる。
その波が、胸の奥の“言葉にならない何か”に触れた気がした。
――季節が変わる音が、遠くで鳴っている。
「ハルカ、なにか不安でもあるのか?」
「――ううん、なんでもないよ。パン、焦げてるじゃない」
「……すまない」
「いいの。焦げてるくらいが、生活って感じで好き」
カーテン越しの光が、ハルカの髪を透かす。
金色の輪郭の中に、花の香りが漂っていた。
どこか遠くを見つめながら、彼女はぽつりと呟く。
「ねぇレン。もし、私が起こしに来ない朝が来ても――ちゃんと起きてよ」
「……それ、何のフラグ?」
「朝の終わりのフラグ」
「やめろ、そんな寂しいタイトルみたいなこと言うな」
「ふふっ……じゃあ、“また明日”のフラグにしておく」
「当たり前――なんていうのは、図々しいか」
俺は小さく笑う。
ハルカも返すように笑いながら、皿を重ねて流しへ向かった。
春風のささやきと、カーテンを撫でる音が重なり、倍音を奏でていた。
まるで“さよなら”の練習を繰り返すみたいに。
俺は黙って、少し焦げたパンをかじる。
その苦味が、舌に残るスープの塩味と混じり合い、春風の甘酸っぱさを思い起こさせた。
香ばしい苦味が、なぜか優しかった。




