第四十六話『チェックメイト』
夜の帳が城を覆い、外回廊の松明は湿った風に揺れて影を長く引いていた。重厚な扉を閉ざした自室の中で、主人公は静かに振り返る。
ソファには長身の美青年――今や忠実な使い魔となったニールが、脚を組み、肘掛けに片肘をつきながら薄い笑みを浮かべていた。その表情には、退屈を紛らわせるような遊び心と、鋭い観察者の眼差しが混ざっている。
背後にはマグダレーナが直立し、背筋をこれ以上ないほど伸ばして控えていた。彼女の瞳は一切の揺らぎを見せず、ただ命を待つ兵のように主人公を見据えている。
「……城内の噂はどう?」
主人公が問いかけると、マグダレーナは一瞬も迷わず答えた。
「王女様が陰で動いていると口にする者は……一人を除き、誰もおりません」
主人公は目を細め、わずかに身を乗り出す。
「一人?」
「はい。レオンハルト殿下の実母――ルイーゼ王妃です」
その名が落ちた瞬間、部屋の空気が重く沈んだ。壁に掛かる燭台の炎が、まるで息を潜めるように揺らぐ。王を毒殺し、今や息子であるレオンハルトも反逆罪で処刑を待つ身。形式上、この国は主人公の支配下にある。それでも、病床にある王妃は依然として鋭い眼光と、根強い人脈で城の一角を支配していた。
主人公はゆっくりと椅子に腰を下ろし、指先で肘掛けを軽く叩きながら言葉を選ぶ。その瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。
「……レオンハルトの処刑前に、王妃を始末しましょう。この国に王妃は二人もいらない」
マグダレーナのまつ毛が一度だけ震える。
「方法は?」
「自死に見せかけるわ。療養している部屋で、首を取ったように仕立てるの」
主人公の声は、湖面に張る薄氷のように冷たく澄んでいた。
「理由は病弱で悩んでいた、とか……レオンハルトの将来を悲観して、とか。後からいくらでも飾り立てられる」
ニールが静かに笑い、低い声を落とす。
「ご主人様は、本当に物語の結末を好きに書き換えるお方だ」
主人公は意味深な微笑みを浮かべ、その瞳の奥で、既に王妃の最期の光景を描き始めていた。
薄明かりのランプが揺らめく私の私室。分厚いカーテンが外の光と音を遮断し、空気は静まり返っていた。机の上には地図が広げられ、古びた紙の匂いがかすかに漂っている。
ニールはソファにだらしなく腰掛けながらも、その瞳だけは油断なく私を見ていた。私は指先で地図をなぞり、ある一点を軽く叩く。
「……ニール、レオンハルトとイザベラの処刑場として、この闘技場を確保しておきなさい」
低く押し殺した声に、ニールの口角がわずかに動いた。
「闘技場ですか。ずいぶん派手な趣向で」
この闘技場は、前王が己の娯楽のために造らせたものだ。今ではほとんど使われていないが、簡易ながら大衆が見下ろせる観客席があり、かつては血と歓声が渦を巻く場所だった。
私は口元にゆるやかな笑みを浮かべた。
「それと――マタドール用の闘牛を四頭、用意しなさい」
予想外の指示に、ニールが片眉を上げる。
「……牛なんか、何に使うんです?」
私は椅子にもたれ、頬杖をつきながら答えた。
「楽しい余興のためよ。あの二人は大衆の前で晒して処刑する。血と恐怖と笑いが混ざった舞台ほど、観客を熱狂させるものはないわ」
ニールは小さく息を漏らし、口の端を吊り上げた。
「なるほど……ご主人様らしい。闘牛四頭、そして観客が沸き立つ舞台。必ず整えてみせます」
私は満足げに頷き、再び地図へ視線を落とす。その指先は、まるで未来に刻まれる血の筋道をなぞるかのように、ゆっくりと闘技場の位置を撫で続けていた。
マグダレーナが静かに扉を閉め、膝を折って報告した。
「……王妃ルイーゼ殿下が、今しがた息を引き取られました」
部屋に漂う淡い香が、妙に甘く感じられた。私は瞼を細め、その言葉を噛み締める。予定通りの結果だ。既に、彼女が日頃から「もう生きていたくない」と嘆いていたという噂を、城内外へ十分に流しておいた。自死を装うには、下地作りこそが肝要――その全てが、今この瞬間に結実したのだ。
「見事な手際ね、マグダレーナ。あなたの仕事ぶりには、いつもながら感服するわ」
マグダレーナは無表情のまま、わずかに頭を垂れた。凛とした背筋、その影に潜む迅速かつ確実な仕事への誇りが、沈黙の中でも伝わってくる。
その時、ソファに足を組んでいたニールが、気取った笑みを浮かべながら口を開いた。
「ご主人様、闘技場の方も順調ですよ。長いこと使われてなかったんで、今は人夫を総動員して清掃と修復を全開でやらせてます」
私はゆっくりと頷き、鋭く視線を向ける。
「で――いつ、公開処刑は出来そうかしら?」
ニールは片眉を上げ、唇の端を吊り上げた。
「観客の告知も含めて……明後日にはいけますね」
「分かったわ。では、あなたとマグダレーナで観客への告知を触れ回りなさい。見世物は、観客が多ければ多いほど盛り上がるものよ」
ニールが軽く敬礼し、マグダレーナは静かに頷く。その光景を見つめながら、私は胸の奥で確信を深めた。
静まり返った自室に、一人きりで腰を下ろす。窓の外では風がゆるやかにカーテンを揺らし、その布擦れの音がやけに耳に沁みた。
ここまでの道のりを思い返す。苦難という言葉すら生ぬるい。侯爵家に売られたあの日から、全ては始まったのだ。
屋敷で開かれた夜会で、私はレオンハルトに恋をした。あの微笑、あの囁き……愚かにも、未来を夢見た。だが、裏切りはあまりにも容易く訪れた。身分を理由に、王子と関係を持ったと讒言を受け、水牢に幽閉された。
そこからは拷問の日々だった。侯爵家三姉妹は残虐で、容赦という言葉を知らなかった。歯はすべて抜かれ、顔は見る影もなく化け物のように腫れ上がり、足は腐り落ちかけた。命を繋ぐために、腐った足に湧いた蛆を喰らい、排泄物で濁った汚水をすすった夜もあった。
そして、彼女らは飽きたという理由だけで、私を街外れの墓場に捨てた。犬たちが遠巻きにこちらを嗅ぎ、歯を剥き出していたあの光景……死と隣り合わせの腐臭の中で、私は息をしていた。
レオンハルトも、三姉妹も、あの所業を覚えていなかった。まるで記憶の底に沈め、存在すらなかったかのように。私にとっては地獄であり、彼らにとってはただの暇潰しだったのだ。
所詮、私は玩具に過ぎなかった――その事実が、今も胸の奥で冷たく沈んでいる。
だからこそ、私はここまで来た。生き延び、駒を揃え、復讐の刃を研ぎ澄ませて。あの日の絶望を、必ず同じだけ、いやそれ以上に味わわせるために。
(ここまで来た……様々な駒を動かし、幾重もの策を巡らせて。復讐は最終段階。あとは実行し、冷酷な一手を放つだけ)
唇の端がゆっくりと冷たい笑みに歪み、部屋の空気が一段と張り詰めた。




