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第四話『水牢の地獄と今更の追放』

 底冷えする水の音が、今日も変わらず響いている。


 ここは、誰も来ない。もう何日、誰の声も聞いていないだろう。


 この水牢に閉じ込められて、どれほどの時が過ぎたかもわからない。

 最初は腕を縛られていた。だが、数日前からその紐も消えていた。きっと、逃げる必要がないと判断されたのだろう。

 逃げたくても、私はもう歩けない。


 足首から先は腫れ上がり、肌は黒ずみ、ひび割れて中から膿が滲む。壊死が始まった足には、蛆が這いまわっている。指の感覚などとうに失われ、時折、自分の一部ではないかのように見えてしまう。


 縄がないのは、自死の手段を与えるまでもないということなのだ。

 代わりにこの水。膝まで溜まった濁った水面に、自ら顔を沈めれば、それでいい。


 何度も考えた。終わらせてしまおう、と。

 ゆっくりと、呼吸を止め、水面に顔を近づける。汚泥の匂いが鼻腔を満たす。そのまま沈めれば楽になると、頭では分かっている。


 でも……


 怖い。


 死が、怖い。


 生きていたいわけじゃない。ただ、死ぬのが怖い。水に顔をつけた瞬間、肺が悲鳴を上げる。身体が勝手に水から逃れようとする。

 ぶくぶくと泡を吐いて、水面からまた顔を上げてしまう。


 死ぬことすら、私はできないのだ。


 空腹が襲うと、水に浮かぶ不純物をすくって飲む。口の中が塩辛く、腐った泥の味しかしない。だが、それでも飲む。生きるためではなく、ただ、それしかできないから。


 蛆が足に湧いている。這いまわるそれを摘み取り、何の感情もなく口に運ぶ。苦くて、ぬめりがあり、生温かい。けれどもう味などどうでもよかった。早く飲み込まないと……歯がないから蛆が舌先で蠢く……。

 ただ、胃の中が何かで満たされれば、それでよかった。


 私は、何のために生まれたの?


 愛されたかっただけ。少しでいい、誰かに優しくされたかっただけ。

 だけど、あの人も、みんなも、私を裏切った。


 王子の笑顔も、あのペンダントも、全部嘘だった。


 私は、ただの玩具だった。

 飽きられ、捨てられ、こうして泥と糞尿に塗れて、生きている。


 生きている?


 いいえ、これは生きているとは言わない。ただ、死に損なっているだけだ。


 腐臭が鼻に焼きつく。頭がぼんやりする。気を抜けば、意識はすぐに水の中へと誘われる。


 水面が、静かに揺れている。

 その中に映る自分の顔が、もう誰だか分からなかった。


 今日も、誰も来ない。


 どれほどの時が経ったのか、もう分からない。

 水牢の濁った水の中で、私はただ、目を開けていた。

 腐った足の感覚も、腹の中を這う飢えも、もはや遠い現実のように思えた。

 意識が霞のように揺れる中、錠の開く鈍い音が響いた。


 ぎぃ、と軋む鉄扉の音。

 まぶたの奥に差し込んだ光が、酷く痛い。


 「まだ生きてたのねぇ……」


 艶やかな声が、湿った空気を裂いた。

 イザベラだ。侯爵家の長女。

 続いて、マリーベル、シャルロッテ。あの三姉妹が、靴音を響かせて現れた。

 その背後には、ふたりの従者が立っている。


 「くっさ……なんなの、この臭い。冗談じゃないわ」


 鼻先を手で覆いながら、マリーベルが顔をしかめる。

 シャルロッテは楽しそうに笑いながら、手にした銀縁の鏡を揺らしていた。


 「しぶといブタ。普通、死んでるでしょ? 野良犬の方がまだ賢いわよ」


 その言葉に三人揃って笑い声を上げる。


 「さぁ、見てみなさいよ。最後のご褒美よ。生きる希望なんて、全部潰してあげる」


 意識が朦朧とする中、私はうっすらと顔を横に振った。けれどその意志など、彼女たちには意味を持たなかった。


 「ほら、ちゃんと見なさい。せっかく用意したのに」


 シャルロッテがにやつきながら、顔の前に鏡を突き出してくる。

 歪んだ銀の中に映るのは、自分とは思えぬ何かだった。


 皮膚は水膨れと潰瘍でただれ、目元は腫れ上がり、唇はひび割れて裂け、髪はまだらに抜け落ち、膿と血で顔に張り付いていた。

 私は、声も出せなかった。


 「ふふっ、見た? あなた、自分の顔。ねぇ、どんな気分?」


 イザベラの声が耳の奥でねじれる。嗜虐に染まった悦びが混ざっていた。


 「足も腐ってるし、歩けないわよね。働けない使用人なんて、ただのゴミだわ」


 「なら、決まりね。……追放よ。外に出してあげる。特別に」


 マリーベルが、くすくすと笑いながら囁く。


 「ただし、墓場行きだけどね。野犬たちに、前の子みたいに食べられなさい。せめて、最後くらい役に立ちなさいよ、メスブタ」


 私は鏡を見つめながら、何も言えなかった。

 言葉を発する喉は乾ききり、唇はひび割れて血が滲んでいた。


 従者がふたり、私の腕を掴んでずるずると引き上げる。

 体から滴る膿と悪臭に顔をしかめながら、彼らは無遠慮に私を担いだ。


 「うわ、くせぇ……鼻がひんまがるわ。人間の匂いじゃねぇな」


 「早く終わらせようぜ。こんなの抱えてたら、こっちが病気になる」


 私は、自分の足音さえ聞こえないまま、引きずられた。

 泥と排泄物の混じった水の感触だけが、最後まで私にしがみついていた。


 意識がまた遠のく中、三姉妹の声が微かに耳に届いた。


 「次のメイドも、あんまり可愛くないのよね。今度は長持ちさせてあげなきゃ」


 「でも、どうせすぐに飽きるわよ。次はもっとおもしろい遊び考えなきゃ」


 「お姉様、私、もっと派手な罰ゲーム思いついたの。ふふふっ……」


 笑い声が、ゆがんだ水面のように、私の意識を波立たせた。


 ――これが、私の最期なのだろうか。

 捨てられた屍として、名もなく、野犬に喰われて。


 でも。


 私の胸の奥には、まだ何かが、消えずに残っていた。

 それは、怒りだった。

 泥水の底に沈んでもなお、燃え尽きない熱。


 まだ終わらない。

 終わらせない。

 私は、たとえ死んだとしても、呪って復讐してやる。


 腐臭のする風が吹き抜ける、街はずれの墓場。石碑は苔に覆われ、枯れた大木が一本、空に向かって腕のような枝を広げていた。


 その根元に、私は“ごみ”のように捨てられた。


 侯爵家の使用人たちが、口元を覆いながら私の身体を担ぎ、無造作に地面へ放り投げた。


 「くっそ……。俺たち、こんな化け物と寝てたのかよ……」


 「最悪だぜ……もう一滴も飲めねぇ」


 その言葉の意味さえ、私の脳はうまく理解できなかった。

 けれど、吐き捨てるようなその声音が、胸の奥をざらりと削る。


 使用人たちは、私をろくに見もせず、足早に墓場を去っていった。重く閉ざされた空の下、残されたのは私ひとりだけ。


 ……いや、違った。


 鼻をつく腐臭に誘われて、墓場の奥から“奴ら”が現れた。


 野犬たち。


 黒く痩せこけ、腹をすかせた影が、墓石の間から這い寄る。牙を剥き、唸り声を上げて、ゆっくりと私に近づいてくる。

 足音もなく、何匹も、何匹も。


 私は動けなかった。

 腐った足は感覚がなく、目の焦点もぼやけたまま。力など、もうどこにも残っていなかった。


 最初に噛みついたのは、脇腹だった。


 がぶっ——


 濁った音がした。

 肉が裂け、骨に届く痛みに、全身が反射的に痙攣する。

 だが、声は出ない。喉は乾ききって、かすれた息しか吐けなかった。


 次に飛びかかってきた一匹が、私の顔に喰らいついた。

 鋭い牙が頬を貫き、視界が一気に赤く染まる。


 見えない。

 ——左目が、見えない。


 視界の端で、何かが揺れていた。

 それは、野犬が咥えていた。


 私の、眼球だった。


 絶望という言葉さえ、生ぬるい。

 心が、音を立てて崩れていくのがわかった。


 がりっ、と歯が首筋に迫る。


 ああ、これで終わる。やっと終われる。そう思った、その瞬間——


 ピィィィィッ!!


 甲高い犬笛の音が、静寂を裂いた。


 野犬たちはびくりと身をすくめ、すぐさま尻尾を巻いて散っていった。


 静寂が戻った墓場に、ひとつの影が現れる。


 ……少年? いや、違う。

 人間の姿を模した“何か”。


 肌は縫い合わされた跡だらけで、目は不自然に大きく、歪んだ笑みを貼りつけた顔。片足は金属のように輝き、腕には針金のような筋が浮いていた。


 「おーおー……こりゃまた、ずいぶんヘビーだな」


 異形の“少年”は、私を見下ろしてくすりと笑った。


 「カルマもヘイトも……ぎっちり詰まってる。これは、ご主人様、大喜びだぞ」


 その声は、やけに明るく、楽しそうだった。


 私はもう、何も応えることができない。

 唇は震え、まぶたは重く、視界の端には血が広がっている。


 異形の少年は私の腕を掴み、ずるずると引きずり始めた。


 泥と血が混ざる音。地面を擦る骨の音。


 私の身体は、夜の墓場を闇へと引きずられていく。


 何処へ向かうのかも、知ることはできなかった。


 けれど、その背中に、私は確かに見た。


 ——歪んだ命が、私を連れ出していく。


 地獄の続きを、まだ終わらせてくれないというように。



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