第三話『裏切り』
楽しい時間というのは、どうしてこうも早く過ぎてしまうのだろう。
午後の陽光が傾き始めた市場の通りは、まだまだ賑わいの渦中にあった。果物の香り、揚げ菓子の油の匂い、人々の笑い声と売り子の呼び声が交錯し、石畳の上には影が長く伸びていた。
王子レオンハルトと過ごすこの時間は、まるで別の世界だった。屋敷の中では決して感じることのなかった自由、誰の目も気にせずに笑える幸福。私は両手で包み込むようにして、胸元のペンダントをそっと握った。
「似合うと思うんだ」
彼がそう言って選んでくれた銀のチェーンに吊るされた小さな水滴のような青い宝石は、まるで私の中に閉じ込めていた涙そのもののように美しかった。
「でも、こんな高価なもの……」
「誕生日ってわけじゃなくても、誰かに贈り物をしてはいけないなんて、決まりはないだろう?」
レオンハルトの言葉は、あまりに自然で、あたたかくて、私は何も言い返せなかった。胸の奥がぽうっと熱を持ち、頬が自然と火照っていく。
──けれど。
その心地よい熱に、現実が冷水を注ぐように差し込んできた。
侯爵家の三姉妹。あの鋭い視線、無言の圧。時間を気にせず楽しんでいたつもりでも、確実に刻は過ぎている。
(そろそろ……戻らないと……)
胸の中に、小さな不安が芽を出す。もし、屋敷に遅れて戻れば──追い出されるかも知れない。
そんなことを考えて顔を上げた瞬間、王子の口元が動いた。
「この近くに、俺の別荘があるんだ」
「……え?」
レオンハルトは微笑んでいたが、その目にはどこか切実な色が浮かんでいた。
「君を、このまま帰したくない」
一瞬、時間が止まったように感じた。雑踏のざわめきが遠のき、私と彼だけが静かな空間に取り残されたような感覚。
「でも……私……」
言いかけた声が震える。私は、侯爵家に売られた身。あの屋敷に戻らなければ、何が待っているかは分かり切っている。
その不安を読み取ったように、レオンハルトは言った。
「大丈夫。三姉妹からは、僕が君を守ってやる」
その言葉は、どこまでも優しく、そして力強かった。胸の奥に刺さっていた恐れが、ふっと緩んでいく。
私は目を伏せ、そしてゆっくりと頷いた。
「……はい。私も……もう少しだけ、ご一緒したいです」
午後の陽射しが、ペンダントの青をきらりと光らせた。
レオンハルトの別荘は、想像していた以上に静かで、華美さよりも落ち着いた空間だった。
湖のほとりに建てられたというその屋敷は、夕暮れの光を受けて石壁が淡い朱に染まり、まるでこの瞬間だけが永遠に続くような錯覚を与えてくれた。
「少しだけ、休んでいこう」
そう言って差し出された手は、どこか芝居がかっていた。けれど私は、それに気づかないふりをした。レオンハルトは、まるで誰もが自分に従うことを当然だと思っているような笑みを浮かべていた。
けれど、その笑みがなぜか私には優しさよりも、甘く誘う罠のように思えてならなかった。
──それでも、あの人の言葉に逆らえる術はなかった。
寝室へと案内されるまでの間、レオンハルトは時折こちらを覗き込むようにして視線を送ってきた。
「君のそういう表情、可愛いな」
頬に触れられ、耳元でささやかれる言葉に、心臓が跳ねた。鼓動の高鳴りは、まるで逃げ場を探すように乱れていた。
そのまま背中を抱き寄せられ、柔らかなベッドに倒れ込むように導かれたとき、私はただ、呆然としていた。
「怖がらなくていい……大丈夫だよ、優しくする」
レオンハルトの声は甘く、まるで夢の中に引き込まれるようだった。
心を許したのは、初めてだった。男の人に触れられることが、こんなにも怖くて、それでいて、こんなにも嬉しいものだと知らなかった。
──けれど、すべてが終わったあとの静けさは、あまりにも冷たかった。
「……さあ、帰るぞ」
レオンハルトの声は、どこか遠く感じられた。
さっきまで私を包んでいたはずの腕は、もうそこにはなかった。ただ立ち上がる彼の背中だけが、現実だった。
「……あの、王子様……」
声をかけた私の言葉に、彼は振り返ることもなく、「何だ」と素っ気なく返した。
それだけだった。その一言が、私の胸の中にひどく冷たい雨を降らせた。
「……いえ、何でもありません」
しぼむような声で返事をしながら、私は自分の両手を見つめた。何も変わっていないはずの手が、ひどく重たく、空っぽに感じられる。
馬車の中。車輪の音が規則正しく響く。
私は窓の外、沈んだ陽の残り香のような夕暮れを眺めていた。レオンハルトは何も言わず、向かいの席で目を閉じていた。
(男の人って……こういうものなのかな)
初めてを捧げたことに後悔はなかった。けれど、こんなにも心が置き去りにされるのだという事実が、胸を静かに締めつけていく。
(でも、きっと……また笑ってくれる日が来る)
甘くて優しい声。微笑み。手を引いてくれたあの時の瞳。あれはきっと、嘘じゃない──。
信じたいという気持ちが、まだどこかにあった。
侯爵家の屋敷が見えてきたころには、空は完全に夜の帳に包まれていた。煌々と灯された灯火の奥に、三姉妹の気配が潜んでいる気がして、私はそっと胸元のペンダントを握りしめた。
(この光が……あたしを守ってくれますように)
その願いは、誰に届いたのだろうか。
屋敷の扉が重く閉ざされる音がしたとたん、胸の奥に沈んでいた不安が現実になった。
「帰りが、遅すぎるわよ」
応接室の扉を開けた瞬間、長女・イザベラの冷ややかな声が室内を満たした。
背筋が凍る。奥に並ぶ三姉妹の姿。中央のソファに腰かけるイザベラ、立ちあがっている次女のマリーベルと三女のシャルロッテが、揃って私を睨みつけていた。
「ご、ごめんなさい……王子さまが、少し遠回りを……」
震える声で必死に弁解しようとする私の言葉は、すぐさまかき消された。
「王子が? 遠回り?」
マリーベルが嗤うように声を上げる。
その瞬間、イザベラの目がふと私の胸元をとらえた。
「……あら、それ、なに?」
言われて自分の胸元を見下ろすと、青く輝くペンダントが光を反射していた。
「そういうことね」
イザベラの目が細まり、にやりと唇を歪めた。
「別荘で、なにか“ご褒美”でももらったのかしら?」
「いえっ、あの、違います……っ」
「違う? じゃあ、どうしてそれを身につけてるの?」
イザベラは立ち上がり、ゆっくりと私に歩み寄ると、そのまま頬を平手で打った。
「身分もわきまえず、王子に色目を使って、あんたみたいなメスブタが!」
ビンタの衝撃に、私はふらつきながらも踏みとどまった。頬に熱が走る。だが、それよりも痛いのは、王子がこの場でどう振る舞うのかだった。
きっと助けてくれる。彼は「守ってやる」と約束してくれた。
けれど──
「やっぱり、下賤な女だったな」
その声が、あまりにも冷たかった。
顔をあげると、レオンハルトは表情ひとつ変えず、ソファから立ち上がっていた。
「もうちょっと楽しませてくれるかと思ったけど……飽きた」
言葉のナイフが、心に深く刺さる。
「疲れたから帰る。あとは任せるよ」
それだけを言い残して、彼は背を向けた。応接室を出ていく足音が、やけに静かだった。
「まぁ、王子さま……今度のお城の夜会には、ぜひ私たちも」
「お兄様に、お目通りを……」
イザベラとマリーベルが媚びるように言い、深々と頭を下げる。
レオンハルトは足を止めると、振り返りもせずに言った。
「あぁ。またカワイイメイドを用意してくれたらな」
笑い声も、冗談めいた軽さもなかった。その一言だけが、ひどく現実的に響いた。
視界が揺れた。息が苦しい。心臓が、何かに握り潰されるように痛む。
──ああ、すべて、最初からそうだったんだ。
レオンハルトの優しさも、笑顔も、声も、あのペンダントも。
全部、嘘だったんだ。
初めて愛した相手は、誰よりも残酷だった。
そして、私の中で、何かが静かに、音を立てて壊れはじめた。
登場人物紹介
■セリーヌ=クロフォード
身分:没落農民の娘 → 侯爵家メイド → 水牢の囚人 → 魔女見習い(予定)
本作の主人公。
貧困の中、家族の借金のため侯爵家へ“買われた”少女。
三姉妹の屋敷でメイドとして働いていたが、王子レオンハルトの心をかすかに揺らしたことから、令嬢たちの嫉妬を買い、拷問と凌辱の末に水牢に落とされる。
水責め、水牢、男たちの弄び……数々の地獄を生き延びた彼女の瞳に、もはや光はない。
唯一の支えだった王子すら、彼女を“ただの娯楽”として捨てた。
いま彼女の胸に宿るのはただ一つ――因果応報という名の、静かな復讐の炎。
■レオンハルト=リヴィエラ
身分:第三王子(王位継承権なし)
甘い微笑みと、流麗な物腰で人心を惑わせる“優しき王子様”。
しかしその本性は、己の欲望のためには平然と人の心を踏みにじる冷酷な男。
セリーヌに言い寄り、彼女の初恋と純潔を奪いながら、最後は三姉妹の前で「飽きた」と言い捨てて彼女を捨てる。
口癖は「カワイイメイド、また用意してくれ」。
■イザベラ=ヴァン=グランディール
身分:侯爵令嬢(長女)
三姉妹の長女で冷酷無比な支配者。
屋敷内のすべての者を階級で見下し、「使用人は使い捨ての道具」と公言して憚らない。
自分に逆らう者は拷問部屋へ。王子レオンハルトへの恋慕と独占欲から、セリーヌに対して執拗な嫉妬を燃やす。
拷問を命じ、メスブタと罵り、最後は王子の前で嘲笑しながら平手打ちを食らわせる。
拷問趣味を持ち、自らの手を汚すこともいとわないタイプ。
■マリーベル=ヴァン=グランディール
身分:侯爵令嬢(次女)
三姉妹の中でも特に嘲笑と皮肉を好む、嗜虐性の強い令嬢。
他人の不幸を笑いの種にし、セリーヌの遅い帰宅を詰問しながらも、ペンダントを見つけて「そういうこと」と嗤う。
姉イザベラの後ろ盾を受けて好き勝手をするが、実は自分が傷つくことには極端に臆病。
拷問を「遊び」として楽しむ冷淡な少女。
■シャルロッテ=ヴァン=グランディール
身分:侯爵令嬢(三女)
最も若く、最も残酷な“可憐な悪意”。
幼さと天真爛漫を武器にしながら、拷問や凌辱の場面で「私もやってみたい」と興味本位で加わる姿は、他の姉妹以上に狂気的。
純粋な残虐さを備えており、時に姉たちさえもぞっとさせる一面を持つ。
セリーヌを“人間”ではなく“娯楽”として認識している。
■屋敷に巣食う男たち
身分:庭師、警備兵、従者など
グランディール家に雇われている名もなき男たち。
三姉妹の命令に従い、セリーヌを水牢へ引きずり込み、暴行と拷問の実行役を担う。
王子の“お下がり”として弄ぶことを許されたあとは、腐った笑いとともに群がり、彼女を完全な“モノ”として扱った。
だが彼らもやがて飽き、セリーヌを見捨てる。
残されたのは、壊れた身体と、復讐の契機だった。




