第三十三話 『薔薇は枯れ、牙を剥く──シャルロッテへの制裁 PART2』
私はゆっくりと一歩踏み出し、板が軋む音が小屋の静寂を裂く。そのわずかな音に、シャルロッテが反応してこちらを振り向く。頬は紅に染まり、息は熱く荒く、媚薬に囚われた瞳が揺れながら私を映していた。
「お前には……死なせるのは、もったいない」
低く囁くと、その響きは空気をすり抜け、彼女の耳から脳髄に直接染み込むようだった。私はわずかに笑みを浮かべ、左眼を細める。
「……なぜ?」と、甘く掠れた声が返る。
「もっと長く、生きてもらうためだ。お前のその顔で、ずっと」
左眼に淡い蒼黒の光が灯り、《ネクロサイト》の力が滲み出す。視線が絡み合った瞬間、シャルロッテの瞳孔が揺らぎ、虚ろな笑みが浮かんだ。
「……何をすればいいの?」
「切れ。自分の顔を」
私は短剣の柄を彼女の手にそっと押し込む。その動きに抗うことなく、彼女は恍惚の表情で刃を頬にあて、ゆっくりと引いた。白い肌に紅が走り、滴が顎を伝い板間に落ちる。金属の匂いと、湿った木の腐臭が混ざり合い、小屋の空気をさらに重くする。私はその光景を、一瞬も目を逸らさず見届けた。
刃先が彼女の頬をゆっくりと抉るたび、赤黒い裂け目が深く刻まれ、温かな血がじわりと溢れ出す。その滴が顎を伝い、木の床に落ちて小さな赤い斑点を広げた。媚薬の麻酔効果が痛みを奪い、シャルロッテはむしろ吐息を甘く漏らし、唇の端を緩める。
「もっと深く……えぐりなさい」
低く囁く私の声に、左眼の蒼黒の光が脳髄へと命令を刻み込む。
「……気持ちいい……気持ちいい……」
短剣は彼女の頬骨に押し当てられ、肉を削ぐように滑っていく。裂けた皮膚の下からは生々しい赤い筋肉が露わになり、血が滝のように顎へと滴った。
刃は額へと移り、皮膚を剥ぎ取るように進む。血が視界を覆い、片方の瞳が真紅に染まる。それでも手は止まらず、陶酔に濡れた瞳が細められる。
やがて切っ先は眼窩の縁をなぞり、鋭い金属が白目をかすめる。瞬間、眼球へと滑り込んだ刃が、鮮血と涙を混ぜ合わせながら頬を熱く濡らした。
「もっと……もっと……」
恍惚とした声が暗い小屋に響き、その光景は狂気と悦楽が交錯する、血と影の舞踏そのものだった。
私は短く息を吐き、懐から銀色の犬笛を取り出した。手の中で冷たく光るそれを、ゆっくりとニールに差し出す。
「野犬を呼べ」
ニールはそれを受け取りながら、唇の端を愉快そうに吊り上げた。
「……ああ、分かりますよ。ご主人様のしたいことが」
その声音には、これから訪れる混沌を心待ちにするような熱が潜んでいた。ニールは笛を唇に当て、息を吹き込む。耳には届かない高音が、冷たい夜気の中に放たれた瞬間、空気が微かに震えた。
外から、落ち葉を踏みしだく乾いた音が聞こえ始める。遠くの気配が、やがて複数の足音に変わった。低く喉を鳴らす唸り声が混ざり、闇を切り裂くようにこちらへ迫ってくる。
小屋の中の空気が一気に張り詰めた。木の壁板がきしみ、シャルロッテの荒い呼吸と、近づく獣の息遣いが交錯する。冷たい汗が背筋を伝い落ち、私は視線を扉に向けた。
――もうすぐだ。牙と飢えた瞳が、この小さな小屋を地獄に変えるまで。
外の闇がざわめき、湿った土を蹴る軽快で不規則な足音が幾重にも重なって響いてきた。枯葉を踏みしだく音が近づくたび、地面がわずかに震え、小屋の壁板までがその振動を伝える。
低く、喉の奥で響く唸り声が混じる。それは一頭ではない。幾つもの荒い息遣いが夜気を押し分け、確実にこちらへ迫っていた。風の流れが変わり、獣の体温と鉄のような匂いが鼻先を掠める。
私は静かに息を殺し、手の中の短剣をわずかに握り直した。シャルロッテの肩が小刻みに揺れているのは恐怖からか、それともまだ媚薬の熱に浮かされているからか。いずれにせよ、この場から逃れることは叶わない。
その時、ニールが片眉を上げ、銀の瞳を細めて私を見やり、低く笑った。
「ご主人様……これから何をされたいのか、もう分かってきましたよ。ふふ……殺すより、もっと死にたくなることをするんですね」
私は口元だけで笑みを返し、囁くように答える。
「ええ……私がされたように」
その一言に、ニールの口角がさらに上がった。「愉快だ……本当に、愉快です」
近づく足音はもうすぐそこだ。次の瞬間、この薄暗い箱の中は牙と影で満ち、私の復讐が成就する舞台へと変わるだろう。
扉が軋み、冷気と腐臭が一気に小屋へと流れ込んだ。
闇の奥から、ぎらりと光を反射する複数の瞳が現れる。野犬たちの毛並みは泥と古い血で固まり、口元からは糸を引く唾液と鉄錆の匂いがむっと漂ってきた。
「……食え」
私の低く冷たい声が空気を裂いた。
犬たちは耳をぴくりと動かし、次の瞬間、地を蹴って突進する。獰猛な唸り声と共に飛びかかり、牙がシャルロッテの頬に突き立った。皮膚が裂け、肉が抉られ、鈍く湿った音が小屋の中に広がる。
媚薬で痛覚が鈍った彼女は、悲鳴とも甘い吐息ともつかない声を漏らし、無防備にその暴力を受け入れていた。赤黒い血が飛沫となって壁や床に散り、裂けた皮膚の奥で白い骨が瞬間的に覗く。
野犬は鼻を鳴らし、さらに深く牙を押し込み、頬から顎へと肉を剥ぎ取った。床板を叩く血の滴りは重く鈍い音を立て、空気そのものが鉄臭く染まっていく。
私は一歩も動かず、その光景を冷ややかに見下ろしていた。胸の奥には怒りも興奮もない。ただ、確実に生きたまま、この瞬間を彼女の肉と記憶に刻み込むことだけを考えていた。
やがて頃合いと判断し、静かに口を開く。
「……もういい」
犬たちは牙を放し、血塗れの口元を舐めながら後退した。そこに残されたのは、息も絶え絶えで、顔の原形が判別できないほど抉られたシャルロッテ。肉は裂け、瞼は垂れ下がり、片目は血の海に沈んでいた。
私は彼女を冷たく見下ろし、吐き捨てるように言った。
シャルロッテは床に崩れ落ち、血と涙と唾液で顔をぐちゃぐちゃに濡らしていた。皮膚は裂け、赤黒い肉がむき出しになり、息を吸うたびに喉の奥でひゅうひゅうと音を立てる。震える手は床板を掻くように動き、虚ろな瞳が焦点を結ばないまま宙を泳いでいた。
私はその姿を冷ややかに見下ろす。足元では、血だまりが靴底にまとわりつき、ぬるりとした感触が伝わってくるが、気にも留めなかった。
「……これから一生、その醜い顔で生きろ」
その言葉は、刃よりも冷たく、彼女の胸の奥を深々と抉る。シャルロッテの唇がわずかに震えたが、声になることはなかった。
隣で、ニールが楽しげに喉を鳴らす。「……ご主人様、ぐちゃぐちゃですね。ああ、本当に素晴らしい。まるで芸術品です」
私は何も答えず、踵を返す。軋む扉を押し開けると、夜風が頬を撫で、外の冷たい空気が肺を満たした。
遠く、墓場の向こうから野犬の遠吠えが低く響く。それはまるで、この夜の結末を見届けた証人たちの合図のようだった。
私は一度も振り返らず、闇に溶けて歩み去った。背後には、血と恐怖に沈む小屋と、静かに下りていく復讐の幕だけが残された。
墓場近くの作業小屋での一件から数日後、城下の外れを歩く私の耳には、いまだシャルロッテの呻き声と、野犬の牙が肉を裂く湿った音が焼き付いて離れなかった。ひとつの復讐は確かに果たされた。しかし、胸の奥底に渦巻く黒い熱は、少しも鎮まる気配を見せない。
ニールが隣で歩きながら、口元に愉悦を浮かべて囁く。
「ご主人様、あの顔……忘れられませんね。ぐちゃぐちゃで、最高でした」
私は短く笑い、夜空を見上げた。星々は冷たく瞬き、内側の灼けつくような熱と鋭い対比を成している。
「まだ終わりじゃないわ。あれはほんの序章にすぎない」
ニールの銀の瞳が、子供のような好奇心で細められる。
「次は……どちらに?」
私は遠く離れた領地の方角を見据えた。そこにはイザベラとマリーベル、かつて私を玩び、廃人寸前にまで追いやった姉たちがいる。二人は城には住んでいないが、依然として安穏と暮らしている。その顔に恐怖の影が差していないことが、何よりも我慢ならなかった。
「すぐに分かるわ。……すべてが終わるその日まで、満足なんてできない」
その頃、シャルロッテは――彼女が屋敷から消えたことを心配した姉たちが捜索に放った従者によって発見されたという。だが、その変わり果てた姿はあまりにも凄惨で、最初は誰も彼女だと気付かなかった。正体を認識した瞬間、居合わせた全員が吐き気を催し、その場で嘔吐したと聞く。
夜風が私の髪を揺らし、足音が静かに土の道へと吸い込まれていく。復讐の道はまだ半ば――影と血の物語は、これからさらに深く、濃くなっていくのだった。