第二十六話『夜明けは血の舞台の合図』
控え室は厚い絨毯と重たい空気に包まれていた。窓から差し込む午後の陽光が、金糸の刺繍をかすかに輝かせる。外では侍女たちの慌ただしい足音が行き交い、婚礼支度のざわめきが扉越しに伝わってくる。
壁際に腕を組んでいたゴリアテが、唐突に口を開いた。
「……向こうの城、俺も行ったことがある」
低く落ちる声が、石造りの壁に重く反響する。私は振り返り、その険しい横顔を見つめた。無骨な顎の線と鋭い目が、いつも以上に影を帯びている。
「そう。感想は?」
「でけぇ。冷てぇ。……人も、な」
短く切り捨てるような言葉の中に、氷のような記憶が潜んでいるのが分かった。彼がそこに滞在した時、何を見たのかは語られない。それでも、空気の温度がわずかに下がったような気がした。
「忠告だ。あそこじゃ、油断すんな」
その視線は鋼のように硬く、私の仮面を貫こうとしてくる。
ゴリアテが、重い石壁のような声で口を開いた。
「……陰謀が渦巻く場所だ」
低く響くその言葉に、私は視線を向ける。彼の顔は硬く、その目は遠い過去を見ているようだった。
「王妃ルイーゼは病床にあるが……強ぇ。寝てても、周りを動かせる女だ」
「あれは、俺が王女の護衛になる前だ」
ゴリアテは壁にもたれ、低い声で話し始めた。
「隣国ヴァルデンシュタイン王国に呼ばれた。理由は簡単だ。闘技場で俺が強ぇって噂が、向こうに届いたからだ。貴族どもが退屈して、見世物を欲しがった」
「……それで行ったの?」
「ああ。報酬は飯と金貨、あと“生き延びたら”って条件付きだ。勝ちゃいいだけだと思った」
「ずいぶん簡単に引き受けたのね」
「俺はそういうもんだ」
彼はわずかに目を細め、記憶を手繰るように続けた。
「着いた城はでかくて冷てぇ。壁も空気も石みてぇに硬かった。中の連中も笑いやしねぇ。鉄の匂いと陰気だけが漂ってた」
「……まるで牢獄みたいね」
「そうだな。試合の日、王妃ルイーゼの名前をやたら耳にした。病床にあるはずなのに、“王妃が望んだ”って声がそこら中で飛び交ってた。姿は見えねぇのに、全部動かしてやがる」
「怖い女ね」
「闘技場じゃ予定通り相手を叩き潰した。骨の折れる音と血の匂いが、勝ちの証だ。だが一番覚えてるのは、背後から刺すように感じた見えねぇ視線だ」
「視線?」
「ああ。ルイーゼか、それとも別の奴か……。数日後に帰されたが、それは“また呼べる駒”って印を押されたようなもんだ」
ゴリアテは短く息を吐いた。
「あの城は陰謀の巣だ。俺はそれを肌で知ってる」
ゴリアテの声音には、実際に見てきた者だけが持つ確信があった。彼の瞳には、かつて隣国王宮で目にしたであろう、見えぬ糸が人々を操る光景がちらついているように思えた。
「心配してくれるの?」
「仕事だ」
ぶっきらぼうな返答に、私は小さく笑った。だが、その無愛想な声の奥に潜む温度を、私は確かに感じ取っていた。
――毒と影。
ヴァルセリアが口にしたあの予言が、まるで血潮のように温かく、鮮やかに脳裏を満たしていく。胸の奥にひやりとした愉悦が広がり、鼓動がわずかに速まるのを自覚した。
毒は静かに、目には見えぬほどの微細な波紋を広げて相手の中へと侵食する。影は音もなく、存在を悟られることなくすべてを覆い隠す。どちらも確実で、そして逃れられない。
あの隣国の宮廷は、その二つを試すにこれ以上ないほどの舞台だ。そこでは笑顔の裏で刃が交わされ、沈黙の中で命運が決まる。毒を忍ばせ、影を操れば、王族も貴族もひとたまりもないだろう。
私は視線を落とし、指先でドレスの裾をゆっくりと撫でる。柔らかな布の感触が、これから仕掛ける静かな殺意を確かなものにしてくれるようだった。
夜の帳がゆるやかに城を包み込み、窓から差し込む月光が床に淡く伸びている。部屋の中は深い静寂に沈み、蝋燭の炎がかすかに揺れ、その影が壁に不規則な模様を描いていた。
机に向かい、私は明日の出立に備えて頭の中の計画をひとつずつ整えていく。隣国までの行程、王宮での初対面の場、手に入れるべき駒と切り捨てるべき駒。そして――毒と影をどう仕掛けるか。
廊下からは、控えているマグダレーナの規則正しい足音が響く。硬い床を踏むその音は、まるで私の思考を律動させる拍子のようだった。
――女官を握れば、噂を制することも容易い。
すでに駒はある。マグダレーナの機転と忠誠は、王女の評判を築き、情報を引き寄せるに十分だ。隣国に着けば、彼女は自然とその役目を果たすだろう。
机の端に置いた小箱を開ける。中には、ヴァルセリアから託された黒い小瓶。月明かりを吸い込んだかのような液体が、底で静かに波打っている。
「……舞台は整った」
かすかな呟きは蝋燭の微かな爆ぜる音に溶け、消えた。しかし胸の奥では、確かな熱が静かに燃え続けていた。
窓辺から差し込む月光が、床に細く長い帯を描いていた。蝋燭の炎が時折揺れ、その度に室内の影が息づくように動く。静けさの中、外からふと気配が近づいた。
音もなく窓の外から影が滑り込み、黒衣の裾が月明かりを切り裂く。ニールが軽やかに窓枠を跨ぎ、部屋へと足を踏み入れた。
「で、嫁ぎ先では誰を最初に落とすんです?」
冗談めかした声色。けれど、その瞳の奥には軽口だけではない探るような光があった。
私は机から顔を上げ、目を細める。
「状況次第よ」
柔らかな口調の中に、凍り付くような冷えを潜ませる。
「でも……きっと血の味は濃いでしょうね」
ニールは片眉を上げ、口角をゆるく引き上げた。
「そういう言い方、嫌いじゃないです」
「でしょうね」
私は視線を窓の外に向ける。月明かりが銀色に輝き、遠くの城壁を照らしていた。
「あなたも気を抜かないことね。あの城は毒と影の巣よ」
「抜くわけないでしょう。俺はあなたの右腕ですから」
軽く言いながらも、その声には固い芯があった。蝋燭の灯りが彼の横顔を照らし、鋭い輪郭に一瞬影を落とす。
ふと、雲間から月が姿を現す。冷たい光が部屋を満たし、私の左眼に反射した。その瞬間、銀色の輝きが刃のように鋭く、闇の奥を射抜く光となった。
夜明け前の城は、まだ深い眠りの中にあった。薄明の空の端に、東の稜線がほんのりと赤を差し始める。冷たく澄んだ空気が頬を刺し、吐息は白い霧となって消えていく。
私は王女としての礼服を纏い、長く続いた仮面の日々に別れを告げる。ここでの生活も終わり――王女エミリアを装い、この国で築いた立場は、すべて本命へと近づくための舞台装置だった。
馬車の前で、ニールが薄笑いを浮かべて待っていた。黒衣の裾が朝風に揺れ、その瞳は軽薄さの奥に鋭い光を宿している。
「いよいよですね。お目当ての連中が待ってますよ」
私はわずかに口角を上げた。脳裏に浮かぶのは――レオンハルト=フォン=リヴィエラ。侯爵家三姉妹、イザベラ、マリーベル、シャルロッテ。そして、その背後で腐臭を放つ権力者たち。
「ええ。逃げ場は与えない」
背後に立つゴリアテが、低くぶっきらぼうな声を落とす。
「向こうは陰謀だらけだ。……気を抜くな」
「分かってるわ」
マグダレーナが無言で私のマントを整え、静かに目礼する。その所作には一切の無駄がない。背後には選び抜かれた女官たちが控え、荷を積んだ従者が忙しく動いていた。
朝露で濡れた石畳を、馬車の車輪がゆっくりと軋みながら進む。私は一歩、また一歩と足を運び、馬車の中へと乗り込む。
城門が重く開かれる音が響く。外にはまだ眠る街並みが淡く霞んで広がっていた。これから向かうのは、毒と影が渦巻く隣国の宮廷――ヴァルセリアの予言が、血のように温かく脳裏を満たす。
――始めよう、最後の舞台を。
馬車が動き出し、冷たい朝日が差し込む。その光は私の左眼に反射し、淡く妖しい輝きを放った。




