第二話『王子様との出会い』
膝下から先の足はすでに黒ずみ、皮膚は裂け、腐った肉の間から蛆が這い回っていた。水牢の膝までの水は冷たく、じっとりとした痛みが骨の奥にまで染みる。鎖に繋がれた腕は痺れ、動くたびに水面がかすかに揺れた。壁から落ちる水滴の音だけが、静寂を破っている。
──どうして、こんなことになったのか。
まぶたを閉じると、あの日の光景が鮮やかに浮かぶ。まだ、私がメイドとして屋敷に来て間もない頃、初めての華やかな夜会の日だった。
大理石の床は磨き上げられ、光を映して白銀に輝いていた。天井の巨大なシャンデリアは無数の蝋燭の光を乱反射させ、壁際には花と香水の甘い香りが漂う。楽団の奏でるヴァイオリンの音色が重なり、まるで別世界のような華やかさだった。
私は黒いメイド服に身を包み、銀の盆の上に赤ワインのグラスを並べていた。手のひらは汗ばみ、足取りは緊張で硬い。そんな時、足元の裾をうっかり踏んでしまい、体が前のめりに傾く。
──ガシャンッ!
赤い液体が宙を飛び、真っ白な服を鮮やかに染めた。
「……っ!」
慌てて顔を上げると、そこには青い瞳の若き王子が立っていた。名をレオンハルトという。金糸のような髪がシャンデリアの光を受けてきらめき、その瞳には驚きとわずかな呆れが浮かんでいる。
「す、すみませ……っ、王子殿下……!」
膝をつこうとする私に、王子レオンハルトは軽く首を振った。
「怪我はないか? ……君、名前は?」
「セ、セリーヌでございます……」
声は震え、胸の鼓動は耳の奥で暴れていた。レオンハルトは少し微笑み、汚れた服など気にも留めない様子で私を見つめる。
「ドレスは汚れたが、君が無事ならそれでいい。……君の瞳、湖みたいに澄んでいるな」
その言葉に胸の奥が熱くなり、足元がふわりと浮くような感覚に襲われる。生まれて初めて、自分が誰かに見つめられた気がした。
その夜を境に、王子レオンハルトは私にたびたび言葉をかけるようになった。ホールで盆を渡すとき、指先がかすかに触れる。そのたびに心臓が跳ね、頬が熱くなる。王子は本来は城にいる身であったが、何かと理由をつけてこの屋敷に足を運ぶようになった。表向きは三姉妹に会うためという名目だが、実際には私──セリーヌの顔を見ることだけが彼の目的だった。
「今度、庭園で……少し話がしたい」
低く甘い囁きに、私はただ頷くしかなかった。
──そして今、膝下の腐った足を水に浸しながら、私は思い知る。あの瞬間から、私の運命は静かに、確実に狂い始めていたのだ。
夜会から数日後、王子レオンハルトに呼ばれた私は、屋敷の庭園に向かうことになった。昼間の陽射しは眩しく、白く磨かれた石畳は光を跳ね返している。足取りは重く、膝がわずかに震えていた。胸の奥で鼓動が早鐘のように打つ。
正門を抜けた瞬間、背筋が冷たくなった。そこには、長女イザベラ、次女マリーベル、三女シャルロッテの三姉妹が並んで立っていた。
イザベラは氷のような瞳で私を射抜き、マリーベルは扇子で口元を隠しながら、蔑むような笑みを浮かべている。シャルロッテは無邪気さを装った笑みで、私を上から下までなめるように見つめていた。その目は「逃げ場はない」と語っているかのようだ。
「どこに行くのかしら、セリーヌ?」
低く冷たい声に、喉がきゅっと締めつけられる。必死に声を絞り出した。
「お、お庭の手入れを……」
「ふぅん……まあ、せいぜい失礼のないように」
その言葉と同時に、背筋を氷の指がなぞったような感覚が走る。断る術など、最初からなかった。私は小さく会釈し、心臓の鼓動を必死に抑えながら、庭園への小径を歩き出した。
薔薇のアーチをくぐると、甘く濃い香りが鼻をくすぐる。陽の光を浴びた噴水の水がきらきらと光り、そのほとりに王子レオンハルトが立っていた。金糸のような髪が風に揺れ、青い瞳は水面を映したように澄んでいる。私に気づくと、彼はやわらかく微笑んだ。
「来てくれたんだな、セリーヌ」
「……お呼びに従わぬわけには、参りませんので……」
声は小さく震えていた。レオンハルトは私の前まで歩み寄り、噴水の水面を見下ろしながら、静かに言葉を落とす。
「君は……気になる存在だ」
胸がぎゅっと締め付けられ、息が止まる。必死に言葉を探し、かすれ声を出した。
「そ、そんな……身分が違いすぎます。それに、私は……売られてここに来た身です。侯爵令嬢の三姉妹にも、もう顔向けできません」
レオンハルトは肩をすくめ、苦笑を浮かべた。
「王子と言っても、俺は第三王子だからな。名前だけみたいなもんだ。王位は、いずれ兄が継ぐさ」
「……そんなこと……」
「いずれ俺が、ここから出してやる。だから、もう少しだけ耐えてほしい」
真剣な青い瞳が私を射抜く。その視線に胸の奥がじんわりと温まり、息が震える。
「今度……市場に行ってみないか。きっと、楽しいぞ」
噴水の水音が優しく響き、遠くで小鳥がさえずっていた。甘く、危うい誘いの言葉に、私はただ、小さく震える唇で頷くしかなかった。
その日、王子レオンハルトは侯爵家の屋敷にふらりと顔を出した。豪奢な応接室に三姉妹が並び、空気は甘い香水の香りと張り詰めた緊張で満ちていた。彼は何気ない調子で口を開く。
「ちょっと市場に買い物に行きたいんだ。そちらのメイドさんを一人貸してもらえないかな」
その視線は、まっすぐに私へと注がれた。三姉妹の表情がぴくりと歪む。長女イザベラは一瞬だけ鋭く睨み、扇子を持つ次女マリーベルの手がぴたりと止まった。三女シャルロッテは口元に無邪気な笑みを貼り付けているが、瞳は冷たい。
「……お好きにどうぞ、殿下」
しぶしぶとした声の後、イザベラがふと口にした言葉が、胸に刺さる。
「ほんと……王子さまは、プレイボーイだこと。前の召使のようにならないと良いけど」
その声色は甘やかに笑うようでいて、深く冷たい毒を含んでいた。私はその一言を胸に抱えたまま、王子の後を追った。
馬車に乗り込むと、窓から見える屋敷の門がゆっくりと遠ざかっていく。心臓は早鐘のように鳴り、手のひらには汗が滲んでいた。胸の奥には高揚と不安が絡み合い、足元がふわりと浮くようだ。
「けっこうドキドキしただろう?」
レオンハルトは屈託のない笑顔を向けてきた。青い瞳は陽光を受けてきらめき、無邪気さと優しさに満ちている。その笑顔に胸が熱くなり、思わず頷いた。
「……はい。ですが……とても、うれしいです」
市場に着くと、賑やかな声と香ばしい匂いに包まれた。果物を並べる商人の呼び声、焼き立てのパンの香り、色とりどりの布や小物が風に揺れる。石畳には陽光が反射し、人々の笑顔とざわめきが胸をくすぐる。王子と二人で屋台を回りながら過ごす時間は、夢のように楽しかった。
「もっと君のことが知りたいな」
人波の間で、王子がふと真剣な声を出す。私は少し迷い、けれどこの幸せな瞬間を嘘で汚したくなくて、静かに口を開いた。
「……私の家は、とても貧しくて……食べるものにも困るような暮らしでした。だから、侯爵家に……売られてきたのです」
レオンハルトの眉がわずかに下がる。だが次の瞬間、彼はやさしく微笑んだ。
「君は……心も、顔も、美しい」
その言葉が胸に深く染み込む。市場の喧騒が遠のき、世界は静かになったように感じる。胸の奥が甘く温かく満たされ、私はその瞬間だけ、幸せに包まれていた。
【作者の魂の叫び】
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(作者:セリーヌに憑依中)