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第十八話『偽王女の誕生』

 王女から届いたのは、薄桃色の封蝋で封じられた小ぶりな招待状だった。紙質は上質で、指先に滑らかな感触が残る。文面は簡潔かつ婉曲――「またお話ししたい」。その一文に、王女特有の含みと挑発の匂いが漂っていた。


 私は机に向かい、その場でペンを取り、「承知しました」とだけ短く返す。興味も畏れも見せず、必要最低限の言葉で。返書を封じて使いの者に渡すと、背後から低くくぐもった声が響いた。


「おい、本当に行くのか? 面倒ごとの匂いしかしないぜ」


「……私に考えがある。黒猫の姿でついて来て。視線に入らない場所に潜んで」


 ニールは片方の口角を吊り上げ、「任せとけ」と短く返し、黒猫の姿へと変じた。漆黒の毛並みは月明かりと同化し、碧い瞳だけが鋭く光を放っていた。


 王女の私室前に立つと、巨躯の衛兵ゴリアテが無言で道を開けた。鎧の継ぎ目がわずかに鳴る音が耳に残る。重厚な扉が軋みを立てて開くと、室内の甘やかな香が一気に押し寄せた。


 薔薇と蜂蜜を混ぜたような香りが、深紅のカーテンや金糸の刺繍に包まれた空間全体を支配している。暖色の灯りが絵画を優しく照らし、柔らかな影が床を覆っていた。


 中央に立つ王女エミリアは、獲物を迎えるような艶やかな笑みを浮かべていた。純白のドレスは灯りを受けて淡く輝き、胸元の大粒のサファイアが呼吸に合わせて小さく揺れる。


 その傍らに女官長エルヴィラが控えていた。氷のような無表情に、冷え切った視線が宿っている。その瞳が私を頭のてっぺんから足元まで、容赦なく値踏みしていくのが分かった。その眼差しは、言葉を使わずとも「不要」と告げる刃のようだ。


 私はその視線を真正面から受け止め、口元だけは礼儀正しく微笑ませた。……やはり、ニールの言った通りだ。ここには単なる会話以上の、濃く渦巻く思惑がある。


 王女は白くしなやかな指でワイングラスを持ち上げ、その中の深紅の液体をゆるやかに回した。揺れるたびに灯りを映し、紅玉のような輝きが瞬く。その視線は私を射抜くように絡みつき、一瞬たりとも離れない。注ぎ足されたワインが縁を伝い、赤い滴となって落ちるまで、彼女の瞳は私を捕らえていた。


 「……あなたが欲しい」


 囁きは低く甘く、まるで耳の奥をくすぐる蜜の糸。彼女は一歩、また一歩と近づき、指先が私の顎をそっと持ち上げた。吐息が頬をかすめ、甘い香りが胸奥を揺らす。


 「身分など関係ない」


 その言葉は熱を帯び、抑え込んできた欲望を一気に解き放つようだった。紅く潤んだ瞳が私を見上げ、わずかに開いた唇からは熱と渇きが滲む。指先が顎から頬へ、頬から耳の後ろへと這うように移り、ゆっくりと確かめるように肌を撫でた。その仕草は所有を誓う印にも似ていた。


 私はわずかに目を見開き、頬に熱が広がるのを感じながらも、内心では冷ややかな計算が回転を始めていた――駒は揃った。


 ふと視線を横にやると、女官長エルヴィラが控えていた。氷の彫像のような無表情、その奥にかすかな揺らぎ。嫉妬の色だ。左眼《ネクロサイト》が疼き、視界に赤黒い靄が立ちのぼる。脈打つ感情の炎は、私の意志に応じて形を取り、燃えさかっていく。私はその火種に静かに油を垂らした――嫉妬は瞬く間に燃え広がり、彼女の瞳を灼けつくような激情で満たしていった。


 女官長エルヴィラは、まるで堰が決壊したかのように椅子を激しく押しのけ、立ち上がった。その動きは、これまで見せたことのない荒々しさを帯び、長年磨かれた女官としての端正な所作を一瞬でかなぐり捨てていた。懐へと伸びた指が銀の短剣を引き抜く。刃が燭台の光を反射し、氷のような光芒を放つ。


 「……殿下を……誰にも……渡さぬ……」


 低く掠れた声は、嫉妬と執着の熱を孕みながら、室内の空気を震わせた。その言葉と同時に、彼女は地を蹴って距離を詰め、短剣を王女の胸元へ深々と突き立てた。布を裂き、肉を割き、骨をかすめる生々しい鈍音が響く。王女の身体が弓なりに反り返り、大きく見開かれた瞳が揺らめく蝋燭の炎を映した。


 「……っ…!」


 短い呻きと共に、鮮血が弧を描いて宙に舞い、純白のドレスを鮮やかな紅に染め上げる。滴る血が床を叩くたび、香水の甘い香りに、鉄錆のような生温い匂いが絡みつき、息をするたび喉奥が焼けるような濃密さで満たされていく。


 エルヴィラの瞳には、嫉妬と狂気が渦巻き、理性という鎖が完全に断ち切られていた。刃を引き抜くと、彼女はそのまま逆手に構え、震える手で自らの喉元へ押し当てる。ためらいはなかった。刃が皮膚を裂き、温かな血潮が激しく噴き出し、顎から胸元、絨毯へと真紅の筋を描く。最後に彼女の唇が作ったのは、悲哀と安堵が入り混じった歪な笑みだった。


 重い衝撃音と共に、二つの身体が床へ崩れ落ちる。深紅の血が絨毯をじわじわと侵食し、黒ずんだ影となって広がっていく。室内には、花弁のように甘い香りと、鋭く鼻を刺す死の匂いが絡み合い、すべての音を飲み込む張り詰めた静寂が残った。


 ニールが黒猫の姿のまま、血の匂い漂う室内をぐるりと見回し、金色の瞳を細めて低く囁いた。


 「……どうする? 厄介だな」


 その声には焦りよりも、事態を面白がるような冷ややかさが混じっていた。私は一瞬も迷わず、魔女としての威厳を纏った声で命じる。


 「私と王女を入れ替える」


 胸奥から魔力を引き上げ、血の匂いに満ちた空気の中へと解き放つ。肌が粟立ち、空気がひりつき、視界が淡い光で揺らぐ。骨と肉がひそやかに軋む感覚のあと、私の身体は王女の姿へと変わり、声色も吐息すらも完全に彼女のものへと塗り替わっていく。


 「……それと、顔を潰せ。これは命令だ、ニール」


 使い魔への絶対的な指示に、ニールの耳がぴくりと動く。「理由は?」と問う視線を送ってきた。


 「遺体が本人だと判別できなければ、私が“王女”として生き残れる。少しでも面影が残れば、疑いが及ぶ」


 「ふん……了解、主よ」


 その返答は従順で、どこか愉悦すら帯びていた。ニールは無言のまま王女の亡骸に歩み寄り、爪先が絨毯をかすめ、血だまりを踏む音が重く響いた。次いで、肉を潰す鈍い音と骨の砕ける乾いた音が、静まり返った室内に不気味に混じる。かつて気高かった顔立ちは無惨に崩れ、判別不能な肉塊と化した。


 私は血飛沫で赤く染まった裾を握りしめ、喉の奥に冷たい空気を溜め込む。悲鳴を上げるその瞬間まで、表情も呼吸も、完璧に“王女”を演じきる覚悟があった。扉の向こうには、巨体のゴリアテが息を潜めて控えている。


 外に控えていた巨躯の衛兵ゴリアテが、まるで城門を蹴破るかのような勢いで扉を押し開けた。分厚い木板が悲鳴を上げ、冷たい夜気が血の匂いに混ざって流れ込む。


 その直前、私は王女の姿のまま、胸に手を当てて大きく息を吸い込み、震える声を意図的に作った。


 「キャー! 誰か……っ!」


 甲高い悲鳴が部屋中に響き、廊下の向こうから重い足音が急速に近づく。扉が勢いよく開かれ、ゴリアテの影が部屋に差し込む。


 私は肩を震わせ、涙を滲ませながら振り返った。


 「た、大変……! エルヴィラ女官長と、この新人が……争って……二人とも……死んでしまったの!」


 嗚咽を混ぜた声は震えていたが、その奥底には確かな支配の響きを潜ませていた。ゴリアテの視線が私を通り越し、床に沈む二つの亡骸へと移る。無機質な瞳は、感情の揺らぎを見せぬまま任務の遂行だけを求めている。


 「……始末せよ」


 短く、鋭く、抗う余地を与えぬ命令。言葉に魔力を纏わせ、まるで魔女が使い魔を操るかのような口調だった。


 ゴリアテは無言で一礼すると、巨腕で死体を抱え上げた。分厚い革手袋が血に濡れ、赤黒い滴が床に点々と落ちていく。彼の背が扉の向こうに消えていくまで、私は微動だにせず見送った。


 残された部屋には、鉄錆びた血の匂いと、蝋燭の揺らめく灯りが作る陰影だけが残る。


 ゆっくりと息を吸い込み、吐き出す。唇の端が、意識せずともわずかに吊り上がった。


 ――これで、王女の座は、私のものだ。


 胸の奥でほくそ笑むその感覚は、甘く、同時に冷たく背筋を撫でる快感だった。


 死体を始末し終えたゴリアテが去った後、部屋は異様な静寂に包まれた。蝋燭の炎が小さく揺れ、壁や天井に影が波紋のように広がっていく。その中を、黒猫の姿のニールが音もなく歩み寄ってきた。漆黒の毛並みが揺れ、黄金の瞳が細く光る。


 「いやあ、セリーヌ……いや、今は殿下と呼ぶべきか。見事な手並みでしたね。まさに完璧な乗っ取り劇だ」


 その声音には皮肉の棘と、本物の賞賛が同居していた。尻尾が左右に揺れ、愉悦を隠そうともしない。


 私は王女の姿のまま、ゆっくりと彼を見下ろし、わざと口角を上げて微笑む。


 「そう……なら、覚えておくことね。使い魔のニールよ。今後、私とお前は主従関係だ」


 その言葉は甘やかでありながら、魔女としての威厳を孕んだ冷たい響きを持っていた。


 ニールの瞳がわずかに細まる。「……ふふ、『やれ』と命じられたとき、ご主人様に言われたのかと思いましたよ」


 「そうよ。契約のしるしとして――我にひざまずき、手に口づけをしなさい」


 私は右手をゆるやかに差し出し、指先を小さく曲げて招く。その瞬間、空気がわずかに震え、手の甲には淡く黒い魔力の波紋が広がった。


 ニールは躊躇なく前足を揃え、深く頭を垂れた。黒猫の形を保ちながらも、その動作には人間の忠誠の儀式のような厳かさがあった。温かな唇が私の手の甲に触れると、紅を帯びた魔法陣が一閃し、ゆっくりと霧のように消えていく。


 「……契約は完了だ、我が魔女」


 「ふふ……これで私の新しい物語が始まるわ」


 蝋燭の灯りが二つの影を壁に長く映す。それはもう王女と黒猫ではなく、支配者と従者――魔女と使い魔の姿だった。




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