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第十七話『緋色の糸は揺らめいて──王女を釣る策』

 昼下がりの廊下は、磨き上げられた大理石の床が淡い陽光を受け、冷たくも艶やかな光を返していた。高窓から差し込む光が長い影を引き、奥の庭園からは水音と花の甘い香りがそっと漂ってくる。私は女官としての業務の合間、あくまで自然を装いながら歩く道を選んでいた――それは王女の視界に入ると分かっている動線だ。


 角を曲がった瞬間、視界に飛び込んできたのは緋色のドレスの鮮やかな揺れ。金糸の髪が陽に透けて輝き、その中心で王女エミリアが侍従と穏やかに談笑していた。私の足音に気づいたのか、王女の視線がゆるやかにこちらを捕らえる。


 歩調を変えず、私はすれ違いざまに軽く会釈をした。視線を合わせるのはほんの刹那、その直後には目を逸らし、表情も感情も閉ざす。礼儀は守りつつも、心を覗かせない距離感。


 その一瞬、王女の瞳にわずかな好奇の色が灯るのを感じた。だが私は、あえてその熱を背中で受け流す。


 ――第一印象は短く、印象的に。そして続きを知りたくさせること。


 胸の奥でそう呟きながら、私は庭園の奥へと歩みを進めた。陽光の柔らかさと、背後から追ってくる視線の熱が、肌の上で鮮やかに混ざり合っていた。


 庭園の石畳は朝露を帯び、踏みしめるたびにしっとりとした湿り気が靴底に伝わる。風が木立を揺らし、花壇の薔薇が微かに揺れた。王女エミリアは侍従と談笑しながら歩いており、その白く細い指から一枚の手袋がふいに滑り落ちた。


 数歩後ろからそれを見ていた私は、自然な足取りを崩さず近づく。花壇の縁に落ちた手袋は、陽光を浴びて白く輝き、絹の柔らかい光沢を放っている。


 私は静かにかがみ、手袋を拾い上げた。指先に絡みつく絹のなめらかさ。ほんの一瞬、その温もりと微かな香水の匂いが指に残った。歩み寄って差し出すと、王女が会話を止め、私に視線を向けた。


「お落としになりました」


 短く、それだけを告げる。口元は動かさず、微笑みは添えない。受け取る王女の手がわずかに触れ、香りが鼻先をかすめた。


 エミリアはほんの一瞬、私の顔を凝視し、薄く眉を上げる。探るような、しかし興味を帯びた眼差し。だが私は深く一礼し、その場を離れた。


 芝を踏む音が静かな庭に響く。背中に突き刺さる視線の熱を感じながら、私は心の中で呟いた。


 ――餌は、一口ずつだ。


 そして私は、何事もなかったように庭園の奥へと歩を進めた。


 大広間の高い窓から、柔らかな陽光が差し込み、磨き上げられた床に白い光の帯を落としていた。王女エミリアは侍女たちに囲まれ、花々を挿した大きな花瓶を前に、穏やかに笑みを浮かべている。その空間には、花の香りと甘やかな空気が満ちていた。


 だが、ふとした拍子に、侍女の一人の裾が花台の脚に触れた。わずかな振動が伝わり、花瓶がぐらりと傾く。花の茎が水の中で揺れ、表面に細かな波が走った。


 私は一歩踏み出し、咄嗟に片手で花瓶の首を支えた。陶器の冷たさと、花弁の柔らかい香りが同時に指先を包む。水面はまだ揺れていたが、一滴もこぼさずに元の位置へと戻すことができた。


「……っ」


 その場にいた全員が息を呑む中、王女の琥珀色の瞳が私を見つめた。驚きと興味が交じり合う視線だった。


「助かりました。ありがとう――」


「当然のことです」


 私は短く答え、深く礼をしてから静かにその場を離れた。振り返ることはしない。それでも背中に、呼び止めたいような視線の温度が確かに感じられた。


 ――未練は、次に繋がる糸だ。


 そう心の中で呟きながら、私は廊下の陰へと身を消した。


 晩餐の間は、黄金色の燭台が揺らめく光を放ち、壁にかけられたタペストリーの紋章が柔らかく浮かび上がっていた。香辛料と焼きたての肉の香りが空気を満たし、低く交わされる談笑が絹のように耳に届く。長大なテーブルの上には銀器がきらめき、絹のクロスが優雅な波を描いている。


 私は給仕のひとりとして、王女エミリアの席の近くで皿を運んでいた。足音を立てぬよう静かに歩き、器の角度や置き位置にも細心の注意を払う。ふと、琥珀色の瞳が私を射抜いた。視線が絡んだ瞬間、胸の奥で小さな火花が散り、熱が走る。それでも私は、その一瞬で視線を切り、氷のように無表情を保った。


 銀皿を音もなくテーブルに置き、軽く礼をして背を向ける。心の中で呟く――まだ、焦らす時ではない。


 数歩歩き、振り返りもせずに横顔をわずかに傾け、唇の端だけをほんの少し上げた。それは意識していなければ気づかないほどの、ごく短い仕草。だが、その刹那の空気の変化は私の背中にまで届く。


 「……」


 聞こえはしないが、確かに息を飲む音を感じた。エミリアは椅子の背にもたれ、何かを考えるように目を細めているだろう。背後から伝わるその気配が、私の計算どおり彼女の心を揺らしている証拠だった。


 燭光がまた揺れ、空気がわずかに熱を帯びる。私は何事もなかったかのように次の皿を取りに向かい、その反応を胸の奥で転がしながら、さらに深く刺す次の一手を静かに思案していた。


 翌晩、城内の長い回廊を歩いていると、侍女の一人が音もなく近寄ってきた。彼女の指先には、小さな封筒が固く握られている。


「……王女殿下から、今宵お部屋へお越しくださるようにとのことです」


 囁くような声は、まるで秘密を託すかのようだった。私は封筒を受け取り、指先で封蝋をそっとなぞる。そこには王家の紋章と、精緻に彫られた薔薇の意匠が浮かび上がっている。


「少し、お話をしたいと仰せです」


 侍女の言葉に、胸の奥に小さな高揚が芽生える。表向きは職務上の用事だろう。しかし、先日の晩餐で交わした一瞬の視線と微笑みを思えば、この招待が単なる業務ではないことは明らかだった。


 私は軽く頭を下げ、「畏まりました」とだけ答える。感情を滲ませぬ声色。しかし心の内では——網にかかった、と静かに笑んでいた。


 夜更けの石畳を踏み、王女の居室へ向かう廊下を進む。燭台の灯火が揺らめき、壁に長い影を落としている。遠くから鎧の擦れる音が響き、庭を抜ける冷たい風が窓を震わせた。すべてが、これから始まる駆け引きの前奏曲のように感じられる。


 やがて、重厚な両開きの扉の前に辿り着く。そこには、化け物のように巨大な衛兵——ゴリアテが立ちはだかっていた。肩幅は扉の半分を覆い、天井に届きそうな巨体。だが、その容姿からは想像できぬほどの素早さを秘めていることを、城内の誰もが知っている。鋭い眼光で私を見据えた後、ゴリアテは無言で片方の扉に手をかけた。


 きしむ音とともに、部屋の奥から暖かな灯りと甘やかな香が漂い出す。その先に待つものを思い描きながら、私は静かに一歩、足を踏み入れた。


 扉が閉じた瞬間、外の冷たい夜気は遮られ、室内の柔らかな温もりと甘やかな香りが全身を包み込んだ。深紅のカーテンが重々しく窓を覆い、金箔を施した額縁の絵画が壁に整然と並ぶ。暖色の灯りが絵と家具を柔らかく照らし、中央には緋色のソファと低いテーブルが据えられている。テーブルの上には、すでにワインボトルと繊細な脚付きグラスが二つ、整然と用意されていた。


「よく来てくれたわね、セリーヌ」

 王女エミリアが微笑む。その声は一見柔らかいが、獲物を迎える捕食者のような静かな威圧を含んでいる。純白のドレスは灯りを受けて淡く輝き、細い首元の金鎖に下がる真珠のペンダントが揺れ、鎖骨が美しく浮かび上がっていた。その横には女官長エルヴィラが控えており、冷たい眼差しで私の一挙手一投足を見据えている。……やはり、ニールの言った通りだ。


 私は深く礼をし、「お呼びに応じられて光栄です」と答える。王女はひらりと手を振り、ソファの向かいを指し示した。

「立ったままでは落ち着かないでしょう?」


 腰を下ろすと、王女はゆっくりとワインを注ぎ、長くしなやかな指でグラスを差し出す。その仕草は一つひとつが計算され、視線を絡め取るようだ。私はそれを受け取りながらも口をつけず、静かにテーブルへ置く。


「お飲みにならないの?」

「職務中ですので」


 王女の口角がわずかに上がる。挑発と受け取ったのだろう。自らのグラスを唇に運び、紅の液体を喉へ流し込む。その喉の動きさえ艶やかだ。エルヴィラは黙したまま、視線を外さない。


「あなた、最近よく私の視界に入るわ。……偶然かしら?」

「偶然かと存じます」


 素っ気なく返すが、内心では狙い通りだと確信する。王女の瞳が細まり、探るように私を見つめた。


「面白いわ。他の女官は私と話せるだけで目を輝かせるのに、あなたは違う。……まるで私を見透かしているよう」

「殿下は、見透かされるお方なのでしょうか」


 挑むような一言に、室内の空気がぴんと張り詰める。王女は妖艶な弧を描いて笑い、身を乗り出した。

「近くに来なさい」


 わずかにためらい、静かに立ち上がって距離を詰める。香水の甘さと肌の温もりが鼻腔を満たす。

「あなたの目、良いわ。嘘を嫌う目をしている」


 胸の奥で何かが微かに揺れたが、答えは飲み込み、視線だけで応じる。王女はふっと笑みをこぼし、「今日はこれでいいわ」と言って立ち上がった。その声音は次を予告しているようだった。


 扉の外では、巨体の衛兵ゴリアテが無言で道を開ける。化け物じみた体格だが、鎧の継ぎ目が鳴る音は静かで、その動きは意外なほど素早い。


 部屋を後にしながら、私は確信した。王女は私を記憶した。そして、次はより深く踏み込んでくる——私の望む形で。





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