第十話『復讐の教示 PART2』
ノクトホロウの森の奥、古の祭壇前。
霧が濃く立ち込め、空気は血のように重く、冷たかった。
静寂を破ったのは、鎖が土を引きずる不快な音。
引きずられてきたのは、三人の若い女たち。
かつて屋敷で私を踏みにじった、無名のメイドたちだった。
彼女たちの髪は乱れ、猿轡を噛まされ、裸足の足は泥と血にまみれていた。
その姿は、哀れというよりも醜悪だった。
鎖を握るのは、銀髪の従者──ニール。
彼の表情はいつも通り冷たく、まるで屍を引いているような無感情さだった。
「んーっ! んぐっ、んんっ!」
呻き声とも叫びともつかぬ音が、猿轡の奥から漏れる。
その瞳には未だ理解できぬという色が浮かび、戸惑いと怒り、そして恐怖が入り混じっていた。
一人が、私の顔を見て目を見開いた。
そのまま、信じられないものを見るかのように顔を引きつらせる。
「ま……まさか……うそ……あなた……」
その声に、私はゆっくりと微笑んだ。
「やっと思い出してくれた? あの時、私を“腐った足の化け物”って笑ってくれたわね」
もう一人のメイドが顔色を変え、金切り声を上げる。
「な、なんの真似!? あんた、誰の命令でこんなことを──!」
「命令? ふふ……そう、これは復讐という名のレッスンよ」
低く、愉悦に満ちた声でそう語ったのは、私の隣に立つ魔女・ヴァルセリアだった。
闇の衣を揺らし、紅の瞳に冷たい笑みを浮かべている。
「これは教育。あなたの心にある復讐の種を咲かせるための……最良の肥やしよ」
その言葉とともに、彼女は指を一本、闇に向かって弾いた。
ぐしゃり、と湿った肉の裂ける音がして、森の奥から一歩、影が現れた。
──それは、かつての庭師・ロガン。
だが、今の彼は人間ではなかった。
灰緑の皮膚、盛り上がった筋肉、牙の並ぶ口、潰れた鼻、赤く光る眼──
それは、魔女の魔力で生み出された“獰猛なオーク”だった。
「な……なによアレ、近づけないで!! ふざけないでよ!!」
三人は震えながら後ずさる。
だが、足首に繋がれた鎖がそれを許さない。
オークとなったロガンは、空気を嗅ぐように鼻を鳴らす。
次の瞬間、眼が赤く閃いた。
“それ”は、三人のメイドを獲物と認識したのだ。
「いや……いやあああっ!! こっちに来ないで、やだ、やだぁあああっ!!」
悲鳴がこだまする中、私はその場に立ち尽くしていた。
胸の奥が、燃えるように熱い。
怒りか、快楽か、それとも──歓喜か。
「見てごらんなさい」
ヴァルセリアが私にそっと囁く。
その声は甘く、耳に這い寄る蛇のようだった。
「これは前菜よ。貴女の心が何を求めているか……よく見て、よく感じて」
私は、黙って頷いた。
過去の呪いに、ようやく手を伸ばせる時が来たのだ。
私の復讐は、まだ始まったばかりだ。
闇に沈むノクトホロウの古の祭壇。その中心に、鉄と血と怨嗟の匂いが渦巻いていた。
鎖に繋がれ、膝をついた三人のメイドたち。かつて私を“物以下”と笑い、腐臭がすると吐き捨てた女たち。
今は全身泥と血にまみれ、恐怖に濡れた瞳を震わせている。
「さあ、喰らいなさい」
ヴァルセリアの声は、あくまで軽やかだった。
だがその命令は、世界の裂け目を開くかのように重く、そして残酷だった。
ロガン──否、もはや“それ”は人間ではない。
獰猛な咆哮と共に、地を這い、四つ足で跳ねる。
筋肉の塊、牙を剥き出しにした異形のオーク。
「ひっ……ち、ちがう、やめて! お願い、たすけてぇ!」
最初に絶叫したのは、厨房で私の手に熱湯をぶちまけた女だった。
彼女の喉元に、ロガンの牙が深々と突き刺さる。
ブチュリと肉が裂ける音。噴き出す鮮血。
「やだやだやだぁあああああっ!!」
首筋から白く筋ばった肉を引きちぎられ、彼女は痙攣しながら崩れ落ちた。
血飛沫が他の女たちの顔にも降りかかる。
「いや……いやああっ、こっち来ないで、来ないでええっ!!」
二人目──私を風呂場に押し込み、足の腐臭を嗤った女が這い逃げようとする。
しかしロガンの腕が伸び、片脚を掴んで宙に持ち上げると──バキィッ!
乾いた破裂音と共に膝が逆関節に折れる。
彼女は絶叫しながら地面を這うが、無情な影が背後に迫った。
「いや、やだ、まだ死にたく──あっ……あぁあ……」
巨腕が振り下ろされ、腹を抉る。
臓物がぬるりと音を立てて飛び出し、石畳を這う。
呻きも叫びも、もう続かなかった。
「まって……ねえ、お願い……わたし……何も悪いことなんて……」
三人目──私の寝床に汚物を仕込んだ女。
涙と涎で顔を濡らし、崩れ落ちた膝のまま震えていた。
「ご、ごめんなさい……ごめんなさい、ごめん……なさ──」
最後の言葉は、咆哮にかき消された。
ロガンの巨大な掌が、彼女の頭部を包み込んだ瞬間──グシャリ。
頭蓋が潰れる音。
脳漿と血が破裂した果実のように飛び散る。
その一滴が、私の頬にもはねた。
……私は、それを拭わなかった。
地獄。
だがこの地獄は、かつての“日常”よりも遥かに意味があった。
ヴァルセリアは微笑んだまま、私に視線を向ける。
「これが“喰らう復讐”。気に入った?」
私は頷かない。ただ見ていた。
震える唇を噛み、鼓動の高鳴りを押し殺しながら。
「これが……責務……」
囁くように、自らに言い聞かせた。
これは快楽ではない。
正義の名を借りた、残酷な責務。
ヴァルセリアがその言葉を聞いて、満足げに笑う。
「前菜にしては上出来だったわね──次は誰の番かしら」
私はそっと目を閉じた。
そして、ゆっくりと深く、息を吸い込んだ。
この呼吸の先にあるものは、私自身の復讐。
血塗られた晩餐の、真なる“本編”だった。
祭壇に残るのは、血と肉の残滓、そして茫然と立ち尽くすオークと化したロガンの姿だった。
その巨体は、先ほどまでの惨劇を物語るように血に濡れ、鋭く濁った目はなおも飢えた獣の光を宿していた。
私はその姿を見つめていた。
恐怖も、哀れみも、すでにどこかに消えていた。
胸の奥に残っていたのは──ただ、冷えた静かな満足感。
そんな私の隣で、ヴァルセリアがふふ、と喉を鳴らして笑った。
「さて、このオーク──どうする?」
彼女は私に視線を向けながら、片目を細めた。
「森の番人としてこのまま放っておくかしら? でも……こんな化け物が森にいたら、困るでしょう?」
私はロガン──かつて庭師だった男の成れの果てを見た。
人間の面影は、もはや微塵もない。
あれはただの獣。復讐の道具として役割を終えた、醜悪な廃棄物。
「……消して」
私の声はかすれていたが、意志は込められていた。
ヴァルセリアは楽しげに目を細めた。
「ああ、そう。あなたも、だいぶ残酷になったのね……それでこそ、我がしもべよ」
ヴァルセリアはゆっくりと両腕を広げ、夜気に染まる古語の呪文を詠唱し始めた。
唇から流れるその言葉が大気を震わせ、黒い霧が祭壇の空間を満たしていく。
闇が濃く、重く、そして生温く滲み出してくるようだった。
「来たれ、腐敗と蠅の王……地より這い出でし、悪魔の主──ベルゼべブよ」
空間がねじれ、空気が悲鳴をあげた。
次の瞬間、そこに現れたのは──
数え切れぬ無数の蠅を纏った、腐肉と腐汁の王。
膿んだ甲殻、脈打つ黒い触手、瘴気に濡れた翅。
全身に無数の眼球のような器官を浮かばせながら、異様な蠅の羽音が脳髄をえぐるように響いた。
それは──悪魔ベルゼべブ。
「グルル……ガ、ガァ……」
ロガンが咆哮した。
否、人としての声ではない。
獣の本能が、未知の脅威に怯えて吠えているだけだ。
ベルゼべブはどろりとした体液のようなものを舌でねぶると、ロガンにゆっくりと近づいた。
嗅ぐように腐臭のする血肉の香りを確認し──そして、口を大きく開けた。
その口から、酸のようなどろりとした消化液が放たれた。
「グゥ……グゴォ……!」
肉が溶ける。
皮膚が焼け、筋肉が融け、骨が露出していく。
ロガンの顔が苦悶に歪む。そこに微かに“人間”の記憶が浮かんだ気がしたが、次の瞬間にはただの“肉の塊”になっていた。
ベルゼべブは咀嚼するように啜りながら、尾のように伸びた黒い触手をロガンの胸元に突き刺した。
ぶしゅり、と粘液の音が鳴った。
その管から注がれたのは──無数の卵。
「ひっ……!」
私は息を呑んだ。
喉が冷たく凍りつき、全身が粟立つ。
やがて、ベルゼべブは蠅の群れと共に霧の中へとゆっくりと消えていった。
跡に残されたのは──呻き声一つ上げられない、どろどろに溶けたロガンの肉塊。
そして、その体内で──
じゅる、じゅる、と蠢く音が響き始める。
それは孵化した蛆。
体内から這い出したそれらは、内側からロガンの肉を食い荒らし始めた。
脂肪が崩れ、内臓が破れ、骨が中から砕けていく。
私はその全てを見た。
目を逸らさず、受け止めた。
ヴァルセリアが、まるで芸術作品を眺めるような陶酔の表情で呟いた。
「これが“処分”よ。気に入ったかしら?」
私は、わずかに微笑んだ。
恐怖はもうない。
胸の中で確かに広がっていたのは──復讐を終えた者の静かな達成感と、もう一歩深い場所へ堕ちたという自覚だった。
私は、もう戻れない。
けれどそれでいい。
これが私の道だと、確かに思えたのだから。




