恥のすゝめ
※今回はティーン向けに綴らせて頂きたく思います。
幼少期の頃の私は、何にでも羞恥心を抱くような人間で御座いました。何をするのも恥ずかしく、恥ずかしいと思うのも恥ずかしく、よく顔を赤らめては周りの目を窺ったものであります。
そんな性分を持って幼少時代を過ごしたものですから、私は少しでも逸脱した自己を殺し、平均と一般を調べ尽くしては、普通という隠れ蓑を身に纏って日々を過ごしておりました。その結果としましては、可愛げと隙のない胡散臭い子供が誕生した訳で御座います。
日本では「恥の文化」があるからこそ、犯罪率が少ないと言われておりまして、逆に海外では宗教観による「罪の文化」で悪事を抑制していると聞いた事があります。他にも、孔子の言葉として「有恥且格(恥有りて且つ格る)」と論語に綴られております。儒教の教えでは悪という感情には恥が付随し、恥を知るからこそ立派な人間になり、恥は人格を育てる上で欠かせない感情なのだと説いております。
人によっては悪事を恥と捉えるのは容易なのでありましょうが、そういった方々は往々にして、恥すらも悪事と判断してしまう事が御座います。かくいう私がそうなのであります。
恥という感情を道徳に繋げているからこそ解りにくくなっておりますが、罪は恥ずかしい事であるとしても、恥かしい事を罪だと繋げるのは間違っているので御座います。
とどのつまり、幼少期の私は罪に対して恥ずかしいと思うのは当然として、恥ずかしいと思う事すらも罪と捉えておりました。罪は恥であっても、恥は罪では無いのは明確なのでありますが、幼少期の私はその違いが混同しており、常に罪悪感を抱きながらマスターベーションに耽っておりました。
思春期に抱いていた異常なまでの羞恥心は、何かと私の行動を阻害して、やりたい事もやるべき事も、とにかく恥ずかしくて出来ませんでした。恥は人間を縛る鎖にもなるので御座います。
青春という、恥を掻けば掻くほど輝く期間を、私は現実的というよりは冷笑的に捉えておりました。恥を悪と決めつけていたので御座います。恥掻き足掻くべき青春を、家でマスばかり掻いていた私は、実に愚かでありましょう。
更に、思春期の頃の私は誰よりもひねくれており、斜に構えた態度は九十度へ達し、周りに壁を作って過ごしたものです。有体に申しますと、私は後悔をしております。もっと恥ずかしい事や馬鹿な事をすれば良かったと悔いているので御座います。恥ずかしいから告白もしなかったし、恥ずかしいから夢を語らなかった。恥ずかしいから馬鹿な事はしなかったし、恥ずかしいから全ての言動を謹んだ。それら全ては恥を悪だと捉えていたからであります。恥の多い生涯を送ってきましたなど、自慢以外の何でもないのだと知るのは、私が大人になってからで御座います。
何が恥ずかしくて何が恥ずかしく無いのか、何を恥ずべきで何を恥ずべきで無いのか、こんな一般教養範囲内の簡単な哲学など、読者諸賢の皆々様であれば解っているので御座いましょうが、恥を忍んで敢えて私にも書かせて頂きたく思います。
先ず初めに我々が行うべきなのは、恥の価値観を疑う事でありましょう。恥を知れ等と語る人に対しては、恥とは何なのかと問いかけるべきでありますし、共感性羞恥がどうだのと言う輩には、それは共感ではなく主観なのではないかと詰問してやればいいので御座います。
羞恥心という概念は神が与えた感情ではなく、社会が作り上げた感情であると一般的には言われており、それを証拠にアダムとイブは裸で暮らしておりましたし、未だに裸族たる者が存在している社会もあるそうで御座います。アダムだって訳の分からない果実を口にしなければ、いちじくの葉で皮が被っている箇所が被れる事もなかったでありましょう。
そして、現代においてその社会とやらを形成しているのが、他ならぬ禁断の果実、アップルもとい、資本家の皆々様で御座います。今の子供達がアイフォーンではなくアンドロイドを使っているというだけで恥ずかしく思ってしまうのも、ブランドの服を身に纏わないと馬鹿にされるのも、資本家が作り上げた社会(戦略)なので御座いましょう。
最新のアイフォーンを持っていないのは恥ずかしい事では御座いません。汚い服を着るのも汚れた靴を履くのも恥ずかしく無いですし、瞼が一重なのも脱毛をしていないのも、歯並びが悪いのも髪がボサボサなのも、恥ずかしい事では無いので御座います。最新家電なんて使いこなせないだけですし、服なんて何着も必要ありませんし、靴は汚れていて当然でありましょう。ムダ毛が生えるのも歯が黄色くなるのも人間であれば当然で、それらは自然の摂理であり、抗うのではなく受け入れるべき事象では無いかと私は愚考致します。
それらを恥と感じるのは、資本家が生み出した価値基準に躍らせているだけで、不自然を自然と刷り込むために打たれた広告に騙されているに過ぎないのでは無いでしょう。自然だとか普通だとかの基準を、金儲けの為だけに捻じ曲げ、それに振り回される消費者達は、恥の価値観を変える資本家の策略に加担しているのであります。
資本家が作り上げる最新の概念や商品、そこに恥という感覚を介入させれば、思慮の浅い人間による同調圧力が形成され、そこに共感性羞恥心等という訳の分からないものが宿るのは明白で御座います。今こそ恥の価値観を疑い、恥の概念を見直す必要があるかと思われます。何が恥ずかしくて何が恥ずかしくないのか、皆々様にも考え直して頂きたく存じます。
恥ずかしいと感じる大半の事象は、恐らくは内面から生じるものではなく、外から感じさせられる羞恥なのではないでしょうか?
これ即ち、私達は恥ずかしいのではなく、恥ずかしいと勘違いさせられているので御座います。或いは、恥ずかしいのではなく、辱められているのでありましょう。
もう一度書かせていただきますが、羞恥心とは社会性が作り出す「思考」であり、神が我々に与えてくださった「感情」では御座いません。羞恥とは周知から産まれる偽りの「感情」であり、人為的に仕組まれた「思考」であります。我々は恥ずかしいと思っているのではなく、恥ずかしいと思わされているのだと気付くべきで御座いましょう。実際に、国や時代や文化が変われば、人が羞恥を抱く観点は変わってくるのは事実でありまして、羞恥心が感情ではなく思考であるというのは疑いようがありません。現代でも裸で暮らす部族は存在するそうですし、アイフォーンを持っていないのが文字通り「死ぬほど」恥ずかしい女子中学生も存在するのです。私にはどちらもにわかには信じられませんが、恐らくは本当の話なので御座いましょう。
新しい恥の概念を量産するのは、いつも資本家(社会)やグローバリストであって、それに毒された大衆は考えもなしに、他者を辱めようと致します。資本家の犬であるインフルエンサーと芸能人に踊らされた、思考能力や想像力が欠如しているくせに、狭すぎるコミュニティでの協調性だけを持った輩共が、私のような人間に共感性羞恥を語るのは如何なもので御座いましょうか。神が与えたのではなく、人間が作りだした偽りの感情や感覚には裏があり、その大半は金儲けや政治に利用されているので御座いましょう。
とどのつまり、恥は他人の視線から生まれ、自分の感情へと帰結するものなのであると愚考致します。正に同調圧力を利用した共感性羞恥心こそが、その最たる例で御座います。羞恥というのは資本家が作り出した概念で、それを他者との関係で実感するでありましょう。資本家や他人に振り回されさえしなければ、羞恥の感情に苛まれる機会が減ること請け合いで御座います。
儒教でいう所の恥を感じる人間は今や少ないので御座います。罪を恥ずかしいと思わず、何かしらのモノを持っていない事を恥ずかしいと感じる。だからこそ、売春で稼いだお金を使ってアイフォーンを買うような女子高生や、闇バイトをして無駄遣いする男子学生が増えるので御座います。
突き詰めて考えれば、恥ずかしいことなんて無いのではないでしょうか?
私は何も恥ずかしくなどない。
未だにスマホが使えないのも、穴の空いた靴や歯も、自分で切った髪も、整えていない髭や眉毛も、私は全くもって恥ずかしいと思いません。これが本当の自然であり、運命に争わない美しき姿なのであります。いくら周りから辱めを受けようとも、それに屈する事はありませんが、私のように確立した自己を持つ人間を妬む輩は多く、何かとケチを付けられるもので御座います。そういったケチを付けてくる輩の顔を見て頂きたい。恥ずかしい事で稼いだ金銭で、資本家に騙されて無駄なものを買ったり、顔にメスを入れて不自然にしたりしているでは御座いませんか。それに比べれば私の粗末な風体は瑣末な事であり、恥ずべき要素など全くありません。
私は本当に羞恥心を感じません。幼少期より感じていた過剰な羞恥心から解放されて、今の私は無敵の状態なので御座います。
精神性にばかり傾倒しており、私に実行力がないと勘違いされるのも癪ですので、羞恥心から脱却した私をお披露目すべく、公園へと向かった次第で御座います。
「裸で何が悪い?」
そう叫びながら公園を三周半したところ、この美しき完全体の私を通報した輩がおりました。社会がこの行いを罪だと罰すが、私はそれをも恥じませぬ。そして、国家権力による不当な拘束を迫られた際、のっぴきならない状況の私は、自己防衛の一環として有形力の行使を選択してしまったが故、今は留置所にてこの話を書いている次第で御座います。被疑者ノートの空きにも限りがあるため、そろそろこの辺りで話を締めさせて頂きます。
恥という感情には人を正す力もあれば、人を支配するという力もあるのではないかと私は愚考致します。読者諸賢の皆々様が苛まれ囚われている羞恥心とやらは、一体全体どちらの力が働いているのか、今一度考えていただきたくも思います。
どうやら私は、羞恥心というものについて考え過ぎたようで御座います。正しく感じるべき恥を忘れ、支配されるべく恥からも逸脱し、最終的には警察によって囚われてしまったようです。差し詰め罪状は「恥知らず」と言った所で御座いましょうか?




