52.進め 下
瞼のうらをくすぐられる。どこだか威張ったまぶしさだった。
「んん……」
首をよじるとやわらかい。もっとうずもれてみる。このままでいたい。
やがて我慢ができなくなった。
しようがなく、熱をおびた目頭をこする。
うすく見やる。
はためく窓掛けが肌色だ。
格子の窓はひらいている。風が遊びに来るたびに、お日様が顔をのぞかせる。
知らない寝台だ。
むこうに林の樹々をみた。ぬれていて、なぜかなつかしい。まどろみながら覚えたのだろう。
ながく息をすう。吐きだした。
けだるいからだを起こしてみてから、フランの寝息にようやく気がつく。
窓とは反対側である。椅子にかけたはいいものの、疲れてしまったらしかった。
――そんなかっこじゃ、風邪ひいちゃうよ。
こちらとあちらに寝台はある。フランはこちらに突っ伏していた。きっとあちらが正しい寝床だ。
あとは小机に水差しがある、とても清潔な宿だった。
フランをそっと抱き上げると、ちょうど窓掛けが膨らんで、夏の匂いが溢れかえった。
草いきれ、しめった土。
あとからわかる。
身も心も冷たくしたあのざんざん雨は、雨季の終わりを告げる雨。
恵みの雨であった。
――そうだッ、ヴァンガード……!
フランを横にしてやって、ゼンは部屋から飛び出した。
---
「過労です」
つっけんどんな町医者だった。何度も言わすな、とは、わざとらしいため息にふくませる。つくや否や、「では往診があるので」と、そそくさ出かけた。宿とおもえて、医院であった。
「過労……」
つかれすぎ、ということらしい。シュワルコフ人医師の王国語でも、訛りがどうこう、ゼンはもはや聞き違えない。
ともかく死んではいないという。
ヴァンガードは、まだ生きている。
「だったらどうして、目覚めないの……」
個室を用意されていた。ぐったりと寝て、生気がない。あるべき闘気を感じない。やはりむくろのようである。
「どこも悪くない……そうでしょう?」
"商隊"がほぼそろっていた。フランは別室、ヴィクトルは所用、サルヴァトレスは病人食をこしらえている。疑問にはまず、イトーがこたえた。
「すくなくとも、肉体的な損傷は認められないとのことです」
「おこせないの、お医者の技でも」
「疲労てぇなら、そういうもんだ」ハウプトマンは元軍人だ。それも最先端の軍にいたが、不休でいられる兵士をみない。「人であるかぎり、休むべきときはくる」
イトーはこんな話もした。
「ご存知でしょう?シェリフマック・ドールランを」
むしろ納得したものだ。アメイジアでも、それは知られた名前だという。
「休息なしで、人はどれだけ道を行けるのか?比較実験に彼は参加しました」
体力自慢の男がつどった。じゅうぶんな術師を用意して、つど痛むところを治してやる。
筋疲労、神経疲労、そうしたものは癒せるようで、最終的な前進効率はかわらない。人には人の距離があり、正規の休息を省いたぶん、いずれ相応に脚を止める。逃れられる人はいない。
『ねむくてねむくて、まいったよ』
二千キロルを不休で踏破し、おおあくびをするシェリフマックが、保健の教科書に載っている。三日かけ、三日ねむったそうな。
「あくまで仮説になりますが……」
魔法理による回復術は、回復法にかかわらず、その身に宿る力を、前借りしているだけなのだ。
魔法理医療が確立されても、緊急時をのぞく使用には、医学界も消極的である。不透明な予後が危険だからだ。
実例からして、つじつまはあう。
けれどこれらを是とする場合、回避できない疑問がまたある。
「前借り、と簡単に言いましたが……はて、いったいそれはどちらから?」
とりわけ生理学的な検証は首をかしげる。ヒトが認知しうる領域に、貸し借りを許す余地はない。
ゼンはもどかしい思いをした。適切な答えを、もう知る気がするのに、喉につっかえて出てこない。これまた奇妙だ。
――……イトーも知らないことなのに?
過剰な消耗は、つよい眠気をひきおこす。実際、人はねむりに落ちる。ひとまず確かなことだった。
「いつになったら、起きるかな」
「"ドゥファスのみぞ知る"、だな。診療記録まで奴が目を通せばだが」
額縁にはいった学位の証明、それから表彰状を、ゼンもみかけた。主治医は、王国で学んだ町医者なのだ。
愛想と腕前は相関しない。シュワルコフ領も辺境で、"診察眼"にありつけた。実技的に長けた医師のみが行使できる、一級医療魔術にあたる。セイミツキカイなみの精度で、さまざまな異常を感知できるという。
それでなお断言した、過労だと。
「ちゃんと目覚めるよね……?」
「もちろん」イトーが知るはずもないけれど。「何と言っても、彼はヴァンガード・アーテルですよ。信じましょう」
こればかり、ゼンもそうだと思いたかった。
男の筋肉質な腕から、つたった管を指でたどる。
点滴だ。
ブドウ糖だの、電解質だの。飲まず食わずでも、何か月かはもつらしい。
何か月か。
ずっと目覚めなかったなら?
みんなで詰め寄せるのに、わびしい病室だった。
---
"魔法の居間"がやたら久しい。たまご粥を円卓でいただきながら、少年少女は出来事を共有する。
ダルタニエンに助けられてから、丸一日が経っていた。その間、ねむりこける"抜け道"組の容態を、さんざ訊ねたものだから、医者も"商隊"を煙たがるはずだった。
「ハメられたのさ、要は」
"抜け道"を言った女性について、やっと"商隊"は不自然に思う。
「我々は本気で信じていたのです。最善手であると……」
大人たちが言うのだから、それでいいのだとゼンも盲信した。反省である。
「合流予定日になってようやくさね、胸騒ぎったらないよ」
ハウプトマンは外しているが、陣頭指揮はむろん彼がとった。
地図をあらいなおし、あらゆる有事――"抜け道"組の遭難、怪我、最悪の事態までを考慮。手順を周知し捜索を開始。できるだけのことをした。
「ダルが近くて助かった……」
「ちょうど目立って、よかったよぉ!」
"光鎚"がしるしになったのだ。
「ヴィックはけっきょく、盾の首飾りを……?」
"抜け道"組の発見そのほかをしらせるのに、また二次遭難さけるため、町の狼煙台を借用した。
重要な情報伝達手段・防衛設備である。
金さえあれば、で、どうこうならない。統括騎士の"盾"の威光だ。「すまないが、連れが――」一声唸れば、むしろ捜索隊の志願がなされたほどだった。
軽率に頼りたくはない。森も深まれば、人々にとって命がけになる。
「あと半日遅ければ、協力を正式に要請したでしょう」
ものの見方だが、「余計な」犠牲はださずにすんだ。
「あの女ァ、次がありゃ腱をかっ切って、奈落につき落としてやら」
「意外におかんむりですね」
「そりゃ俺によ」サルヴァトレスは机をはじく。「唆されたなぁ、フツフツきやがる。他人のを借りて"目には目を"さ」心中はふかくはかりかねるが。「別段、ヴァンガードの為じゃねぇ」口では言う。
ジニーはまだ不思議そうだった。
「妙な技だよ。人心掌握……」
出がけにメモを託したか?とゼンは訊ねてみるも、やはりおぼえがないようだった。くだんの女性の仕業であろうか。"使徒"かどうかはわからない。しかし驚異的な魔術師である。
「他人の意志に干渉し、行動までを操れる……それもこれだけの人数相手に。まるで"魔法使い"じゃないか」
言葉についてすこし補おう。
魔法理への干渉を、おのれの矛とする者たちは、慣用的に"魔術師"と呼ばれる。
「魔法使い」とは呼ばれない。
特別さ、をふくむ意味でそれは、"勇者"に通ずる肩書きだからだ。うらとおもてで、対とみなせもする。
星は遠くともはっきりしている。空はあるのかわからない。"魔法使い"こそ空にあたる。
情報を、可能なかぎり精錬すると、実在がほぼ確からしいのは三名。それぞれ仇名がついている。
"光の導き手"、"砂漠の翁"、"東方の賢者"である。
人の形を取りながら、人にありあまる力をもって、人ならざる視点で生きる者たち。いにしえからの伝承が、彼ら不老不死だとほのめかす。星の真理をわかちあい、人の世を支えるために、何らか役目を分担するらしい。
らしい、らしい、かもしれない、だ。
うわさはつきない。たとえば。
不老不死などありえない。"魔法使い"とはあくまで、"魔導称号"に似したものだ、とみなす「継承される称号説」。
肥大したかの肩書きは、仮託された実績の結晶にすぎないとする「はりぼて説」。
根拠の多寡をとわず、一部から熱狂的な支持を得続ける「ドゥファス=魔法使い説」。
悪いうわさは、もっとそれらしい。
この星に魔物を創り出したのは、ほかならぬ魔法使いではないか?「魔物創造主説」
人に悪さをする"魔女"たちは、魔法使いの弟子だった。彼女らは放逐されたのだ。「なれはて説」
はたまた、魔法使いこそ、じつは魔女だ。「同視説」
もろもろ統べて、ひとつ確からしいのは。
"魔法使い"を前提に語るとき、ありえない、というのはどうにも、ありえない。
「正体なんた正味お呼びじゃねぇ」サルヴァトレスだった。「坊主が光んなきゃ、三人ともくたばってた。だろ?」
"光の鎧"がなければ終い。とんでもない話である。
「……ま。仇討つってんなら、お前のがスジか」
なでくりまわすサルヴァトレスに、ゼンはあいまいに頷くのだった。思っている。
そうだ、強いられるのはおそろしい。
ヴァンガードの現状がどうこう、恨み節はひとまずよそう。
誰かに気持ちを変えられて、もしも変えられたことすら気がつけないのなら、一体おのれの何を信じたらよいのか、人はわからなくなってしまう。
あってはならないことである。
どんなに偉大な存在だろうと、次があるなら物申さねばなるまい。
「ごちそうさまです」
かきこんだ粥は、ちょっと塩っ気がきいていた。
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黄昏どきに、騎士は帰った。
「……伝書バトだ」
それだけ唸って、置き物になる。気だるげな前のめり、病室の椅子であった。
ヴァンガードのふところで、ゼンはねぼけていて。
出かけていたのは、何の用?
と、たずねた答えが「伝書バト」。はて、よくわからない。
しかめっつらに影がふかかった。そろそろ明かりを灯さねば。もぞもぞしていると、イトーがやってくる。
「非有事であることの証明と、情報収集のためですよ」
イトーにわからぬことなどないのだ。ヴィクトルが出かけていた訳を、代わりにくわしく教えてくれる。
この町で狼煙をあげたのだった。ふつうは緊急有事をしるすものである。否定のために、伝書バトなり早馬なり必要で、騎士であるなら間違いがない。
情報収集というのは、ほかならぬ"悪心の使徒"についてだ。隣町になら、おおきな"連絡所"がある。信用できる国営施設だ。
一等級の施設であれば、"魔バト"――ハト近縁の魔獣。知的温厚ながら、鷲を蹴り殺せる巨鳥――を使役することで、かなりの情報伝達速度を有する。この町のそれだと三等級、基本は定時連絡をこなすだけ。うわさを掴むには物足りない。
狼煙を補足するおのれは伝書バト。伝書バトのしらせを求めてもいた。
ヴィクトルは、一口でふたつ言った気なのだ。
あれこれくわえて訊ねると、最小限の唸り声である。
うわさは結局つかめたか?
「特に」
明日も町へ?
「特別に寄越せと言ってある」
"魔バト"のことであろう。たいへん高価で貴重な資源だが、有力な騎士にはお付きの"魔バト"がゆるされており、とくに"騎士バト"とか呼ばれている。イトーもそこまではまだ知らない。
ヴィクトル・サンドバーン。名を呼ばれても、心ここにあらずだ。
"湖畔の町"の激戦から、回復していてかようであった。
強権をふるい、連絡馬をみずから駆って、許されるだけ耳をとがらす。ずっと気がかりだったにちがいない。
使徒の策謀が遅かれ早かれ、ともに迎え撃つ気であったのだ。
"商隊"、もとい、拳の戦士と。
エウロピアの地に踏み入ったとはいえ、東の果ても果てすぎだ。
ここで立ち止まる訳にはいかない。
――でもヴァンガードは動かせない。
医者でなくとも、戦士ならわかる。ゼンとて何度も感じた、今もだ。
むくろのようだ。
見えてしまう、死人も同然に。
「……何があった?」
ようやく聞けた、まともな唸り声である。
"抜け道"で何が起きたのか、知るべき人がつぶさに知らない。
「おふたりとも、夕食をいかがです?」イトーが言う。付き添いは交代でこなしていた。「ここは僕が」
ヴィクトルは顎を持ち上げると、部屋の暗さにはっとした。それだけはりつめていたのであった。闇をおしのけるほど、深く息をつく。無言で脚をくんでしまったから、どうやら梃子でも動かない。
「待ってて、ご飯をとってきます」
「……もう休め。話は急がん」
おもてにでると月は大きい。病室は照らしてもらえなかった。手燭もないいま、真っ暗のはずだ。
ヴァンガードの目覚めを、騎士は夜通し待ったらしい。
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医者がぶつくさ言っていた。
敷地の黒馬車が邪魔くさいのだと。
たしかに無賃駐車であったから、然るべき対価をご用意すると、文句は出ないようだった。
金、金、金だ。
剣とおなじくらい、人を沈黙させうる武器だ。
"商隊"がいま求めるものだ。
ヴァンガードの点滴代が馬鹿にならない。
「寝かせるだけで暴利やがって」サルヴァトレスの鼻息はあらい。「朝晩見るだけ治しゃしめぇヤブが」
医者にきこえている。もとより顔色の悪いお人だが、いい顔はしない。
「左様ですか、でしたら宿に?病床が空いて助かります」すげないものだ。「なおさら死人は治せませんがね」
このあたり、ゼンは駆けつけたのであった。脅されたととってひどく慌てた。
かいつまんで聞くと、「金がないなら、ほっぽりだすぞ」そりゃたまらない。
泣きつくのが少年だから、不愛想な職業人も多少はたじろいだ。そしてもっともなことを言う。
なせるだけの手当てはなすとも。けれど資材はあるところにしかなく、タダでというのは不可能だ。何よりひとりきりでやる医院であるから、つききりの看護など非現実的。
正しい医者だった。少年が涙ぐむのもあって、"商隊"はさっと出せるだけ支払いをくわえた。
ところで勘定してみると、隊費が底をつきそうだ。ゼンが道中はたらいた余分が、ここで生きている。なお足りない。
なにせ大所帯であった。宿代が"魔法の居間"で浮くにしたって、不動の黒馬車で商いはままならない。食う寝るだけではみるみる溶ける。
金、金、金だ。それがいるとき、どこを頼るか、冒険者なら流儀があった。
冒険者組合である。
この町にもある。国内だから、正規のそれだ。ゼンは息巻いた。今なら飛竜でもかかってこい。しかし。
「……ひとつも?ひとつもないのですか?依頼が?」
受付嬢はにこにこしていた。
「いつもならね?森のオオカミさんが元気になる季節だから、ほかの魔物さんも顔を出すんだけれど、今年はみんな静かみたいだよ~。どうしてだろうね?」
がらんとしたちいさな組合に、可愛いぼうやが遊びに来たとみて、やさしく教えてくれたのだった。
これには困ったものである。
だぶつく外注戦力が、冒険者なのだ。必要とされるほど、近隣の治安はいま悪くない。奇しくも何という町だった。
"平穏満ちる町"である。
来る旅人には訳をききたい。
辺境の、静かな町であった。交通の要衝でもなし。市場もない。見どころは、最大限に解釈しても、せいぜい"尾山"のながめだけ。
人口は"火の神の村"とどっこい。四方を森にかこまれて見通しはきかないが、侵入予防型の結界で守られている。
こうなると、みずから出向くべきか。
狩りだ。
毛皮や羽根や肉などを、生活組合ごしに売ってみる――?
すずめの涙だろう。
腹はふくれるかもしれないが、くわしい森でもない。もぐってすぐさま大猟はむりだ。
――ありえないかな。とつぜん、大物があらわれたり……。
過ぎる邪念に、ゼンはかぶりを振った。
誰かの不幸をねがったのだ。
見張りやぐらの当番は、行きも帰りも同じ兵士たち。たとえば大欠伸をして暇そうな、あの青年。もしも本当に飛竜があらわれたなら、"商隊"はよくても、彼は死ぬだろう。
よからぬ思いを、陽は焼いた。"頭領"のくれた胸のかさぶたが、ちりちりとした。
医院の待合室が、昼間の拠点であった。
「よわりましたね……」
顛末をきいてイトーは言う。彼に頼るのはまだはやい。
サルヴァトレスならどうだろう?
「屋台だァ……?たかがしれてら」
とにかく小さな町なのだ。
ダルタニエンと狩りならできるが。
「走ったぶんで、とんとんだぁ……」
「そうだよね……」
出稼ぎにいくべきだろう。
となりの東部関所町、"尾山のもと町"なら仕事も期待できる。それならそれで。
誰が行く?誰が残る?男の付き添いは?
行くも留まるもみなでは無理だ。
「関所町には、我が国の銀行支店も。いざとならば……」
イトーが"とっておき"を言いかけた、そのとき。
「おい……おい!」
迫り来る、唸り声である。血相をかえて、いかめしい。角をのぞいて言い放つ。
「目覚めたぞ」
朗報だった。
---
「どこも痛まんのでしょう?ほらね」
聴診器というやつは、よほど物がよくきこえるらしい。
「当分はまぁ点滴だ」
医者は早々に立ち去った。
ヴァンガードが目覚めている。
目覚めたといって、目はややうつろ。嚥下は不可能。ぴくりとも身をよじれない。
かききえそうな囁き声で、とだえとだえに、男は強がった。
――さすがの俺も、死んだと思った。
あげる口角はふるえているが、ヴァンガードの笑みであった。
少年少女がえんえん泣いた。大人たちもそれなりにつられた。
ひょっと出稼ぎを急ぐから、てばやくいきさつを告げると。
――あるよ、へそくり。
隊の裁量で全部使えと、ありかを男はささやいた。時間をかけて聞くに、それはもう大金である。なにもかもを補って、すくなくともひと月の猶予ができる。
「遠慮なく使うぞ」「もちろん無駄なく」
ハウプトマンとイトーは勘定にはけた。
「祝い飯だな!おめーの分はねぇけどよ、がはは」仕度に去った。サルヴァトレスは素直でないのだ。
「食べれるようになるまでに、森をおぼえて、たくさん獲るよ!」ダルタニエンは狩りへ出かけた。
「ほら、挨拶をし。ねぼすけさんまだつかれてるって……明日も起きるんだろう?」ジニーが少年少女を世話して。
「…………」
まだ居残るのが、ヴィクトルだった。
――急ぐとこ悪いね。
「……数日は留まれるだろう」
まぶたを震わせて、ねたきりの男は何かを数えた。
――もう満月か。
「……もはや案ずるところはないな」
奇跡的だった。去ろうとする騎士の背を、ヴァンガードは呼び止める。
――ヴィー。
はためく窓掛けにも圧される声だ。
――なったぞ。
ヴィクトルははっと振り向いた。病床に耳をよせようとする。
――光の騎士に。
「……何?」
問いただそうにも、男はふたたびねむっていた。
---
ヴァンガードには介護が要った。
目覚めて四日でまだ動けない。
つききりでゼンは面倒をみた。
おおきな体はむずかしかったが、苦楽でいえば、楽しいまである。
今朝がた、指先が動くようになったのだ。首だって、ちょっとよじってみせた。
気分転換に外すのは、朝の自主稽古と、依頼掲示板を冷やかす散歩くらい。ほとんど、ねむる男をじっと見守り、目覚めるたびちょっとおしゃべりをした。それだって、だいぶ達者になった。
――ありゃ夢じゃなかったか。
「うん、でも夢みたいだった」
"光の鎧"のことである。いくつか"みやげ"を残すだけ、光の中に溶けていった。
知る、知らない違和感も、日が経つたびにうすれつつある。そうあるべきなのだ。
――機転が利いたね……"祝福"とは。
「ひょっとしたら『彼』に頼ったけど……」
"精霊"のことである。
「『彼』はいなかった。自分で選んだんだ」
――……誰だって?
「……おかしく思われるから、ほんとは内緒なんだよ」ゼンは前のめりになって、気持ちささやいた。「でも、ヴァンガードならいいよね?ときどき、頭の中で声が聞こえるんだ。いつも大事な何かを教えてくれる」
男は唇をもにょりとさせた。
――……しまったな。
ゼンは様子をうかがった。
――訊くんじゃなかった。
「なぜ?」
――そりゃ"精霊の夢"さ。
あとでジニーに訊くといい。そんなようなことを、男は言った気がする。つづきは、これまでなくはっきりときこえた。
「ゼン」
「なあに?」
――進め。
「え?」
怪訝におもって、ゼンは目を細める。
――先へ進むんだ。
聞き間違いではない。そうだろうとも。
――やつをひとりにしちゃならない。
またさだかなことだ。ヴィクトルのことである。
けれど、すぐさまゼンは頷けなかった。もはや男はねむってしまって、こたえるべき相手もいなかった。
「僕だって、はやくいきたいよ……でも」
備えなしなどありえない。
「今のまま、ヴァンをおいてはいけない……」
金、金、金だ。とにかく金だ。
誰かが工面しなければ。
たくわえはのこり、ひと月ぶんにも満たない。存分に活用したとして、この男が、自分のケツを自分でふけるようになるか?一週間で指先も満足にひらかず、ものの数分のおしゃべりで力尽きる、いまの彼が?
あやしい。
それも先の読めない"商隊"ではない。やるべきことなら進めている。
---
朝雨馬に鞍を置け。騎士はひとりで行こうとした。満月を、雲が覆った明け方の、振り出す小雨のなかだった。
これといった挨拶もない。
せいぜい"魔法の居間"へ一言、不明瞭な唸り声を投げかけたくらいだ。借りた馬にもう跨っていた。
(おいおいおい!)
ハウプトマンの大声を、ゼンは病室からきいた。窓をあけはなつ。顔を出す。
行く行かせないの問答である。
「もはや国内、俺には終着といっていい。大変世話になった」騎士なりにまくしたてる。「……夜番の都合は悪いが」
立ちはだかる、ハウプトマンとて知るはずだ。ゼンも思っている。ヴィクトルをひとりで行かせるな。
けれど行かせぬ術がない。
ヴァンガードが今朝、早起きでよかった。
「……どうした」
「おはよっ、あのね……」
男は理解がはやいのだ。
「集めてくれ……みんなを」
朝雨は、じき止んだ。
"商隊"が病床にあつまった。せめて一言挨拶を、と強いて、ヴィクトルも連れてきた。
「行け、"商隊"」
ヴァンガードはほそぼそと言う。
「俺は誓って、あとから追いつく」
ようやくのていで、指をさす。
「ひとりで、いかせちゃ、ならん」
さされているのが、ヴィクトルだ。唸った。
「貴様のケツを誰が拭く」
くすりと笑えなくもない。実際、ゼンが拭いていた。部屋の空気も多少なごんだ。
「すぐに動ける、ようになる。あとはわかるだろう?」
金の工面の方を、ヴァンガードは言っている。
強がりだ。
これは儀式のようなものだった。
「いいんだな」ハウプトマンが代表した。
「ああ」
根回しはもう終えてあった。
医者をうなずかせる術があった。
ヴァンガードはここに置いていく。
「西の最果て……」
ヴァンガードはきたない言葉遣いだ。
「港町、それまでには」
走って追いつく、とは言わないが。
「約束だね?」
「約束だ」
ゼンは信じた。一週間で二千キロル超。シェリフマックにできるなら、ヴァンガードにもできていい。
男が放り出されずすむように、滞りがあってはならない。まして知らない善意に頼ってもならない。
金、金、金だ。
契約のあかしだ。
ゼンがまかなうのがスジだった。
平穏の満ちるこの町に、ふさわしい仕事はふってこないが、金目のものなら持っていた。
実父の贈り物であった。
三つのうち、二つの封が空いている。人助けに費やすのだから、きっと褒めてくれるだろう。
ひとつは金塊。隊費にあてた。
ふたつめが"原石"。これが肝心の金目のものだ。
けれど「金目のもの」では、医者も困った。換金のために、黒馬車は走った。
となり町にある銀行では、金品の鑑定もおこなえる。イトーが物を言ってくれた。サルヴァトレスも目を光らせた。
結果えられたのが、信用だ。
すぐさま金貨とはままならなかった。"原石"の価値が高すぎたのだ。相応しいだけかき集めるには、大銀行にも時間がかかる。
手に負えないほど高いなら、なおさら医者はしぶるかもしれない。
「……公用語では、なんていうのかな」
先んじて、ゼンはイトーに訊いたのである。
「"担保"って?」
老商人のくれた知恵だ。
交渉は、言葉のためにイトーをはさむが、発案者はもちろんゼンである。
「治療費はいずれ、ヴァンガードがみずから支払います。よくなれば、それはもう満額間違いなく。
けれど、どれだけかかるかわからない。お金も時間も、不安でしょう?僕らもだ。担保として、原石は役立つはずです」
「と、この少年は言っています。
鑑定書およびケンジ・イトー名義の保証人署名を、こちらにご用意いたしました。
支払い分が不足するころには、"原石"を対価に、銀行から費用を引き出せるようになるでしょう。総額およそ一千万連邦通貨。領都の城から大公も立ち退く。それから――」
「先生は、ひとりだからいけない。ちがいますか?」
「人を雇うべきだ。失礼ながら、あなたこそ過労で倒れますよ」
金のかがやきは、しばしば人をくらませる。これほどない、悪心のつけこみどころである。
つっけんどんな町医者を、無条件に信じたはずがない。
それはにぎやかな医院であった。
平穏の満ちる町である。エウロピアも東の果ての、ド辺境、くそ田舎。
なのに、やたらと多い宿は立派だ。みかける旅人の顔ぶれは、昨日と今日とでさまざまだ。なぜか?
アメイジアで学んだ医師がいる。
すれちがう、町人町人いうのであった。
あそこは名医だ。ありがたい医者だ。
もっと稼げるやりようがあるのに、拠点を故郷においたのだった。
弧大陸の大横断が、冒険なのは知れたところだ。留学なぞ命がけである。少なくとも「行き」に、保証はない。
おのれの利益をほっぽりだして、命をかけても、なすべきをなす。人種があるなら――?多くは言うまい。信じはしても疑うまい。
"誓い"で、ことはたりていた。
"原石"は、安全のため"商隊"が行きがけ、銀行に預ける手はずであった。横取りするには軍隊が要る。
ことの顛末を"商隊"は、ヴァンガードに黙っておくことにした。癒すべきときに、よけいな心配はしないでいい。
今にかぎっての話だが、すごんだところでリスにも勝てない。そんな男に、進め、と言われて、いやいや進む訳でもなかった。
――それをしたいから、僕らはする。
ヴィクトルをひとりにさせてはならない。
悪心を知ったいま、ゼンにはよくわかるのだった。
アレに、ひとりでむかってはならない。
みずから選んだ最善手である。覚悟があった。しばしお別れの時である。
きょろりと、青いひとみをめぐらせて、男は挨拶をこなしていった。
「すまないね。とんだ、新婚旅行で」
「これが醍醐味さ」ハウプトマンは笑顔だ。「最後じゃないんだ」ジニーも笑顔だ。「しめっぽいのはなしさね」
「ああ、また」
「待ってるぞ」
馬車主夫妻が退室した。おろすべき男の荷があった。
ダルタニエンはここ数日で、あたりの森をだいぶ覚えたらしい。
「せっかく……肉をやまほど、用意してくれたって?」
「へいき~、みんなで食べるもの!」
「でっかいのをまた、一緒にとろう」
「いいのを見つけたら、教えるよ!」
ダルタニエンが退室した。彼には馬車の準備があった。
「とーぶん点滴か?味気ねぇな、え?」サルヴァトレスはさいごまでからかう。
「ああ、頬をねぶるのも飽きてきた」
「ビョーイン食ってぇな、ロクなもんじゃないらしいぜ」
「おどすなよ」
「へへ、せいぜい腹空かせとけ」
「善処する」
サルヴァトレスが退室した。ダルタニエンがしこたま獲った肉を、誰かがさばいてやらねばならない。
「しばらく、まかせても?」ヴァンガードは、少年少女をちらとみてから、あてるべき視線をイトーにもどした。「俺の分まで」
「誓って、最大限を尽くしましょう」
イトーが退室した。彼の本分はその知性にある。
「さびしいです」
「俺もだよ。ふたりでよく、支えあってな」
「はい……!」
フランはすぐには退室しない。ゼンを待った。
「お別れなのに、悪いな」力んでも、男の腕はあがらない。「なんにもしてやれなくて」
「いいんだ」
ゼンは男の手をとって、思い出を一言でまとめた。
「心強かった」もっと思いつく。「きっとこれから、そばに居なくても」
男は、ちょっと意地悪な笑顔ができた。
「であいがしらは、怖かったろう?」
「ばれてた」
ふふ、とわらいあって。
「誓いはたがえん。どんな誓いも」
「待ってるよ、西の最果てで」
少年少女が退室した。ふたりは来たる戦いに、肩書きなりの備えが要った。
名だたる騎士が、ひとり残った。過去のあやふやな大男にとって、もっとも古い友人だった。
「……聞いたか?」
「……人伝てには」
「俺は目にした……」
「…………」
沈黙にあてつけて、大男はひととき、覇気をとりもどしたかに思えた。身を起こすさまを、騎士は錯覚する。
「なぁ、ヴィー!」
寝たまま、息も絶え絶えである。それももっとも大声で。
「ヴィクトル・ヴォルフ・サンドバーン!」
忌み名までをとなえた。
「誓え。お前の剣を、授けると……!」
ふー、と大男はうなる。静けさがある。時間の問題だ。
「……誓おう。俺の守護剣を、ゼン・イージスに、授けると」
唸り声である。
"商隊"がみな、退室しおえた。のこされた男は、もうねむっている。
誰も後ろを振り返らない。




