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ゼン・イージス ―或る英雄の軌跡―  作者: 南海智 ほか
目覚めの章:さなかの国
22/100

22.懊悩

 

 何も持たざる少年だった。家がなく、親がなく、食い物を得る術がなかった。今や、不思議な屋根と、見守ってくれる大人に、あたたかな三食を得ている。早くも思えば"腕試し"あれは、なんとささやかな対価だった。『一緒に行こう』ヴァンガードは笑った。それで良かった。西の果てまで何にも躓かず、馬車で安心に眠り、旅費を必要なだけおさめ、ひとりで解けない謎の答えを大人に教わる。いくつも夜を越え、夏を越え、次の冬はきっと暖かく迎え、時をあっという間に駆けてゆく。ふと出遭うだろう危険に、剣を抜く暇さえない。おおきな強さを持つ者らが、いとも簡単に退けるからだ。素晴らしいはずで、しかし、考えてしまうのが、(いま)だ持たざる少年だった。


 ――なんの役にも、僕は立てない。


 持たざるを自覚し、苦しさを持つ。はじめてだ。これは、ささいなつみかさね、ちょっとしたかけちがい。広がる世界にちっぽけさを思い、比べ比べる幼い無知が、彼を懊悩の水底へとしずめるのだ。


 ――僕には、なにもない。


 飢えや寒さを堪えるよりも、つらい一夜になるやもしれない。彼は、どこか()()()ではないからだ。ゼン・イージスの話をしている。


 "魔法の居間(リビング)"も最奥の片隅に、ゼンの新たな居場所はあった。大人一人前の広さの床を、フランと二人でわかちあっている。敷物には手製のつぎはぎ。寝心地はともかく、見目がみすぼらしい。『新しいのを買ってあげるね』ジニーは気にかけた。


 ――僕はジニーに、なにも返せない。


 贈り物に、対価は要らない。旅の仲間を手助けするのを、施しとは言わない。


 ――だけど。


 ジニーを手助けする術が、自分にはない。と、ゼンは思い込んでいる。比べて見合う、何かが、欲しくてたまらなかった。あの草原に煌めいた虹と白雲の弓矢を思いだせるか。美しかった。自在に、強かった。ジニーはジニーを危険から遠ざける術を持っている。披露したのはほんの一部だ。ジニーの弓は精霊弓。精霊弓は、精霊魔法。ほかにも様々、魔法を操れるというジニーがわらうのだ。『全部ままごとみたいなものさね』この馬車に乗り合ってしまえば、つまり、子どもの遊びにも等しい技だと。


 ――そうなのかも。それじゃあ、僕の剣は。


 足りない。自分は何も生みだせない。と、ゼンは思い込んでいる。与えられるなら、返せる何かが、欲しくてたまらない。性だった。

 ゼンは暗がりにうずくまっている。フランの寝息を聞いている。吊られた"白昼灯"が、消灯時間に輝くのをやめてから、丸机でほのかに照る角灯(ランタン)の火を、見つめている。"商隊"が眠っていた。

 イトーが眼鏡を外して眠っている。ヴァンガードがいびきをかいている。座したヴィクトルが壁にもたれかかって瞑目している。夜番の交代待ちの長椅子(ソファ)はダルタニエンに手狭すぎる。うつら、と腰かけながら休んでいる。手前から奥まで、ゼンは淡い灯火の中にも見渡せた。夜番も後番になれば、光はすべて消える。それでもおそらく、ゼンにはぼんやり()()()()。フランではとても見通せない。とは、知らないでいる。劣等感が、寝かさない。


 ――僕には何ができる……?


 幾ばくか時を遡ろう。"白昼灯"がまだ輝いている。商隊が、"魔法の居間(リビング)"で、"薄灰色"で、焚き火の前で、夕食後の時間を過ごしている。

 イトーは日課の書き物を終えると、少年少女に歯磨きを促した。王国から持ち出された歯ブラシの束から、少年少女がお気に入りの色を選んだのは実に"石尻尾"の夜、寝前の歯磨きは三度目、旅路に新たな日課となる。大鍋を洗うサルヴァトレスから、口をゆすぐ水を杯に分けてもらう。イトーは歯磨きの監督をしながら、サルヴァトレスと雑談をする。公用語が、逐一訳される。

 サルヴァトレスはフランの火を褒めた。巨大な魔物を灼き尽くせる大きな火よりも、料理に適した自在な火を褒めた。

『風になびかねぇ、柴も尽きねぇ!』

 加減にいろいろと注文をつけながらも結局、こりゃいいや!と、喜んでいたのは昨夕だ。ゼンは傍で見ていたから覚えている。

『神子の火を便利使い!ちょいと罰当たりじゃないか』ヴァンガードが言ったのも、覚えている。

『うるせェやい!うめぇおまんま食えンな手前さ、文句あっかよ!』

『あや、一理あるね。流石お嬢さんだ』ヴァンガードが褒めたのも、よく覚えている。

 

 ――フランはなんでも役に立てる。


 ゼンは歯磨きしながら考えた。


 ――僕はなんの役に立てる……?


 昼間の"誓約の森"で何を感じたか、ゼンは一生わすれない。隔絶だ。今日の剣では斬り拓けない壁が、自分と世界の間にはある。自分の剣を、商隊は必要としていない。ならば考える、だから考えた。


 ――見張りなら、役に立てるかも。


 目が利く、耳が利く、鼻が利く。ヴァンガードだって褒めてくれた。見張りは、野宿に不可欠だ。夜番は、大人にだって大変そうだ。手伝えば、きっと喜んでもらえる。ゼンは口をゆすげば早々駆けた。商隊ではハウプトマンが一番えらい。頼んでみた。

『夜の見張りをやらせてよ!』

 髭の商隊長はよく笑う。笑わない時は強面で。

『ダメだ』

 とは、強面だった。

『どうして!』

『子どもは夜には寝にゃならん!』

『夜起きてるのは得意だよ!』

『ダメなもんはダメだ!』

『イトーだって夜番するのに!剣を持たないのに!』

『そうじゃあないんだ、坊主』

 ハウプトマンは曲がらない。ダメと決めたら頷かない。一晩かかって頼み込んでも、強面がわらうことはないのだろう。教わるまでなく、ゼンにはわかった。(とこ)に就いたのは、しぶしぶだ。眠るべき夜に眠れずにいる。

 

 ――エマだって役に立てるのに。


 商隊に欠かせない馬たちの、ヒィロ、オルシ、シズカに、四頭目がエマだ。荷台をひっぱっるのに、それはもう軽い!軽い!と聴こえるほど爽快に道をゆく。このエマの真似など、ゼンにはできない。そして、エマはゼンの持ち物ではなかった。イージスの家族ではあったとしてもだ。


 ――僕は何も持っていない。


 (あた)う力の話をしている。

 ゼンは、となりの暗がりをちらと見やった。フランがすうすう鼻をならしている。寝顔も変わらず愛くるしい、火の神の村の、火の神子。無尽蔵の魔力を以て、何もかもを焼き尽くせる。


 ――おばばと約束したけれど……。 


 その具体、守る、と。


 ――ぜんぜん必要なさそうだ。


 至るに努力があったのだろう。察せるからこそ。


 ――僕なんて……守手なんて必要ない。フランの方が、ずっと強いんだから。


 ため息のひとつだって出る。眠れなくもなる。ただ、妬みすら持たざる少年だ。ゼン・イージスの話をしている。家がなく、親がなく、食い物を得る術がない時でさえ、持つ者を恨み羨みなどしなかった。彼にとっては、これがふつうだ。やり場のない苦悩を重ねる原因でもある。


 ――弱い僕がいけない。


 しばしの子どもじみた癇癪など、ゼンは抱かない。理不尽な発散のさせ方が、ゼンにはできない。「守られるべき」と「守るべき」のちぐはぐに苦しむ。ないないづくしで、心の置き場をなくす。そうとも、フランが褒められる時、ゼンが一緒になって喜べないのは、自分の居場所を危惧するからだ。


 ――フランはすごい。


 口にしてしまったら、またなにもかも無くなってしまう。思えてならず、肩を落とすのだ。

 こんな夜を続けたならば、ちかく商隊は気がつくだろう。ちょうど夕べのように俯く少年が、明日もまた俯く少年ならば、夜に眠たい子どもとは見過ごさず「どうしたんだい」と背を撫でて、その些細かつ重大な勘違いを正すだろう。ただし今ではない。夜は続く、長く。なにせ、優れた剣士には一瞬すら長い。


 ――もし僕も、フランくらい神秘が使えたら。とっておきが、あの時あったら……。


 ふける空想は年相応だ。四匹の岩オオカミが、森の暗中から迫る。立ち向かう少年の手には弓と矢、構え、番えて――いらないんだ、火の矢があるから――ささっと腕を払う。二匹の頭蓋を"緋矢"が撃ち抜いた。三匹目が近い。左手の"煌策"で捕まえて、右手では銅の剣を引き抜く。跳びかかる四匹目の腹をやはり切っ先で貫き、三匹目になんらとどめをさしてしまう。


 ――ううん、もっと早く倒せる……。


 石ころを探す手間も、籠手をこさえる手間もいらない。噛まれる腕は右か左か、幸運に頼る必要もない。


 ――たった一息、それだけ……。


 "光槌"は、五十メル先も焼き払える。どれだけ神秘の闇に潜まれようと、鼻息荒い獣の位置など容易につかめる。大火を熾して、すべて終いだ。

 現実には、恐ろしい戦いだった。するなと教わった戦いだった。死ぬ訳にはいかず、しかし、死ぬかもしれない、と覚悟して挑んだ戦いだった。それを容易く終えられる人はいて、どうにもさほど珍しくはない。また、現実だ。


 ――僕はあんまりに知らなかった。


 大きな力と、その当たり前さを。銃、大火、大男、旅立ち五つと日を跨がずこれなのだから。

 

 ――縛られたヴァンガードに勝って、得意になって……。


 比べ比べて詮無い後先、ひとりの夜になんら解決が訪れるはずもなく、堂々巡って幾度も考える。


 ――僕は何も持っていない。


 はたしてゼン・イージスは、真に持たざる者だろうか。

 まさか。

 と、気がつかせてやれる誰かが今、いなかった。商隊が眠っている。


 ――あ、"紫向草"の香水……。


 幾ばくか夜もふけたころ、暗がりからふと、甘くやさしい香りだった。ゼンは鼻が利く。匂いの持ち主は、商隊に一人しかいない。


 ――ジニー?


 目を凝らす。軋むのぼり梯子がある。繋がる二階も、馬車主夫妻の寝室も実在していて、降りてくるジニーは肌着にいつもの()()()()だった。隣にゆったり近づくと、空いた板間に腰かける。夜にも褐色の肌を輝かせている。

(どうしたの)

(《見に来たのさ、あんたたちの様子をね》)

 囁き合うふたりの間に、言葉は通じない。それでいて必ずしも困らない。

(《昨日もそんなカッコでねむってたね?》)

 ジニーはゼンの頭をくすぐり、窮屈にうずくまるのをやめさせたがった。

(《ぐっすりだったから起こさなかったけど……ほら、ちゃんと横になって》)

 添い寝の年頃を、ゼンはとっくに過ぎている。ただ、十夏にしても幼い体つきで、過酷を知りすぎていた。証左、見守る大人の視線がなければ、とても無防備な姿勢で眠れない。

(《長耳はね、子守歌が大好きなのさ。愛しい子らの目覚めの日まで、何度も歌って聞かせるんだよ》)

 囁き声と歌声の境界が、ゼンにとってはあいまいだった。とん、とん、とん、と胸をたたかれ心地良いのを、子ども扱いとは感じなかった。どれほどか懊悩を紛らわせ、いつしか、眠りに落ちた。


 夜は、それで終わらない。

 目覚め。唐突に。暗闇が、続いている。ジニーは隣にいなかった。


 ――ねてたんだ……。


 どこからだろう、思い出せない。馴染んだ感覚ではあった。寒さに手足を食われる冬場や、雨風やまない嵐のさなか、大人に追われて撒いた日などは、こんな形で不意に目が覚める。もっともこの夜、不思議な屋根に守られて、不安の種は、己の胸中以外にみつからないはず。眠りに妨げをもたらすのは、それか。

「どうかした……?フラン」

 横顔に捕まえる、戸惑いの視線だ。半身を起こす彼女は、肩に触れるか触れまいか、泳がせる手を引っ込めた。

「あぅ、その、ごめんなさい。起こしてしまって……」

 ぽしょり、申し訳なさげに呟くのだ。

「おしっこに……」

「ん……」

 ゼンはねむたい目をこする。答えはひとつしかない。

「わかった……」

 灯りが居間から消え去っている。夜も折り返し、夜番が代わったのだ。フランは闇を苦手とする。と、ゼンはよく知っている。夜更けの闇は人をひとりにする。とも、ゼンはよく知っている。みな寝入ってしまえば、心細くもなる。おしっこ、と聞けばつまり、おしっこに行きたいけれど、ひとりは怖いです、という意味なのだ。

「…………」

 迷いが、ゼンにあったとすれば、傍らの剣帯へ伸ばす手に現れた。


 ――これを持って出て、なんの意味があるんだろう。


 剣は、闇を晴らすのに役立たない。潜む魔物も、潜む悪人も、火の神子にかかれば速やかに消し炭だ。


 ――ううん……約束したんだ。


 その具体、守る、と。

「行こうか」

 守手は剣を執っている。


 居間の出際に、ぐう、と聞こえる。長椅子(ソファ)で横になったサルヴァトレスが、腹を掻いている。きっと浅い寝、大人は夜番で大変だ。

(起こさないようにね)

(はい、起こさないように……)

 "薄灰色"を軋ませる。大地を踏む。そよぐ夜風がまだまだ肌寒い。叢雲に覆われて三日月、平原の遠景は少年の目を以てしても、黒い霞で遮られている。

「あ……」

 焚火の横でダルタニエンが、あぶった干し肉をむさぼっていた。口元を隠す、(おお)きな背中。動きと匂いでどのみち明らか。料理番なら叫ぶだろう。「つまみ食いだァ!?メシ抜きだッ!」だからゼンは静かに忠告する。

「サルヴァに怒られるよ……」

「んんっ、ごほっげほっ」

 慌てて振り向く、巨きな背中。

「あわわわ、ゼンくんん……」

 彼の明日の三食が守られるかは、目撃者ふたりの次第だろう。もっとも友達を売る気など、少年少女にはない。大変なのが夜番だ。

「内緒にしてあげる」

「んはー!ありがとうっ!」

(しーっ!サルヴァに聞こえちゃう)

 はっ、とダルタニエンは口をあけほうけた。猪なりに下あごの犬歯がすこしするどい。そぉっとしまう途中で囁くのは、こう。

(食べる?ふたりも!)

 いかにも名案ぶりだった。掲げられた干し肉を、少年少女は辞退する。不正な贈り物だ。賄賂と、都会では呼んだりもする。

 もよおすフランにそれとなくせかされ、場を後に。見送るダルタニエンが握りこぶしに親指を立てる仕草を、ゼンはなんとなく真似ておいた。のちに聞く、「よし」をあらわす手振り(ジェスチャー)である。


 平野をだいぶ歩いた訳は、都合の良い物陰がいくつとなかったからだ。商隊の休む近傍のちょっとした林を逃せば、次のちょっとした、は遠かった。()を誰かに聴かれるのを、フランは恥ずかしがる。

「あ、あまり離れないで……」

 いよいよ困ってしまう。なにせ、ゼンは耳が利く。要望すべてをかなえてやることが、どうにもできない。意識をさっと張り巡らして、ちかく脅威は無いと確かめてある――とはいえ、見張り、そのせめてもの役割を、耳を塞いでしまうと果たせない。


 ――黄色い水が出るだけなのに、おしっこなんて。


 "聖域"で肩を貸した折も同様だった、なにを恥ずかしがるのだろう。それでもゼンは、フランを思って何か話そうとする。自分の喋るあいだは耳も利きにくい。ところが。

「…………」

 話題がちっとも出てこない。あるにはある。僕は全然だめだ、とか。フランはたくさん役に立てていいな、とか。どうしてだろう、口にしたくなかった。浮かぶ口端から全部消してゆく、だからひとつも出てこない。楽しい話題だってあるはずだ。ヴァンガードがすごかった、とか。ジニーの魔法が綺麗だった、とか。イトーのあの話が面白かったね、とか。サルヴァの料理はやっぱりおいしい、とか。ついぞ口をつかない。懊悩に統べられた夜だった。

 そして結局、ありとあらゆるものをゼンが聞き届けたのは、この()の光明だったと言える。フランの羞恥にとっては悪い話題になろうが――やはり代えがたい。

 顛末、耳利きの耳は存分、見張りをこなした訳だ。風向き、風速、空気の湿り気、ゼンが遠くをどれほど知れるかは場合によりけり。十分だった、とだけ語り草になる。

「ん……」

 ててて、とフランが林から戻る。それとは別の「音」を、林よりずっと奥に捉えていた。今、一吹きする平野風、ゼンからすれば追い風で、だのに止まないのだから、それは大音だ。


 ――ずっと鳴ってる?生きてるみたいに……。


 件の音はまだまだ響く。やがて地をも微かに響かす。足の裏側をくすぐる振動に、フランはまったく気がついていない。だがしかしゼンにはわかるのだ、これはふつうではない。ただの"地鳴り"ではない。

「ごめんなさい、お待たせして……ゼン?」

「走って」

「え……」

 一時は剣柄へ伸ばした手を、ゼンは引っ込めている。


 ――イトーは数のかぞえを、はじめに教えたがった。何かを説明するのに便利だからって。それじゃ、これはどう表せばいい?


 フランの手を、ゼンはとっている。迷いはなく、決断があった。説明する時間は、とてもなかった。すべて計り尽くしたのは"刹那"、つまり戦士の時間のうちであったから。

「走って!」

 走り出している。馬車までだいぶ遠かった。五十メルを昼間の草原に確かめた。その倍、いや三倍、もっと四倍、巨体のダルタニエンのかたちも、傍の焚火の橙色も、ぽつんとちいさく見える距離。わかる数なだけ良い方だ。


 ――数えられるのに数えきれないほどたくさん、って、何て言うんだっけ。


 ()()の赤い目たちが背後、ちょっとした林をなぎ倒したのは、少年少女の駆け出し、さほど間を空けずのこと。その正体とは。


 ――土蜘蛛だ……っ!


 大群だ。大地の果てから押し寄せて轟音、土粉塵を巻き起こす。馬脚もかくやの豪脚どもに、少年少女は追われている。 

「ぜ、ゼンっ……」

 フランの足はふるわない、とてもでないが追いつかれる。

「つかまって!」「きゃっ!」

 だからゼンは抱き上げた。細腕にいとも軽く、そして、速い、速い。手を引くよりも、ずっと速い。みずからより重きを抱えてなお、ぐんぐん速さを上げている。彼にとっては、これがふつうだ。何もおかしくない。たとえばエマならよく知っている。前の冬、仕留めた鹿を担いだままでも、熊に追いつかれなかった少年だ。ほかにもエマならよく知っている。"御許"で少年より速い()()()は、自分の他にいなかった――ゼンが叫んだ。


「ダルーッ!」


 うつら、と舟を漕いだがダルタニエン。夜食の後だ、夜更けの夜番だ、だれだって、ねむたくもなる。「んんー……」と返答ならぬ返答が、耳利きには聴こえてこそ。


 ――聞こえてないっ?遠すぎるんだ……!


 だがしかし、起きてもらわねばならない。知ってもらわねばならない。知らせてもらわねばならない。迫る事の重大さを、起こりうる大変を。


 ――どうしようっ。


 "刹那"にゼンは閃いた。

「フラン!神秘を――」

 大火を提案?いいや。あの"光槌"を以てして、()()は絶対、抑えられない。昼間のお披露目会を思いだせ。活躍の日とは、まさに今。

()()()を!」

「!」

 聞いたばかりで覚えたばかり、フランはたちまち意を汲んだ。「はいっ!」振り落とされぬようしがみつくから、天に掲げたのは左の人差し指だ。神子の神秘に、唱えは要らない。


赫灼(かくしゃく)する幻日(まほろび)火球(かきゅう)


 白光り、強い瞬き。さながら小さな太陽だ。天高く射出され、星闇をつんざく。三日月と焚き火の平原に一角、白昼をもたらす。ふわりふわりと舞い降りる間に、ゼンは再び叫んだ、声の限り。フランが一緒だった。

「「ダルーッ!!」」

「わ……っ!?」

 光は目覚めを促すものだ。目も眩む火と、それが照らす一大事を、ダルタニエンは認めたはずだ。でなくば、飛び起き荷台を叩きまくらない。こうして、叫ばない。


「《敵襲ーっ!"集団暴走(スタンピード)"ーッ!》」


 ガンガンガンガン!と、遠くで黒馬車が鳴らされるのより、ゴゴゴゴゴ!と、近く背に聞いている少年少女。ひょっと、手を伸ばせば届く距離。ゼンの速さは現状、いっぱいいっぱい。走れる時間にも、限界はある。


 ――どこかで追いつかれる……っ。


 剣を抜いて立ち向かい、それでどうにかなればよかった。フランに頼んで"光槌"をばらまいて、それでどうにかなればよかった。まったく足りない、とわかるから必死で逃れている。振り向き、確かめるまでもなかった。


 ――ヴァンガードだって飲み込まれる!このまま走って……どうしたら!


 困難は尽きない。"薄灰色"まで五十メル。頭からもし突っ込めたとして、馬車は止まったままなのだ。土蜘蛛たちは馬並みに速い。商隊の馬車は魔法で軽く速かろうと、荷を引く以上、追いつかれてしまう――はずであり、追いつかれたならぺしゃんこだ。

 さて、「力」の氾濫するこの(せかい)、ゼンもいずれ知る、その大きさには際限がない。何に向けられるかが肝心で、理不尽に浴びせられたとき、人は滅びる。滅びなかった。いつの時代にも、"守手"が居合わせたからだ。困難へ立ち向かうのに、何ら「力」はあって当然で、ともすれば、ひとやまの幸運までを必要とする。少年少女と"商隊"が、この旅、持ち合わせるくらいの分量だ。つまり、とてもでないが、はかりしれない。

 "薄灰色"から、疾風が吹き抜けた。巻き起こしたのは――狼?――ゼンの第一印象で――違う。オオカミは、こんなに速く走れない――それは、人だ。戦士だ。


「《止まるな!》」


 剣士、ヴィクトル・サンドバーンだ。()()()()()()。すれ違いざまに、唸り声である。通じぬ言語で、困らなかった。この状況にして何を語れよう。で、あるからこそ。


 ――見たい。


 ゼンは、振り向かざるを得なかった。ひとりの剣士として、その背中を見逃す訳にいかなかった。全感覚を、研ぎ澄ましている。脚は止めていない。前へ進め、と、ヴィクトルは言ったはずだから。

 平野が黒に覆い尽くされている。月明かりに尋常なら闇、神秘の白光の降り注ぐ今や、おびただしい数の魔物で、真っ黒く染められている。たったひとりの剣士が、どうして立ち向かえる。


 ――僕なら、かなわない戦いだ。


 然り。ゆえにこそ、戦う自分を覚醒させている。戦士の本能がうたっている――見ずには死ねない。

 ヴィクトルは、剣を一振り持つだけだ。剣帯は省いている。鞘を左に、鞘走らぬよう(つか)を右に。あの速さから、びたり、脚を止めた。深く前傾、制動に沈む足幅は広く取られている。相対、大群、距離五メル。まだ抜かない。時が止まったかと、ゼンは思った。

 "刹那"。

 それは力だ。集約している。ヴィクトルの全身に、腕に、手中に、剣に。世界のなにもかもが吸い込まれるかと錯覚する。


 ――"光槌"のときと似てる。


 相違があるなら、第一、警告としては短く過ぎる。第二、人の身に(つど)うには大きく過ぎる。これから何が起こるのか、ゼンがつぶさに学ぶのは、今日より明日の出来事だ。そうとも、明日は来る。軌跡の終わりに相応しくない夜である。この()の理を、いくつとなく明かそう。戦士は"闘気"を練り、刃に乗せて"剣気"を放てる。たとえば、この()に歴史を紡いだ類稀なる剣士らは、人の身にあまる災厄へ立ち向かうのに、ちょうど彼のよう戦った。


 一閃。


 抜き放たれているヴィクトルの刃は、まるでもって(くう)を薙いでいる。迫る土蜘蛛のどれもに、すこしも触れていない。()()()()()()()。また時が止まっている。違う。大群だけが、止まっている。引き裂かれていた。闇が。脅威が。無数が、すべて。

 ゼンにとっての「当たり前」と照らすなら。たとえ(つるぎ)があろうとも、あまりに大きな数には勝てない。どれほど刃の切れ味よくとも、時間が、足りなくなるはずだから。覆す剣彩は、新たな常識。平野をうめつくす魔物の群れを、ことごとく斬り払ったヴィクトルが、必要としたのは、一瞬だ。


 ――この()の人の何人が、ヴィクトルみたいな剣士になれる?僕は……なれる?


 あるいはだ。

 あたり暴風がさんざ舞っていた。由緒が何と論ずるまでもない。

「ダル!馬を繋いでくれっ!」「もうやってるよぅ!」

 ヴァンガードが荷台で叫んだ。ダルタニエンが馬たちに装具をつけている。ゼンは呆然と立ち尽くしていた、いつの間にやらだった。


 ――だって、土蜘蛛は全部とまって……。


 いなかった。

「《多いな、流石に……》」

 舌打ちまじりの唸り声である。たしかに、ヴィクトルは全てを倒してみせた。既に跡形もない"ちょっとした林"までのおおよそ二百メル、まもなく落ちきる"火球"が、照らして見える範囲の全てだ。しかし大地とは果てしなく続き、あの大行進は果てなき果てから、どうにも延々と訪れる。

「《む、何をしている!早く馬車に乗れ!》」

 振り向く、ぎろり、を受けて、ゼンは跳ぶよう残りを駆けた。フランを"魔法の居間(リビング)"の中へと押し込む。"白昼灯"が点灯していた。叩き起こされた大人たちの間で、公用語が飛び交っている。

「《なんの騒ぎだっ!?》」二階から飛び降りてハウプトマン。

「《"集団暴走(スタンピード)"のようです!》」眼鏡を斜めにつけたイトー。

「《馬車の状況はっ》」ふたたびハウプトマン。

「《すぐにでも出せる!御者は俺が!》」表からヴァンガード。

「《ああっふたりとも!怪我はないかいっ》」少年少女に駆け寄ってジニー。

「《いけるよう!》」ダルタニエンが"薄灰色"にありついた。

「《なんて日だっ、後番がダル坊で命拾いしたぜチクショウ!》」サルヴァトレスは馬番の手際を褒めている。

 装具無しから早かった、黒い馬車が発進しつつある。ゆるやかに車輪が回り出しても、ヴィクトルはしんがりに立っている。じりり、と後退しつつ、視線を、来たる脅威から外さない。

「《……幾度(いくたび)振ろうが誤差の範疇か》」

 唸り声である。少年少女には、急げ、という意味に思える。じきに。

「ふん……」

 刃を納め、ようやく"薄灰色"に腰を乗せた。馬車が速度を持ち始めている。


 "商隊"の馬車には、とっておきの魔法がかけられている。ひとたび車輪が回り出せば、速度に応じてどんどん軽くなる。差し置いても、馬車馬たちは頑張った。()うに裸馬も同然に駆け、蹄を高く鳴らしている。王国製の懸架装置(サスペンション)がうなる。これがなければ幾人か、荷台に夕げを戻しただろう。

「《おいおいっ、追っつかれるぞォ!》」

 物の道理だ。商隊の馬車は速く、荷を負わない土蜘蛛たちはもっと速い。八十、七十、六十メル、ぐんぐん距離が縮まっている。

「《大将ッ!()()ができない!荷台が重すぎるんだ!》」

 御者台からヴァンガードが叫ぶ。"魔法の居間(リビング)"のハウプトマンが血相を変える。

「《しまった!ケンジ手伝えっ、荷を捨てにゃならん!》」

「《命には代えられませんねっ!》」

 ヴィクトルが"薄灰色"をしりぞいた。

「《ここは任せる、魔術師の領分だ》」

「《時間稼ぎさね!》」

 ジニーの顕現させる"精霊弓"が、虹と白雲の輝きをまき散らす。

「《ふたりも手を貸しとくれ!》」

 長身の長耳が膝立ちするだけで、"薄灰色"は窮屈だ。ゆえ、ゼンに仕事が降ってわく。馬車の黒塗り屋根にはまだ自由な空間、平らで丈夫な木造り――ダルタニエンだって寝ころべる――がある。とはいえ、走行中に振り落とされないには、たしかな脚腰が必要で、フランひとりでは登れない。

 ゼンは軽く翻り、屋根でいち早く強風を浴びた。ひょいとフランを引き上げる。片腕で腹を抱きかかえしっかりと座る。あまった手で屋根の端を鷲掴みしたなら、車体がひっくり返らない限り不動を約束する。

「《あるだけ撃つんだ!》」

 魔法理の白矢が荷台から次々飛翔する。五十余メルにて必中。着弾した端から土蜘蛛たちを爆散させてゆく。

「いいよっ!フラン!」

 絶え間なく揺れる屋根。速度の風に黒髪を、そして神子の徴たる炎の髪色をあおられて、フランは怯えず、集中できている。ゼンが支えているからだ。神子の神秘に唱えは要らず、しかし、予備動作を以て正確さを増強する。両手を交差し、左右へ大きく開いた。


赤気(せき)揺蕩(たゆた)(ほむら)明幕(めいまく)


 巨人種だってのぞき見できない。高く、薄く、揺らめく炎だ。大行軍を遮るよう、地から立ち昇る。効果はあった、ただし、僅かに。通過する最初の二、三列を焼いて、一部しか倒しきれない。火力が足りていない。なれば。

「火柱なら!」「はいっ」

 これより射程圏内だ。


焦熱燬然(しょうねつきねん)す螺旋の光鎚(こうつい)


 見渡す一面敵である。必要なのは精密さよりも速さだ。と、神子は要領を得ていた。直径十メルを焦がせる大神秘を、かつてなく連発。焼いて、焼いて、焼いて、焼いて、焼くたびに、土蜘蛛の大群に大穴ができる。できた穴は、ただちに土蜘蛛で埋められる。

「すごいっ、フラン!"一撃一息"よりずっとはやいよ!」

「狙わなければっ!この調子でも!」

「火の神サマが追ってきてるみたいだ!」

 山より大きな火の人型が、地団駄踏んだらかくなるだろう。とは、ゼンの想像力だ。


 "魔法の居間(リビング)"の中でも、奮闘する大人がいた。

「《一、二の……》」

「「《それっ!》」」

 掛け声。その所在、正確には貨物室から。がらんごろんがらんごろん!と、荷箱が貨物扉から放り出されては、土蜘蛛の濁流に飲まれて消える。ハウプトマンが収入源にしている行商、その商品たちに相違ない。


 ――重たそうだけど、あれだけ軽くしたって……。


 ゼンが疑念を持ちもする。魔術師達の全力を受けても、土蜘蛛たちは、前へ、を止めない。距離にせよかなり縮まっている。速さが、もっともっと必要だ。

 ときに、常識、というのを思い出すのが今更でも許されるのなら、商隊の馬車はやはり、常識外れの馬車である。一般、馬車、と呼ばれる存在は、できるだけ軽くするのが当たり前で、長旅にがっしり屋根など好まない。ならばなぜ重たい木造りだ。無論、訳がある。"魔法理"がしばし求める制約、その一環だった。対価、とこれを捉えても良い。魔法の"設計"について明かせば、夜のひとつやふたつでは済まないものだから、要点をここに。商隊の馬車が、とくべつでいる為の条件だ。

 一つ目、"薄灰色"を"魔法の居間(リビング)"と繋ぐために、堅固で整った長箱型の入れ物を必要とする。

 二つ目、車体そのものに掛かる()()を常時半減、速度につき更に軽減するために、引き手には四頭の四つ脚、荷台には四角と四輪を必要とする。

 そしてまだ有る。"商隊"が少年少女をおどろかすため秘密にしていた、最後のとっておき。不意のお披露目どきとなる。

「あ……」「あれっ……」

 無作為に乱打される"光槌"のひとつが、なにもない大地に聳え立った。馬車に噛みつくかあわやまで、土蜘蛛が埋めていたはずの大地の一辺だ。

「術のあたらない場所が……!」

「離れてるんだ、土蜘蛛たちから!」

 三つ目、車輪が一定の回転数を持つとき、かつ、搭乗者のほか()()()()が注がれないとき、かつ、車体の実総重量が一定以下におさまるとき、黒い馬車は、世界から()()()()()()()を纏う事ができる。


「けど、僕らの速さは変わってない!よね……!?」

「私たち神秘の……いえ、魔法の中にいるみたいです!」

「そっか!これが……!」


 "時駆け"と、商隊は呼ぶ。古典に曰く"固有時加速(ヘイスト)"だ。発動に、速さは足りていて、重さが、子どもふたり分ほど過ぎていた。今はもう違う。仮初めの速さを馬車は得て、土蜘蛛たちをみるみる突き放している。相対的に()()だけだ。速さと時間で距離は生まれる。同じ速さでも、時間が伸びれば、距離もまた伸びる。不思議な"魔法理"だろうと、根は"物の理"に従順である。


 ――すごいな。


 主観。少年少女からすれば、土蜘蛛たちはせっせか走るのに差が開くばかり。すこし夜闇へ溶けたかと思えば後はあっという間、地平の果ての果てまでを、まじりけのない黒だけが満たしている。

「逃げきった、みたい」

 かくして"商隊"は、"集団暴走(スタンピード)"を生き延びた訳だ。




 ---




「あんなにたくさんの魔物さん、私が遠くの林まで行ったせいでしょうか……」

「いいやっ、むしろの大手柄だぞ嬢ちゃん!()()をもってるな!」

「ええ、備えが間に合わずに飲み込まれていたやも。早期に知れて何よりです」

「坊主もだ!でかした!……ん?坊主はまだ上か?」


 ゼンはひとりだった。フランを荷台へ帰してから、屋根にあおむけ、寝そべったままでいる。「それ」を見つめていたいがためだ。目も眩む火が焼きついて、いつからだろう、見過ごしていた光景がある。

「きれい……」

 空の叢雲が晴れ渡り、数多の星が瞬いている。ただ見慣れた輝きではなかった。軌跡を、描いているからだ。浮かぶ全部が流れ星。"時駆け"の"設計"が魅せる虚構ではある。魔法理なくして誰の肉眼も、同じを観測できはしない。

 尾を引く星々をゼンは眺めて、この時ばかりは、懊悩を忘れることができた。土蜘蛛に追われる始終さえ、頭にこべりついていた。寝つきの妨げでもあった。


「そのまま寝ちゃうなよ!危ないぞ」


 じわじわ落ちきった瞼を、ひっぱりあげたのが御者台だ。ヴァンガードがいる。ゼンは起き抜け、ぱっと反転、滑り降り、頼りになる男の隣におさまった。前方には、深い闇が広がっている。とても先ゆき見通せない。

「道が見えてるの、この速さで」

「ああ、全部見えてるよ」

 火のない夜に馬車を走らす。ふつうはあまり試みない。馬番が馬車馬たちに言い聞かせ、御者の夜目がとくべつ利くから実現している。

「いつまで走らせるの?」

「そうさな、こうして駆けてるのを誰かに見られるまでかな。じゃなくても、馬達が疲れきっちまうより前だ」

 おそらくヴァンガードには聴こえなかったはずで、ゼンには聴こえた。見栄っ張りな馬達が「これっくらいで疲れるもんか!」と叫ぶ声だ。

「みんなまだ元気なんだって」

「はは、"疲れ知らず"のおかげだね!」

 知るのはだいぶ後になるが、ヴァンガードは馬車にかけられた汎用魔法について言っている。ゼンはエマらの功績のことと取り違えた。彼女らなくして明日はない。夜がまだ続いている。星々の軌跡を見上げた。

「もう中でねむったっていいんだぜ。止まらなくても戻れるよな?」

「うん……でも、もう少し」

 ゼンは膝を抱えてうずくまっている。やがて空から視線が落ちれば、疲れ知らずに走る馬達の、さらにその蹄が蹴る土くれを見つめていた。無言がつづき、肩まで落とすとき、見逃さない男が御者台にはいた。

「どうした、何かあったのかい」

「あ……」

 ゼンだって迷う。言うべきか、言うならばどう言うべきなのか。思い切りがいいのはいつだって、刹那のやり取りの中だけだ。

 結局、言った。

「ヴァンのおかげで、聖国は近くなったけど……」

「おう」

「僕、馬車に乗せてもらうばっかりで、なんにもできないや」

「そんなこたないさ」

「言うと思った……」

 おや、とヴァンガードに思わせる反応だった。 

「フランは……誰にもできないことができる。僕は、ちがう」

「どうかな?少年にだって少年にしかない特技があるだろ」

「そうでもないよ」

 このとき男の内心、驚きたるや。なんでも素直に頷く少年が、ちょっと卑屈をみせている。伝わるべき小さくも大きな悩みが、必要なだけ伝わった。

「僕、本気のヴァンには勝てないし……ヴィクトルだって、すごく強いんでしょ?」

「ああ、あいつはかなり強いね」

 男はあえて正直でいた。ゼン・イージスに嘘を()いてはならない。

「さっき見たんだ、すごい剣を」

「"必殺剣"だろう」

「必殺、剣……」

「ありゃ使い手にかなりの負担を強いるんだ。利き腕は良くなってくれたらしい」

「そうなんだ……」

 あの圧倒的な剣技について、ふだんのゼンなら齧りついた。できないのは、今、冷静になってみて、背中の遠さを思うからだ。


 ――星を、つかむ。


 "腕試し"でもよぎらせた感覚だった。枷がありきで、有り得るかと錯覚した。現実には届く気配などまるで得ない。かざした指先を透かして頭上、星々の軌跡とおんなじだ。

「実を言うとね、あいつが腕を痛めたのは他でもない俺の悪さでさ。良くなるまでの旅費は俺持ちってな誓ってたんだ。それも、ふふ、もうそろよさそうかな」

「うん……」

 ヴァンガードが何を言うのか、ゼンはうまく飲みこめていない。男は見越して、ちょっと意地悪をした。「だから」や「もちろん」の使い方だ。

「だから明日になったら、ふたり一緒でヴィーに頼んでみないかい」

「……なにを?」

「もちろん決まってる。剣を教えてくれないか、ってね」

「えっ」

 ゼンは名実ともに聞き逃さなかった。

「ほんとに」

「冗談じゃあないぜ。誓ってね」

「けどヴィクトルは、嫌だ、って言うかも……」

 しかめっ面と唸り声を思い浮かべる。続くに「断る」なら容易く、「いいだろう」なら困難だ。「ふん……」が聞ければマシときた。

「ダメなら俺が教えたっていい」「えっ!」

 意外にもない発想だった。ゼンは図々しさからほど遠い。

「そりゃ、ヴィーのに比べちゃ見劣りするだろうけど」

「ううんっ、すごく嬉しい!」

「そうかい」

 大きな手が、少年の頭をわしわしと撫でた。

「ヴァンガードはなんでも得意だね」

「一番は()()()さ」

「どんなことを教えてくれるの?」

「気が早いな!まだダメと聞いた訳じゃないんだぜ。だけど、そうさな」

 男はあれこれ並べ立ててみた。更けに更けた夜の御者台にて。いかなる子どもであろうとも、ねむたさに抗えなくて当然だ。

「ま、俺が少年に教えられる剣技のタネなんて、すぐに底をつく、と……」

 ゼンが寝息を立てている。明日、何か変われるかもしれない。という期待感こそが、今晩、彼の必要とするすべてだった。

 寄りかかられたヴァンガードは、起こさぬよう細心の注意をはらった。足元の引き出しを丁寧にあけて、毛布を取り出し、小さなからだに被せると、今度はやさしく頭を撫でた。

「おとうさん……」

(おやすみ、ゼン)

 星々が軌跡を描いている。




 ---




 何も持たざる少年だった。

 本当に?

 ゼン・イージスの話をしている。

 追い求めてやまない父親を、(せかい)の彼方に持っている。

 おかしな少年と、人は思うかもしれない。あまりに清く生きすぎだ。

 野山にて独り、三度の冬を越した少年だ。残飯を漁り、虫を喰らうため土に爪を突きたて、苦しみを強いられながら、妬み怒りを覚えない少年だ。大事な何かを守るため、強く棒を振った日こそありはして、誰かの何かを奪う簡単さを、選ばなかった少年だ。

 とくべつでなくて何になる。

 貫いたその生き様は、確固たる意志に基づいている。過酷な暮らしがなお強固にした、誰にも負かすこと敵わない、形無き意義有るもの。

 記憶の果ての父母らは託したはずだ。善く生きろ、と。幼少にむずかしい言葉ではなく、当たり前としての態度を以て。昨日も今日も、ゼンの持つ、剣に頼らない強みとして、ゼンを生かし続けている。なぜならば。"星の理"をひとつ明かそう。この星において善なる姿勢は、幸運として還ってくる。たとえば、よい出会いの形であるとかだ。

 ふつうの十夏の少年ならば、守られるばかり。実際は違う。ゼンは"商隊"でもっとも若い。もっとも非力で、もっとも無知でも当然だ。実際は違う。

 並みの大人を打倒せしめる剣技、森で磨き上げた五感、狩人としての知恵、幾ばくかの幸運――そのどれもを導いた、前へと進む強い意志を、ゼン・イージスはたしかに持っている。

 今すぐではない。今すぐではないかもしれないが。

 ゼンが持たざるして持つ、見えざるもの。それを(せかい)に知らしめる時は、いつの日かきっと、訪れる。

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