100.ヴィクトル・サンドバーン
ありうるべくもない時と場所に、あなたの意識はあった。
「慣れない鞍にはぎくしゃくするものです」
赤い木の間に騎乗した、若い女騎士が言った。手綱を束ねて制止する彼女は、兜の面貌をおろしきっている。言い返されたおつきの男どもが、声をひそめたままわらう。どれも人相を覆ってさらそうとはしない。
すぐそばで眺めているあなたに、誰も見向きもしなかった。女騎士があごで左右を指図すると、男どもはたちまち馬を駆り、赤い木立へと消えていった。高い陽のなかにまで、蹴立てられた落ち葉が舞った。
夢を見ている。
見るはずのない夢を。
女騎士がゆこうとするこの胸突きの木下坂に、あなたはどことなく見覚えがある。女は馬をくだっていた。滑るような落葉に足を取られまいと、彼女の踵には意志を感じる。
あなたは漫然と後をついてゆく。
長くのぼった先には小さな城がある。遠見の術師がみあうための、見張りの塔が青空高くある。防壁をもたないために、礼拝堂のようである。
やはり、とあなたは思う。知っている。辺境の深い森に、孤立したこの城を。どうやらただ、ミミズクや盗賊のねぐらとなるより前だ。
新造された城の訳を、女騎士は怪訝に感じたにちがいない。それであたりに偵察をやった。彼女も秋の森のくすぶった影にかがんで、ながらく様子をうかがっていた。やがて外周の人けなさを悟って物静かに、あなたのそばまでやってくる。
必然であった。厨房を見下ろせる格子窓の前だ。あなたはこころみるのだが、声がでない。いつのまにか背を取られていることに、女騎士は気がついていない。
剣を帯びるから、剣士と知れた。背後からいかに声をかけたものか、紳士的にも迷うらしい。その男の人相が、はじめてみかけるはずのものでも、あなたにはよく察せられた。その人は壮健な日の"麦畑の獅子"だ。
「……昼食をご所望かな?」
すさまじい踏み込みであった。女騎士は剣に片手をかけながら、ふりむきざまの裏拳で、声のみなもとへ打ちにかかった。猛烈な組打ちがおこなわれた。だがしかし、ついぞ刃は抜かれない。しかけられた"麦畑の獅子"はずっと巧みかつ強靭で、乾いた落ち葉に、女騎士を二度はたたきつけた。
ものの十秒の出来事である。さすがの物音に厨房が騒がしくなると、組み伏せた女騎士の闘志を圧倒する殺気で、"麦畑の獅子"は沈黙を命じた。
何があったのか!と、格子窓のむこうで声が上がる。「まいった!朽ち葉にたてつづけ滑ったのだ!」白々しくのたまう"麦畑の獅子"に、厨房は半信半疑の納得で応じる。いつ人が出てきてもおかしくない。
(何者か。ほかに仲間は?)
むきなおり、"麦畑の獅子"はささやいた。格子窓を背にしてできるだけふさいでいる。
(華奢のわり大した腕っぷしだが……)
"麦畑の獅子"にとっては、重装のみが正体の手がかりだ。強情にも、面貌のうちで口をひらかない女騎士は、とられていない腕の指先で、胸部鎧の覆い布から何かをむき出した。ひらめく、黄金の"盾のしるし"であった。
(統括紋章、水瓶の……!?)
これで通ずるということは、互いに戦う由がない。解放された女騎士がすっくと立ちあがるのには、身なりに比べて音すくない。
(故は聞かぬ!いち早く北へ引き返しなさい。ことさらいまは面倒事になる)
"麦畑の獅子"の関心はもはや城内にあるようだった。通用門がある方角を気にしい気にしい、押し出す仕草で退散を促す。女騎士は躊躇ない。背をむけて一散、森のしげみへと飛びこんだ。
ごとんと門が開く。剣を手にした男たちがあたりに群がる。それでも"麦畑の獅子"は、やはり顛末をごまかそうとする――あなたはそこまで見届けた。
おびきよせられた蛾が、炎に羽を焼かれて落ちた。夜が来ている。城内にはただならぬ喧騒。冷たく、灯燭に暗い石づくりの一室で、大机をかこんだ議論が殺気だっている。あなたはその場面に居合わせているが、内容は頭に入ってこない。
怒号で制したのは"麦畑の獅子"だ。彼があたりを冷静に見渡すと、ほとんどの頭があがらない。あなただけは、ふと目があった。
琥珀色のひとみに意識が吸い込まれた先で、時ところがまた移ろった。
遅い月が上がりはじめ、その光で森を煙らせている。ものうい噴泉がさざめくほとり、神秘的な秋の夜であった。
清水のしたたる音に首をまわすと、あなたは月影に、乙女の沐浴をみる。同時にあなたは思い出す。"水瓶"生まれの人間は、寒空にも平気で水浴びするそうな。
身分のある乙女らしい。あたりの小暗い葉影には護衛のものが控えている。
よく手入れされた軍馬がほとりにはおり、いちはやく異変に気がついて、そわそわと鼻にしわを寄せた。きっと狼の遠吠えが怯えさせたのである。乙女が案じてほとりに身を寄せるころ、一帯の森林に悪名高い霧が、まさに立ち込め始めていた。
立ちどころの暴力に、悲鳴があれすさぶ暇もない。にぶいうめき声をあげて、護衛のひとりが影のなか倒れた。もう一名は剣を抜きはらったが遅い。刎ねられた首はほとりまで、とてとてところがった。先ほどのあれは、遠吠えではなくて、乙女の同胞の断末魔であったのだ。
月光にはえた泉の光景は、白霧にうすくにごって沈んでいる。そのなかに浮かぶ、人品卑しからぬ乙女の裸体をみとめて、森の深奥にすまう泉の精霊であると、人々は錯覚したようだった。
人々とは、理不尽な暴力の行使者たちである。
その頭領と思しき、威容のあるまといの男が、遅れてしげみから現れる。
まもなく情け容赦ない殺害を命じた。言葉のつうじない乙女まで手にかけるのを、誰もが躊躇した。制止する者もいた。頭領はなじったが、いよいよ年季の入ったみずからの剣を払う。進むほとりに割って入るのが、"麦畑の獅子"であった。
駆けつけたばかりの彼は、息が上がっている。
ほとんど仕草から読み取っていたあなただが、"麦畑の獅子"の声を契機に、しばしば解せるところがあった。
「この私が申し上げているッ!」
しばらくの議論から唐突であった。頭領にたちはだかる"麦畑の獅子"は、怒りに任せたような短剣の一撃で、みずからの膝を破壊した。冷や汗ながら豹変して、なごやかに述べる。
「いやぁしかし!北方のこの霧には慣れませぬな。お恥ずかしながら先の掃討にて、私めも不覚を取った模様です」
立てた膝から刃を引き抜く。彼の刃を汚すのは、この夜、彼の血だけであった。親しい何名かが止血を手伝おうと飛びついた。
「これでは騎士もやめどきだが……」
「独り身では不便をされますな」手当てにかかるうちのひとりは、若いが、深みのある声であった。すでに切れ者ぶりの片鱗を見せている、その青年の軽口を、威容のある頭領はこと憎々しげに睨みつけた。
「左様である」手当てされるがまま、しかし砕けた膝は立てて譲らぬまま、"麦畑の獅子"は平気で言った。「だがこの歳だ。身体も利かぬ落ち目のおいぼれに、都合よく嫁いでくれそうな者なぞ、よもや所領には……」
愛想わらいをしたものもあれば、ひどく怯えるものもあった。ただでさえ権謀術数のために、所領の騎士家に子は多くなかった。
居合わせるひとりの大騎士なども、長男を不自然に失ったがために、幼い孫にみずからの名を授け、かたときも傍から離そうとしない。今夜もだ。威容のある頭領と列なってやってきていたその老騎士は、議論にもしげく"麦畑の獅子"の肩をもち、いままた、その愛国の志を汲んだ。
「荒地の魔女にでもかからねば、この傷は全くいえますまいな」頭領格として、場でゆいいつ比肩する人物である。「マリウス卿、彼の覚悟に勝る何かが……?」
歯ぎしりで応える、暴力的な頭領の面前に、"麦畑の獅子"はせまった。驚異的にも立ち上がり、もはや使い物にならない脚を引きずって。
「わたくしが誓わせ、今後見守りぬきましょう。真実は全て水面のむこう……」
かくして泉の乙女は理不尽な暴力を免れる。いずれあなたを産む人だ。
"統世の代"以後、大公が自己勢力拡大のための一切の戦いを禁じていようとも、辺境領に火種はくすぶる。時あたかも"北方森林"一帯は、ダンコヨーテ保守派の根城であった。
北方森林地帯の盟主マリウス・シルヴェストリ卿――先代シルヴェストリ家当主――はまさしく、きってのタカ派と知られていた。猜疑心の強い人物でもあった。
森林に潜伏する反公不穏分子討伐を名目に戦力を集えていた彼が、せん滅を命じた野営地とは、盗賊団の追跡中に境界標を見逃して、拠点を打ち立てたジガヴェスタ調査隊のものである。
友好化百年に満たぬうちの、それは虐殺であった。
死人に口はない。「敵」の装備やふるまいから、夜霧のさなかとて気がつけた者も、刃を振るうのをやめようとはしなかった。
連合統一の理念を瓦解させかねないかの一件は、ダンコヨーテ・ジガヴェスタ両公の密議を経て、大家マリウスひとりの処断によって決着する。
――人物こそが北方ジガヴェスタからの戦力越境と独断した。
所領騎士家が口をそろえて証言するにあたって、権謀家の根回しがあったようである。
ジガヴェスタ領におかれては、行き先が霧がちな森林・湖水地帯であったことにかこつけて、追跡部隊の不運な消息不明が報ぜられた。なかでも代表格として、水瓶の地で"希望の乙女"と将来を嘱目された「統括史上最年少かつ初の女性統括騎士」の失踪は、人々に深く悲しまれた。彼女の"盾"は未だみつかっていない。
あなたは夜明けの丘にいる。紫色の夜明けであった。見知った雲間を注ぎいる、"賢狼の裾"の陽と風が、かつての乙女の金髪をふしぎに彩った。
「あなたでしたね。ロドリゴが駆けつけるその時までを、必死で作ってくれたのは……」
過ぎし日に、色は美しく老い褪せている。
「剣をもてる身分であるなら、教会修道女にちがいないからと」
横顔の、向きなおる方にあなたはいるが、彼女の意図する"あなた"ではない。
「スヴェルナの吐息の匂う、なんとも幽玄な夜でしたな」
深みのある声である。ちょうど背に受けるよう、あなたは間に立っていた。
「しかし涙ぐましい努力だ。有無を言わせず事は間に合ったでしょう」かつての"切れ者ぶりの青年"は言った。「殺戮に湧きたつ血を、誰もが沈めていた。泉に浮かぶあなたを見初めて……」
あの夜には"すでに中身のない青年"が、いちおうの友の顔をして隣にはいた。最期まで中身のない男ではあったが。
「岡惚れというやつです」
だから彼女は母親であれた。金鉱伯の権謀の歯牙にかかることもなく、無事にふたりも子を産めた。
「……身を護るすべも知らない、一途な女を演じてきました」
思えば使者の繁く通う家柄であった。聖者が一宿一飯の礼として、白い屋敷の一帯にほどこした"結界"が、悪しき意志を挫くものであったから、物心つかぬあなたはなおさら守られた。誰かの豹変までは防げなかったが――考えようによってはだ、自領に執拗に閉じ込められたことで、あなたの弟の命も守られた。騎士家の子息は通例、まともに剣を執れる歳にもなると、母方の伯父に預けられ、肩書きのなんたるかを学ぶ。母方に身寄りがなければ、幸運にたよるほか、寄宿先で子は守られない。
「よそからやってきた私だけが居残って、みんなここから居なくなるのね」
彼女はこう言うが、誰しもがよそものなのである。"統世の代"に農民からたたき上げの騎士となった、あなたの高祖父ジョセフ・サンドバーンにも、異国の血が濃く流れている。海をも隔てた、砂のにおいのする遠異国の。それも今は昔。
「ロドリゴ。慕ってくれたゲイリー坊や……今度はあなた」
「ふりとて民に鞭をふるわば、それすなわちまことの暴君。"黒壁"へと飛び守護の任に就くこと、せめて禊とさせていただきたい」
俺もいずれは後を追おう――自省がちなあなたは思ったはずである。国をあけていた責任があるから。
見晴らしのよい丘の、明け広がるさまに視線を投げかけて、あなたはいっとき見逃した。
「ゆえに今しかない、こちらをお返しすべきときかと」
壮年の騎士が手の中で、布をほどいた途端にひらめく、それは古い意匠をした"盾"だ。
「いつの間に……」
「ちょうど城市の邸宅に。他に公にしかねるあれやこれやも」
秘事とは睫毛の如し。あなたたちは、お互いにお互いの秘密を知りながら、言わずも背中を守りあってきた。
「……それを再び胸にする資格が、もはやわたくしにあるものでしょうか。そぞろに通ってきた道を、みずからの脚で引き返す勇気もない」
白い屋敷の裏手の森で、何某かが秘密の稽古を続けていると気がつけたのは、或る少年がはじめてではない。いずれは取り戻せるやもしれない。いつになるかはわからない。彼女はたなごころで"盾"をおしとどめた。うすいのに血のにじんだ手のひらであった。
「相応しき者に委任されては?」
「またエルカテリーナ様のお手を煩わせることに」
「既にこちらには二通の封書が」
一通はジガヴェスタ公に、もう一通はこの場のふたりに宛てられている。出来事からあまりに早く、強く信じる何かがなければ、ありえない組み合わせであった。
「実在するようですな、必定に逢着する運命というのは」
壮年の騎士は首をまわして、城市門のほうを気にかけた。郵便馬車の出る時間だ。
"盾"、その統括紋章の首飾りは、霧夜の泉のほとり、乙女のたたまれた衣服の隙間に隠されていた。穏健派の老将軍のはべらせていた"坊や"によって拾い上げられ、"切れ者ぶりの青年"の後ろ手へとわたったのである。
老将軍の名はゲイリー・ハルバートン。存命中、自領での"狼憑き"の目撃談を、握りつぶしたこともある人物である。
"坊や"は老成したのちに、家族のためさる峠で自爆するまで、ついにいかなる秘密も漏らさなかった。
先代シルヴェストリ当主に対する容赦のない処遇は、"青年"の真意の、強固な隠れ蓑となっていた。
偶然の一粒一粒がなした、奇跡という一連の首飾りを、あなたもずっと帯びている。
閉ざされた夜闇のなかに、あなたは親しみ深い"黒馬車"を見た気がする。焚火の向かいに座るのは、"少年"だろうと思って顔をむけるが、正体は長い黒髪をした、男女のつかない剣士であった。
「どうなんだい?ヴォルフ、"ヴォルフ"や」
これは記憶だ。まじないごとのように、彼はそう唱えた。
今は誰かを愛せるありさまにない。
あなたはたしか応えたけれど、腰掛けにした切り株の、ひこばえをいじる師、アールヌイ・ドヴァーケンは納得しなかった。同じ夜、彼は死に至る。あなたはあなたの未熟さが、彼を殺したのだと思っていた。
やせ衰えた顔には死が居座っていた。ダミアンサンを許そうとする騎士は、微妙なかげりをおびながら、やさしい眼をした少年である。
「すくなくともひとりを救えた。フランに誰も殺させずに済んだ」
火を目にためて彼は言った。
「全力は尽くしました。許容したくなどないけれど」
"聖巡礼"とは星の見回り。善人はたえず跳ね除けなくてはならない、ありとあらゆる理不尽を。
「それだけの剣は授かった」
仮面の強制に対する助言までを、くれてやれたかはわかれない。ふさわしい立場とも思わない。ヘイランリックの穴へいざなわれるのに、あなたは"盾"を置きざりにした。意識的なことであったと思う。
少年はともに立ち上がっていた。道を行くのに付き合った。未知と既知とが入り混じる、さまざまな景色が過ぎて、みるみるうちに育つ彼と、目線はほとんど並んでいる。
気づけば光に身を鎧われる彼を見て、あなたは口をつく。
立派になったな――?
何様のつもりであるか。けれどかつての少年は、少年の面影のあるなつかしい笑顔でこたえた。全景はまばゆい光に塗りつぶされた。
距離感のない、けれどくっきりとした白さの空間に、あなたはいる。むかいあう、白い円柱の台座のうえには、赤いボタンの録音機。どうやらオウム返しはしない。
『いよぉ~、人狼の旦那』
しゃべる録音機はかたかたと踊った。影はそこにしか落ちていない。
『できすぎた話じゃねぇの。未練半ばにおッ死んだ兵は、ついぞ誰にも弔われねぇで、狼となって蘇る。獲物にゃ悲鳴も許さずに、ソイツぁきまってのどを襲う』
ざらざらとした声は、知った訛りだが、別人だ。あなたの中に落ちた影だ。
『どーするよ?ずる賢ぇ、狼の子がまた狼ときたら』
「見る目がなかったと慨嘆するまで……」
光のうちがわを夢想して、恍惚とした目で、頬を輝かした少年時代が、あなたにもあった。みずからが広大な光に直面するその日を、あるいは待ち望んでいたはずだが。
「むしろこの身も共に分けになおう」
あこがれはもはや不要である。過ぎたところに、あなたはいるから。
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早朝の郵便馬車の角笛に、ヴィクトルはいま呼び覚まされた。
預けた背は、幌につつまれた荷台にあった。停車に取り残されて、ひとりうたたねしていたらしい。どこか天のはるかな隅で生まれた、おなじみの強い風が吹き込んでくる。たじろがず外へ繰りだした。
冬が来たれば馬車はにぶくなる。彼らが港まで不自由しなければよいが。
見晴らしのよい丘を照らす、朝陽の中にまちかねた、黒馬車の影が西へと長くのびている。
「得難い友人たちを得たと思う」
"商隊"の面々をまえにして、唸り声である。大人たちの挨拶としてはじゅうぶんであった。にぎやかに笑い、わずかに涙し、旅立ちに恐れるところはない。
「"家"にいるうちに書いたので、すこし古びてしまいましたが」
これまでの思いをつづった手紙を、フランはさしだした。
「せいいっぱい加筆しました。私たちから、ソフィーのぶんも……」
「あいつも喜ぶ……」これでは相変わらずの言葉足らず。「俺も読むのが楽しみだ」
どうやら長い旅を経て、人を笑わせるのがうまくなった。
「ヴィクトル」
「ゼン」
しばらくの時間、互いを見つめて何も言わない。いまさら語れるだけのことは語ってきた。少年はふと、にまっとした。
「どんなに優れた姿見も、うしろ姿はうつしません」
歯を笑顔でのみこんで、ふたりはかたく抱き合った。まもなく少女もくわわった。
「お前たちの念願の成就を、強く信じている」
それで別れをすませてしまって、"商隊"はほかの人物への挨拶や、あってないような出仕度をはじめた。
「少しいいか……」
意外な名をヴィクトルが呼んだからだった。
「ドルトル、借りができたな」
「とっときな」
サルヴァトレスと呼ばれる彼は、視線もあわせず、厄介を爪ではらう仕草で、サルヴァトレスらしく言った。
「おおー……ついでによ」今度は引き返しざま、いかにもただいま思いついたそぶりで。「あンだろ、旦那の長年の杞憂?そらな、たしかに杞憂ってヤツよ」
怪訝なゆえではない、ヴィクトルは金色の朝陽に右目をすぼめた。
「夜茨から精製されるノクサロは、経皮経口問わず微量から対象の意識をかき乱す。だが非持続的な投与の場合、上級剣士の異常な代謝にゃ効力はいいとこ二十秒……」
脱がしてしごいてまた着せて、サルヴァトレスは口にしないが、下品な再現をせわしなくまじめにこなすと。
「……そうさな、あってみこすり半か」
けっけっけぇ!とのけぞってわらった。丘に伸びきった影までわらった。
「……俺を疎んじているものと思っていたが」
「だからあんたで試したろ」
「何?」意識せずヴィクトルは首筋にふれる。
「副症状はせん妄、幻覚、奇妙な夢見だ。麻薬さな、何もかもの境界をあいまいにする」
法の外を歩んでいる彼を、誰が咎める立場であろうか?ついぞすこしの事情も知らないで。
「何なのだ、お前は何を置き忘れてきた……?」だいぶ遠回りしてきたはずが、目前の男と比してしまえば、わずか半分の道のりだった。「何がお前を引き返させる」
「知ってどーする」
いかに念入りに手入れをしようと、鎖帷子に埃はたまる。ヴィクトルの思い浮かべたことだった。
「……ただ、万事うまくいくといい」
つまらねぇこといいやがる。唇をむくだけで語ってみせるサルヴァトレスとは、なにか一脈相通ずるものがある。いまさらの勝手な共感を、彼は迷惑がるだろう。放っておくと背をむけて、ひらひらさせる手で別れを示すと、"薄灰色"の荷台へ飛び乗ってしまった。
「うおっ」"魔法の居間"へは入れ違いになる。「元気な姉ちゃんだ」
最後にこそ、認められたやもその相貌は、ゆたかな銀髪に遮られた。ヴィクトルの胸に飛び込んで、アリシアスナは変わった喜び方をする。
「えへへ、もらっちゃった!」
大切そうにちょこっと広げる、それは画用紙だ。内容は、修行時代にゼンの素描した、何某かの威風に満ちた後ろ姿。剣を持つから、剣士と知れる。
――そうだ、我らは頂くのである。
黒馬車が発つ。"商隊"がゆく。いま道をわかつこのとき、ヴィクトルは闡明にこぎつけた。
――眼路にうつすは理性の限度。生き延びるたびにいや増す名誉の、掃き捨てどころに困惑していた。おのれの信念に最期まで忠実でありつづけて、報いとはあるのか。
誰しも何かを追い求めてゆく。一生という名の旅路にそれは、美なるもの、真なるもの、聖なるものとはかぎらない。つかめそうで掴めないそれぞれの影を、追いながら、時に越しながら過ごして行く。そしてまた見つける、前へと進み続ける訳を。
「ねぇ聞いた?ゼムルーのおじさんが、お弟子さん貸してくれるんだって!」
「らしいな」
ミゲル、オリヴァー、ジャンヌ、アベル・シルヴェストリ、ほかの見送りは先に帰していた。"賢狼の裾"の丘陵地帯を、陽はどこまでも照らしている。もうしばらく影は見当たらない。
「"盾"が満席なんだもんね、シュワルコフってすごいねぇ」
「我が領もうかうかしてはおれんな」
「でもでも、アムだってしばらくはいてくれるよね……!?」
「ああ、きっと」
寄り添ったままで、夫妻は見た。たまたま東の方だった。
「……ラミィに会いに行ってみる?」
「うん、そうしよう」
むこうから、季節のしるしにおだやかな、つめたい風が吹き抜ける。ふたつ一緒はめずらしい、白と藍の聖杯草がどうどうと、丘のいただきには咲いている。
「誓いの章:ダンコヨーテ編」完
ヴィクトル・サンドバーン イメージ楽曲
「Victor -勝者-」
https://soundcloud.com/kokubyo/6victor-mix-241219?si=d2921996086b406eb5def2ba4822d094&utm_source=clipboard&utm_medium=text&utm_campaign=social_sharing
(外部サイトSound Cloud になります)(DEMO版ゆえ気まぐれに非公開になります)




