10.祝福
「……何かを守りながら、たくさんと戦うのは難しいんだ」
ささやきは、聖域を覆う夜闇に吸われていった。くべる料を減らしたから、立ちむかう火にふるいがない。
フランは眠れないでいる。敷いた毛皮のつぎはぎに、かぶったまるごとの熊皮に、あたたかさなら、とても得ているのに。吹き込む暗がりがもたらす冷たさとはなにも、暖ばかりを奪うのではなかった。
夜空のときが苦手だった。野天であればなおさらのこと。何がいるとも知り得ない、真っ暗闇に包まれるのは、いつまでたっても恐ろしい。頼りと思ってゼンを見つめればなお、こごえる心がどこかにあった。
ふだんも座って眠るから、とゼンはからだを横にしない。膝を抱きこみ、気まぐれに火を、枝でつついてもてあそぶ。
フランは見つめてやめられない。よわった炎から湧き上がる火の粉を、少年の瞳がうつすのを。
疲れてるでしょう、すぐねむれるよ。言われて、そうに違いないと思った、疲れきったフランである。この方ない歩き通しであった。次いでは跨り通しであった。乗馬も存外、くたびれるものだ。足腰が重く、熱かった。ほぐしてから寝についてみて、火照った。横たわったなり吸いついて、大地に溶けてしまいそうだった。まぶたが勝手に落ちてしまう。ぱちぱち鳴る火を聞き澄ましたら、かぞえる間もなく眠れたはずで。
ふと、覚める。
囲んだ森が、不安を掻き立てた。どうしようもない、夜闇への不安だ。
今のは人?ときに甲高く、ときに低く、不気味に響くなぞの鳴き声。
がさがさがさ、そちらの繁みをなでるのは何。
風が一瞬、顔に吹きつける。森が泣く、さぁさぁ。枝が軋む、ぎしり、ぎしり。
昼間に何でもない音が、闇を仲間に恐れを運ぶ。つどに、まぶたを開いて確かめる。火の番を、彼がまだしている。安心して閉じる。恐れに開く、安心に閉じる。繰り返し、繰り返す。
ひとたび闇へ意識がむけば、緊張感が高まった。つぶるまぶたが全身をこわばらせる。身じろぎひとつが躊躇いだ。
いつしか。
重たいまぶたを開いたままに、見つめるだけになってしまった。旅の道連れ、その少年、ゼン。唯一の、頼りの人。
どうしたの?視線が返される。すこしでも見つめると彼は、眠ってみえても気がついた。途切れ途切れの安心に際して、言葉を交わすこともあった。
ねむれないの――はい……。
寒くない?――いいえ、とてもあたたかいです。あなたは平気ですか?――なれっこだ。焚き火があるなら、寒くないよ。村じゃ火を使ってると、戦士団が怒って追い回すんだ。
おしっこは平気?――大丈夫です……。
ご飯はたりた?――はい、きちんと食べました――喉はどう、かわいてない?――いただきます、一口だけ。
足は痛まない?――動かさなければ、気になりません――ねむらないと、からだがうまく動かないよ――はい……。
そして。
見つめてやめられないとうとうに、ゼンはささやいたのだった。たくさんと戦うのは難しいんだ――膝に顔をうずめたまま、先細りした枝で、地面に模様を描きはじめる。
フランは横になったまま、瞳から模様へ、目をやった。
「僕は《三角》、敵は四角、守るものが丸……」
「《さんかく》……?」
「三つの角があるから《三角》なんだって、屋根は横から見ると《三角》だよ。鳥から見ると四角だけどね」
「ああ……」
《三角》という言い方を、フランは知らなかった。矢じりのそれとか、山のそれとか、「三角」だったら、村では言うが。彼はどこで覚えたのだろう?疑問までは抱かなかった。いくらかうとうとしているのだった。
「みっつの四角から丸を守ろうとすると、三角はこのあたりしか動けない」
それぞれの四角から伸びた線が、丸の方へむかっていく。まじった小石を跳ね除けながら、枝がざりざり土を掻く。丸と四角のあいだには、まさに《三角》がたちはだかった――"僕は三角"……あの模様は、彼の模様――ゼンの三角は、丸と四角を、行ったり来たりだ。
「ぜんぶの四角が、まっすぐ丸を狙うなら、三角はこれだけしか動けない。四角がいっせいに動くなら、もっと悪い」
四角たちが丸へにじりよる。丸をかばう三角には居場所がない。すっかり囲まれてしまう。
「だから丸には、ずっと遠くにいってもらった方がいい。そうすれば、三角は自由に動ける。あっちこっちに四角がいても、丸がいる時よりは、自由に動ける」
丸が遠くに描かれた。三つの四角と三角だけが残る。
「もし三角がやられてしまっても、丸は安全だ」
四角に押しつぶされて、三角が掻き消えた。四角は敵、三角は彼。
やられてしまったのは、彼なんだ。彼はやられてしまった。
フランの胸に、ぱっと、冷たさがもっと吹き込んだ――これはたとえ話じゃない、経験だ。
不憫な話を聞くたびに、フランはひどく悲しくなる。またひとつ重なった。
「ふふ、わかりにくいよね。つまらない話をすると、よくねむれるって聞いたんだけど。ちがったかな」
肯定とも否定ともつかず、フランは首をよじる。視線を、少年のおもてに戻している。
微笑みのおびる憂い気は、生まれたときからそうなのだろうか。いくら泥や汚れにまみれていたって、きれいな顔立ちだとわかる。成人したらきっと、美しい男性になるのだろう。フランは思った。
「ゼン……」
「ん?」
「どうして……どうしてあなたはそんなに強くて……優しく、あれるんですか?――」
あなたのことを助けなかった、私にも。
夜風と、はじける小ぶり火に、掻き消えてしまう声だった。あるいは、言えていなかったのかも。
あって、こするほどの音だったはずだ。届かないだろうとフランは、"凍え"を引っ込めかけ、捕まえられる。並外れて耳の利く、少年がいた。
「……君には、何もできなかったと思う。だって、あのおばばがどうにもできなかった」
きゅっ、と嫌に腹を刺された――私、謝らなくちゃ、今。
しめつけられて、どうして、のどが突然からからになる。声が出せなかった。
「むしろ言わなくちゃ、ありがとうって。フランがいなかったら、僕は村を出られなかったんだよ。十五回目の夏までね。だから、フランが気にすることない。もう助けてくれたんだもの」
ゼンはもてあそんでいた枝を、火にほうった。熾したときほど頼りのない炎は、喜んだろうか。
「……僕は、強いのかな?わからないや。戦士長は降参させたけど、オオカミには噛まれたし……」
手元に備えた銅剣を確かめてからゼンは、治った左腕を火に透かすよう眺めた。やがてまなざしを、フランにあてる。
わずかな灯火は、まだ消えていない。燃ゆるのを頼りに、見つめ合う時間があった。
「優しいかどうかも、よくわからない。僕は、僕のために神子の守手になった。役目があるからにはちゃんとこなす。おばばと約束もしたしね。神殿聖国まで今度は僕が、君を助ける」
フランは、これほどなく苦しい。
誰が。いったい村の誰が彼のことを"穢れ"と定め、呼びはじめたのだろう。
父親を追って"御許"を出ようと試みる彼を、どうして引き留めて、そのうえでひどい目にあわせたのだろう。
"火の神の村"の掟が、火の神様の意志が、そうさせたのか――そんな神様なんて。
「ねぇ、何か来たとき僕がねてても、エマが気がつくよ。エマはすごいんだ、立ったままねむれるし、すごく早起きできる」
フランは掟を、育て手ほど知らない。
その育て手にせよ、当代となって「掟が何故、掟としてあるのか」ほとんど知らないのだという。
村人たちは考えない、構わない。そろって、掟が絶対とだけ信じて、従い続ける。
掟にそむく者は、きまってつらい目にあわせる――理不尽だ。
「この場所は安全だと思うけど……もしもフランがねむっている間に何かあったら、かならず僕が先に目覚めて、この手を引いていくよ。だから、やすんで大丈夫だ」
フランの手は包まれた。剣と自然にもまれたばかり、分厚くなったかたい手に。けれど、あたたかさのある、子どもの手だった。まだ幼い子どもの、幼い手だった。
村で、少年は"穢れ"と呼ばれた。
フランは問い詰めたい。村人ひとりひとりに、いったいこの子のどこが穢れているのかと問い詰めたい。
生まれてきたことすら罪だとされて、ゼンはいったいどうやって償えば、それを許されたのだろう。
「このまま……握っていてくれますか」
「うん、いいよ」
ゼンが努めて握ってくれる、あたたかい手。ゼンが村を出られて良かったと、せめてもの安堵。
これだけ得て、とけた心、ようやくフランは眠りにつけた。
火はまだ灯っている。
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フランはいたく動揺した。目覚めて少年の姿がない、聖域の朝だった。
夜と闇に、みずからの冷たさばかりを気にした罰だ。あらたな恐れが、むくむくふくらむ。
置いていかれたのかも。
毛皮を押しのける。重たい半身を跳ね起こす。
寝台で過ごさない、はじめての夜だった。旅の疲れを持ち去りきらなかった夜であり、構ってられない朝がきた。
立とう。
痛みがあるだけ、かなわない。きりきり不快な足首は、誰かの下手で痛めたのだった。早鐘を打つ心臓が、自分勝手の象徴だった。
彼が行ってしまったのなら、ただでさえのろい私に、追いつけない。
だけれど。
夢幻ではなかったはずだ。握ってくれた手も、火のそばに掲げてくれた、やさしい笑みも。
ひとりで行ってしまうなど、そんなはずがない。
信じないフランは、ゼンを信じている。つい名を叫んだ。いがいがと渇くのどだった。
「ゼンーっ!?」
「――どうしたのっ!」
わめくと、ほとんど間髪なかった。朝陽の森が返事をよこした。がさがさと葉を蹴散らして、ゼンは聖域に跳び出でる。既視感。
「あぅ、よかった。置いていかれて、しまったのかと……」
「いかないよ!おばばにも言ったのに。それにほら」
指をさされた方にはエマだ。聖域によく聞こえたはずである。ぶふん、と不満げに鳴らしては、早とちりをずっと咎めていた。
「見張りを頼んでたから、水がまだなんだ。場所はおぼえたよね?行っておいで」
揺れる尾っぽが繁みを越えて、嬉々と小川へむかっていく。
「あれ……」
フランはふと、首を傾げた。寝ぼけまなこを擦って細めた。鹿毛を見送るゼンの横顔が、昨晩のとはちがって見える。星と朝陽が変えてみせるのか。いいや。
「あ、あの、ゼン、ですよね」
なんておかしな物言いだ。我ながらにもフランは思う。
「うん、そうだよ」
気にもせず笑んで、ゼンは前髪をなでつける。川の清水だろう、滴った。
ようやくである、つきとめる。ずっと清潔になっているのだ。ゼンはしるしを、昨日とたがえている。フランが真っ先によぎらせるのは、図鑑で知るだけの動物だった。
獅子のたてがみ色をしている。まだら黒かった髪からは、煤がすっかり落ちていた。ほつれた装いはどこへやら、おろしたての麻の旅服にかわった。酸っぱさも、みすぼらしさも、もうない。袖口にのぞく細腕だけが、昨日と通ずるしるしであって、やはりか似合わぬ力を宿した。
ぶぅん!
銅の剣が鳴りに鳴り散らす。毎朝かならずするからね、と迫真に得物を振る様は、戦士ここにありと疑わせない。
フランは、しばらく眺めほうけた。放つ気迫をべつにすれば、まつげが長くて、はかない横顔であった。昨日の想像に、ひとつ加えよう。美しくて、それでいてたくましい男性に、彼はいつの日かなるのだろう。
熱心にそそがれるまなざしに、手をやめないままゼンは応じた。
冬は水浴びをしないんだ。煙をあげると戦士団が怒るでしょ?はだかじゃ逃げるとき寒いもの。でも、ここまでは追ってこないみたい、ふふ。あ、服はおばばにもらったんだ。ほつれて膝がひっかかるし、オオカミにもやられたから、ちょうどいいかなって。
「フランはどう?けがの具合」
「あっ……ずっといいですよ!神秘なしでも治るかも」
「次はまた日暮れ、そうだよね?」
「ええ。それまでは……ゼンも無茶しちゃだめですよ」
「うん、気をつける」
ゼンが日課を続けるかたや、フランは自分のからだを拭いた。二人と一頭で朝食をすませ、荷を積みなおせば準備は万端。さあ馬上にフランをのせようか、そんな折。
「あっ!ゼン、いけません!」
「ど、どうしたの。こんどは」
「とても大切なことを忘れてましたっ。あなたに"祝福"を与えてません!」
「……しゅくふく?」
火の神子フランは、こう説明した。
"祝福"。長い"祝福の御言"の末に成就する、神子だけに行使できる神秘。火の神の村に生まれる神子は、二種の"祝福"を与えられる。
ひとつ目、巡礼の苦難を共にする神子守へ、旅のはじまりに授ける"守手への祝福"。
ふたつ目、道中の窮地を救ってくれた旅人に、恩返しとして授ける"報恩の祝福"。
フランに大声を出させたのはひとつ目だ。肝心にも"守手への祝福"の存在を、すっかり忘れていたのであった。門出に村は重々しかったし、育て手も言い忘れたがその挙句、守手とふたりきりに緊張しきり、機会を失しに失してきた。
「ですから今!あらためてっ」
「ふうん……なんのために?」
「えっ!とですね、それは……」
神子は判然と答えを持たない、どういう神秘なのと、ゼンが純朴に追い打てども、知らないものは知らなかった。"御言"は定かに教わったのに、何が起きるかがあいまいだ。なにせ村には"守手"がいない。使う機会などありはしない。せめて老婆が伝えたおぼろな中身を、手をこね必死に伝えるのだった。
「なんでもっ、"祝福"を授けられた戦士はですね、ふつうの人と比べものにならない、強いからだと、ムソウ?の力を得られるんだとか!おばあ様のお話ではですね、ええっと、ほかに……」
「ぜったい必要?長いんだよね?」
長ぁいと聞いて、ゼンが思い浮かべるのは村長の長話である。微妙に急く気で、旅路を見ていた。町への道もまだ半ば、一日のつもりが二日目だ。森のいたずらを次は許さないにしたって、"祝福"で明けてまた暮れるなら、聖国はむしろ遠のかまいか。
「長いといっても、ちょっとだけです!ほんのちょっと……!」
「……どれくらいちょっと?」
「朝食よりも、みじかいくらいですっ!」
「なんだ!思ったよりもずっとみじかいや。いいよ」
「巡礼には欠かせない儀式で……っ!あ、いいんですね?」
焚いた火は、丁寧にしまったあとだ。涼しい木陰に、少年少女は座り込む。ぶるん、まだ行かないの?首をゆするエマには、ちょっと待ってねと、ふたりで答えた。
「いいですか?私の言葉に、次のよう答えてください」
"祝福"には、守手の応答がたびたび要った。つまり、ゼンもこれらを覚えねばならない。
「平気ですか?覚えられますか」心配性にフランは繰り返す。対して。
「うん。もう覚えたよ」ゼンは異様にはやかった。
「で、では、はじめますね?」
やたら飲み込みのいい少年だ。いささか疑問にも、緊張が勝る。なにせフランもはじめてだった。
んんっ。愛くるしい咳きこみが聞こえたら、ようやくはじまりの合図である。神子の瞑目をゼンはみて、何に願って捧げるのだろう、祈りに組まれる両手をみていた。深呼吸をひとつともにする。ゆっくり、はっきりの口調で、"祝福"は述べられた。
「我は神子。尾と鱗の在りし火の神司る、火の神の村の火の神子。
星に成り代わりて、我が名は問わん。守手よ、騎士よ、汝が意志を。」
ゼンは言葉の意味を拾い上げている――尾とウロコのありし火の神……手紙のなかにもあったよね。守手は、村の外では騎士。おばばも言ってた……。
「まさに時とは人の命、脅かされし危急の時也。まろび窮したとて汝、勇猛果敢と剣を執るか」
「然り」
練習通りの応答だ。滞りなく神子が続けるから、戦士の集中を守手は維持した。
「力の果てに破滅在り、甚だしくして魂また自然。振るう者善しくばものを助き、振るう者悪しくば理を蔑す。さなか汝ば振るう力、如何として振るわれん」
「善きものとしてである」
「ここに強きものあり、弱きものあり。
ここに愛すものあり、厭うものあり。
よろず等しく命を灯す。汝が守らん者とは何れか」
「その全てである」
「さらば我は神子。星に成り代わりて授けよう、この力、このハクガイ。
貸し与えたるは可能性、斬り拓かれし前途の約束。
たとい永久の闇、空に満つ世とて、必死て光明を導かん。
我らが祝福、これにて終えり。汝が誓いよ、達て続け……」
そして沈黙。少年少女の沈黙である。前もって確かめた御言のすべてを、過たず結んだはずだった。しかしどうにも先がある。意味をくまなく解せずとも、なんとなし察せるところであった。はたと、フランが目を見開いた。
「いけない!私ったら、この先を教えてません……っ」
フランは見つける。守手がいかにも少年ぶりに、枝で地面を掻いている。
「あなたのぶんが、まだあってですね!ええと、たしか……!」
ど忘れだ。フランはおのが不手際に慌てふためいた。大事な"祝福"を完遂できない。なんたる失態。なんたる間抜け。けれどこれさえ、ゼンは救うのだ。
「……我が剣にセイヤクする?」
「そうでしたっ、我が剣に!……え?」
膝を抱えて、首はかしげていた。ゼンは手遊びの枝を掲げると、羽虫を追うよう空を斬る。どうやら剣のつもりらしい。
「つづきは、たしか……我は騎士、シュウマツの世に訪れし白銀の守護者。
我が心は星の剣、我が身体は星の盾。
眼前のマを打ちたおすその時まで、我がシンメイは光と共にあらん……」
「えーっ、ゼン!そうです、それですっ、あってます!でも教えてないのにっ、なんでっどうして知ってるんですか!?」
道を進みはしないのに、新鮮がつのる二度目の朝だ。まったくフランはかわいらしい。くすくすくす、ゼンは笑った。
おかしいのは、"祝福"もそうだ。ゼンにとっては既知だった。こと応じる部分に関しては、なにも飲み込みがはやいのではない。とうの昔に覚えたことを、思い出してみた、それだけだった。
「ねぇフラン、それっておとぎ話のせりふだね。絵本のなかみと、おんなじだ」
「えっ!?な、なんですか、おとぎ話……?」
「『騎士と少女の願い』でしょ」
そして少年は笑むのであった。
ゼンは振り返る。ところどころ述べる。家が焼けた日を、もっとくわしく。
覚えている。最後に聞いたのは。「外でご本を読んで待っててね」境にして、離れ離れになった。お腹の大きくなったお母さん。臨月だと、あとで教わった。弟か、妹か、出会えなかった。
おばばと入れ違う。寝室を後にする。三冊の本を抱えていた。お母さんが死んだ。死に目には会えなかった。家が燃えた。空腹で死にかけるまで、燃え盛る前で泣きつくした。三冊抱えたままだった。
うちの一冊が『騎士と少女の願い』だった。いちばん読み聞かされた物語。はじまりから、おわりまで、その気でたどれば一言一句を思い出せる。
思い出の、大切な本。お母さんの本。御許の山に埋めたままだ。商人のくれた、ものめずらしい軽い金箱のなかに、油紙につつんで、埋めたままだ。長い旅には、余分な荷になる。かえってなくしてしまうよりいい。
どのみち全部、覚えている。
「おばばが言ったんだ、『守手』は外じゃ『騎士』だって。そのとき、あれ?って思ったよ」
どういう訳かを、ゼンは知らない。けれど『騎士と少女の願い』で覚えた言葉は、神子の"祝福"とたしかに通じた。
「ぜんぶが同じじゃないみたいだけど、ふふふ」
合点に笑う陽気さに、フランは倣えでいられなかった。大混乱だ。
「ま、待ってくださいっ。"祝福"は神秘です……それも、神子だけが使えるはずで、その"御言"だって、あ、あれ?」
戸惑いが、フランには大きすぎた、多すぎた。
――『騎士と少女の願い』、そんなお話が?言われてみれば、"祝福"は秘術とは聞きません。誰かが知っていてもおかしくはなくって、でも!御言が、絵本と同じだなんて!代々伝わる神秘のはずで……どうして同じで、どちらが先で……?
だいぶ考える。しまいには「祝福って、ほんとに神秘なの?」など、ゼンの無邪気さに打たれてしまう。いよいよ何もわからない。
"祝福"は、なにも現しはしなかった。火は熾らない。傷は癒えない。少年少女は、かわらない。ご丁寧にゼンも言ってくれる。
「なんにも起きないね?」
「わ、私のやり方が悪かったのかも……はじめてでしたし」
「でもさ、祝福をもらっただけで強くなれるなら、ふふ……楽でいいや」
「あーっ、ゼン!信じてませんね!祝福は、ほんとに神秘なんですっ」
まだまとまらないフランを見て、いたずらいっぱい笑うゼンだ。立ち上がっては、尻を払った。
祝福は、もう終わりだよね?
うう、いちおう。そうなります……。
じゃあ行こう!今日こそ町につかなくちゃ。
そうですね……。
エマの横まで肩をかすよ。僕が先に乗って、持ちあげるね。
ねぇゼン。あなた、私より後の生まれですよね?
フランは次でいくつめの夏なの?
十四回目ですっ。
そうだね、君の方が夏を見てる。
私の方が大人なのに、そんなに笑ってからかって!
からかってないよ!
さっきからずっと、これまでないくらいっ、肩までふるえて!笑ってるじゃないですかっ。
そんなことないよ?ほら、おいで、もたもたしてると、日がまた暮れちゃう。
もーっ!きゃっ。
フランが前だと、僕から先が見えないな。エマ、しっかり頼んだよ。
ぶふん、ぶふん!
エマ、笑っちゃだめだよ、フランは真剣なんだ。
そんな、エマちゃんまで!
誰もいなくなった聖域に、爽やかな朝の空気が満ちている。




