78 嫌いって言える相手は結構少ない
人気のない路地裏を、一人の青年が進む。キョロキョロと首を巡らせ辺りを探り、目的のものを見つけるとそれに駆け寄っていった。
「良かったー、まだあった」
ほっと息を吐き、胸を撫で下ろす。赤い瞳に安堵を浮かべ、白髪の青年は口元を綻ばせた。
その青年は、昨日睦人と如奈の前に現れた相手に違いないのだが、身のこなしに不自然な点はなく事故の後遺症などは一切見られない。それどころか、すでに傷一つ残っていない。
そして、眼下にある鈍色の寸胴鍋に手をかけると、掛け声とともに持ち上げた。
「よいしょっと ! ……うわ、結構重いな、これ」
何とか鍋を持ち上げるもその重さにふらつき、鍋を必死に持ち直す。昨日の反省なのかローヒールの靴できたために青年は転ぶのを免れた。
「届けたほうがいいんだろうなあ。でも、俺は招待されてない家には行けないし……」
その鍋は昨日対面した高校生が置いていったもので、相手が大切そうに抱えていたためにこうして回収した次第であった。しかしその一方で、回収はした後の対応までは考えていなかった。
「うーん……」
どうしたものか、と青年は思い悩む。その様子はどこかのんびりとしており、昨日轢かれたのだということは微塵も感じられなかった。
その時である。
「…… !!」
ヒュッ、と何かが青年の髪を掠める。飛んできたそれは、勢いよく建物の壁にぶつかると、パンッと四方に砕け散り白い煙を上げた。
青年は瞬間的に硬直し、息を呑む。そして、背後から聞こえた舌打ちゆっくりと振り返った。
「……ちっ」
そこでは、一人の人物が何かを投げた後の構えのままに立っていた。
その相手を視認すると、青年は乾いた笑みを浮かべ恐る恐る口を開いた。
「……突然人にチョーク投げておいて、舌打ちってひどくないかな ?」
「あ ? うるせえな、大人しく当たってろよ」
「えー……理不尽じゃない、それ ? 君、仮にも教育者だよね ?」
「ああ、そうだよ。だからこうして、うちの可愛い生徒に手出しした不審者の退治に来てるんだろ」
チョークを投げた人物は、そう言いながら困った様子の青年のもとへ歩み寄る。
スーツに身を包み、薄桃色の地に深紅のハートがこれでもかと舞っているネクタイを身に着けた人物は、凶悪なほどの敵意と憎悪を乗せた瞳で青年を射殺さんとばかりに睨みつけた。
「何企んでる……この悪魔が」
「い、一回落ち着こう ! 君、教師でしょ ! 聖職者だろ !! 地獄の閻魔様も裸足で逃げ出すような顔してるよ !!」
「あ ? 閻魔様に会いに行くのはてめえだろうが。ぜってえ逃がさねえぞ ?」
「わー、熱烈……」
青年は一歩後ずさるも、背後には建物の壁がありそこに背中を打つ形となる。
追い詰めたとばかりに今現れた人物――睦人達の担任は青年の前に立ちふさがった。
「暴力はよくないよ !」
「人聞きの悪いこと言うなよ、何企んでるのか聞くまで下手なことはしねえ。あと、お前そういうの効かねえだろ。……いいから吐け」
生徒に話す時とは異なる口調で、担任は強く詰め寄る。低い声には地を這うような威圧感があり、背後には陽炎が燃えているような怒りが浮かんでいる。
「いやあ、治りはするけど結構痛いんだよ ? 昨日も久しぶりに轢かれたけど、痛すぎてちょっと意識とんだし」
「ああ、そうだよその事故だよ。てめえが轢かれたのを見て、うちの可愛い生徒が心痛めてんだよ」
「え、そうなの !? あー、それは……悪いことしたなあ」
「自覚あんなら詫びて死ね」
「お詫びはしたいところなんだよねー。俺、昨日も別に怖がらせるつもりはなかったんだけど。……あ、そうだ !」
閃いた、とばかりに青年はパッと顔を上げると、持っていた鍋を担任の前へ突き出した。
「……あ ? 何だこれ」
「これね、昨日会った君の生徒さんが持ってた鍋」
「は ? 何でそれをてめえが持ってんだよ」
「昨日、男の子のほうがこれ置いて走っていってさ。本当は俺が持って行って謝りたいんだけど、そういうわけにも行かないから」
「……」
担任は話を聞くと苦い顔をした。苦虫を百匹噛み潰したような一生にあるかないかというくらい苦い顔をした。
「……ちっ」
そして、逡巡したのち奪うように鍋を青年から受け取り、再度舌打ちをした。
「舌打ちしないでよー……俺だって、本来自分がすること押し付けて申し訳ないって思ってるんだからさ」
「うちの生徒に近づくんじゃねえ。可愛い生徒に届け物することは何も問題ねえよ。てめえの頼みを聞くのが癪なんだよ !」
「あー、うん。薄々そんな気はしてた」
「性悪だな、てめえはよ」
鍋を大事そうに抱えなおし、担任は青年を睨みつける。
「性悪ってひどくない ? 君こそ、そんなチンピラみたいな口調で教員やってるの ?」
「生徒の前じゃ、言葉遣いには気を付けてる。教育に悪いだろうが」
「あ、自覚あるんだ」
「……うるせえ」
図星を突かれ、担任は吐き捨てるように返す。
勢いを削がれたのか、瞬間的に沈黙が降りる。そして、やや落ち着きを取り戻した様子で担任は口を開いた。
「生徒のものを傷つけちまったら申し訳ねえから、今日は特別に見逃してやる」
「わあ、ありがとう」
「生徒に感謝するんだな。そして二度と近づくな」
念を押す、というよりも脅迫に近い形で担任は声音にドスを効かせた。
「いいな、次うちの生徒に何かしたら……ぶっ殺す」
「あはは……肝に銘じておきます」
そう言い残し、担任は背を向けて町中の雑踏へと消えていった。
しばらくその背を見送り、完全に見えなくなったあたりで青年はその場で脱力した。
「……あー、怖かったあ」
壁に背を預け、青年は深く息を吐く。背中には冷汗が浮かび、胸に手を当てると鼓動が早鐘を打っているのがよくわかる。
「あいつ本気で怒ってたなあ。何年振りだろ、あんなに怒られたの……」
ふう、と自身を落ち着かせ今のやり取りを反芻する。
「ていうか、何なのあのネクタイ。ギャグ…… ?」
恐ろしい形相と可愛らしいネクタイの対比は、青年に強いインパクトをもたらした。深紅のハートは刺すような剣幕を和らげることはなく、寧ろ言い様のない恐怖を煽っているようにすら思えたのだ。
「……」
ふと、青年は自由になった自身の両手を眺める。傷一つない白くきめ細かな肌は、昨日轢かれた跡など何一つない。
それどころか、青年の体にはかすり傷一つなく、作り物のように綺麗な肌が全身を覆っていた。
「ぶっ殺す、か……」
ポツリと青年が漏らすのは、先ほど担任に言われたセリフである。
「俺って、どうやったら死ぬんだろうね ?」
どこか他人事のようなそれに、答える人物はいない。
口元は笑みを浮かべるが、漏れた笑い声は弱々しく瞳は泣きそうにも見える。
「……」
雑踏を眩しそうに見つめると、一つ目をつぶり、ゆっくりと目を開く。その表情には笑みも悲しみも浮かんでおらず、ただ不気味なほど赤い瞳が暗い輝きを放っている。
「……俺も帰ろう」
青年は体勢を直すと、ローヒールを鳴らしながら闇夜に消えていった。
これでプロローグは終了です。ここまでお付き合いくださった方がいらっしゃいましたら、ありがとうございました!
そして、しばらく今作の更新はお休みします。もしこんな駄作でも続きがあったら読んでやる、という方がいらっしゃいましたらご一報くださると嬉しいです。




