31 夜はお静かに(できてないけど)
「それじゃあ、睦人。また明日」
「ああ、また明日」
ドアの向こうに如奈が入っていくのを確認すると、睦人は踵を返し帰路についた。
(しかし、如奈はいつ木登りを練習しているんだ?)
睦人の頭を占めるのは、昼休みの如奈のことだった。歩みを進めながらふと浮かんだ疑問を考え出す。
(朝と放課後は部活があるし、昼休みは食堂に行っているしな)
学校において、睦人と如奈が共にすごす時間はあまり長くない。睦人は友人が少ないが、如奈は部活にも参加しているし、自然と他者と話せるタイプであり交友関係は決して狭くない。
しかし、だからといって学校で練習しているのかと言われると、やや腑に落ちないところであった。
(確かに、素人目にも無駄のない綺麗な動きだったが……)
もともと如奈がどの程度木登りが得意だったかは知らないが、睦人に見せてきたということはある程度上達したからなのであろう。実際に、睦人は如奈の動きを見て驚きを隠せなかったのである。
一度考え出すと、気になる点は意外に多く、睦人の眉間に皺が寄る。
(いつ、どこで……)
そして、睦人の脳裏は自然と思考を先回りする。
(……誰と)
言葉が浮かぶとともに、睦人の胸中に黒くどろっとしたものが生まれた。
そこまで考えると、ハッと睦人は意識を戻した。頭を振って深みに嵌りそうな思考を散らし、気を持ち直す。
「いやいや、如奈には如奈の付き合いがあるのだろうし、詮索は良くないことだ!」
口に出しながら自分に言い聞かせるように、睦人はわざとらしく捲し立てる。
「何も、如奈が大怪我しているわけでもないのだし、楽しそうなのだから、気にすることないだろう?」
そう言うが、その場には睦人しかいないので答える者はいない。
そうして訪れた静寂の間を持って、睦人は、はあ、と溜息を漏らした。
(さすがに、女々しいというか、何というか……)
自身の思考回路に嫌悪を感じ、あまりにも子供染みた反応に目眩を覚えた。
(…………)
そして、その場に立ち止まり、睦人は自身の足元を見る。
住宅街のアスファルト。見慣れた道に立っているのだが、その足先は自身の家から遠のく方向へ向いている。
もう何年も帰り慣れている道なのに、家への最短距離ではない。そちらへと向けない理由を、睦人は嫌というほど十分に理解している。
「情けないな、俺は……」
ぽつり、と睦人の呟きがこぼされる。心中から溢れ出た言葉は、自分でも驚くほど弱々しい響きであった。
しかし、その小さな音をかき消すように辺りに轟音が響いた。
「え?」
睦人がパッと顔をあげると、無機質な、眩しい存在が自身に近づいてきていた。
「あ……」
睦人が言葉にならない声を漏らすと、その存在は視界を白く染め上げた後、睦人の横を通り過ぎた。
次の瞬間には、もうその存在は視界に無く、地を揺らすような轟音も遠のいていた。
呆とし固まる睦人の意識はややあってから戻ってきて、そしてようやく、睦人は今何があったのかを理解した。
「バイク、か」
言うとともに、睦人は胸に手をあてる。耳の奥で鼓動がうるさくわめき、一瞬の出来事に体が強張っていた。
体の反応が落ち着いてからも、心のほうには何とも言えない靄が生じており、睦人は口を開く。
「何も、今来なくても……」
バイクが去っていった方をちらと見て、睦人は苦言を呈した。理不尽だとわかっていたが、あまりのタイミングの悪さに言わずにはいられなかった。
「……さっさと帰ろう」
妙な気疲れを感じて、睦人が帰路を進もうとするが、それを遮るような声が睦人の耳に届いた。
「ぅわっ⁉」
聞こえてきた叫び声に、睦人はピクッと反応した。
「……」
嫌な予感を覚えたが、まさかな、と即座に浮かんだ疑惑を打ち消した。
しかし、本心では自身の言葉に納得していなく、そこで帰ればいいものを、おそるおそる振り返ってしまった。
そして、直後に激しく後悔した。
「今のバイクが、そうなのか……あ」
「……あ」
一人ごちながら現れた、黒のロングコートに染めたわけではない日本人離れした金髪を持った人物と、睦人はばっちり視線があってしまった。
睦人が動くよりも早く、変質者、ことキリアが表情を明るくし睦人のもとへと駆け寄ってきた。
「よっ!奇遇だな!!」
「……どうも」
取り敢えず睦人は挨拶を返すが、内心は先までとは違う意味で荒れていた。
(よりにもよって、こんな時に……)
表情を暗くし、嫌悪と疲労を露わにするが、睦人のそんな状態にキリアは気が付かない。
「いやー、最近さー、知らない相手に聞き込み?することが多かったから、知ってるやつに会えて嬉しいぜ」
「はあ……」
キリアの言葉を適当に聞き流しながら、睦人の思考は現実から離れたがりだした。
(ここまで来ると、奇遇ではないんじゃないか?)
などと、ずれたことを考えながらも一歩後ずさる。
しかし、キリアは自身が嫌がられていることに気が付かないのか、さらに話を続けた。
「今日はやっと進展があって、今も探してるっぽいバイクを見た、ん、だけど……」
自分で話しながら、キリアは何かに気が付いたのか徐々に語尾を弱めていく。
そして、表情をやや険しいものにすると、突然話を違うものへと変えた。
「お前……もしかして、さっきのバイクのやつと知り合いか!」
「はっ?」
「ということは、やっぱり、お前……!」
突然機嫌が悪くなったキリアに対し睦人は表情を歪めるが、キリアはそんな睦人をおいて勝手に話を進めていく。
(何なんだ、こいつは……)
内心呆れながら、睦人は不信感を強めた。
「やっぱりか。……でも何か残念っていうか……え、あれ?」
眼前のキリアは何かに戸惑い始めたが、睦人はそのことを意に介さない。
(バイクはおそらくさっきすれ違ったものであろうが、俺は何も知らないしな)
一応は先のキリアの言葉に反応するが、関係ないことだとすぐに結論付ける。そして、思考はどう逃げるか、というものにシフトしていった。
(前回は、逃げずにいたから、逃げずらくなったわけだからな)
よし、と結論を出すと悩むキリアに対して口を開いた。
「何を言っているが知らないが、俺は帰ってる途中だから、失礼する」
そう告げると睦人は背を向け、キリアの反応を待たずにすたすたと歩きだした。
「あ!ちょっと待て……!!なあ!」
「……」
キリアが呼びかけるが、睦人は寧ろ歩みを速める。止まった方が良いのでは?という良心を無理やり抑えつけるためであった。
「あ、えと……」
立ち止まらない睦人に、キリアは戸惑う。
しかし、すぐに何かを決意し、表情を真剣なものにした。
「よし……!」
キリアは駆けだすと、少し進んでから強く踏み込んだ。
「よっ、と!!」
タンッ、とキリアは体全体で宙に舞い、一回転して睦人の目の前へと降りる。
「ぉわっ⁉」
「なあ、急いでるとこ悪いんだけどさ……」
着地と同時に睦人のほうへと体を向けるが、驚いた睦人は足を止めて後ずさる。
しかし、早歩きから急に後ずさったために睦人の足は止まらず、バランスを崩し背中ごと倒れこんだ。
「え……」
「危ない!!」
遅れて状況を理解した睦人に、キリアの腕が伸ばされる。
反射的に睦人はその腕をつかむが、そのまま引いてしまい、キリアもバランスを崩す。
「あ……」
「ぅわっ⁉」
そのまま重力に従って、二人は足をもつれさせて倒れこんだ。
キリアが咄嗟に間に手を入れたことで頭を打つことは免れたが、睦人は受け身などなく背中を打ち付けた。さらに、そこにキリアが覆いかぶさるように倒れてきたので、睦人は瞬間的に息を詰めて痛みに顔を顰める。
「うっ……‼」
「悪い‼大丈夫か⁉」
がばっとキリアは上体を起こすが、手は睦人と道の間に入れたままである。
心配そうに問うが、睦人は自分の状況を理解するのに精一杯であり、さらに肺が一気に空気を吸い込んだことで咳き込んだ。
「んぐっ、げほっ、げほごほっ」
「え、おい⁉どっか打ったか⁉」
咳き込む睦人に、キリアはおろおろと質問をぶつけていく。しかし、睦人がそれに返せるわけもなく、睦人はまだ咳き込んでいた。
そして、睦人はようやく呼吸を落ち着けると、何事かと閉じていた目を開いた。
「けほっ……ん、あ?」
「あ、お前もう大丈夫か⁉病院行くか?」
睦人の視界いっぱいに金髪の男の顔があり、蒼い双眸が心配そうにのぞき込んできている。
(……?)
瞬間的に睦人は混乱するが、すぐに状況を思い出し、今まさに自身とキリアが道路に雪崩れ込んだのだと理解した。
「そうか……」
「あ、咳はもう平気か?悪い、重かったよな?」
謝罪の言葉を述べるキリアに、睦人は早く退いてほしかった。
(重いとわかっているなら、退いてほしいんだが)
しかし、その要望が言葉になる前に、思わぬ方向から声がかけられた。
「あれ、みゃーこさん?……と、イケメンのお兄さん?」
聞きなれた声に、睦人とキリアは同時に声のしたほうへと顔を向ける。
そこには、赤茶色のはねた髪に、着崩した浅葱色のブレザーの制服のクラスメイトが立っており、二人を見下ろしていた。
「弥……⁉」
「え、お前、この間の⁉」
「二人とも、何してるんですか?」
弥の登場に驚く二人に、弥は至極真っ当な問いかけをした。
そして、二人の状態をざっと見ると、ある仮説を投げかけた。
「……逢引?」
「違う!!」
「え、違うの?その体勢で?」
弥の仮説を、睦人は反射的に強く否定した。しかし、状況を見ると、弥の言葉も説得力を帯びてくる。
キリアが睦人に覆いかぶさるように二人は寝転んでおり、睦人はキリアの片腕を握ったままである。おまけに、キリアは空いてい腕を睦人と道の間に置いていたので、見方によってはキリアが睦人を抱き寄せているのだと見えなくもない。
「これは事故で、ちょっと転んだだけであって‼ああもう、すまないが退いてくれないか?」
「え、あ‼そうだよな、ずっと乗ってて悪かった!」
キリアはやっと睦人の上から退いて立ち上がり、睦人も背中をさすりながらその場に立って鞄を肩にかけなおした。
「……ところで、その、腕は大丈夫か?」
「ああ、大丈夫。俺、包帯の下に細い鎖巻いてるから」
「……」
睦人が咄嗟にとってしまった腕を気にするが、キリアはあっけらかんと返した。
そのことに、睦人は色々と言いたいことが浮かんだが、それらを口にすることはなく、弥のあらぬ誤解をとくことにした。
「弥、俺も正直よくわからないが、とにかくこれはただの事故で、万が一億が一にも意図的なものじゃないからな」
「ふーん、そうなんだ。え、じゃあ何してて転んだの?危ないよ?」
「あっ、そうだった!」
弥の問いに、キリアは思い出したように声をあげる。そして、そのままの勢いで睦人のほうに向きなおった。
「なあ、お前さっきのバイクのやつと知り合いだよな⁉」
「……はあ」
「え……?」
キリアの言葉に、睦人は溜息をつく。キリアに深く関わることを避けたかったのだが、今回もそれは失敗に終わったようだった。
また、弥もその言葉に反応したがそのことに二人は気が付かなかった。
「みゃーこさん、また誰かとフラグ立てたの?」
そして、弥はすぐに調子を戻すと睦人に笑みとともに睦人に答えを催促する。
「何だ、フラグって……。俺に、バイクに乗るような知り合いはいないし、さっきの方もすれ違っただけだ」
頭痛を覚えながら、睦人は言葉を強調しながら二人の疑問に答えを提示した。
「……」
キリアは睦人の答えに衝撃を受けたのか、文字通り固まってしまっていた。そんなキリアに気が付いて、弥がキリアに声をかける。
「イケメンのお兄さん、大丈夫ですか?」
「あー、うん。大丈夫なんだけど……あれ?」
キリアはそう歯切れ悪く返すが、その表情には隠し切れない困惑と動揺が浮かび、瞬きを繰り返していた。
「イケメンのお兄さん、それってこの間探していた人ですか?」
「ああ、それっぽい人を見つけたんだけど……」
「へえ、そうなんですか」
弥の更なる問いかけにキリアは答えるが、どこか心ここにあらずという風で、弥も不審に思った。
しかし、二人のやりとりが今度は睦人が気になったようだった。
「弥、何かあったのか?」
「ああ、うん。えっとね、この間お兄さんと会ったんだけど、誰か探してたみたいなんだ」
「へえ、そうなのか」
「うん、そうなんだー」
弥がいるせいか、無意識のうちに睦人は先ほどよりも落ち着いて振る舞っていた。
「……」
高校生二人が話している間も、キリアは黙っており、どこか消沈しても見える。
その様子に、睦人は必要以上に関わりたくないからか何も言わないが、弥が気になったのか口を開いた。
「イケメンのお兄さーん、あの、沈んでいるところ悪いんですが、お兄さんはこの後行くところとかないんですか?」
「……あ‼」
弥の言葉に、キリアは弾かれたように顔をあげる。
「そうだ、俺、このあと約束あるんだった!!」
キリアはそう言うと、先までとは打って変わって慌てだした。
そして、転んだ際に落とし物をしなかったかと周囲を確認すると、その場から離れようとした。
「じゃあ、俺行かねえと‼あ、転ばせて悪かった!!」
「あ、ああ……」
今度は突然元気になったキリアに、睦人はたじろぐ。
そして、キリアは一歩踏み出すが、そこで止まって睦人のほうへと振り返った。
「なあ」
「ん、何だ?」
「お前、本当にさっきのやつのこと、知らないんだな?」
キリアの念を押す質問に、睦人は瞬間的にムッとしたが、ふと違和感を覚えた。
声は、確認以上に僅かに縋るような響きを持っており、表情は自分の言葉に困惑を覚える、自分で自分のことがわからないような――睦人が度々感じるものに似た感情を浮かべていた。
「ああ、知らない」
それに気が付いたからかはわからないが、睦人は、知らないということを端的にきっぱりと言い切った。
「そうか、ありがとうな‼俺、行くな。じゃあなー!」
心なしか明るい声でキリアは礼を言うと、今度こそその場からいなくなった。
そして、嵐の後のような静寂が訪れた後、先に口を開いたのは弥だった。
「じゃあ、僕も帰るねー」
「ああ、気を付けてな」
そこまで言うと、睦人の胸中に今更な疑問が沸いた。
「そういえば、弥」
「んー?なあにー?」
「お前、何でこんなところにいたんだ?」
睦人は、弥の家こそ知らなかったがこの近所であったのは今回が初めてだった。
睦人の質問に、弥は、ああそのことか、と特に動じることもなく平然と返した。
「さっきまで美人な猫さんとお話ししてたんだけど、猫さんが急にこっちに来ちゃってさ。追いかけてたら二人に会ったんだー」
「猫、か……」
「うん。みゃーこさん、その猫さんに会ったらよろしく言っておいてー」
「……努力はする」
睦人が何とかそうとだけ返すと、弥は満足そうに笑みを浮かべる。
「じゃあ、今度こそ僕帰るねー。また明日ー」
「ああ、また明日」
そう言うと、弥も自身が来た方へと帰っていった。
「……」
一人になり、睦人は短時間であった色々なことを反芻すると、がくっと肩を落とした。
「何か、疲れたな……」
理解のできないものに対しては想像以上に精神を消耗するもので、睦人も精神的な疲れを感じていた。
「帰るか……」
呟き、睦人はやっと自身の帰路を歩き出した。
「にゃー」
「……ん?」
少し歩いたところで、睦人は何かの鳴き声を聞き、足元に小さな何かが寄ってくるのを感じた。
「猫?」
「にゃー」
睦人の足元には、猫が擦り寄ってきておりごろごろと喉を鳴らしている。
「弥が言っていたのは、この猫か?」
睦人はその場に屈んで確認するが、当然そんなことはわからない。
そんな睦人に構わず、猫は足元をうろうろし続ける。
睦人はその様子を暫く眺めていたが、ふと思い立ったように、そうっと手を伸ばしてみた。
「痛っ!」
伸ばした腕は、猫にがぶりと噛みつかれてしまった。