15
明後日はルニエの誕生日だった。例年、誕生日のまえの日はパーティの準備で忙しいので、メインであるルニエは会場から追い出されてしまう傾向にある。本番までお楽しみだと、準備を見せてもらえないのだ。このことはルニエをとてもつまらなくさせ、反動で妹の誕生日パーティの準備は自分のときにできない分も手伝うことにしていた。
シートの中でルニエはクスクス笑いをし、記録に載るくらい機嫌良くベッドから身を起こした。スリッパーズを履いて少し歩き、棚の上に置いてあった瓶を手に取る。昨日、ラ・コスタに貰ったものだ。大事に抱き締め、戸棚の中にしまった。大事に、大事に食べなくてはいけない。今度落ち込んだときに、蜜をたっぷり塗ったトウストを食べるまでしまっておくことにする。
窓を少し開けた。空気は冷えており、ほんのりと薄暗く、端からいまにもお目見えしそうな太陽が暖かさを実感させてくれるまでずいぶんと時間がある。その朝の肌寒い空気が部屋の中に忍び込んできた。ほんの数秒でルニエはその寒さを満喫、いや……嫌というほど実感する。
窓を閉めた。空気の入れ替えは終了したが、入れ替えるまえに着替えをしておけば良かったとつくづく後悔する。ルニエは身震いをして、クロジットの中にある服を選び始めた。かなり迷ったものの、結局白いワンピースを着ることに決め、胸元にはくすんだ赤いロウザのブロウチをつける。
女中がいつものように扉をノックしたのは、ルニエが髪を編んでいるときだ。換気はすませたと告げ、朝食を食べに食堂へ降りていった。
まだ食堂には誰もいない。
「スクランブルエッグとサラダ。それと、コーフィが飲んでみたいの」
「コーフィをですか?」いつもとは違う飲み物に女中は不思議そうな顔をする。「それは構いませんがお嬢様、ミルクを加えたコーフィのほうが宜しいのではないでしょうか」
言われてみると、紅茶のようにコーフィにもミルクが入っているほうがそのままのコーフィに比べて口当たりが良さそうな気がした。
「そうね、ミルクコーフィでお願いするわ」
朝食が運ばれてくると、珍しいものでも眺めるようにルニエはミルクコーフィを見つめる。初め少し飲んでみてから、角砂糖を一つ加えた。それで十分飲めそうだ。なかなかコーフィが冷めないのでスプーンでずっとグルグルかき回していたキュラソウを思い出す。
その様子が子どもみたいで思わず思い出し笑いをしてしまうところだった。
今日は日曜日だから、明日はルニエの誕生日前日だから、いずれも家庭教師はお休みだ。明日はキュラソウの体調が悪いらしい新月で、今日とルニエの誕生日当日は新月前後の日である。誕生日パーティの誘いは断られてしまったのに、診察には来てくれるという彼に多少不満を感じる。
しかし、悪くはないと思った。
彼は午前中に来ると言っていたものの、何時に来るかは分からなかったのでルニエはそれまでの間、読みかけの本を読んで過ごす。読み疲れて顔を本から離したとき、静かに扉がノックされた。キュラソウ独特の叩き方。このタイミングが素敵だ。
「こんにちは」扉の外には、もちろんキュラソウが立っている。
「やあ、病気なんだって?」扉を閉めると彼はすぐにルニエの顔を覗き込んだ。「椅子に座ってくれる? 様子を見るから」
大人しくルニエが椅子に座ると、彼は両手で目の縁に触れる。次に口を開けるように指示した。一体誰がルニエが病気だなんて言ったのだろう? コルドン氏もしくはラ・コスタか? 背中を向けるように指示されたとき、ルニエは思い切って聞く。
「誰が病気だなんて言ったのかしら?」
「君の妹だよ。重症だから僕にしか治せないんだって」彼はルニエの背中に当てていた手を離して溜息を吐いた。
何と答えたら良いか迷ってしまう。妹が言った本当の意味をちゃんと教えたほうが良いのか、誤魔化しておいたほうが良いのか。残念なことにどちらを選択するにしても、結果としての代わり映えがなさそうだ。
「先生はわたしが病気だと思いますか?」他の選択へ逃げてしまった。
「身体は健康だよ。あるとしたら心の病気かな。なにか……悩み事があるとか?」
「あると言えば、聴いてくれますか? 真面目に、真剣に」
「良いよ。専門ではないけど、話くらいは聞ける。そんなに深刻な悩みなの?」
ルニエはちゃんとキュラソウを向き、こくりと頷く。
彼は口を斜めにする。
深刻な悩みだと言ったが、キュラソウがどこまでそれを信じているのか怪しかった。いつの間にか彼はルニエではなく、補助線を引くと天井に当たる位置を見ていた。
真剣に悩みを聞いて欲しいとルニエが提案してキュラソウもそれに同意したのに、ルニエがいつまでたっても話し出さなかったのがいけなかったのか、彼はこちらを見向きもしてくれなかった。仕方なく彼の横顔を眺めて、黒くて小さいフレイムの眼鏡を見る。
「先生は目が悪いのですか?」沈黙に耐え切れず、ルニエは口にする。
「悪いというより、弱いかな……」
会話は止まる。
「眠いのですか?」
「うん、少し」
また沈黙。
ルニエは次第に腹が立ってきた。彼は女性をほったらかしにして平気なのだろうか。いや、きっと平気なのだ。平気どころか悪気すら全くないのだ。
気の利く男性であれば、それとなく女性が話しやすいように会話を誘導するか雰囲気を変えてくれるだろうに、ルニエのほうが頑張ってもその努力が実ることすら難しそうだった。
「細い髪の毛ね……」
独り言のように呟いて、キュラソウの耳元に手を伸ばす。軟らかい髪に触れる。彼がようやく振り向いたので指がフレイムに当たった。
「あ……」
一瞬目が合って、ルニエは素早く手を引っ込めてしまった。
「細い指だね」臆面もなく彼は言ってのける。
お世辞だと解ってはいたが、ルニエは恥ずかしくて顔を赤くした。明らかに彼を動揺させるよりルニエが動揺させられるほうが簡単なのだ。
「先生……酷いわ、話を聞いて下さると仰ったのに、ずっとぼんやりしてばっかりです。まさか、わたしの反応を見て楽しんでいるでしょう?」
「え……?」ただの文句に過ぎなかったが、キュラソウは何故か頬をやや赤らめて露骨にうろたえる。
ルニエには予想外の効果だった。思わず顔を緩めてしまう。
「ぼんやり? 僕がぼんやりしているって? そ……そうかな……困ったな」苦笑いをした。
「どうして先生が困るのですか? 困るのはわたしです」
ここだとばかりにルニエは報復行動を開始する。これで会話も弾んでくれれば一石二鳥だ。
「つまり……」キュラソウは困った顔をした。どうやら言うのが嫌らしい。「つまり……それは、それだけ君に気を許しているってことじゃない……」
遠回しではあったが、ルニエにも彼が言っている意味が分かった。ルニエだってそうなのだ。これほどまでキュラソウに構い始めたのは、ラ・コスタと逢ったあの日からだ。だから、ルニエがこれまでの主治医としてだけではなく、ラ・コスタの兄として彼をもっと身近に感じ始めた影響の現れ、と言って良いかもしれない。
例のプロポウズ事件から、彼を意識するようになったルニエは、気を許され始めているらしい、と知って嬉しかった。だが彼はそのあとに「別に君が特別だと言っているわけではない」と余計な一言を付け加えたのだ。この蛇足にはルニエもがっかりした。
「先生は、わたしにプレゼントを下さらないの?」
「プレゼント? あぁ、誕生日だったね。深刻な悩みって、僕が誕生日パーティを断った上にプレゼントをくれそうにないこと?」彼はルニエが悩みを相談したいと言ったことを覚えていたらしいが、総合的に見てデリカシィに欠ける。「うーん、いまはこんなものしか持ってないなぁ」彼は白衣のポケットからコーク栓がされた小さな瓶を二つ取り出した。一つは真っ白い砂が、もう一つは星型の粒が入っている。
「まあ綺麗……」
ルニエはその二つを受け取って眺めた。『有孔虫の死骸とブダイの排出物』と付け加えがあったので、迷うことなく両手を離してしまう。瓶は割れずに軟らかい絨毯の上で跳ねる。
キュラソウは短く声を上げた。「酷いな……貴重なのに」拾い上げて白衣のポケットに大事そうに戻している。「やっぱり花が良いか」
「別にキスでも構いませんけど」
「本当に……そんなので良いの?」
「だ……駄目です」
今回も冗談だったが、彼が躊躇しなかったので超特急で取り消した。その反応から、彼もキスは握手のようなものと思っているらしい。そんなキスならルニエはいらなかった。花を貰ったほうが何倍もマシだ。
不意にルニエは少し引っ掛かっていたことを思い出す。
「ところで先生、以前診られた患者さんで『エル』を覚えていますか?」
「エル? アルファベットのLではなくて、エル・テソロのこと?」
エルがキュラソウの名前のことをKと言っていたのと発想が同じなので笑ってしまう。
「そうです。わたしの家庭教師なの」
微妙に彼は眉を寄せる。「困ったな……。彼女、僕のことなにか言っていた?」
「特には。……いえ、年齢の割には童顔に見えると言っていました」
「彼女に僕の年齢を教えた?」苦笑いをして彼は尋ねた。
「いいえ。もしかして……ごめんなさい、気に障ったのでしたら」
年齢は若いが、たしかにキュラソウは童顔であったし、本人がそのことにコムプレクスを持っていないとも限らない、とルニエは気付く。そうだとすれば軽はずみに教えるべきではなかったのだ。もし彼がこれで気を悪くしたとすれば、発言主のエルにも悪いことをしてしまったことになる。
「良いよ。君に悪気はないだろうし……、昔から二歳は年下に見えるって言われていたからね」
キュラソウには構わないと言われたが、ルニエは何だか悪い気がしてすぐに許してもらう気にはなれなかった。彼は少し困ったような、もしくはなにかを諦めたような角度にやや眉を動かす。




