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「なにか飲む? コーフィしかないけど」
「ええ」ルニエはコーフィを飲んだことはなかったけれど、きっと甘ければ飲めるだろうと思った。
ラ・コスタがキッチンへ行ってしまったので、ルニエは頬に触れながら辺りを見回す。彼の服で拭ってしまったから涙はほとんど残っていない。この部屋は片付いているというか、片付けるほど荷物が存在しないのだ。散らかっているのはラ・コスタの部屋だけらしい。
(きっと、ほかは先生が掃除しているのね)
急にルニエはキッチンの彼が心配になって様子を見にいってみた。彼が踏み台の上で食器棚をごそごそしている姿が目に入る。
「どうしたの?」
「いや……、カップが見つからなくて。一個余分が……あ! あったあった」彼は奥からオリンジのマグカップを引っ張り出して、目的を終えると踏み台を降りた。
戸棚が閉まるまえにルニエは見てしまった中身は、ほとんど食器とは無縁のもので埋め尽くされていた。ビーカやら試験管やら、救急箱に薬の瓶、山積みのタウル。キッチンで実験が始められそうな変わった活用法だ。
「もうちょっとでドリップが終わるから」彼は洗ったカップを拭きながらコーフィメイカの目盛りをちらっと見て言う。
「ねえ、お砂糖はどこに置いてあるの?」
ルニエが尋ねると彼は驚いた顔をする。
「砂糖? そっか、君は砂糖を入れるんだ! 角砂糖は置いてないなぁ、……食塩水ならあるんだけど。いやいや、ブドウ糖とか医療用ならあったか」
今度はルニエが驚く番だった。砂糖がないとはどういう状況だろう。少なくても料理の味付けに使うはずだ。それとも、全く料理をしないのだろうか? 男性の二人暮しなら考えられないこともない。堪え切れなくなったルニエは冷蔵庫を断りもなく開ける。中身は薬の瓶と水ばっかりだった。
「ラ・コスタ! あなた普段、なにを食べているの?」ルニエは悲鳴を上げるように言った。
「の……ノウコメント」
「ノウコメントではないでしょう? ちゃんと食事をしていないから……」
「ちゃ、ちゃんと食事はしているよ! こんな格好なのは呪いのせいだし、背が伸びないのも余計なお世話だし、嘘吐きなのは僕の個性なんだから! それに……僕、アラジィがあるから、ルニエが考えているような食事はできないもん」彼は言い終わると頬をまるで突付かれたフグみたいに膨らませる。
「ごめんなさい……」
しゅんとなってルニエは謝った。同時にラ・コスタがさっき言った台詞の中に引っかかった部分があったのを思い起こす。それは『呪い』だ。バルコニィで会ったときも彼は『悪い魔法使いに呪いをかけられている』と言っていた。あのときルニエは、それを言い訳の一部として認識していたが、さっき彼は『こんな格好なのは呪いのせい』だと言っていた。
「分かれば宜しい」
ルニエはラ・コスタを改めてじっと見つめる。白い肌、色素の薄い眼と髪、紫外線を避ける、――月が好き……は関係ない。
(話に聞いたことがあるわ。白いウサギと同じ……色素形成が……)
「あ! 蜜があったんだ」
嬉しそうな彼の声で思考は中断される。彼は、今度は別の戸棚を開けていた。
そこには、琥珀色の液体が入ったたくさんの瓶が詰まっている。全て蓋にラヴェルが貼られていたが、ラヴェルに何も書き込まれていない瓶が最も多かった。彼はそのなにも書き込まれていない中で、ほかより液面が低い瓶を手に取る。
「これ、さっきの花の蜜。彼が大好きでね、いっぱい溜め込んでるんだよ。もし君が気に入ったら内緒で一瓶あげようか?」くすくす笑いながら彼はコーフィメイカのスウィッチを切って、水を入れたポットを火にかけた。
ルニエが見ている前でラ・コスタはリスのように動き回り、独りでガチャガチャやっていたが、まもなく湯気が上がるカップがルニエに差し出された。湯気は甘い、あの部屋と同じ甘い匂いがする。彼も自分のカップを手に取りリビングへ歩いていくので、ルニエは慌ててあとを追った。
「ところで、何でルニエはここにいるの?」彼はソファに座り、カップから上がる湯気を一生懸命息で吹き飛ばしている。
その隣にルニエは腰を下ろし、ドキドキしながら甘い香りがする液体をゆっくりと一口飲んだ。「おいしい……」口の中が甘さでいっぱいになる。そっとラ・コスタを盗み見ると、まだ一所懸命コーフィを冷まそうとしていた。「あのね……、ごめんなさい。部屋を滅茶苦茶にしたのは、わたしなの。彼を怒らないであげて」
「そう、良いよ、許してあげる。ルニエはまだ一度目だから」
彼は素直にその提案を受け入れてくれた。
ホッとしてまた液体を一口飲む。彼はコーフィを飲もうとしていたが、途中で止めてまた息を吹きかけ始めた。猫舌なのかもしれない。
「よく飲めるのね、コーフィは砂糖を入れないと苦いでしょう?」
「大丈夫だよ。これは苦くないように薄ぅ~くしてあるもん。苦いと飲めないんだけど、砂糖を入れると気持ち悪くなるから」
「わたしは、甘いものが大好き」
「僕は……、ほろ苦いくらいが切なくて良いな」カップを唇に当てたまま彼は視線を彷徨わせる。どこか寂しそうな横顔だった。
(先生によく似ている……)
ルニエは甘い湯気越しにラ・コスタを観察して、数日前にぼんやりとコーフィを飲んでいたキュラソウにそっくりだと思う。自分独りの世界へ入り込んでどこか遠くを見つめ、話しかけられることを拒絶してしまう空気の壁さえも作り出している。側に誰かがいても、それを忘れてしまっているのではないだろうか。少し悲しくなる一方で、こうして二人で一緒にいられることが、とても嬉しく思えた。
初めに感じたようなキュラソウとラ・コスタとの違いも、単なる見かけのものであって単に兄弟であること以上に、根本的な部分で同じではないかと、そんな結論に行き着きそうなのだ。
ラ・コスタとかけて、キュラソウ医師ととく、その心はどちらも本質が不安定で今にもどこか……壊れてしまいそうな弱さがある。
似ているから、だから二人とも気になるのだ、ルニエにはそう思えた。
ラ・コスタを見ていると、彼の垣間見せる弱い部分が、外からの刺激によって傷付かないように守ってあげたいという、どこか母親に近い……包み込むような感情が生まれてくる。側にいられるだけで幸せなのに、それがずっと続くことを願うのは、彼に対して見返りを求めている我がままだろうか?
ルニエは甘さと一緒に、ラ・コスタ観賞を楽しむことにする。相手に意識されなければされないほど、何気ない仕草が充分に観察できた。彼は足をばたばたさせたり、たまに俯いたり、まるで横には誰もいないとプロウグラムされているとしか思えないくらいルニエを全く意識していない。
くすりとルニエは笑った。「ごちそうさま、とてもおいしかったわ」カップをテイブルの上に置く。
「本当? じゃあ……是非、瓶を持って帰らなきゃね」にっこり笑って彼は斜めに顔を上げてルニエを見た。
「もちろん……」
キュラソウがルニエのことを忘れてぼんやりしていていたときは恐ろしく腹が立ったものだが、何故かもう、ラ・コスタが同じようにぼんやりしていても全然腹が立たなかった。慣れてしまったのではなく、ルニエが紅茶は甘くないと飲めないように、彼もコーフィを飲むときはぼんやりせずにはいられないのだろう。
「そうだ。ルニエは僕のことが好きなの?」
「え……? ええ、まえにそう言ったわ」彼の突然の質問に面喰らうが、それでもルニエは自己主張をちゃんとする。「……きみは、わたしのこと好き?」ついでにドキドキしながらも聞いてみた。
「判らない……、嫌いではないんだけど。僕、『好き』なんて感情を今まで持ったことがないから判らないよ。そんなこと言われたのもルニエが初めてだし、だから試しに相談してみたら騙されている、とか言われちゃった」
そう言った彼の顔があまりにも可愛かったので、ルニエは声を出して笑ってしまうのをこらえるのが大変だった。
「何で笑うの?」ラ・コスタは恥ずかしそうに眉をしかめる。「だから、その……、ルニエの目的を聞こうと思って」
「目的? 目的ねえ……。別にわたしを大好きになってもらいたいと切望しているわけでもなくて、それは好きになってもらえれば嬉しいけど、ただ……仕合わせなの。きみと一緒にいる瞬間が一緒ではないときよりも……、仕合わせだなって気がするの。だから、それがこれからも続くように一緒にいたいの」
「何となく……ね。幸せもありすぎると嘘になるから」彼はカップをテイブルに置いた。「それに……、分かっているくせに。僕の答えは『ルニエが例の星を取ってくれたら』だって」
例の星、今夜はもう刺さりそうなくらい細く欠けてしまっているだろう月、二人の間での秘密の言葉。もしかすると、絶対に敵わないという謎かけなのかもしれない。ルニエは彼の目をじっと見つめる。珍しくその視線は五秒くらいの間逸らされなかった。
「ええ、でも届かないの。手が届くより先にわたしが星になってしまいそう」
優しくラ・コスタは微笑んでルニエのすぐ横に座り直し、ルニエの髪をそっとすくい上げて唇に近付ける。それが彼の返事だった。
その行動で、ルニエは初めてバルコニィで会った夜を思い出す。
「あのね、もう一つ。ちゃんとお礼が言いたかったの。わたしの眼が綺麗だって言ってくれて、とても嬉しかった。ほんの……少しだけ、この眼が好きになったわ」照れ笑いをして白い彼の頬に触れてみる。
「良かった。僕の体質だって面倒だけど、慣れればそれほどでもないし。それに、綺麗でしょ? この髪の毛の色。気に入っているんだ」
細くて軟らかくて猫のような髪で、昨日見た月のよう色合いだ。繊細で冷ややかで、どこか人を寄せ付けがたい、それでいて人を魅了してしまう。
「月みたい」
「本当?」彼は嬉しそうにルニエを見上げる。
「まるで月の光で染まってしまったみたい。その体質……何て言うの?」
「アルビーノウだよ。いろいろ面倒な分類があるんだけど、とりあえず僕のは真性アルビーノウの2プラスかな。色素合成は不完全でも行われているからね」
彼が言ったアルビーノウという言葉を、天井を見上げて何度か頭の中で繰り返した。偶然目に入った時計を見てしまい、ルニエは驚いて立ち上がる。そろそろ家に帰らなければ危険な時刻だ。
「もう帰らないと」
「あの時計、遅れているよ」ルニエを見上げてラ・コスタが言う。
「え? 大変! どれくらい遅れているの?」
「十五秒フラット」真面目に彼は答えた。
たしかに、遅れているに違いない。
「そうだわ! わたし、先生に診察してもらいにきたのだったわ。どこも具合は悪くないのに、お父様が診てもらえと言うの」
「そう? 今日は時間がないみたいだから、明日の午前中にでも訪ねることにしようか?」
ラ・コスタが言った提案を時計の秒針が五回進む間、頭の中で繰り返した。お土産としてこっそり蜜の瓶を一つ貰い、ルニエは帰ることにする。玄関まで彼が見送ってくれた。扉を開けると斜めになった日差しが差し込む。扉を閉めるまえに振り向いたらそこには誰もおらず、空気中の埃によって光の道筋ができていた。
残念だが仕方がない。
今日は彼の外出にうってつけ、ではない日だから。
家に帰ると廊下でコルドン氏とすれ違う。
「お父様、先生のお宅に伺ったのですけれど、お約束なしでしたからお留守でしたわ」
「ああ……そのことか。さっき先生から電話があってな、今日は出かけていたそうだ。代わりに明日の午前中、来てもらえるらしい」
何と手回しの良いことだとルニエは思った。コルドン氏は用心深く診察を受けろと言うが、医者に診せるような病気ではなかったし、今日だってキュラソウに診察を受けにいったというよりも、どんなところに住んでいるのか見てみたいという気持ちが大きかった。
だから、ラ・コスタと会ってしまった瞬間に目的がシフトされたのだ。キュラソウの家を訪ねたのは、父親を安心させてあげたいという配慮が大半を占め、僅かに義務感を伴っていた。
「分かりました」
「そうだ、ルニエ。お前は先生をパーティにお誘いしたか? 用事があるとかで断られてしまったよ」残念そうに彼は言う。
「あら……、きっとデイトでもなさるのでしょう」
冗談っぽくルニエは答えた。




