13
お昼過ぎ、ルニエは部屋でそのウェイヴがかかった髪をとかし、ワインレッドのリボンを結んだ。鏡をそっと覗き込み、顔色があまり良くないように見えるのは光の具合かしら、と考える。薄手のコウトを羽織り、自分用に編んだマフラを首に巻いた。
ケイクかなにかを手土産として持っていこうかとも思ったが、ルニエはキュラソウの好きなケイクの種類も知らないうえに、そもそも甘いものが好きかどうかさえ知らなかったので早々に諦めることにする。機会があれば手作りに挑戦しようかと思案を巡らせたものの、いまの腕前では贈り物にするどころか、自分でこっそり処分するしかないだろう。
玄関にたどり着くまえに、あの女中とすれ違ったので手話で挨拶をする。彼女は黙って頭を下げた。彼女の仕事の合間を見て、ルニエは彼女に手話を教えてあげている。エルに教えてもらったものや、エルが貸してくれた本で自分が覚えた言葉を少しずつやってみせると、泣きそうになって喜んでくれた純粋な彼女が羨ましくなった。
当初は、お詫びの気持ちのつもりで始めたことだったが、教える、という行為は、覚えたことを復讐することができ、ルニエにとっても都合が良いことだと分かった。
今日は昨日と違ってお天気だ。コウトには全く似合わない気もするが、ルニエは白いレイスの日傘を広げる。庭のアカシアの花が咲き始めていた。ゆっくりとした足取りでレンガの上を歩き、昨日ラ・コスタに教えてもらった住所を目指して進む。連絡なしで出発してきてしまったが、太陽が空に出ているのでキュラソウは仕事でいなくても日焼けを気にしていたラ・コスタは絶対にいる、と密かに確信していた。
通りから見えるほとんどの家の塀からはアカシアの枝が垂れている。この花が満開になると、街がその色に包まれているみたいになる。あの綿のような黄色い花がタラクサカムの綿毛のようにふわふわ飛び交うのなら、さぞかし幻想的な光景だろう。
ルニエは歩きながらキュラソウの暮らしぶりを勝手に想像し始めた。まず、家は小さくて庭はなし。部屋は散らかって、キッチンからはコーフィの匂い。本棚は本でいっぱい、冷蔵庫は空っぽ。ペットを飼っているとしたら、イヌではなくてネコのイミッジ。それとも、魚かもしれない。
ランド通りに入ると、太陽が雲の後ろに隠れてしまった。ルニエは順番にそれぞれの家のプレイト番号を数えながら慎重に道を歩く。『4』が始まって『F』は一番しっぽの家だった。予想どおり小ぢんまりした家で庭はない。
日傘を畳み、ルニエはインタフォンを押すが、壊れているのか音が出なかった。そこでノブを捻ると簡単に開いてしまったので、大した罪悪感も持たないまま中に入ることにする。家の中に入った途端、微かな匂いが漂ってきた。消毒やコーフィや香水などの匂いとは違った雰囲気で、甘い花や熟した果物の匂いに近い印象だ。
棚の上には黒く塗装された鳥籠が置かれ、中にはオリンジのカナリアが留まっている。ルニエが顔を近付けて見るが、コトリとも動かない。どうやら作り物らしかった。羽の流れも本物そっくりで、まるでいまにもさえずりだしそうだ。もしかすると剥製かもしれない。
ルニエは一階には目もくれず、迷わず二階へ続く階段を上った。本来の役目を果たさないインタフォンが悪いのだし、泥棒ではないのだから、無断で家に上がり込んだくらい許してくれるだろう、と暢気に考える。ラ・コスタだってルニエの部屋のバルコニィでお月見をしていたのだ、これでお相子だろう。
勝手に上がり込む者の礼儀とし、ルニエは慎重に慎重を重ねて足音を忍ばせ、誰にも気付かれないように階段をそっと上る。もし住人を見付けた際は、速やかに相手の背後に忍び寄り、驚かさなければならないからだ。
二階には二つの部屋があった。ルニエはどちらから入ってみようか迷うが、まずは南側の部屋の扉をこちらもそっと開ける。その扉を開けた途端、今度は微かではなく明らかに、その部屋の中から甘い匂いが漂ってきた。
スッキリと片付けられた部屋で、カーテンが閉められた大きな窓の前のスペイスには、プランタや鉢植えが所狭しと並べられ、その手前をソファベッドがどんと占領している。壁には油絵やら不思議な物体がかけられており、水槽まで置いてあった。机の上には白い紙がたくさん散らばっている。
プランタや鉢に植えられている植物はいずれも同じもので、ほとんど蕾をつけているものはなかったが、いくつかは赤い花びらを萎ませていた。
部屋の中には誰もいない。ルニエは部屋を出た。
もう一つの部屋の扉は初めから少し開いていて、それをルニエは音を立てないようにそっと押し開けて中を覗いてみる。ひとまずびっくりさせられた。目に入ってきたものは本の山で、底が抜けそうなくらいたくさんの本がビルのように積まれている。本棚もたくさんあったが、そのほとんどが活用されておらず、いわゆる空っぽの状態。積まれている本を本棚に入れれば、どんなに部屋が片付くだろう、とルニエは思った。
足の踏み場はないに等しく、希少価値のある本と本との細い隙間と、跨げば辛うじて越えられる本の山の部分が移動に使われているのだろう。窓がないようで薄暗い部屋だった。ルニエは扉をちゃんと閉めないまま、スカートが広がらないように抑え、その獣道を慎重に進んだ。バランスを失えば一瞬で山は崩れる。
少し進むと本に埋もれるようにしてベッドがあるのが分かった。地震でも起きようものなら確実に埋まってしまうだろうに、少年が何事もなく胃の真上くらいで両手を組んでスヤスヤと眠っている。
といっても『安らかに寝息を立てている』のではなく、『死んだように動かない』のほうが正確な表現だ。永遠の眠りに着いた少年が横たえられているようで、好奇心の多いルニエなんかは罠にはまるかのように引き寄せられた。
(ラ・コスタ……)
これは当然、彼を驚かさなければいけないとルニエは捕らえどころのない使命感に燃え上がり、マフラが落ちないように巻き直して、さらに慎重に足を進めた。もう一歩というところまで来たとき、判断ミスにより肘が本に当たって崩れそうになる。何とか盛大な本崩れが起こる惨事は切り抜けたものの、次にルニエがラ・コスタを見たとき、ベッドはもう空っぽだった。
「動くな!」
ルニエが目をぱちぱちさせていると後ろから声がし、首筋がひやりとする。あまりにも驚いたあまりルニエは、バランスを崩して一度は免れたのに、そのまま盛大にひっくり返った。周りの山が次々と崩壊して連鎖となって広がる。倒れるとき、ルニエは後ろにいた誰かをクッションにして尻餅をついた。
「ごめんなさい!」恐る恐るルニエは起き上がる。
「あ、ルニエ! 会いたかった」
声の主はルニエが振り向くや否や、歓喜の声を上げてその首に抱き付く。反動でさらに本が何冊も崩れて滑るように広がった。ゆっくりと腕を首から外し、彼は嬉しそうにルニエを見る。
「ジェイなの?」
「うん。驚かせてごめん。ラ・コスタが寝ているときに人が近付くと、オレが出るんだ、――寝込みを襲われないように。あと、あいつの背後に突然立つと条件反射で撃退されるから気を付けて」彼はニッと笑う。
(少なくとも、後ろからいきなり抱き付かないように気を付けなくては……)
ここでジェイと遇うのは予想外だったものの、ルニエはちょうど彼に聞きたいことがあるのを思い出す。
「このまえの……、このまえのキスはどういう意味なの?」
「求愛」
無邪気に答えるジェイに、だからあんなにラ・コスタが慌てていたのか、と納得しつつも、応えることができないのに知ろうとした自分に罪悪感を持ちながら、ルニエが本当に聞きたかったことを次に尋ねた。
「それなら、ラ・コスタがした唇へのキスは?」
彼は少し首を傾げる。「さあ? ただの挨拶じゃない? あいつ、初めて会った女の人によくするから。それよりルニエ、ルニエは……」
ルニエの耳は精度を下げ、だんだんと彼の声も耳に入れなくなる。心の中ではそんな答えを予測していたのに、それが現実になるとやはりショックだった。
(自分はラ・コスタと先生の二人が好きかもしれないくせに、挨拶でキスをされたくらいでなによ……)
あの場面で挨拶か悪戯でないほうがおかしいではないか、とルニエは自分を何とか納得させようとするが上手くいかない。それにまた腹が立った。
「ルニエ……」彼の手がルニエの頬に触れる。「どうして泣いているの?」
黙ってルニエは彼に抱き付いた。
「わ! もしかして、僕が寝ている間に、彼にまたなにか言われたの?」本の上をずるずると滑り落ちながらラ・コスタは周りの様子に気が付く。「あ! なにこれ! 僕の本が滅茶苦茶じゃない! ……あいつ、また暴れたな~」泣きそうな声で彼は頭を抱えた。
そして彼は、引っ付いて離れないルニエを何とか引き剥がそうとしていたが、そのうち諦めてルニエを抱き上げる。ジェイのときも今回も、小さな身体のどこにそんな力があるのか不思議だ。近々絶滅の恐れがある本に侵食されていないスペイスを彼は慣れた足取りで渡り、足で扉を開いて閉じた。
「この甘い香りはなあに?」会えた嬉しさのあまりつい抱き付いたまま離れずにいたら、思いもよらず移動され始めたので引っ込みがつかなくなっていたルニエは、小さく彼の耳元に囁く。
「花の匂いだよ。気難しがり屋の同居人が好きなんだ」
(同居人……先生よね)
リズミカルに階段を駆け下り、ルニエはリビングのソファに下ろされた。ラ・コスタはルニエの首筋にキスをする。その首筋が熱い。
「わたしと初めて会ったとき、どうしてキスしたの?」
涙はとっくに止まっていたが、まだ涙声のままルニエは問いかけた。彼は不思議そうに、顔を近付けたままキョトンとしている。
「初めて会ったとき、キスなんてした?」ルニエがまた泣きそうになると、彼は慌てて付け加えた。「バルコニィでだよね? ああ……あれはねぇ、実験なの。どんな反応があるか統計を取ってね、……なんて冗談だけど」
「酷い!」
「ごめんごめん。君があんまり……無防備で僕に近付いてきたらから、……ね」くすくす笑いながら彼はルニエの頭を撫でる。
それも、冗談かどうかはルニエには判らなかった。




