エピローグ:全宇宙排気安寧宣言と、真鍮神具の狂信市場
成層圏の雲海を直径五キロにわたって両断した「神話的ゲップ(放気)」から、丸三日が経過していた。
帝都ルミナリア、ヴァルハイト公爵邸の最上階。
かつては少年のだらしない私室であったはずの空間は、いまや全宇宙の気圧・熱力学・繊維工学が完璧な均衡を保つ『絶対零度安眠真空チャンバー』へと完全進化を遂げていた。
室温:常に十八度(原初彗星の吸熱制御)。
腹部:常に三十八度五分(超熱力学保温腹帯の自律ヒーティング)。
胃腔内圧:一気圧ジャスト(自重プレスによる完全脱気状態)。
水分補給:六万気圧微細発泡水(常時ストロー直結)。
世界樹ベッドの上で、シルクのパジャマを着崩したソラ・ヴァルハイトは、掛け布団から顔だけをひょっこり出し、ぼんやりと窓の外の青空を見上げていた。
「……静かだ……」
ソラは、自分の腹部をさすった。
桜色の腹巻きのおかげで、腸内は日だまりのようにポカポカ。
胃の不快感もゼロ。
ゲップを盛大にぶちかましたおかげで、みぞおちの圧迫感も綺麗サッパリ消え去り、身体はまるで羽毛のように軽い。
(……やっと、平和が訪れたんだ……。
炭酸水もうまかったし、腹巻きも最高だし、ゲップも出た。
これでもう、何一つ僕の睡眠を邪魔するものはない……)
ソラは、至福の二度寝へと潜り込もうとして――ふと、部屋の片隅に視線を向けた。
そこには、巨大な防音ガラスのショーケースが鎮座していた。
紫のベルベットが敷かれたケースの中に、恭しく、神々しく安置されていたのは――。
ソラが昨夜、みぞおちに敷いて自重プレスを敢行し、その後カカトで蹴っ飛ばした、あの「凹んだ真鍮製の湯たんぽ」だった。
ショーケースの台座には、純金のプレートでこう刻まれている。
【全宇宙第一級至聖遺物:神胎調律筒(別名:絶対放気枕)】
至高神ソラ様が自らの聖躯を委ね、全宇宙の気体エントロピーを成層圏へ放逐せしめた奇跡の神具。
接触面の凹みは、神の肋骨のカーブと完全一致する聖なる幾何学形状である。
「……な、なんであんなゴミが展示されてんの……?」
ソラは、頬を引き攣らせた。
だが、本当の恐怖はそれだけではなかった。
ソラは、だるそうにベッドから足を下ろし、スリッパを履いて窓際へ歩み寄った。
遮光カーテンをほんの数ミリだけ指先で押し開け、眼下の帝都を見下ろす。
「……………………は?」
ソラの顎が、再び外れそうになった。
帝都の大通りを埋め尽くしていたのは、五百万人の巡礼者たち――ではなかった。
巡礼者たち全員が、「お腹に桜色の腹巻き」を巻き、「小脇に真鍮の湯たんぽ」を抱え、「口元にストロー付きの炭酸水ボトル」をぶら下げた、完全なる『ソラ様完全同調スタイル』の信徒軍団だったのだ。
広場の中央では、機巧都市が突貫で建設した巨大プラントから、湯気を立てながら何万個もの「真鍮製湯たんぽ」がコンベアで吐き出され、
「ソラ様の肋骨の凹みを忠実に再現した公式レプリカ! 限定十万個!」
「お腹に乗せるだけでゲップが止まり、あらゆる内臓疾患が完治する神聖プレス体験!」
と、大天使と悪魔がメガホンを持ってダフ屋のように叫び、飛ぶように売れていた。
露店では、
『星雲羊の毛を百パーセント使用した開運腹巻き(金貨三百枚)』
『彗星の氷を溶かした神聖炭酸水(飲むだけで肺活量三倍)』
『ソラ様のゲップの風圧を瓶詰めに成層圏で捕集した気体缶(家宝用)』
が飛ぶように売れ、もはや帝都全体が巨大な「胃腸科テーマパーク」と化していた。
空を見上げれば、天界と魔界の合同パトロール隊が、
「ソラ様が放気される神聖航路につき、鳥の一羽たりとも飛行禁止!」
とメガホンで怒鳴り散らし、成層圏の雲を箒で掃いて片付けている。
「……な……な……な……ッ!?」
ソラは、カーテンから飛び退き、壁に背中を激しく打ちつけた。
「なんでえええええええええええええッッッ!?
僕、ただ腹が張ってゲップしただけだよ!?
なんで街中のみんなが湯たんぽ抱えて腹巻き巻いてんの!?
あの街の人たち、全員胃腸炎なの!?
僕のゲップで成層圏に穴が空いたって何!? 意味が分からないよおおおッッ!!」
ソラが頭を抱えてパニックを起こしていると、カチャリと扉が音もなく開いた。
入ってきたのは、神々しいまでの笑顔を浮かべたエレノアと、手帳を抱えたセレスティーナだった。
「おはようございます、マスター! 素晴らしい朝でございます!」
セレスティーナが嬉し泣きしながら駆け寄ってくる。
「マスターの放たれた神聖なる放気の一撃により、帝都上空に滞留していた『悪しき瘴気雲』が完全に吹き飛ばされ、市民の呼吸器系疾患の罹患率がゼロになりましたわ!
信徒たちはマスターの胃腸の健やかさを讃え、全員が腹巻きを着用して祈りを捧げております!」
「ええ、経済効果はすでに銀河規模の国家予算を突破いたしました」
エレノアが眼鏡をクイと押し上げ、無慈悲な帳簿をペラリとめくった。
「湯たんぽレプリカの特許料、腹巻きの輸出関税、炭酸水の専売権だけで、我がギルドは全宇宙の全金属鉱山と毛織物工場のオーナーとなりました。
なお、マスターが次にいつゲップを放たれても安全なよう、帝都の外郭防壁はすべて『衝撃吸収ウレタン素材』に改修工事中でございますので、ご安心ください!」
「安心できる要素がミジンコ一匹分もねえよおおおおおおッッッ!!!!」
ソラは、両手で頭を抱え、世界樹ベッドの上へ倒れ込んだ。
ただ、腹巻きを巻いて。
ただ、炭酸水を飲んで。
ただ、湯たんぽに体重を預けてゲップを一発かましただけなのに。
なぜ、宇宙の経済と信仰が、自分の胃袋の消化不良を中心に回り始めているのか。
(……逃げられない。
もう僕、一生この腹巻き巻いて、湯たんぽ抱いて、炭酸水飲みながら、ゲップの神様として崇められる運命なの……?
僕の……僕の普通の無職ニート生活は、一体どこの銀河へ消滅したんだよぉぉぉ……!!)
ソラは枕に顔を埋め、涙でシーツを濡らしながら、深く深く掛け布団を被り直した。
お腹はあったかいのに、精神的な胃痛は過去最大。
窓の外から微かに響いてくる「ソラ様放気万歳!」「湯たんぽ万歳!」という五百万人の合唱をBGMに、哀れなる至高の絶対神は、今夜もまた来ないはずの静寂を求めて目を閉じるしかなかったのである。
あとがき
全国一億三千万人の「真夏の夜、エアコンをガンガンにかけた部屋で冷たい炭酸水をガブ飲みした結果、明け方に強烈な腹痛とガス溜まりに襲われて『頼むから誰か胃袋だけ別次元に取り出して揉みほぐしてくれ』とベッドの上でエビのように丸まった経験のある同志」の皆様、お待たせいたしました! そして今日も今日とて冷たい現実と熱い責任の狭間で胃腸をキリキリ言わせている全人類の皆様、すべてのベルトを緩めて今すぐお腹に腹巻きを巻いてください、こんにちは!
本作『深淵の怠惰 〜無能と蔑まれた公爵子息、適当に動いたら絶対無敵の怪物として崇拝される〜』第6巻を最後までお読みいただき、本当に、本当に、五臓六腑の底からの特大の感謝を申し上げます!!
……さて、読者の皆様。
第6巻を読み終えた今、皆様の脳裏にはきっと、人類史上最も深遠なツッコミが浮かんでいることとお察しいたします。
「第6巻まるまる一冊使って、主人公が『寝返り』と『腹巻き』と『炭酸水』と『ゲップ』しかしてねえぞどうなってんだコレ!!!!」
作者自身、原稿の最終行を打ち込み終えた瞬間、笑いすぎて椅子から転げ落ち、リアルに床の冷たさで腹を冷やしかけました。
全8巻構想の第6巻。いよいよ物語のクライマックスへ向けて、宇宙の黒幕が姿を現したり、神話の最終戦争が勃発したりするはずの重要な巻です。
それが本作はどうですか。
「添い寝(湯たんぽ)」→「腹冷え(腹巻き)」→「寝汗(強炭酸水)」→「ガス溜まり(ゲップ)」。
主人公がやったことといえば、ベッドの上でゴロゴロ転がりながら「なんか抱き枕欲しい」「お腹痛い」「喉渇いた」「トントンしてくれ」と情けない愚痴を垂れ流しただけ。
それに対して、天界の最高神と魔界の真祖がバリカンで羊の毛を刈り、宇宙空間で彗星を砕いて炭酸水を充填し、最終的に「主人公のゲップ一発で成層圏に穴が空いて世界が救われる」という、前代未聞の消化器系コメディが炸裂いたしました。
改めて第6巻の「胃腸科ダイジェスト」をご覧ください。
第一章(神聖真鍮抱き枕):
ソラ「腕と足乗っける適当なクッションくれ」(意訳:横向き寝で肩凝る)
全次元「至高の添い寝権争奪杯だァッ!(神魔美女の肉体アピール)」
結果「ソラが無造作に抱きついた真鍮湯たんぽが絶対零度化。全首脳陣が凍殺され、湯たんぽが正妻に君臨」
第二章(超熱力学保温腹帯):
ソラ「湯たんぽ冷えすぎて腹痛い。チクチクしない腹巻きくれ」(意訳:下痢寸前助けて)
全次元「絶対霊毛徴発令発令ッ!」
被害「天界の星雲羊がつるっぱげ、魔界の黒貂が丸刈り、ナノカーボンヒーター内蔵でソラのお腹が温泉化」
第三章(絶対零度神話炭酸水):
ソラ「腹巻きで温まりすぎて喉乾いた。キンキンに冷えた炭酸水」(意訳:熱中症死ぬ)
全次元「絶対強炭酸氷河強奪令ッ!」
被害「宇宙の彗星コア破砕、地獄の六万気圧間欠泉ガス充填、ソラが一気飲みして超新星クールダウン」
第四章(絶対放気プレス):
ソラ「炭酸で胃がパンパン。適当に背中トントンしてくれ」(意訳:ゲップ出ない苦しい)
全次元「至高の背部打診選定杯だァッ!(打撃技の品評会)」
結果「ソラが湯たんぽに体重預けて自重プレス。『ゲフッ』の一撃で成層圏の雲が吹き飛び、首脳陣全員壁に埋没」
……ソラくん、君の生理現象のスケール、もはや銀河系の超新星爆発よりエネルギー効率が良すぎて本当に頭がおかしいです(褒め言葉)。
エピローグで判明した通り、本人はただ「お腹が痛くて、喉が渇いて、ゲップをしたかっただけ」なのに、帝都中が湯たんぽを抱えた腹巻き軍団で埋め尽くされ、宇宙規模の胃腸ヘルスケア市場が爆誕してしまうという、世界一スケールがデカくて世界一情けない社会現象の完成には、作者も涙を流して爆笑いたしました。
さて、怒涛の勢いで消化器官を巡った第6巻ですが、物語はいよいよ最終章――第7巻・第8巻の最終決戦(?)編へと突入いたします!
全宇宙を制覇し、完全流動食を飲み干し、腹巻きと湯たんぽによって肉体の健康すら極限に達したソラくんを待ち受ける、真の最後の敵とは……!?
続く第7巻では――全次元の平和が完全に固定されたことで、ついに「全宇宙の因果律そのものを司る『運命の神』」と「宇宙の始まりと終わりを記録する『アカシック・レコードの管理者』」が姿を現し、
「この宇宙の全歴史が、一人の引きこもりの二度寝のために書き換えられているのはバグである! 直ちにソラ・ヴァルハイトをベッドから叩き起こせ!」
と、宇宙の物理法則そのものを総動員した【強制起床作戦】を決行してしまいます!
もちろん、当のソラは「朝アラームが鳴っても絶対にスヌーズボタンを押して寝続ける」という、全人類共通の不屈の闘志で立ち向かう予定です。果たして宇宙の因果律vsソラの二度寝、勝つのはどっちなのか……!?
最後に、ソラの救いようのない自堕落と、全宇宙を巻き込んだブレーキ粉砕の勘違い劇を、誰よりも熱く、温かく愛し続けてくださる最高の読者の皆様に、魂の底からの特大の感謝を!!
皆様の笑い声と応援がある限り、ソラくんの「絶対にベッドから出たくない、絶対に起きたくない戦い」は、宇宙の終わりまで止まりません!
それでは、また第7巻の『全宇宙スヌーズ大戦争編』でお会いしましょう!
(私もこれから、ソラを見習ってお腹に腹巻きを二重に巻き、キンキンに冷えた炭酸水を枕元に置き、湯たんぽを抱きしめながら、丸三日ほど泥のように冬眠したいと思います。探さないでください……zzz)




