第1話 湯気の向こう
――チームビルディング旅行。
由布院の静かな温泉宿。
同僚たちはまだ起きだしてこない。
キム・ジミンは、何も疑わずに早朝の露天風呂に身を沈めていた。
辺りはまだ薄暗い。
そのとき、湯気の向こうが、ゆっくり裂けた。
――最初は影。次に水をかき分ける音。
最後に、人の輪郭。
広い肩幅、無駄のない体の線。
一瞬、理解が追いつかない。
(え?)
湯気がもう一度揺れて、顔がはっきり見えた。
( チェ・ミンジェ課長 ……!!!!!!!!)
スーツの中に収まっているはずの体が、そのままそこにあった。
視線が合う。
止まる。
「……」
「……」
先に声を出したのはジミンだった。
「……あの、ここ……女湯じゃ……」
声が裏返る。
ミンジェは一度だけ視線を落としてから、淡々と返す。
「入れ替わったんだ」
「え?」
「案内に書いてあった。日本の温泉では浴室が男女入れ替わることがある」
「そんなの聞いてません……!」
言い切った瞬間、自分でも説得力がないと気づく。
ミンジェの目がわずかに細くなる。
「……君が確認していないだけだろう」
その一言で空気がさらに詰まる。
そのとき。 扉が開く音がした。
「隠れていろ」
ミンジェが小さく、しかし鋭く言った。
入口に背をむけて、岩場にへばりつくように身を縮こませる。
湯気とミンジェの背中で前は見えない。
「ミンジェ課長」
若手のチームメンバーの声。
ミンジェが一歩前に出て、ジミンの前を完全に遮る。
「先に入っていたんですか」
若手がシャワーで体を流す音がする。
「今出るところだ」
ミンジェが湯をかき分けて洗い場に出ていく気配がした。
「金鱗湖は朝霧で有名だそうだ。一緒に行こう」
落ちついた声。
「えっ課長。俺、今来たばかりですが…」
若手の少し不満そうな声。
ミンジェは振り返らないまま、湯気の向こうで一度だけ間を置く。
「少しでいい」
有無を言わさぬ声のトーン。
若手は一瞬止まるが、深くは考えない。
「……わかりました」
シャワーを止める音。 水滴の音が少しだけ変わる。
「先に外出てます」
そう言って、若手は洗い場から出ていく。
扉が閉まる乾いた音。
ジミンはホッと息を継ぐ。
人の気配が遠ざかるのを待って、慌てて脱衣所に出た。
浴衣を乱雑に帯で止めて急いで外に出る。
外に出た瞬間、早朝のひんやりした空気が一気に肌を刺した。
浴衣の合わせがきちんと整う前に、ジミンはそのまま立ち止まる。
頬はまだ温泉の熱を引きずっているのに、空気だけが異様に冷たい。
(今の、なんだったの…)
そのとき少し離れた場所で、声がした。
「金鱗湖はこの先だ」
「はい、課長」
ミンジェと若手の会話。
二人はすでに並んで歩き出している。
何事もなかったみたいに、自然な足取りで薄暗い石畳の道を消えていく。
ジミンはその場に立ったまま、それを見送ることしかできない。
ただ、さっきまでの湯気の熱と、触れあった背中の感触だけが、うまく切り離せないまま頭の中に残っている。
整えようとしても、順番がぐちゃぐちゃのまま戻らない。




