89 衝突
「入るわね」声をかけて部屋に入ると、フリードはマーサに背を向けて机に座り、教科書を開いて勉強していた。
マーサはフリードがこちらを向くのを待ったが、教科書に目を落としたままで振り向く気配が無い為そのまま話し出した。
「フリード。学院に入ってひと月経ったけど、あなたがどんどん無口になっていくから、学院で嫌な目に遭っているんじゃないか心配なの」
フリードからの返事は無いまま、マーサは話し続けた。
「入学前に私が話したこの家の噂の事だけど…」
すると突然フリードは、机をバンっと大きな音を立てて叩いた。その衝撃で倒れたインク瓶に満たされていたインクが飛び散り、ノートも机も床も、フリード自身も黒い色に染まった。
「フリード⁈」
「噂じゃないでしょう」フリードが叫んだ。
「え」
「噂じゃないと言ってるんです。おじい様が若い女性、それも逃げ場の無い弱い女性を妻にして、どんどん死なせているっていうのは事実ですよね」
やっとマーサを見たフリードは涙を流し、憤怒で顔を赤く染めていた。
「あの女性、いつも朝食の時だけ給仕をしているあの女性が、今の妻なんですよね」
「何故、それを」マーサの返事を聞いたフリードは「やっぱり母上も知ってて、放置していたんだ」と声を振り絞った。
「僕には噂と言いながら、全て真実だと知っていたんですよね。
母上は同じ女性として、彼女達の事を可哀想だと思わないんですか。おじい様を諫めようとはしないんですか」
(ああ。見ない様にしてきた私の良心が、目をこじ開けて直視しろと言っている)
マーサはフリードの言葉と姿に大きく衝撃を受けていたが、自分でも何度も考えてきたこの問いに、何度も考えてきた答えを返すより他は無かった。
「フリード。私はこの家に嫁いできてからずっと、彼女達を可哀想だとは思ってるわ。でも、私も彼女達と変わらないの。何も知らずに嫁いで来て、あなたがお腹に宿るまで、いつ殺されるか分からないと怯えていた」
「嘘だ。母上はあの人みたいに、使用人の仕事はしないで済んでいるじゃないですか」
「…ええ。確かに貴族である私には、下働きの仕事は与えられていないわ。でもね、私のしている刺繍や編み物は、全てお義父様とフランクから与えられた仕事よ。嫁いでからずっと仕事としてやらされてきたわ。私が作った物が、この邸のどこにも無いのをあなたは気づかなかった?
出来上がった物は売られているから、何も残っていないのよ。彼女達と仕事の内容は違うけれど、働かされているのは同じよ」
フリードは今まで母の趣味だと思っていた刺繍や編み物が、労働だったと初めて知って動揺したが、尚も言い募った。
「それだけじゃないです。ね、閨っていう仕事も彼女はしているんでしょう。おじい様に強制されて!」フリードが真っ赤になり、閨が何かを漠然と理解している様子を見てマーサはため息をついた。
「あなたが誰に何を聞いて、閨についてどこまで知っているのか分からないけれど、彼女がおじい様としている閨の仕事は、私もしてきた仕事よ。それは貴族女性として当たり前の仕事だわ。貴族には跡取りが必要で、あの人達は子どもが欲しいのだもの」
「でも!母上は暴力を振るわれていないでしょう」
「今はね。だけど最初は毎日打たれていた。あなたを身ごもり産んで、乳母のミシェルの目もあってほとんど無くなったけれど、今だって、もしおじい様とお父様に口答えをすれば、すぐに打たれるでしょうね」
「でも!母上は彼女の事を助けてやろうとしない」フリードの声はだんだん弱く、小さくなった。
「私がかばっても、どうにもならないと知っているからよ。二人揃って打たれて、下手したら殺されて終わるだけ。私はね、フリード。嫁いですぐはあがいたわ。だけどある出来事があってから、目的を達成するまでは生き残ろうと決めた。あなたが生まれてからは、尚更生き残らなければならなかった。そうしないと、あなたを守れなかったから」
「僕を守るって。一体何からですか。僕は今、学院でひどい目に遭っているけど、誰も守ってくれないじゃないか」遂にフリードは、自分の学院生活が悲惨なものだと告白した。
「そうならなければ良いと願ったけれど、あなたが学院に行けば、この家のせいで周囲から攻撃されるのは予想してた。だから前もって噂があるのを教えて、嫌な思いをする可能性を覚悟しておいて貰おうと思った。私が学院でのあなたを守る手段は、その位しか思いつかなかったから。
フリード、今は本当に辛いと思うけれど、これにはあなたが学院を卒業するまでという期限がある。そしてあなたが立派な当主になって、この家の悪い行いを断てば、噂はやがて無くなる。気休めだと思うでしょうけど、それは事実よ。だから期限を迎えるまで、何とか耐えて欲しい。
私は、あなたの魂を守ろうと思ってきたの。あなたの魂が汚れてしまったら、それを治すのは女神様にも難しいから。あなたまで悪に染まったら、この家はいつまでも浄化されないままよ。
だからミシェルと二人、この家の悪に染まらない強い心の人間になる様にと、あなたを育てたのよ」
「生き残って達成したい母上の目的って、一体何ですか」
「それはあなたには言えない。でも、あなたが正しい人間に育ってくれなければ、不可能な事よ」マーサはフリードに近づいて、汚れても構わずインクまみれになった手を握った。
「フリード。あなたは学院で孤立してしまっているのね。あなたの父上、フランクもそうだったみたい。おじい様のせいで学院で友達も出来ず、ずっと図書室で本を読んでいたんだわ。
フランクは、元はまともな人だったのかもしれないけれど、自分が幼い頃から痛めつけられてきて、もう正しさを忘れてしまったの。そうして自分も、言う事をきかない相手には暴力を振るう様になってしまった。私は、あなたをそういう風に育てたくなかった」
「父上は、今、おじい様の妻のあの人を打っていると聞いています。自分の鬱憤を晴らすために、そうしてるんです。…だけど僕も、それを知っても何も出来ないでいる」
「分かったわ。それは私が何とかする。だからあなたは、自分の事だけを考えなさい。自分の心を守って、他人の為に怒れる真っすぐな心を失わない様に努めなさい。学院で何かあったら、私でも、ジャスパー先生にでも、相談なさい。あの先生は、フランクの事も見ていてくれたようだから、きっと力になってくれる」
「はい。僕にも何かと声をかけてくれます。図書室に行くと良いって、教えてくれました。あそこは私語厳禁だから、余計な事を言われないからって」
「そう。でもフリード。あなたはどうしてそんなに早く、この家の内情を詳しく知ったの」
「クラスの男爵家の子息が」
「ええ」
「自分の父親がメイドに産ませた異母姉が、カラバン子爵家当主に売られたと、僕に言ったんです」フリードはその時の事を思い出したのか、顔を歪めた。
「その異母姉って」
「はい。今おじい様の妻になっている、あの女性です。僕はその子息に頼まれて、あの女性との手紙のやり取りを手伝っています。彼は異母姉と仲が良かったそうで、父親の事も、おじい様の事も恨んでいます。でも異母姉が売られた原因が、自分の学院費用を捻出する為と知って、自分を一番恨んでいます」
「でもそれは、フリードのせいではないじゃない。元はと言えば、その子の父親が一番悪いでしょう。それなのに、どうしてあなたが学院で孤立してるの」
「彼は最初すごく感情的になっていて、クラスの皆が聞いている中でその話をして、僕を詰ったんです。パルマ男爵家のカールも、両親からカラバン子爵家と付き合うと評判を落とすと注意を受けたので、僕とはもう話せないと言いました。親からそう言われている子は他にもいて、何も知らなかった生徒も、僕と目も合わせなくなりました」
「フリード、あなたを辛い目に遭わせて本当にごめんなさい。私がもっと力のある家の娘なら、嫁いですぐに逆らう事も出来ただろうに、私には力が無かった。…もっとも、力のある家の娘なら、この家に嫁ぐことは無かったのだけどね」
マーサが力なく笑うと、フリードは泣きながら謝った。
「母上。ごめんなさい。本当は母上にはどうにもならない事だったと、分かっていたんです。ただ、僕は何も知らなくて。どうして教えてくれなかったのかと思ったけど、知った所で何も出来なかった。今だって、僕ならもしかしたらおじい様を諫められるのかもしれないと思いながら、真実を知ったらおじい様が怖くなって…。黙り込んでいるしか出来なかったんです」
マーサはフリードを抱きしめた。
「大丈夫よ、フリード。あなたはどうにか学院を卒業するまで頑張って、今のあなたのままでいて頂戴。そうしたら、母が必ずどうにかしますから」
マーサは、フリードが学院を卒業して当主に就ける年齢になったら、計画を実行して不幸な妻達を解放しようと決めて生きていた。
それまでは自分の出来る限りでフリードを守り、フリードに正しい人間である事を捨てさせずにいようと思っていた。
(その時が来たら、私があの二人をどうにかして始末する。そして新しいカラバン子爵家を、フリードに引き継いでもらい、不幸の連鎖を断ち切るんだ)
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