59 霧雨の朝
結局その夜、ローズはエリナに『ベルフリーデから離れる』と約束する事は出来なかった。ただ「よく気を付けるようにする」とだけ答え、エリナの悲し気な視線を避ける様に自室に引き上げた。
(ベルをおかしくさせていた魔力は、トムのお母さんの蝕まれていた魔力と同じ黒い魔力だった。お母さんが聖女だったなんて思ってもみなかったけど、お母さんの浄化の指示が無ければ、私はベルを正気に戻せなかった。お母さんは間違いなく聖女だったんだわ…。
でも、もう今日はいろんな事があり過ぎて、これ以上考えたくない。
こういう時はあれこれ考えずに、寝てしまった方が良い。明日になって太陽が昇って、おはようを言って朝ごはんを食べて、神殿でベルに会って挨拶すれば、いつもと同じ日が始まるに違いないわ)
ローズはベッドに横たわると枕に頬をつけ、目を閉じた。
そのまま眠れるかと思ったのに、もう一つ引っかかるものが頭をよぎった。
(さっきお母さんが私の手を握って額に付けた時、前にも誰かにそうされた事がある気がしたわ。その人も私に何かを願っていた…そうだ、黒いくせ毛の人だった。あの人は誰だろう。私の知り合いにそんな人はいないのに、なんだか懐かしいのはどうして)
思い出せない誰かを探っているうち、ローズはいつの間にか眠りについた。
飾り棚にあるダリアの花と、机の上に置いた白い飴細工のダリア。二つの花が、ほんのりと差し込む月の光に照らされ光っていた。
翌日の天気はローズの期待を裏切って、朝起きた時から細かい雨が降っていた。街を灰色にして、傘を差しても合羽を着ても身体が湿っていくような霧雨が、街をすっぽり包んでいた。
昨夜の祭りの疲れと重苦しい話し合いの名残が、どんより暗い空の色も手伝って三人の口数を少なくさせ、いつになく朝食の席は静かだった。
今日の卵料理はハーフボイルドで、トーストの上に載せたそれにフォークを入れると、黄身が流れ出して親指に付き、ローズは情けない気持ちになった。
エリナは昨夜の話を、もう一言も持ち出さなかった。一見いつも通りに見えるがうわの空で、ローズが塩を取って欲しいと頼んでも気づかずに、隣のリアムが腕を伸ばして渡してくれた。
(まるで霧雨の中にこの家が包まれて、水の底に沈んでいるみたい)
もやもやする気持ちを吹き飛ばしたくて、ローズはリアムと一緒に家を出る時、いつもより大きな声で「行ってきます」と言ったが、「行ってらっしゃい」と答えるエリナの声は小さく、よく聞き取れなかった。
今日は雨なので、エリナの見送りもない。
「お祭りが雨じゃなくて良かったね、お父さん」話しながら歩いて行くと、沢山の華やかだったダリアの花がすっかり萎れているのが目に入って、憂鬱な気持ちの晴れないまま大通りの分かれ道までやって来た。
いつもの様に「それじゃあ、お互い頑張ろうね」と言って左右に分かれようとしたローズは、リアムが気づかわし気にローズを見ているのに気づいた。
「どうかした?お父さん。頑張り過ぎないように頑張るから大丈夫だよ」
少しおどけて言うとリアムがローズの手を取り、「お前は俺たちの自慢の大切な娘だ。何があってもそれは変わらない」と、突然言った。
「どうしたの、急に」ローズは訳が分からなかったが、昨日の話に関係しているのかもと思い「ちゃんと、気を付ける様にするから。離れるって約束できなくて、心配させちゃってごめんね」と答えた。
リアムは「いいさ。親は子どもの心配を出来る方が幸せだ」と微笑んで手を離すと「それじゃあ、頑張り過ぎないようにな」と右に歩いて行った。その姿を霧雨が包んで、すぐに見えなくなった。
石畳の道を左に進んでも、いつもローズを清浄な気持ちにさせる神殿の姿は、今日は雨に隠され見えて来ない。
いつの間にか足元だけを見て歩いていたら、ドンと何かにぶつかってカバンを放り出してしまった。
「ごめんなさい、前を見ていなくて」慌ててぶつかった相手に謝ると「大丈夫ですか。こちらこそ済みません」という女性の声がして、ローズのカバンを差し出してくれた。「ありがとうございます」ローズはカバンを受け取り、礼を言って相手の顔を見た。
「あ、あなたは」そこにいた女性は昨日神殿で治癒を施したトムの母親で、昨日より大分顔色も良く、元気そうな様子だった。
「昨日は、ありがとうございました」女性もローズに気づいて、微笑みながら礼を言った。
「おかげで、あれからずいぶん楽になりました」
「それは良かったです。今日は神殿にトムさんに会いにいらしたんですか」
「はい。久しぶりに気分が良くて、お弁当を作ったので届けに参りました」
「じゃあ一緒に行きましょう」
ローズはケイトと名乗ったトムの母親と一緒に、神殿へ入って行った。
「ここで少し待っていてください。トムさんを探してきます」
ケイトを参拝者の為の椅子へ座らせて、ローズはトムを探しに行った。神官の仕事は多岐に渡り、神殿は内部が入り組んでいるので、ケイトが自力で探すのは難しい。中には一般人の入れない場所もあるので、ローズがトムを連れて来るのが一番良い方法だった。奥を見る前に荷物を置いていこうと控室に入ると、そこには既にベルフリーデがいた。
「おはよう、ベル」すこし緊張しながら挨拶をするローズに、ベルフリーデはいつものように「おはよう」と挨拶を返して、済まなそうに話し始めた。
「昨日は途中で気分が悪くなっちゃって先に帰ったの。心配かけてごめんなさい。飴屋の列の事でも、ローズに迷惑をかけてしまったわね。あの時はすごく変な気持ちになっていたの。他にも何かしてなければ良いんだけど」
それを聞いて安心したローズは、昨日ベルの為にと買っておいたピンクのダリアを取り出した。
「良いのよ。お祭りは楽しいけど人が大勢いて混んでいるし、疲れて怒りっぽくなる事は誰にでもあるわ。そう言えばあの後、飴をもう一度買いに行ったの。
これ、ベルの分。ダリアが良いって言っていたけど、色を聞いてなかったから、ベルが好きなピンク色にしてもらった」
「わあ、綺麗ね。ありがとう、ローズ」
「そういえば飴屋のおじさんが、来年は一緒に来て顔を見せて欲しいって言っていたわ。だから来年こそ二人でお祭りに行って、飴を買いに行きましょうよ」
「そうね。来年行く事があれば、一緒に行きましょう。でもきっとあの飴屋は、あなただけ来れば良いんだと思うわ。私じゃ顔を見せても仕方ないわよ」
またもおかしな事を言い出したベルにローズは背筋が冷たくなり、エリナに言われた通り浄化をかけると、ベルはふっと息を吐いて静かになった。
ローズは殊更明るい声を出して「ちょっと用があるから、先に行ってて。私も用が済んだらすぐに広間に向かうから」と言い控室を出た。
頭の中にエリナが言っていた『ベルフリーデの黒い魔力は、おそらくあなたに向かってる』という言葉がよみがえり、心臓がバクバクして得体の知れない恐怖が生まれた。
しかし、とにかくまずはトムを探してケイトの所に連れて行かなければと、ローズは急いで神殿の奥に向かった。
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