46 メイド長シモーヌの話
弱々しい口調で「お呼びでしょうか」と現れたメイド長のシモーヌはひどくやつれていて、トーマスはそんな彼女の姿を見て驚いた。
(俺が家の中を気にかけなかった間、彼女に何があったんだ)
彼女は元々カミラが実家から連れてきたメイドの一人で、カミラを淑女の中の淑女だと賞賛していた。そんな女主人に信頼される自分に自信を持っていて、そのせいで時に傲慢な振る舞いで周囲を辟易させる事もあった。
ローズが妾になった事情を知らない彼女はカミラに同情し、トーマスに対しては慇懃無礼な態度で不満を表してきたし、ローズに対しては存在しない者として扱い、無視できない時は格下の相手として軽蔑を隠さなかった。トーマスはそんな彼女の態度を良しとしなかったので、カミラにメイド長を別な者に替える提案をしたが、カミラは『家の中の事は私の権限よ。口出ししないで』と聞き入れなかった。
そんなカミラの擁護を笠に着て、常に偉そうな態度を崩さずにいたシモーヌなのに、今目の前に現れた彼女は萎れ切って今にも枯れそうな植物の様に見えた。
「シモーヌ。ずいぶん顔色が悪いが、体調は大丈夫なのか」あまりにもやつれた様子に、トーマスが彼女への嫌悪を忘れて気遣う言葉をかけると「はい。私は大丈夫です。お聞きになりたい事とは、どんな事でしょうか」シモーヌは早口で答えて、何かを警戒するように二人を見た。
アランはトーマスの隣で黙って話を聞いているので、まずトーマスが彼女に質問した。
「カミラとクラウスの事なんだ。お前も知っている通り俺は長い間、家の中の事に関知していなかった。その間、特にクラウスが生まれてから、カミラはどんな風に過ごしていた?
あの子の面倒をカミラがほぼ全て見て、家政をなおざりにしていると聞いたが、それは本当なのか」
シモーヌはトーマスの質問に悔しそうに唇を噛んだ。彼女は自分が敬愛する女主人の愚行を認めてはいたが、その原因を作ったと信じている男に対し、現在起こっている問題を打ち明けたくないない気持ちがあった。
「シモーヌ。君がここで何か話しても、カミラを裏切った事にはならないよ。むしろ彼女を助ける事になると思って、本当の事を言ってくれないか」しかし女主人が心酔していたアランにも声をかけられ、シモーヌはやっと重い口を開いた。
「おっしゃる通り、カミラ様はほとんどの時間クラウス様とご一緒に過ごされています。私も最近はめったにお姿を拝見する事はありません」
本当はめったにではなく全くなのだが、尚もシモーヌは虚勢を張っていた。
しかしそれを聞いたトーマスが「そうだったのか。女主人が役割を果たしていなくてもこの家が回っていたのは、シモーヌが代わって頑張ってくれていたんだな。さぞ大変だったろう。知らなかったとはいえ申し訳なかった」と謝罪し、アランも「家の中の事は、女主人が決定権を持つからね。君はカミラの承認が得られない中で、無理をしてやりくりしているんじゃないか」と気遣ってくれた事で、シモーヌの心の壁が崩れた。
「私は…」ここ数カ月間神経をすり減らし、信じていた女主人に顧みられなかった辛さが溢れ出て、思わず涙を浮かべてシモーヌは話し始めた。
「おっしゃられた通り、カミラ様の協力無しで何とか家政を進めようとしてきました。カミラ様は、私がお声がけしても、以前の様に応えては下さいません。カミラ様に相談して進めなければならない事ばかりなのに、坊ちゃまの事以外何も関心を示されないのです。
坊ちゃまの世話は乳母に任せて家政を見て下さるよう進言しましたが、お聞き入れ下さいませんでした。どうしても必要な物資の購入などは、私が時に越権とは分かっていても、承認して手配してしまっています」シモーヌは「申し訳ございません」と言って頭を下げた。
高慢な点は難があるが、本来は真面目で融通の利かない性格のシモーヌにとって、この不正ともいえる行為は非常に後ろめたく、苦痛だった事がうかがえた。
「それは君のせいでは無いよ。そうだね、トーマス」
「ああ。私とカミラがきちんと家の事を顧みなくて、君に苦労をかけて済まなかった」そう言う二人にシモーヌは、力が抜けた様子で「ありがとうございます」と礼を言った。
「旦那様。奥様は、以前の奥様ではなくなってしまいました。旦那様もご存知の通り、奥様はご自分の義務に大変厳格な方で、感情のままに振る舞う事などありませんでした。ご実家のウィルソン伯爵家でも、五歳を過ぎた頃からは、まるで大人の淑女の様に振る舞っていらっしゃいました」
「そうだな。俺も婚約した頃から、カミラは常に感情を抑えて義務を果たす、そういう女性だと思ってきた」
「それが今は周囲の事を気にかけないでお部屋にこもり、坊ちゃまとずっと何かお話になっているんです」
「話すって? クラウスはまだ三ケ月だろう。カミラが絵本でも読んでやっているのが、そう聞こえたんじゃないのかい」アランが驚くと、シモーヌは首を横に振った。
「私も最初お部屋から奥様の声だけが聞こえている時、そう思っていました。
けれどお部屋をノックしてもお返事が無かった時、急ぎの用事があってドアを少し開けてのぞいてしまった事があったんです」
シモーヌは「いけないとは思いましたが、どうしても奥様の判断が必要だったので」と申し訳なさそうにして話を続けた。
「奥様は、坊ちゃまに本など読んでおられませんでした。ただ膝に寝かせた坊ちゃまに向かって、『そうよね、クラウス』『あなたはどう思う』『でもどうせあの二人はシュタイン家を離れるから』などと話していました。坊ちゃまの声はしませんでしたが、何か答えている様な間もあって、私は見てはいけないものを見た気がしてドアを閉めて逃げました」
トーマスはその異様な光景を想像しゾッとしたが、シモーヌの語った内容に引っかかりを覚えて聞き返した。
「あの二人はシュタイン家を出る、とそう言っていたのかい」
「はい。二人が誰を指すか、具体的に名前はおっしゃっていませんでしたが、とても楽しそうでした。あの、もしかしたら、ローズ様とレイモンド様の事かもしれません」
トーマスが「何でそう思うんだ」と聞き返すと「クラウスが跡継ぎなのは決まっているから大丈夫、ともおっしゃられていたので…。でも赤ん坊にそんな話をされるとは信じられなくて、聞き間違いだと思う様にしていたんです。
旦那様。私はカミラ様の事が分からなくなりました。家の事をこれ以上独断で処理するのも、無理です」
アランが「トーマス、ともかく今カミラには女主人の役割は期待できない。シモーヌに権限を渡す事に決めた方が良い」と言い、トーマスもうなずいた。
「シモーヌ。さらに苦労をかけて申し訳ないが、女主人の権限を君に任せたい。家令にも伝えておくから、今後は君が主となって家の中の事を回してくれないか。困った事があれば、俺でも家令にでも、いつでも言ってくれて構わない。後でこの埋め合わせはきっとする」
シモーヌは顔を上げて「分かりました。精一杯務めさせて頂きます」と答えた。
「それと、これは乳母にもご確認頂きたいのですが」とためらい勝ちに言うと「大変失礼だと思いますが、クラウス様は、どこか普通の赤ん坊とは違う気がするんです。それと言うのも私はクラウス様が泣いたり、大きな声を上げているのを聞いた事がありません。カミラ様が話し続けている間も、全く声を出しませんでした。それに…」
「それに、何だい。遠慮なく言って欲しい」
「クラウス様はカミラ様から乳を貰っているのでしょうか。カミラ様は乳母を入浴の時だけしか呼びませんが、貴婦人は普通授乳などなさいません。
慣例と違ってカミラ様がクラウス様に乳を与えているにしても、何故いきなりそんな事を始められたのか不思議でならないんです。自分で授乳をするのが普通な平民でも、最初から上手に乳を与えられるものでもないのに、貴族であるカミラ様が乳母や産婆にやり方を教わった形跡もありません。それに赤子がお腹いっぱいになる、十分な量の乳が出るとも限らないです」
それを聞いて、その手の事はまるで分からないトーマスもアランも困惑した。
「分かった。そう言う事は私達には分からないから、この後乳母を呼んで聞いてみるよ」トーマスは約束し、今後の家政をくれぐれもよろしく頼むと送り出した。
家令のオリバーはトーマスから、今後シモーヌに家政の権限を渡すと聞くと安堵した。
「それはようございました。貴族家へ社交の手紙を出すなどはカミラ様しかお出来になりませんが、家の中の事ならシモーヌが心得ておりますので。私も、シモーヌが憔悴している事は分かっていたのですが、何分彼女は奥様を庇って大丈夫だというばかりでしたので…」
「そうか。これからは遠慮せず何でも言う様に伝えた。オリバーも、気づいた事があれば言って欲しい」
「かしこまりました。それでは、もう坊ちゃまの入浴も終わったでしょうし、乳母を呼んで参ります」
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