47 記憶を失くした乳母の話
「トーマス様。乳母を連れて参りました」
家令に促され前に進み出た乳母は、何か視線の定まらない顔で一礼すると、黙ってその場に立ち尽くした。その様子を気にしながら家令が下がると、トーマスは口を開いた。
「いつもクラウスの世話をしてくれてありがとう。今日は少し話が聞きたいと思い、来て貰った」
乳母が声も発さず曖昧にうなずいたのを見て、トーマスは「クラウスに乳を与えるのは、君が行っているのかな。それともカミラが?」と思い切って尋ねた。聞きづらい話でためらいがあったが、シモーヌの話を聞いた後では、はっきり確かめる以外の選択は無かった。
それを聞いた乳母は、突然たかt満面の笑みを浮かべた。
「はい。私でございます。それが私の役目ですから。クラウス坊ちゃまは本当にお乳をよく飲む良い子で、全く手がかからないんですよ」はっきりした口調で答えたかと思うと、また元の様に無表情に黙り込む。
「そ、そうか。それは良かった」まるで仕込まれた台詞を口にする人形の様だと、トーマスは不気味な乳母の態度に動揺した。
「何だか様子が変じゃないか」アランが囁いてきた。
「以前顔合わせをした時は、こんな風じゃ無かったんだが」トーマスがそれ以上質問するのをためらっていると、アランがつと立ち上がり、何かを持って乳母に歩み寄った。
伯爵であるアランが至近距離まで近づいても、乳母は全く動揺を示さず、その異常さがはっきりと表れていた。
「これを君にあげよう」アランが何かを差し出して、それを機械的に受け取った途端、乳母は突然目をむいて背中から倒れそうになった。
「大丈夫か⁈」トーマスは慌てたが、それを予想していたアランが素早く倒れる身体を抱き止めたので、乳母は床に打ち付けられずに済んだ。
「気を失っている」顔をのぞき込んでつぶやくと、アランはその手を開いて、さっき渡したものをトーマスに見せた。
「マーガレットの魔法を籠めたハンカチだよ。この人は恐らく操られていたんだろう。長い期間操られていたのが突然解けたから、気を失う程のショックを受けた可能性が高い。目を覚まして正気に戻ってから話を聞こう」
トーマスは家令に頼んで下男を呼んでもらい、乳母を部屋まで運ばせた。家令には、乳母の目が覚めたら連絡をくれる様に頼んでおいた。
一連の様子を見たトーマスは、あの乳母がクラウスの世話をして、乳を飲ませていた訳が無いという思いを強くした。レイモンドが生まれた時ローズは乳母を付けなかったので、離れにトーマスが訪ねて行くと必ずレイモンドと一緒にいて注意を払っていた。そして数時間に一度、時にはもっと多い頻度でレイモンドがむずかり泣くと、その度ローズはレイモンドを抱いて別室に移り、乳を与えていたのを思い出したからだ。
(あの時はそう言う事は自然に出来るのだと思っていたが、今考えるとローズが元は平民だったから出来た事だったのかもしれないな)
アランも「マーガレットは基本的に乳母に任せているが、ステファンだって赤子の頃は頻繁に泣いていたさ。二歳を過ぎた今だって、何かというと甘えて泣くよ」とその姿を思い出して笑った。
「やはり、こんなに長い間声も聞こえず、乳も欲しがらないのはおかしいよな。全ての世話を貴族のカミラがこなせるとも思えんし」
じゃあ、今までいったいクラウスはどう過ごしていたんだ…と考えた時、トーマスの頭には嫌な想像が浮かんだ。
「なあ、アラン。クラウスは本当に俺の子…いや、人の子なのかな」
恐ろしい疑問を遂に口にしたトーマスの肩を叩き、アランは「それは乳母が目覚めて話を聞いてからゆっくり考えよう。トーマス、俺がこの前言った悪魔の話は覚えてるか」
「ああ。マーガレットの実家に、悪魔に関する文献が残っている話だろう」
「そうだ。実はこの間フロスト子爵家に嫡男が誕生して、その祝いに行った時文献を見せて貰った」
「そうか。祝いに行ったのに、面倒な事をしてくれてありがとう。確かマーガレットの弟は、昨年子爵を継いだばかりだったな。息子が生まれたのか」
「ああ。家中が浮き立って幸せそうだったよ。皆赤子に夢中になっていたから、俺はゆっくり書庫を見させてもらえたよ。書庫に悪魔に関する本は古い物が数冊あるだけだったが、興味深い事が色々書いてあった。乳母に話を聞いたら、それについても話すよ」
やがて家令から乳母が目覚めて身支度が整ったと連絡が入り、二人は乳母の体調を気遣って彼女の部屋まで出向いた。
使用人部屋の一室に住んでいる乳母は、伯爵が二人も自分の部屋に赴いた事に、可哀想な位恐縮していた。
「伯爵様の前で倒れてしまったそうで、大変な失礼をしました。お許し下さい」
その様子を見ると、さっきアランがあれ程近寄っても全く動じなかった姿は、やはり異常だったのだと分かった。
「そんな事は気にしないで良い。体調はどうだ。意識ははっきりしているか」
トーマスの質問に「はい。頭はすっきりしています」と答えてから、乳母は必死に「あのう、坊ちゃまは今どうされていますか。さっき産湯を使われたばかりなのに、授乳の途中から意識が無くなってしまって…。本当に申し訳ございませんでした。これからはきちんとしますから、どうぞこのまま乳母として働かせて下さい」と訴えてきた。
何かおかしいと思いよく話を聞いてみると、乳母は初めて生まれたばかりのクラウスを抱いて、乳を与えようとしたところから記憶が無かった。その為乳母は、自分が対面したばかりの赤子を放り出し気絶したのだと思い込み、目が覚めた途端解雇されると思って怯えていたのだった。
「私は家に生まれたばかりの娘がいて乳が出るので、こうして乳母に選んで頂けましたが、ここを辞めさせられると家族の生活が苦しくなるんです。どうかこのまま働かせてください」訴える彼女に「お前はここに来て三ケ月経っていて、その間きちんと仕事をこなしていた」と言っても、当然信じる訳が無かった。そうして話している内に、トーマスは乳母がこの三ケ月家に全く連絡をしていなかった事を知り、家族と生まれたばかりの娘の事が心配になってきた。
そこで乳母に解雇する事はないと言い聞かせ、家令に言って三ケ月分の給金にさらに一月分を上乗せした金額を渡すと、ひとまず下男を供に付け家まで送らせた。
乳母を送って戻った下男が言うには、やはり家族はずっと音沙汰の無い彼女を案じ、不敬を覚悟で伯爵邸へ押しかけようと話しているところだったらしい。
生活も相当苦しかったようで、乳母に持たせた給金を見て、家族全員胸をなで下ろしていたと語った。
「オリバーさんに言われた通り、こちらが使いを送るまでは家でゆっくり過ごして良いと伝えました。乳母は本当に三か月間の記憶が無いらしく、自分の娘が大きくなった姿を見てショックを受けていました。俺にも、本当に自分は伯爵邸で働いていたのかと聞いてきたので、直に話した事はないが毎日姿は見かけたと答えたら、また倒れそうになっていました」
トーマスは家令に「シモーヌと話して、半月ほど経ったら乳母以外の職で雇ってやってくれ」と命じた。
「アラン。やはり乳母はクラウスに乳もやっていないし、入浴以外の世話もしていなさそうだ。…それにしても、何故入浴だけはさせていたんだろう?」
「他の人間に、カミラとクラウスの奇妙さを気づかれない為だろう。一日に一度必ず部屋の外に出るから、元気でいる姿を皆に見せられるし」
「そう言う事か。確かにカミラと直接やり取りする必要のあるシモーヌ以外、誰も疑う者はいなかった。他に唯一気づけたはずの俺は、自分の事と、ローズやレイモンドの事で手一杯で、クラウスに会った事は数える程しかなかった。いくらカミラが俺を拒否していたからと言って、放って置き過ぎた。自分が情けないよ」
「しかしトーマス。もし君がカミラとクラウスに強引に近づこうとしたら、きっと君もあの乳母の様に操られていただろう。今となっては近寄らずにいて良かったのかもしれない。さっきの話の続きをしよう。悪魔についての話だ」
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