第十章 関東管領の影 第10-2話 廊下の二人
長尾 政景が春日山城に来た。
憲政の件で景虎と話し合うためだった。
仙桃院も一緒だった。
才助が「また政景様が来ましたよ」と言った。声に微妙な色があった。
「何かあったのか」
「いや、別に。ただ、政景様が来ると城の空気が変わるというか……なんか重くなる気がして」
「関東への出兵の件で、折り合いがついていないのだろう」
「そうですか」
「政景殿は景虎様の方針に、いつも最後はついていくが、すぐにはついていかない。それが今回も続いているのだと思う」
才助が「灯真さんはよくわかりますね」と言った。
「観察しているだけだ」
「俺も観察してるんですけどね。灯真さんほどはわからないです」
「才能の種類が違う。お前は噂を集めるのが得意だ。俺は人の顔を見るのが得意だ」
「そういうもんですかね」
「そういうものだ」
才助が「そうか」と言って、作業に戻った。
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昼過ぎ、灯真は廊下を歩いていた。
記録室から炉場へ向かう道だった。
角の手前で、声が聞こえた。
また、立ち止まった。
こうして廊下の角で立ち止まるのは、この城に来てから何度目になるだろうか。
「政景殿は……ご納得されていますか」
直江の声だった。
いつもより低かった。
家老として話している声ではなく——もう少し個人的な場所から出てきている声だった。
「景虎のすることに、最終的にはついていく人ですから」
仙桃院だった。
落ち着いた声だった。
「……関東への出兵となれば、政景殿にも負担がかかります。上田長尾家としての——」
「わかっています」
仙桃院が静かに遮った。
遮り方が、柔らかかった。
怒っているのではなく、話の向きを変えているような遮り方だった。
「政景は文句を言いながら、結局動く人です。直江殿もよくご存じでしょう」
直江が何か言おうとした。
一呼吸ほどの間があった。
言わなかった。
「……はい」
短い返答だった。
「直江殿も、同じでしょう」
仙桃院が言った。
「……某は家老です」
直江の声が、少し硬くなった。
感情を封じるような、硬さだった。
「そうですね」
仙桃院が言った。
微笑んでいる声だった。
それ以上、何も言わなかった。
廊下に静けさが戻った。
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灯真は角を曲がれなかった。
この会話に含まれているものを——感じていた。
言葉にはなっていない何かが、二人の間にあった。
「某は家老です」という直江の答え。
その答えの意味を、仙桃院は「そうですね」の一言で受け取った。
受け取って、終わりにした。
そこにあるものを、掘り返さなかった。
二人ともわかっている。わかっていて、言わない。
言わないことで、何かを守っている。
(直江殿は、何を守っているのか)
景虎の秘密を守っている。
それはわかっていた。
しかし今日の廊下の声は——秘密を守っている声ではなかった。
もっと別の、もっと個人的な何かを、あの声は持っていた。
「仙桃院、どこにいる」
廊下の向こうから政景の声がした。
太い、よく通る声だった。
「ここよ」
仙桃院が答えた。
声が少し明るくなった。
夫の声に応える声に変わった。
足音が来た。
仙桃院が歩いていった。
政景の声がした。「遅い。何をしていた」
「直江殿と少し話していました」
「直江と? 何を話した」
「関東の件です」
「……また景虎の肩を持つのか、あなたは」
「あなたも最後は同じでしょう」
「それはそうだが——」
声が遠ざかっていった。
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廊下に、直江が一人残った。
灯真は角を曲がった。
直江が振り返った。
目が合った。
どちらも何も言わなかった。
直江の目に、何かがあった。
怒りではなかった。悲しみでもなかった。
ただ——長い時間をかけて、何かを積み重ねてきた人間の目だった。
灯真はその目を、少しの間、見た。
直江も灯真を見た。
見ながら、何かを確認しているようだった。
直江が先に歩き出した。
灯真は直江の背中を見ながら思った。
直江殿も、守っているものがある。
景虎の秘密だけではない。
もっと別の——柔らかいものを。
長い年月の中で形になった、言葉にできない何かを。
廊下の角を直江が曲がった。
足音が消えた。
灯真はしばらく、廊下に一人で立っていた。
才助が向こうから歩いてきた。
「灯真さん、何してるんですか、こんなところで」
「少し考えていた」
「何を」
「……人の守り方について」
才助が「難しいことを考えてますね」と言った。
「そうでもない」
「そうですか?」
「守っているものがある人の顔は、わかりやすい」
才助が「そうなんですか」と首を傾けた。
「どんな顔ですか」
「……少し、疲れている顔だ。でも諦めていない顔だ」
才助がしばらく考えた。
「……それって、灯真さんの顔でもありますよね」
灯真は才助を見た。
才助が「あ、余計なこと言いましたか」と縮んだ。
「……いや」
灯真は炉場へ向かって歩き出した。
才助が「あ、待ってください」と後ろからついてきた。




