第十章 関東管領の影 第10-1話 敗残の貴族
天文21〜22年(1552〜1553年)秋冬
秋の終わりだった。
越後の山に、初雪が見え始めた頃だった。
才助が炉場に入ってきて「灯真さん、城門の外が騒がしいですよ」と言った。
「何があった」
「関東から人が来たみたいで。旗を見た人が言ってました。上杉の旗だって」
「上杉の」
灯真は記録帳を閉じた。
(来た)
才助より先に、静かに思った。
「見に行きますか」と才助が聞いた。
「行く」
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城門の外に出ると、一行が到着したばかりだった。
馬が十数頭。供の者が三十人ほど。
しかし数の割に、静かだった。
勝ち戦から帰ってきた軍ではなかった。
馬の足が重かった。供の者たちの背中が、前ではなく下を向いていた。
顔に、長い道を歩いてきた疲れがあった。
しかし疲れだけではなかった。
敗走の色、というものがあるとすれば——こういう顔をしている、と灯真は思った。
先頭の男が馬から降りた。
三十がらみだった。
灯真より少し若い。しかし顔には年齢以上のものが刻まれていた。
上杉 憲政[※関東管領・山内上杉家の当主。北条氏康に関東を追われ、越後の景虎を頼って亡命してくる。後に景虎へ関東管領職と上杉の名跡を譲ることになる人物。この時三十がらみ。]。
関東管領・山内上杉家の当主。
北条 氏康[※後北条家三代目当主。「北条は戦わずして勝つ」という鉄壁の籠城戦術で知られる名将。この時三十五歳。]に上野国平井城を追われ、信濃を経て、雪の前に春日山城へ辿り着いた男だった。
灯真は城門の陰で、その一行を見ていた。
(歴史が、動いた)
静かに、確認した。
知識として知っていた展開が、目の前の現実になった。
これで景虎がいずれ関東管領を継ぐ流れが——確定した。
永禄4年(1561年)、鶴岡八幡宮での儀式。上杉政虎への改名。
それまでの道が、今ここから始まる。
しかし知識として知っていることと、目の前に現れることの間には——思っていた以上の重さがあった。
疲れた一行が城門をくぐっていくのを見ながら、灯真は「歴史というのは、こういう顔をした人間が動かすのか」と思った。
勝った顔ではなかった。
敗れ続けて、それでも諦めていない顔だった。
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その夜、景虎が広間で憲政を迎えた。
灯真は末席で聞いていた。
正式に招かれてはいなかった。しかし宇佐美に「来ていい」と言われていたから、来た。
広間には直江と宇佐美のほか、柿崎と朝信の姿もあった。
憲政が上座の景虎と向き合った。
「景虎殿、頼みたいことがある」
声が疲れていた。
しかし目は、まだ消えていなかった。
関東管領としての誇りが、まだそこにあった。
「関東を取り戻したい。北条に奪われた土地を、我が手に。……力を貸してほしい」
広間が静かになった。
誰も動かなかった。
直江が「景虎様」と低く言った。
その一言に、全部が入っていた。
関東の問題に引き込まれることへの懸念。越後の守りが薄くなる危険。北信濃での武田の動き。今は時期ではない——そういう全部が、「景虎様」の三文字に入っていた。
直江という男は、言葉の少ない男だ。
しかし言葉の少なさの中に、必要なことを全部入れる。
景虎が直江を見た。
直江が続けた。
「越後の兵を関東に向ければ、越後の守りが薄くなります。北信濃でも武田が動いている。今は時期が——」
「義に反することは、せぬ」
景虎が言った。
声が静かだった。
大きくなかった。
しかし広間の全員に、届いた。
誰も続けなかった。
柿崎が何か言いかけて、止まった。
朝信が前を向いたまま、動かなかった。
直江が「……承知いたしました」と言った。
憲政が景虎を見ていた。
何かが、その顔に戻ってきた。
希望、とでも言うべきものが。
景虎は前を向いたまま、動かなかった。
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灯真は手元の記録帳を見ながら思った。
(この流れは止められない)
止める必要も、ない。
これが景虎という人間の在り方だから。
しかし——この決断がどこへ向かうかを、灯真は知っていた。
関東への遠征が始まる。越後の兵が関東に消耗する。それでも景虎は動く。義のために動く。
そしていつか、鶴岡八幡宮で「上杉政虎」という名前を受け取る。
(俺は何をすればいいのか)
答えは、まだ出なかった。
出なくていい、という気もした。
答えを出す前から、やることは決まっていた。
そばにいる。
答えは、もうそこにあった。
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憲政が春日山城の一室に落ち着いた夜、灯真は行灯の前に座っていた。
炎が揺れていた。
(景虎が関東管領になる日が来る)
確信があった。
もう十年も先のことではない、と思った。
歴史が加速し始めていた。
炎を見ながら、灯真は記録帳を開いた。
今日見たことを書いた。
憲政の顔。疲れた一行の背中。広間で「義に反することは、せぬ」と言った景虎の声。
書きながら思った。
あの声に、迷いはなかった。
関東の戦が増える。越後の兵が疲弊する。直江の懸念は正しい。
それでも景虎は、動く。
(そばにいろ)
炎の声が言っていた意味が、また少し重くなった気がした。
そばにいる理由が、また一つ増えた。
炎が揺れていた。
灯真は記録を書き続けた。




