第九章 塩の道 第9-4話 来年もここにいるか
工事が始まった。
弥助が職人たちを束ねて、塩田の区画を少しずつ直していった。
怒鳴りながら、丁寧に、確実に。
灯真は設計の確認をしながら、弥助の指示を聞いていた。
「来年には結果が出る」と弥助が言った。
「来年の夏が楽しみです」と灯真が返した。
弥助が「お前も来るのか」と聞いた。
「来られれば」
「来い。来て、確認しろ。設計が正しかったかどうか」
「わかりました」
弥助が「わかりました、じゃない」と言った。「来る、と言え」
「……来ます」
弥助が頷いて、また職人たちに怒鳴りに行った。
灯真は記録帳に書きながら、その背中を見ていた。
(来年もここにいるのか)
自然に浮かんだ問いだった。
そして——気づいた。
いつから考えなくなっていたのか。
現代に帰る方法を、ここ数ヶ月、一度も考えていなかった。
最初の頃は毎日考えていた。
炎の声を再現できれば、戻れるかもしれない。炉の構造を逆に使えば。帰る手がかりを探せば。
いつの間にか、それを考える時間がなくなっていた。
仕事があった。炉の改良があった。火薬の実験があった。塩田の計算があった。
そして——景虎がいた。
(なぜ考えなくなったのか)
答えは出かかっていた。
しかし確認するのが、少し怖い気がした。
確認してしまったら、何かが変わる気がした。
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「灯真さん」
才助が来た。
「何だ」
「そういえば、本庄様のご子息が、城下のお菊ちゃんの後ろをずっとついて歩いてるって噂ですよ」
「……まだ十二歳だろう」
「十二歳でも恋はするじゃないですか」
「そうか」
「不器用でかわいいんですって。全然話しかけられないのに、毎日ついてくるって」
灯真が「……そういうものか」と言いながら、記録を続けた。
「そういうものですよ」と才助が言った。「俺も昔そんな感じでした」
「お糸さんにか」
「そうです。話しかけられなくて、ただ遠くから見てて——」
「今も大差ないだろう」
「うっ」
才助が黙った。
灯真は記録帳に数字を書いた。
弥助の怒鳴り声が、工事の音の中に混じっていた。
潮の匂いがした。
夏の終わりの、海の匂い。
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夜、行灯の前に座って、記録を整理した。
炎が揺れていた。
小さな炎だった。
灯真はその炎を見ながら、思った。
俺はここにいる。
来年も、たぶんその次も。
そしてそれは——帰れないからではない。
帰る方法を考えなくなったのは、帰れないと諦めたからではなかった。
考える必要を、感じなくなっていたからだった。
なぜ感じなくなったのか。
答えは、出かかっていた。
まだ確認しなかった。
炎が揺れていた。
灯真はしばらく、その炎を見ていた。




